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交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック

交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック

Flight 1 BW996便

 二月十日、午前八時半。
 人質を解放するべきだ、と戸井田といだ警部補が目の前のスマホを睨んだ。ふざけんな、と男の怒鳴り声がした。
『俺が何をしたっていうんだ? 悪いのは俺を騙したこの女じゃねえか! ふざけんなよ、畜生! こいつは俺が渡した金を全部ホストに貢いでいたんだ。好きよ、愛してる、さんざん甘いことばかり言いやがって』
 女の悲鳴が聞こえた。母親が病気で治療費がかかる、と男が吐き捨てた。
『泣きながらそんなことを言われたら、何とかしなきゃって思うさ。あんたも男ならわかるだろ? でもな、俺はサラリーマンで、貯金も何もない。会社の金を横領するしかなかったんだ。仕方ねえじゃねえか!』
 矢部やべ、と戸井田が呼びかけた。
「気持ちはわかる。お前に同情している。だが、誘拐監禁は犯罪だ。木原朱実さんとそのご両親を監禁したって、事態は変わらない。人質を解放して投降するべきだ。お前のために言ってる。悪いようにはしない。お前の上司も、横領については穏便に済ませたいと言ってる。情状酌量の余地があるのは言うまでもないな? 警察を信じて、そこから出てこい!」
 ここで死ぬんだ、と男が何かを叩く大きな音と女の金切り声が重なった。
『三人とも殺して、俺も死ぬ。いいか、部屋にガソリンを撒いた。後は火をつけるだけだ。近づくなよ。警察が入ってきたら、火をつけるからな! くそったれ!』
 落ち着け、と戸井田が叫んだ。
「矢部、落ち着くんだ! 冷静になれ! こんなことをして何になる?」
 そこまで、と遠野麻衣子とおのまいこ警視は机を軽く叩いた。会議室の照明が明るくなった。
 コの字型に配置された長机の中央に麻衣子、その隣に戸井田が座っている。左右の席に、それぞれ四人ずつ男女の刑事がいた。
 今のは悪い見本、と麻衣子は口を開いた。
「戸井田警部補はわざと演じていた。今回の研修を通じ、あなたたちはSITとしての交渉術を学ぶ。悪い見本を最初に見せたのは、どこが悪かったのか、あるいは改善点を考えてもらうため。今日はこれで終わるけど、次回までの課題よ。明後日まで、よく考えておくこと。いいわね?」
 八人の男女が目を見交わし、そのまま顔を伏せた。遠野警視、とスマホから男の声がした。
『別室の西田にしだです。喉がれましたよ……終わりでいいですね?』
 立てこもり犯役の西田巡査部長と女性警官はワンフロア下の会議室にいる。お疲れ、と戸井田がスマホをスワイプした。
 解散、と麻衣子は立ち上がり、会議室を出た。面目丸潰れですよ、と横に並んだ戸井田が苦笑した。
「今回の主任研修官は僕です。あんな役回りを押し付けるのは違うと思うんですが……」
 それが主任の役どころ、と麻衣子は低い声で言った。冷たい印象を与える声だと自覚しているが、交渉人に向いた声質でもあった。
「交渉の過程では混乱したり、焦ってパニックに陥ることもある。感情的になって、怒鳴ったり机を叩く交渉人もいたのは知ってるわね? もっとオーバーに演じた方が、彼らもわかりやすかったかもしれない」
 僕もそのつもりでした、と戸井田が頭を掻いた。
「あえて高圧的に犯人と接し、お前とか、出てこいとか、命令口調で言いましたが、あれでは足りませんか?」
 以前のあなたはもっと酷かった、と麻衣子は長い髪を払った。
「田舎のオフクロさんが泣いているぞ、往生際が悪い奴だ、馬鹿野郎……発言のすべてが禁止ワードだった。あれは交渉じゃなくて説得よ。交渉人は説得をしない」
「昔の話は勘弁してもらえませんか? 僕も交渉人として少しは成長したってことですよ」
 わたしたちの武器は言葉だけ、と麻衣子は自分の唇を指した。
「一度口から出た言葉は取り消しが利かない。将棋の駒と同じよ。盤面に置いたら打ち直せない」
「そうです」
「さっきのあなたを見て、研修生がどこまでポイントに気づくか、そこは何とも言えないけど、今日は研修初日よ? もう少し簡単なヒントを出した方が彼らのためになったと思う」
 遠野さんも丸くなりましたね、と戸井田が言った。
「前はもっと厳しかったじゃないですか。こういう時代ですから、下に気を使うのも当たり前ですけど、クールさが警視の持ち味でしょう? 何というか、イメージが違います」
 あなたのイメージに合わせるつもりはない、と麻衣子は腕時計を見た。
「もう九時よ。例の特殊詐欺事件の捜査会議が始まる」
 遠野麻衣子は国家公務員採用総合職試験に合格し、警察庁に入庁した。いわゆるキャリアで、警察庁総合職に採用されるのは毎年十人前後だから、エリートと言っていい。
 キャリアとは警察官僚で、いわゆる警察官と違い、特殊なケースを除けば犯罪捜査の現場に立たない。基本的にはデスクワークで、人事や予算を管理するのが主な仕事だ。
 だが、省庁はどこも男性社会で、女性キャリアには露骨なパワハラやセクハラが待っていた。昔と比べれば減ったとはいえ、目に見えない形で陰湿ないじめもある。麻衣子にとって居心地の悪い職場だった。
 ある事件をきっかけに、警察庁から警視庁に出向し、刑事部特殊事件捜査係に配属された。昭和三十九年に設置された同部は誘拐事件の捜査がメインだったが、その後犯罪の形態の変化に合わせ、誘拐、人質事件をはじめ、恐喝や脅迫、公共交通機関等への爆破事件、あるいはインターネットによる犯罪捜査も担当することになった。
 麻衣子が所属しているのは特殊犯捜査第2係で、誘拐犯や立てこもり犯との交渉が主な仕事だ。犯人と話し、交渉によって人質の解放、救出、そして犯人を逮捕する。
 一年前に起きた誘拐事件で、人質の命を守るため、麻衣子は指揮官の命令を無視して犯人との交渉を続け、二十七時間かけて投降させた。人質を救出し、犯人の逮捕に成功したが、命令無視が問題になり、二カ月の謹慎処分となった。 
 復帰後は現場への臨場を禁じられ、交渉人研修を担当している。閑職であり、島流しと揶揄する者もいたが、警察組織において上の命令は絶対だから、処遇に不満はなかった。
 戸井田はノンキャリアで、捜査一課第3強行犯捜査殺人犯捜査一係で殺人や傷害事件を担当するいわゆる刑事デカだったが、いくつかの事件で麻衣子と共に行動するうちに影響を受け、自ら手を上げて特殊事件捜査係に異動した。
 その後、交渉人として働いていたが、半年前から研修官アシスタントを務め、今回は主任研修官を任された。理詰めの麻衣子と独特の愛嬌を武器とする戸井田はそれなりいいコンビだった。
 行きますか、と戸井田が大股で警視庁九階の廊下を進んだ。静かな朝だった。

 キャリーケースを機内のロッカーに押し込んだ一ノ瀬聡美いちのせさとみに、それってイノベーターの限定モデルですよね、と柳沢優菜やなぎさわゆうなが声をかけた。
 イノベーターはスウェーデンのインテリアブランドで、シンプルなデザインが人気だ。
「あたしも欲しかったんです。でも限定モデルは発売半日でソールドアウト……どこで買ったんですか?」
 ハワイのアラモアナショッピングセンターよ、と聡美はブルーのスカーフの位置を直した。そうなんだ、と優菜も自分の襟元に手をやった。
「うちの会社って北欧便がないから、スウェーデンじゃないとは思ってたんですけど……そっか、ハワイかあ。逆に盲点ですよね」
 パッドがずれてる、と聡美は優菜の肩に触れた。
「ブリーフィングが長引いたから、あまり時間がない。わたしたちLCCのベストウイング航空のCAは最小の八人体制。いつも言ってるけど、先を読んで動いてね」
 スマイルを絶やさず、と優菜が口角を上げた。
「一ノ瀬さんがチーフパーサーだと安心できます。あたしは二年目だし、ゼンゼン経験も浅いんで、足りないところがあったらビシビシ言ってください。慶葉の体育会ラクロス部出身なんで、結構打たれ強いんです。パワハラなんて言いませんよ」
 わたしも六年目、と聡美は肩をすくめた。
「JALやANAだったら、チーフになれる年齢じゃない。人手不足だからこんな肩書になるけど、経験はあなたとそんなに変わらないの、こっちこそ、よろしくね」
 頼りにしてます、と優菜が片目をつぶった。
「ラッキーだったなって。最初のシフトだと、奥村おくむらさんがチーフパーサーだったでしょう? あの人、苦手なんです。見るからにオバサンじゃないですか。口ばっかりで自分は動かないし、みんな文句言ってますよ」
 奥村和子かずこの姿を聡美は思い浮かべた。四十二歳のベテランCAだが、評判が悪いのは知っていた。
 メキシコ行きのフライトって十三時間じゃないですか、と優菜が声を低くした。
「韓国やグアムならともかく、奥村さんと十三時間なんて地獄ですよ。交替したのはコロナのせいですか?」
 あれこそ地獄よ、と聡美はこぼした。
「ひと月半で二回かかった。ワクチンも打ったし、薬も飲んでいたのに、何でこんなことになるのって自分でも信じられなかった。特に二回目が酷くて、救急車を呼ぶのが十分遅れたらICU行きだった」
「聞きました。大変でしたね」
「一週間入院して、その間は奥村さんにチェンジしてもらった。わたしも仲がいいわけじゃない。でも、恩は恩でしょ? だから、今日はメキシコ便に乗りますって手を上げたの」
 恩は恩、と意味ありげに優菜が小さく笑った。
「それ、本音が出てますよ。一ノ瀬さんも奥村さんはダメなんでしょう?」
 喋り過ぎ、と聡美は唇に指を当てた。
「一時間後にはお客様の搭乗が始まる。その前に仕事を終わらせないと……座席の確認が済んだら、ドリンクの準備を始めて」
 そんなに焦らなくても大丈夫ですよ、と優菜が言った。
「BW996便は午後十二時発で、ビジネスクラスのお客様は十一時から搭乗できますけど、普通はギリギリまでラウンジにいますって」
 他の航空会社と同じで、ベストウイング航空もビジネスクラスの乗客を優先的に案内し、エコノミーの乗客は前方席と後方席に分け、順番で乗せていく。
 ビジネスクラスの乗客は旅馴れている者が多い。彼らは狭い機内よりラウンジの方が快適だと知っている。
 それでも、せっかちな客は必ずいた。我先にと乗り込む者も少なくなかった。
 どうしてなんでしょうね、と優菜が首を傾げた。
「新幹線の自由席じゃないんですよ? 飛行機は全席指定で、窓側か通路側かも決まっているのに、焦らなくてもいいと思うんですけど」
 ぶつぶつ言わないの、と聡美は優菜の背中を押した。
「愚痴は後で聞くから、まず仕事をして。それじゃ奥村さんと同じよ?」
 はいはい、と返事をした優菜が前方通路を歩き出した。座席の清掃は終わっているが、不備がないか確認するのはCAの仕事だ。
 席の上の荷物入れ、トイレ、備品や席のモニターのチェックもCAの担当で、乗客が入ってくる前にすべてを終わらせなければならない。準備の時間がCAにとって最も忙しいのは業界の常識だ。
 二人のCAが後方の通路で座席を見ている。二階にいた聡美は機体中央にある階段に向かった。
 BW996は百八十人乗りで、旅客機としての稼働年数、いわゆる機齢は約五年、新しい機体と言っていい。
 かつて、LCC航空会社はJALやANA、そして海外の航空会社が使用していた中古機を安く購入し、あるいはリースという形で運行していた。だが、機齢が長いと故障等の発生確率が高くなり、整備や点検、部品交換のコストがかかる。
 そのため、ベストウイング航空は親会社のアメリカの旅客機メーカーから機体を調達していた。BW996もその一機で、機体はやや小さい。
 二階建の構造で、一階は全席エコノミーの百席、二階は後方にエコノミー五十席、ビジネスクラスは前方の三十席だ。ファーストクラスはない。
 一階と二階はいずれも機首から見て左側の二席、通路を挟んで中央の二席、また通路があり、右側に二席がある。一列六席の造りだ。
 八人のCAは一階と二階にそれぞれ四人ずつ配置され、担当エリアも決まっている。ただし、チーフパーサーは全体の統括役でもあるので、フロアを行き来しなければならない。
 階段を降りると、二人のCAが笑顔を向けた。ベストウイング航空のCAの大半は二十代だ。聡美は二十七歳だが、今日のフライトでは一番年上だった。
 制服はピンクのスーツで、タイトなデザインだ。CAの体にフィットしていた。BWのCAの制服はセクシー、とSNSでも話題になっているし、コスプレイヤーにも人気があった。
 会社は認めていないが、採用の基準としてスタイルやルックスを重視している、ともっぱらの噂だ。
「順調?」
 声をかけた聡美に、はい、と二人のCAが声を揃えた。
 よろしくね、と笑みを返し、聡美は二階に戻った。また足がむくむ、とつぶやきが漏れた。

 十三時間はきついでしょう、と副操縦士の野沢のざわがベストウイング航空関係者第二控室のテーブルを指した。灰皿から一条の煙が上がっていた。
 確かにそうだ、と機長の屋代裕太やしろゆうたは肩をすくめた。もう一人の副操縦士、渡辺わたなべが読んでいた雑誌の頁をめくった。
 ぼくとナベちゃんが入社した頃は、と野沢がパックのオレンジジュースにストローを挿した。
「機内は全面禁煙でしたが、昔はどんな感じだったんですか?」
 年寄り扱いは止めてくれ、と屋代は手を振った。
「まだ四十五歳だ。君たちと十歳も変わらない。JALとANAが国際線の全路線を禁煙にしたのは一九九九年だったかな? まだ私は大学生で、海外旅行の経験なんて一度しかなかった。昔は煙草を吸えたと先輩が言っていたが、そんな時代のことは知らないし、神話の話だと思ってるよ」
 パイロットの喫煙率は年々下がっているが、喫煙者はどこの航空会社にも一定数いる。屋代もその一人だった。
 客船の船長は社交も重要な仕事で、乗客の前で挨拶をしたり、VIPと食事を共にすることも多い。だが、旅客機の機長は基本的に乗客と接しない。
 そのためもあり、ベストウイング航空はパイロットの喫煙に寛容だった。関係者第二控室とプレートがかかっているが、実質的には喫煙所になっていた。
 旅客機において、機長は全権責任者のボスだ。機長が喫煙者なら、搭乗前に副操縦士も付き合わざるを得ない。
「いつもは電子タバコですよね?」
 渡辺の問いに、普段はね、と屋代は答えた。
「乗客のクレームが怖い。機長が煙草臭かった、と文句をつける客もいる。評価にかかわるから電子タバコ派だが、今回のフライトはメキシコだ。吸い溜めってわけじゃないが、やはり紙巻きの方がいい」
 屋代はせわしなく煙草をふかした。午前十時半、まだ時間はあった。
 メキシコは初めてなんです、と野沢が欠伸あくびをした。
「うちの会社がメキシコ直行便を始めたのは一年前でしょう? 週一本なんでタイミングが合わなくて……ナベちゃんは?」
 二回、と渡辺が指を二本立てた。二人は三十七歳で同期入社だ。親しいのは屋代も知っていた。
「機長はどうです?」
 数えたことがない、と屋代は新しい煙草に火をつけた。
「前の会社と合わせたら五、六十回かな? その頃は成田発だった。うちの会社が羽田便を作るとは思っていなかったが、その分、家が近くなって助かるよ。メキシコシティ国際空港は中南米最大、しかも二十四時間運営だ。いつも賑やかで、私は好きだな」
「市街地に近いんですよね?」
 着陸時には民家が見える、と屋代は視線を床に落とした。
「こんな感じだな。体感としては真下で、近すぎるぐらい近い。不時着のようだ、と言う者もいる。航空会社のパイロットがこんなことを言ったらまずいかもしれないが、スリルがあって面白いよ。ただ、メキシコは高地で空港の標高は二千二百三十メートル、ざっくり言うと空気が薄い。慣れるまで時間がかかるかもしれないな」
 オリンピックの選手が高地トレーニングをする場所ですからね、と野沢がうなずいた。
「羽田便がなかったのは、そのためもあるんでしょう? 離陸時にスピードが出ないので、揚力が弱くなると聞いたことがあります。それじゃ危険ですよね」
 昔の話だ、と屋代は笑った。
「燃費効率のいいエンジンが開発され、離陸時の問題はなくなった。それでも、羽田からメキシコシティ国際空港までは約一万二千キロ、直行便としては最長の距離だ。十三時間というのも予定に過ぎない。向かい風が吹けば一、二時間のディレイも珍しくない。うちの妻は喜んでるよ。その間だけでも禁煙になるから健康的だとね……確認だが、天候は?」
 先ほども伝えましたが、と野沢が背筋を伸ばした。雑談ではなく報告なので、無意識に姿勢が正しくなった。
「中国大陸から低気圧が接近しているため、東北地方から北海道にかけて雪が降っています。東京は小雨ですが、午後三時以降は強い雨に変わるようです。不安定な天候ですが、飛行に支障はありません」
 午後一時には太平洋上空だ、と屋代は煙を吐いた。
「大幅な遅延があればともかく、オンタイムなら問題ない……二人とも煙たそうな顔だな。出てもいいんだぞ。どうせコックピット内ではずっと顔を突き合わせているんだ。私に気を使うことはない」
 では、と野沢と渡辺が立ち上がった。最後にもう一本、と屋代は煙草をくわえた。
「すぐに行く」
 了解です、と二人が控室を出て行った。その後ろ姿に目をやり、屋代はゆっくりと煙を吸い込んだ。

 メキシコなんて、と加山尚子かやまなおこはパンフレットをめくった。
「まさか本当に行くとは思ってませんでしたよ」
 前に話していただろう、と夫の英次えいじがホットコーヒーのカップに口をつけた。羽田空港二階のカフェは満席だった。
「結婚した頃だ。カンクンビーチに行ってみたい……君がそう言ったんだぞ?」
 三十年以上昔の話です、と尚子が首を振った。
「商社にいた友達が赴任して、世界中のセレブが集まるビーチ、と一時帰国した時に話していたんです。素敵なところよ、と何度も言うから気になっただけで……わたしたちはもう六十歳です。わざわざそんな遠いところに行かなくても……」
 ここのコーヒーは苦いな、と英次が唇をすぼめた。
「いいじゃないか。千葉の中学校で四十年近く教壇に立ち、それなりに真面目に務めてきた。在校生はもちろん、今も私を慕って卒業生が会いにくる。そんなに悪い教師じゃないつもりだ」
「わかっています。あなたは立派な先生で、金八先生なんか目じゃありません」
 尚子がティーカップを見つめた。三月末で定年だ、と英次が言った。
「卒業式の前に有給を消化した方がいい、と校長に勧められた。私が校長でも同じことを言ったさ。働き詰めの三十八年だったんだ、少しばかりご褒美があってもいいだろうってね。辞めてからでも旅行はできるが、校長の好意を断るほど野暮じゃない」
 尚子は左右のテーブルに目をやった。自分たちと同年配の夫婦、そして男女二人ずつの大学生らしいグループがお喋りを楽しんでいた。
 わたしは二年前に早期退職しましたから、と尚子はティーカップをスプーンでかき回した。
「時間はあるんです。小さかった子供たちも、立派な社会人になりました。あなたが辞めたら温泉にでも行きたいと思ってましたけど、メキシコなんて……」
 メキシコにも温泉があるらしい、と英次が手元のガイドブックを開いた。
「知らなかったよ。日本と同じで、メキシコも火山帯にあるんだな。温泉宿じゃないが、温泉つきのホテルは珍しくないようだ。ただ、水温は低いと書いてあった。せいぜい三十七、八度というから、日本人の感覚だと温水プールだな」
 読みました、と尚子はため息をついた。
「日本の温泉とは違います。子供たちが遊ぶ施設で、ウォータースライダーがあるとか……そんな騒がしい温泉なんて行きたくありません。あなた、やっぱり止めませんか?」
 何を言ってる、と英次が肩をすくめた。
「チケットもホテルも予約済みだ。いい歳だし、お前との海外旅行なんて二十年ぶりだから、ビジネスクラスを取った。二人で二百万円だぞ? 今さらキャンセルはできない」
 そうですけど、と尚子はうつむいた。英次がまずそうにコーヒーをすすった。

 そうじゃありませんよ、と千丈俊雄せんじょうとしおはiPhoneを耳に押し当てた。
「しょうがないじゃないですか、社長。アーティストがメキシコでPVを撮りたいと言ってるんです。マネージャーの僕にロケハンしておけと言ったのは彼らなんですよ?」
 桜庭さくらばくんはそんなこと言ってない、と耳元でダイヤナムエージェンシーの金本かねもと社長の疲れた声がした。業界では珍しい女性社長だが、辣腕で知られていた。
『“マリアによろしく”はメキシコの荒野をイメージして書いた、と彼は話していた。いい曲だと思うけど、リードトラック向きじゃないってあたしは答えた。ねえ、わかってる? もう昔のレコード業界じゃないの。プロモーションビデオに一億も二億もつぎ込む時代は終わったのよ?』
「グランブルーQをその辺のアーティストと一緒にしないでください。あの曲は必ず大ヒットしますよ。社長が信じなくてどうするんです? それに、会社の経費でメキシコへ行くわけじゃありません。自腹で行くんです。僕は彼らと心中するつもりだし、彼らもそれはわかってますよ」
『アーティストとマネージャーの間に信頼関係があるのはいいけど、ツアーの真っ最中なのよ? チーフマネージャーがいないなんて――』
 待ってください、と千丈は鳴り出したアンドロイドスマホに手を伸ばした。芸能事務所のマネージャーにとって、二台持ちは常識だ。
「空港にいる。いや、出国審査は終わった。もう中にいるんだ。すぐかけ直す。今、社長と話してるんだ。後にしよう」
 千丈はiPhoneを握る手に力を込めた。
「もちろん、社長の言いたいことは重々承知していますよ。僕も業界歴二十年です。音楽はダウンロードで聴く時代で、サブスクなら聴き放題ですよ。だから、どこの事務所もツアーやコンサートに力を入れています。物販で稼がないと、どうにもなりませんからね」
 あなたらしくない、と金本が声を潜めた。
『どうしたの? 桜庭くんたちとうまくいってないの? まさかと思うけど、どこかのマネージャーみたいに売上を自分のポケットに入れたんじゃないでしょうね?』
 弱小音楽事務所から僕を拾ってくれたのは社長です、と千丈は苦笑した。
「恩は忘れていません。僕が金にきれいなのは、社長だって知ってるでしょう?」
『冗談よ。あなたは真面目で優秀なマネージャー。だけど、ツアーから勝手に離れてメキシコに行くなんて……ひと月前、あなたがそう言ったのは覚えてる。でも、それこそ冗談だと思ってた』
「酒の席でしたからね。あれは反省しています。場所を選ぶべきでした。とにかく、ツアーは問題ありません。現場には井上いのうえ岡村おかむらもいるし、そろそろあいつらに任せてもいいんじゃないですか?」
 あなたの狙いはわかってる、と金本が言った。
『“マリアによろしく”をリードトラックにするため、既成事実を作るつもりでしょ? ロケ地が決まれば、PVはそこで撮るしかない。そうしたらリードトラックにするしかなくなる。わからないのは、あなたがあの曲を推す理由よ』
「いい曲だからです」
 悪い曲だなんて言ってない、と金本がうめいた。
『さっきも言ったでしょ? 聴いていて心地いいバラードよ。だけど、リードトラックって感じじゃない。あれはコンサートの終盤で歌う曲よ』
 ベストウイング996便の搭乗が始まりました、とアナウンスが流れた。すぐ戻りますよ、と千丈は声を大きくした。
「二泊四日の弾丸ツアーです。何だったら、社長がメンバーの面倒を見たらどうです? オフィスに座っているだけじゃ、つまらないでしょ?」
 もう五十五よ、と金本が長い息を吐いた。
『勝手にしなさい。武士の情けで、有休扱いにしておく。その代わり、いいロケ地を探してきて。いいわね?』
 もちろん、と千丈は通話を切った。スーツケースを引きずった団体の観光客が広いフロアを通り過ぎていった。

「ベストウイングでベストな旅を!」
 聡美は階段の上で入ってくる乗客に頭を下げた。
 乗客が手にしているチケットの番号を素早く読み取り、席が前か後ろかを教える。笑顔をふりまくのは身についた習性だった。
 これがベストウイングご自慢の996便、と階段の下から声がした。視線を落とすと、ビール腹の若い男がスマホを上下左右に向けていた。
 こんにちは、と聡美は声をかけた。
「お客様、申し訳ありませんが、機内での撮影は禁止されて――」 
 固いこと言わないでよ、と男が粘っこい巻き舌で言った。
「規則はわかってますって。でもさ、形だけのルールでしょ? 他の客だって、撮影してる。何でボクだけ止めなきゃいけないわけ?」
 男が饒舌に話し続けた。
「そっちの会社のXやインスタに、客が写真や動画をアップしてるよね? あれは公式だからって言うかもしれないけど、そんなわけないじゃない。SNSを開いて#ベストウイングで検索すれば、いくらでも動画が出てくる。そうでしょ、一ノ瀬さん」
 男が聡美のネームプレートにスマホを向け、そのまま角度を上げた。
「皆さん、こちらがCAの一ノ瀬さん。ベストウイングのCAは美人揃いって言うけど、あれは本当だね。制服が色っぽいのは会社の方針? それとも、あなたの趣味?」
 後ろのお客様がお待ちです、と聡美は下を指さした。
「そこにおられると、通行の邪魔になります。階段を上がってください。お席はどちらでしょう?」
 ビジネスだから案内は結構、と男がチケットを聡美の顔の前でひらひらと振った。
「前でしょ? そりゃそうだ、ビジネスがエコの後ろなんてあり得ないからね。わざわざ教えてくれなくても、勝手に探しますって。じゃあね、チャオ!」
 ただ今ライブ配信中、と男が通路を歩いていった。あの人、と近づいてきた優菜が眉をひそめた。
「知ってます。ユーチューバーですよね?」
 知らない、と聡美は首を小さく振った。
「あんまりYouTubeとか見ないから……有名なの?」
 黒谷くろや何とかって人です、と優菜が囁いた。
「あたしも詳しくはないですけど、迷惑系って言うんですか? 自分のチャンネルで私人逮捕の実況をしたり、賄賂疑惑の知事の記者会見に突撃したり、そうやって再生数を稼いでるって動画で自慢していました」
 ベストウイングでベストな旅を、と聡美は上がってきた乗客に頭を下げた。
「わたしは見てないけど、そんなに無茶なことをしているの?」
 人気があったみたいです、と優菜が笑顔で乗客に席を教えた。
「でも、一年ぐらい前に痴漢したサラリーマンを私人逮捕したら、完全な濡れ衣だとわかって、SNSで大炎上していました。それからチャンネル登録者数が激減したって、ニュースサイトの記事を読んだ覚えがあります。それまでも恐喝や詐欺まがいのことをして、警察も調べていたみたいですよ。ほとんどは興味本位で登録していた人だから、手のひら返しされるのも当然ですよね」
「でも、ビジネスクラスのチケットを持っていた。ユーチューバーって再生数で収益を上げるんでしょ? それなりにうまくいってるんじゃないの?」
 さあ、と優菜が肩をすくめた。どっちにしても、と聡美は黒谷の背中に目をやった。
「離陸準備が始まったら、電子機器の使用は禁止される。今、十一時二十分? 彼が撮影できるのはいいところ三十分……放っておきましょう。他のお客様の迷惑になるようなら、スマホを取り上げればいい」
 近づきたくありません、と優菜が笑みを浮かべたまま囁いた。
「顔が生理的に無理です。あたしより二、三歳上だと思うんですけど、若いのにお腹が出てるし、頬の肉がたるんでいて、見ているだけで鳥肌が……マジで気持ち悪いっていうか。うわ、あいつビジネスの10Aに座った。あの席の担当はあたしです。一ノ瀬チーフ、一生のお願いです。代わってください!」
 あなたの一生のお願いを何度聞いたかわからない、と聡美は言った。
「韓流スターが乗った時、わたしを追いやってつきっきりでケアしたでしょ? わたしも彼のファンだったのよ? 恨みは忘れていない」
「だってファン・ソジュンは――」
 冗談よ、と聡美は優菜の肩に手を置いた。
「でも、担当の変更は利かない。いい手を教えてあげる。あの男のドリンクに唾を混ぜるの」
「それも冗談ですよね?」
 あなた次第、と聡美は上がってきた乗客に頭を下げた。ベストウイングでベストな旅を、と隣りで優菜が叫んだ。

 麻宮あさみや、と加賀美貴子かがみきこは通路を挟んだ隣りの席に声をかけた。
「ゴメンね、あんただけ離れちゃった」
 別にいい、と麻宮なぎさが読んでいた雑誌を脇に置いた。
「女子高生じゃあるまいし、何でも三人揃ってなきゃ駄目ってわけじゃない。そんなことを言うならハブるって?」
 いつも通りね、と美貴子の隣りで弓張奈々ゆみはりななが微笑んだ。
「二人の言い合いを聞いてると、会社にいるみたい。やっと取った休暇よ? 仲良くやろうよ」
 テレビの制作会社なんて、と渚が手摺りに肘をかけた。
「忙しいだけで、局員と比べ物にならない薄給よ。うちらみたいな技術部だと、接待も役得もない。何であんな会社に入っちゃったかなあ。あたしはね、NHKの最終面接まで行ったのよ?」
 聞き飽きた、と貴子は長い髪を頭の後ろでまとめた。
「同期三人、ここまで残っただけでもたいしたもんじゃない。同じ四十二歳、離婚や同棲、それぞれいろいろあるけど同じ独身。こんなはずじゃなかったって思うこともあるけど、ドラマやバラエティ、ドキュメンタリー番組まで作った」
「そうね」
「あんたは音声、弓張はビデオエンジニア、そしてあたしはカメラマン。三人四脚で男たちのパワハラやセクハラと戦い続けた。今は少しましになったけど、あたしたちが入社した頃はめちゃくちゃだった。覚えてるでしょ?」
 よく耐えたよね、と渚が空港で買ったペットボトルの水を飲んだ。
「チーフカメラマンの土屋つちやは最悪だった。福岡のロケで女湯に入ってきて、翌日プロデューサーに抗議したら、酔っ払っていたとか何とか言い訳したけど、その後陰湿ないびりが何年も続いた。あの時、三人でいたからよかったけど、あたし一人だったら間違いなくレイプされていた」
 声が大きい、と奈々が人差し指を唇に当てた。
「飛行機で話すことじゃないでしょ。他の乗客もいるのよ?」
 すまなかったねえ、と渚が男の声色を使った。今クールのドラマの撮影が終わったのは昨日の夜十一時だ。主演俳優の決め台詞が体に残っているのは貴子も同じだった。
「焦ったよね、昨日で終わらなかったら、どうなってたと思う? 今頃、まだ駒沢公園でロケしてたんじゃない?」 
 それはない、と貴子は首を振った。
「スケジュールにお尻があったし、雨でも撮影するって決めてたからね。働き方改革で、世の中変わった。うちらのメキシコ旅行は届けを出していたし、そもそも会社が決めた勤続二十年休暇なんだから文句は言わせない」
 あたしたちがいないと、と奈々が売店で買ったクッキーの箱を開いた。
「現場は回らない。男のスタッフは頭が古いし、機材の進歩についていけない。来週、四月ドラマの技術打ち合わせがあるけど、大丈夫かな?」
 今はメキシコ、と貴子はガイドブックのカバーに触れた。
「仕事のことは忘れよう。いいロケーションだとか、せっかくだから撮影しておこうとか、そんなこと言いっこなし。ただ楽しめばいいの。わかった?」
 でも、と渚が貴子の足元を指さした。
「あんたのトートバッグから三脚が覗いてる。今はスマホでもプロ顔負けの映像が撮れるし、他にも機材を持ってきたんでしょ? 止めてね、旅行先でカメラマン根性出さないでよ」
 合成音が鳴り、ただ今お客様全員のご搭乗の確認が取れました、とCAのアナウンスが流れた。
『管制塔の指示を待ち、離陸いたします。現在時刻二月十日午前十一時四十三分、天候は雨時々曇り、気温は十二度でございます。座席上方のサインが出ましたら、シートの位置を戻し、シートベルトの着用をお願いします。それでは、今しばらくお待ちください』
 渚がテーブルを上げた。時間通りっぽいね、と奈々が言った。
「宅送のタクシーを出さなくていいって、プロデューサーが喜ぶよ」
 つまらないこと言わないの、と貴子はトートバッグから取り出したアイマスクを目に当てた。
「着いたら教えて。それまで寝る」
 早すぎ、と奈々が肩を叩いたが、貴子は取り合わなかった。乗客が通路を歩く足音だけが聞こえた。

 チェックリストの読み上げ終わり、と野沢が咳払いをした。出ていい、と屋代は後ろにいた渡辺に目を向けた。
「では後ほど」
 渡辺が狭いコックピットのドアを開けた。国際便では近距離だとパイロット二名でも構わないが、長距離になると航空法で最低三名の乗務が義務づけられている。
 三人でローテーションを組み、二人はコックピット、もう一人は機内にある待機部屋で休憩を取る。
 チェックリストを三人で確認するのはベストウイング航空の方針だ。一人でも多い方が安全に繋がるから、全パイロットが従っていた。
 Tokyo Delivery、と屋代は管制官に呼びかけた。
「こちらBW996。メキシコシティ国際空港行き、出発の承認を願う。ATISはAを確認済み」
 管制官との会話はすべて英語で交わす。ATISとは空港の気象情報で、Aとは情報番号を指す。最新の気象情報を持っている、と確認するための符号だ。
『BW996、こちらは東京デリバリー。メキシコまでのフライトプランを承認する。飛行高度はFL400、レーダー識別番号は1818』
 FLはフライトレベルの略称で、この場合は高度四万フィートになる。管制官は自分が担当する旅客機を識別するためにコードをつけるが、BW996の番号は1818で、野沢がそれを無線機に入力した。
 航空管制では管制官の指示を旅客機側が必ず復唱する。管制官は一時間に三十機、成田や羽田のような巨大空港だとピーク時には六十機以上を受け持つ。
 あってはならないことだが、A機とB機を混同し、間違った指示を出す恐れがある。それを防ぐためには、旅客機側から復唱して確認を取るしかない。
 この段階で、BW996は待機中だ。動いていない飛行機に衝突事故など起きるはずもないが、屋代はすべてをマニュアル通りに進めていた。細か過ぎると笑われるほど神経質な性格だが、パイロットに向いていると自負があった。
『BW996、復唱を確認。132・4MHzで東京グランドと交信するように』
 航空管制は“ターミナル管制”と“航空路管制”に大別される。大ざっぱな役割として、ターミナル管制は空港内の地上及び周辺地域の航空機、航空路管制は上空の航空路で飛行中の航空機を担当する。
 屋代と交信していたのはクリアランス・デリバリーと呼ばれる管制承認の管制官で、コールサインはデリバリーだ。駐機場から滑走路に移動する際はターミナル管制の東京グランドが指示を出す。
 日本において、旅客機は自力によるバックを認められていない。そのため、専用車両が押す形でバックする。プッシュバックと呼ばれるが、その確認と指示が東京グランドの役目だった。
『BW996、こちらは東京グランド。プッシュバックを許可する。離陸滑走路は06。機首を南に向けよ』
 了解、と屋代は答えた。
「プッシュバックを開始する。離陸滑走路は06、機首を南に向ける」
 機体がゆっくりと後退を始めた。問題ありません、と隣りで野沢がうなずいた。
 プッシュバックが完了し、BW996が所定の位置についた。地上滑走路の準備が整ったことになる。
 東京グランド、と屋代は呼びかけた。
「こちらBW996。地上滑走の許可を願う」
 了解、とヘッドホンから声が聞こえた。
『BW996は滑走路06へ。誘導路はE7、F、M。誘導路を経由して地上滑走のこと』
 東京グランドは離陸滑走路までのルートを指示する。E7、F、Mはいずれも誘導路の名称だ。
 屋代は地上滑走を始めた。スピードは遅く、事故の危険性はほとんどないが、パイロットに求められるのは慎重さだ。
 旅客機のコックピットの窓は小さく、視野は狭い。前方と横はともかく、後方はモニターで確認するしかないが、死角も多い。
 BW996の真後ろにジャンボジェット機が停まっていても、わからない可能性がある。機首の真下に人がいても見えない。
 そんな事態が起きないように管制官がチェックしているが、ちょっとした油断が事故の原因になる。
 二〇二四年一月、羽田空港で日本航空機と海上保安庁機が滑走路上で衝突する事故が起きた。この時、海上保安庁機の乗員六名のうち五名が死亡している。
 事故の原因は複数あり、大きなものとして管制官と二機の航空機との間で明確な交信がなかったことが挙げられる。つまり、ヒューマンエラーだ。
 どちらの機も、機長は経験豊富なベテランだった。自らの経験を過信し、そのために油断が生じたとパイロットの多くが考えていたし、それは屋代も同じだ。
 繊細な性格の屋代に油断や慢心はない。離陸するまで気を抜くつもりもなかった。
『BW996、115・422MHzで東京タワーと交信するように』
 滑走路が近づくと、東京グランドは離陸を管制する東京タワーに交信を引き継ぐ。その際、無線の周波数も変更する。
 東京タワー、と屋代は呼びかけた。
「こちらはBW996便。周波数を切り替えた」
『こちら東京タワー。BW996便、滑走路06に入り、離陸位置で待機せよ』
 スムーズですね、と野沢が微笑んだ。ラッシュ時の羽田空港では離着陸する飛行機で滑走路が埋まってしまう。前の飛行機が離陸するまでは待機するしかない。
 ただ、ラッシュには流れがある。運が良かったなとつぶやき、屋代は滑走路06に入った。
「離陸位置で待機する」
 屋代が伝えると、BW996便、と東京タワーの管制官が言った。
『風向き五十度、風速三ノット。滑走路06からの離陸を許可する』
 風向きは北を三百六十度とする数値だ。三ノットは微風で、離陸に影響はない。
「BW996便、滑走路06より離陸する」
 機体が滑走路を走り、そのまま地上を離れた。
『BW996便、東京ディパーチャーと交信せよ』
「ディパーチャーと交信する。Good Day!」
 良い一日を、と屋代は言った。お決まりのフレーズだ。
「東京ディパーチャー、こちらBW996。現在高度一四〇〇フィートを通過。高度二万フィートに向けて上昇中」
 こちら東京ディパーチャー、と声がした。
『レーダーでBW996を捕捉した。Turn Right。方位百五十度に右旋回。FL200まで上昇せよ』
「了解」
『BW996、NINOXポイントまで直行を許可する。その後は承認ルートを飛行、FL380まで上昇、維持せよ』
 空中に通路はないが、混雑はある。他の飛行機との距離を調節し、重複がないようにするのが東京ディパーチャーの役目だ。他の飛行機がいなければ、経路のショートカットを指示する。
 NINOXは航空路の途中に設置されているポイントだ。機体のコンピューターにすべてのポイントが入力済みなので、設定すると自動的に最短距離での飛行が可能になる。
「NINOXへ直行する。FL380まで上昇、維持する」
 屋代は所定の航空路に接近した。離陸すると交信はターミナル管制から航空路管制に引き継がれるが、この段階で東京ディパーチャーから東京コントロールとの交信が指示される。
『こちら東京コントロール。BW996、進行方向に雲があるが、そのまま維持せよ。三十分で雲を抜ける。その後は快晴。では、良い一日を!』
 Good Dayと答え、屋代はボタンに触れた。シートベルト解除のサインが灯った。

 本日は羽田空港発メキシコシティ国際空港行きBW996便にご搭乗いただきありがとうございます、と男の声が機内に流れた。
『私は当機機長の屋代、副操縦士は野沢、渡辺、チーフパーサーは一ノ瀬、CA七名のクルーです。現在、東京上空は小雨ですが、三十分ほどで晴天になるでしょう。メキシコシティ国際空港までの飛行時間は約十三時間、フライト中は晴れが続きます。皆様にとって快適な旅になることを祈っています。ベストウイングでベストな旅をお楽しみください』
 客席からぱらぱらと拍手が起きた。ギャレーへ行きましょう、と聡美はシートベルトを外して立ち上がり、優菜と通路を歩きだした。
「一階、何か問題は?」
 左耳のインカムを通じ、聡美は小声で言った。特にありません、と一階のサブチーフ、畑中理佐が答えた。
「では、お客様にドリンクをお配りして」
 了解、と返事が聞こえた。ベストウイング航空の客室乗務員は八人しかいない。CAが複数の役割を持つことで、人員不足をカバーしている。
 聡美はチーフパーサーとして客室全体の統括を担当するが、BW996便は二階建なので、一階はサブチーフの畑中はたなかに任せていた。
 左通路を通って機内最後尾のギャレーに入ると、後方のCA席にいた松沼と本庄がドリンクの準備を始めていた。
 すぐ横のトイレに小さな子供が入っていった。よくある光景で、トイレの時間を計算できないため、離陸直後に飛び込む子供は多い。
 聡美は冷蔵庫から手早く取り出したコールドドリンクをカートに載せた。優菜はホットドリンクで、この辺りは阿吽の呼吸だ。
 ギャレーは旅客機におけるキッチンで、今回のフライトは十三時間と長いため、昼食、夕食、そして翌日の朝食の三食を定員の百八十人分用意していた。
 トータルで五百四十食、予備や機長以下十人のクルーの食事を含めると六百食近い。アルコール類やソフトドリンクの総量はその三倍以上だ。
 旅客機の最大の敵は悪天候で、乱気流に突っ込んだり、雷の直撃を受けることもある。どれほど優秀なパイロットでも、機体を安定させるのは難しい。
 そのため、ギャレーの構造は頑丈だった。最悪の想定だが、緊急時には機が胴体着陸する。その衝撃を計算し、九Gの荷重に堪える造りが義務化されていた。
 カートも同様で、軽くした方が扱いは楽だが、機体の揺れで簡単に動いてしまう。ベストウイング航空のカートは本体だけで百キロ、ドリンクや食事を満載すると百五十キロに達する。
「準備は?」
 声をかけた聡美に、OK、と優菜が指で丸を作った。聡美は前から引っ張り、優菜が後ろからカートを押し、通路を進んだ。
 機体が上昇を続けているため、通路は緩い上りになる。ドリンクを配っているうちにカートは軽くなるが、負担の大きい作業だ。華やかに見えるCAだが、制服の下は汗だくだった。
 乗客一人ずつにリクエストを聞き、オーダーされたドリンクを渡す。その繰り返しが続いた。
 ストップ、と聡美は手を上げた。通路に四つ折りの紙片が落ちていた。
「こちらはお客様のものでしょうか?」
 左右の席の乗客に紙片を見せたが、どちらも首を振るだけだった。後ろから五列目、エコノミーの席だ。
「どうしました?」
 優菜の問いに、ちょっと待って、と聡美は紙片を開いた。葉書サイズの紙に、三行の印字が並んでいた。
『この飛行機をハイジャックした/冗談や悪戯ではない/1階と2階のトイレを調べればわかる』
 無言で聡美は紙片を制服のポケットに押し込んだ。こんな形のハイジャックは聞いたことがない。左右に目をやったが、不審な様子の乗客はいなかった。
「柳沢さん、少し任せていい?」 
 はあ、と優菜がうなずいた。よくわからない、と表情が語っていた。
 ごめん、と片手で拝むようにして、聡美はエコノミー席とビジネスクラスの間にあるトイレに入った。
(トイレを調べれば、と書いてあった)
 ロックすると、電灯がついた。旅客機のトイレは狭く、備品も限られている。調べる場所は少なかった。
 便器は空送式で、最小限の水が流れるが、タンクは閉じている。便器本体に何かを隠すスペースはない。
 折り畳み式の乳幼児用のおむつ台を開いたが、そこには何もなかった。洗面台の脇のゴミ箱を覗くと、離陸直後のため空っぽなままだった。
 洗面台の下に衛生ナプキンと汚物入れの保管棚がある。開いてみたが、変わったところはなかった。
 聡美はポケットから紙片を取り出し、改めて三行の文字を読んだ。
 ブラックジョークのつもりだとしても、場合によっては罪に問われる行為だ。ただ、騒ぎになれば乗客が不安に思うだろう。
(機長に報告しよう)
 ドアノブにかけた聡美の手が止まった。もうひとつ、調べる場所がある。ペーパータオルのボックスだ。
 BW996便の洗面台にはボックスが固定されている。用を足した者は手を洗った後、ペーパータオルで拭く。
 離陸前にチェックした時と、はみ出しているペーパータオルの位置が微妙にずれていた。
 ボックスには百枚セットのペーパータオルが二つ入っている。下のひとつは交換用だ。
 聡美はボックスからペーパータオルを取り出した。その下に透明な液体が入った薄いビニール袋があった。
 見たことがある、と聡美はビニール袋を手にした。病院で使う点滴パックだ。
 パックを裏返すと、葉書を半分に切ったサイズの紙が貼ってあった。通路で拾った紙片と同じように、文字が記されていた。
『この液体は毒ガスのサリンだ/あり得ない、と思うだろう/偽物だと確信があるなら、開けてみればいい/一分で君は倒れ、サリンガスが機内に漏れ出す/乗客と乗員全員が死に、この飛行機は墜落する』
 書いてあったのはそれだけだった。サリン、と聡美はつぶやいた。
 新興宗教団体による地下鉄サリン事件は聡美が生まれる前年に起きた。そのため、直接の記憶はないが、負傷者約六千三百人、死者十四人を出した世界最大規模のテロだ。何度もニュースや情報番組で特集が組まれ、聡美もそれを見たことがあった。
 正確な知識こそないが、サリンの生成には高い技術力と組織力、工場レベルの製造プラントが必要なはずだ。少量でも膨大な時間と費用がかかる。サリンを製造するのは妄想でブレーキが利かなくなった者しかいない。
(でも)
 約三十年前、サリン製造に成功した新興宗教団体が存在したのは事実だ。常識が通用しない者はいつの時代にも必ずいる。
 聡美はくぐもった悲鳴を上げ、パックを洗面台に投げ捨てた。本当にサリンが入っていたらと思うと、触れているのが怖かった。

(続く)

*毎週最終金曜日更新予定

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