WEB版第1回 勝田文さん(漫画家)と雪組「BONNIE&CLYDE」1

WEB版第1回 勝田文さん(漫画家)と雪組「BONNIE&CLYDE」1

 舞台作品はどれもがいつか必ず千秋楽を迎え、そしてほとんどの場合、二度と完全に同じメンバーで同じ作品が上演されることはありません。そんな中でその公演を知らないまま生きる人が多くいて、その中には少しのきっかけで見るかもしれなかった人もたくさんいるのだと思います。
 それぞれに出会うタイミングというものはあり、私がそこに関わることなんて許されるのだろうか、と感じながらも、それでも、あの人に見てもらえたらなと身勝手に願ってしまうことはある。ただいろんな人に見てほしい、とかではなく、「あの人に」と思えたなら、それはきっと公演の儚さと同じくらい、無視するわけにはいかない刹那なのです。この連載は、「あの人」を「あの公演」にお誘いしたその記録です。ときには恋への招待状になることも、ならないこともある。どちらなのかわからないからこそ、私はきっと勇気が出せています。

*この連載は、雑誌「スピン」でも連載中です。3号(3月発売)には「名久井直子さんと雪組「蒼穹の昴」」、4号(6月発売)には「犬山紙子さんと星組「JAGUAR BEAT-ジャガービートー」」を掲載。ぜひ雑誌版もご覧ください。
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309980560/

 

1 最果タヒから勝田文さんへ

 勝田さん、はじめまして。
 突然ですが宝塚をご覧になったことはありますか? 雪組の御園座公演「BONNIE&CLYDE」にお誘いしたくて、今、お手紙を書いています。
 私は最近、宝塚の作品に人をお誘いする時、宝塚そのものの衝撃的なまぶしさや、きらびやかな感じを楽しんでもらいたいと思ってお声がけするのですが、この公演はそうした良さはもちろんのこと、一つのミュージカル作品としても、物語としても、とても繊細で魅力的で、というか、単純に私がとても好きな作品でして、ぜひ物語を紡ぐ方に見てほしいと考えていました。

 人は、こうあるべきとかこうすべきとか、そういう「あたりまえとされること」にすごく縛られて生きているように思います。でも、その通りには生きられないし、誰もが少しずつそうした枠から外れていって、その時に生まれる感情はマイナスなものがとても多いけど、でも、その苦しさをきっかけに新しい出会いがあったり、新しい感情の発見があったりする。うまくいかない、といってしまえばそうだけど、でもそれでも生きていこうとした時、そこから見える景色にはたまに小さな美しさがあり、それが宝物になることさえある。これは、きっと人生の難しさそのものなのかなとも思います。そうした難しさをまっすぐに描いているのが勝田さんの作品だなぁと私は思っていて、そして、この「BONNIE&CLYDE」もそんなところがいくつもある作品です。人と人の関わりは、100点満点の優しさの交換だけが愛ではなくて、でも優しさの交換だけではいられないことがどうしようもなく未熟な人の未来を切り開いていく、というか……。もしも、勝田さんにこの作品を見てもらえたらとても嬉しいなと思うようになりました。
 この作品には主人公・クライドの兄バックが出てきますが、兄は弟が大切でしょうがなく、弟の暴走を大人になっても放っておくことができず、最愛の妻ブランチに止められても、そして妻を巻き込むことになっても、弟のために弟と同じところまで堕ちていってしまいます。弟カップルを好きにはなれないブランチ、ブランチを愛しながらもブランチのためだけには生きることができないバック、そして決して孤独ではないけれど、多くのものに裏切られ続け疎まれ続け、未来を無防備に信じることはできず、エネルギーをもてあまし、破滅的な道を突き進むしかないクライド。クライドと同じように出口の見えなさのある人生を生きながら、クライドを愛することを生きることだと信じることにしたボニー。登場人物はみな完璧ではなくて、それぞれが悪人でも善人でもなく、一人の人間として描かれ続けている作品です。宝塚がおもしろいのは、そうした彼らの人間臭い苦しみや悲しみも、きらきらとした何かで描いているというところ。「BONNIE&CLYDE」はハッピーエンドとは言い難い作品ですし、メインの二人は罪なき人を殺します。それでも彼らをかっこよくかわいく魅せることに躊躇がなくて、それはもしかしたら宝塚だからこそできることであるのかもしれず、そして、そんな描き方だからこそ見えるものもあるだろうなと感じるのです。(といってもこの作品は彼らのやったことを肯定はしない作りになっていて、そのバランスの良さが私の好きなところです。)
 宝塚作品にはもちろん、正しくてかっこよくてヒーロー! という感じの役もたくさん出てきます。でも一方で最低だったりどうしようもなかったりクズだったりするキャラクターもいて、ダメな人間のある種のかわいげや、そこから滲む弱さの表現に、宝塚のきらきらがまぶされて、一つの「ときめき」が作られている。それはフィクションだから許される「ときめき」なのかもしれず、私は特に、現実でそういう人が好き、ということとは全く違うんだろうな、と思っているのですが、その「非現実だからこそのときめき」が、時に、現実では思いを馳せることも難しい「誰か」について、深く考えるきっかけをくれることもあるのかもしれない。「宝塚は素敵な王子様を見る場所」と思われることも多いのですが、どちらかというと、人間に本来ならつきまとう「生々しさ」を消しとばして、人生そのものにラメをまぶしたり生活を極彩色にしたりして、人生のあり方や、人格のカオスな有様に対して、無防備に、時には好意的に、一旦受け止めさせてくれる。「それは迷惑やろ!?」と冷静で現実的なツッコミを入れて、そこで思考を止めてしまうことがなくなって、もっとその奥へ、主観的に、その人物を見つめることができてしまう。ある意味では「他人事だからこそときめくことができる」みたいなことかもしれません。きらきらしていて、だからフィクション性が高く、人が死んでも、その役が誰かを殺しても、現実との境界がわからなくなるほどのショックがそんなにはない。そういえばミュージカルはよく、死んだ人が歌いながらその後出てきたりもしますし、そういう点でも「死」がいい意味で軽い気がします。それはそれで独特な視点を観客に与えているようにも思うのです。これは悪事そのものを軽く捉える、というのとはまた違う感覚であるように思いますし、そこは誤解されたくないのですが、人が間違えてしまったり、人が他人を傷つけてしまうことを、「美しい」と思える時間があることは、人としてもしかしたら大切なことなのかもしれないと感じるのです。

 悪事自体を肯定したいわけではない。人を傷つけてもいいじゃない、と思いたいのではなくて、現実では憤りや不甲斐なさで「許せない!」という気持ちでいっぱいになるような出来事から、もう少し距離を置くことができる気がする。断罪ではない視点を得られる気がする。これはそんな話です。悲惨な出来事や悪事を働いた人のことを「人として」「肩入れして」見つめ、切なく感じることは、経験としてとても貴重なように思います。それもひとつの「虚構の力」だと感じるのです。たとえば「自業自得だ!」と言いたくなるような、そういう他者を突き放し、信じられないことをした人と自分の間に線を引いて、文字通り「人でなし」として見ることから(そして思考停止することから)解放される、と言いましょうか……。「ロミオとジュリエット」にはティボルトという人物が登場しますが、彼は宝塚版ではジュリエットに片思いをし、ロミオに嫉妬し、そしてロミオの友人を刺殺します。彼が現実にいたら、彼の気持ちなんて想像しようとしても限界があるように思いますが、それでも物語においては、ティボルトという人の悲しみに共鳴することができる、彼の運命の悲惨さを静かに息を呑んで見守ることができる。こうした時間を過ごすと、人は通常、他人の人生や人のあり方や性質に対して、冷静な目は持っていないんだとよくわかります。人が殺されたなら憤ります、怒りや悲しみの感情がつきまといます。それは自然で、もちろん悪いことではないけれど、人の中には「あるべき姿」が明確にあり、そこからはみ出た瞬間、その人を「人」として見つめることが困難になるのかもしれないと思うのです。殺人という極端な話だけでなく、それは例えば定職を持たないこととか、結婚しないこととか、人を愛さないこととか、そういうことに対しても冷静になれない人は多くいて、それぞれに異なった「許せないズレ」を持つからこそ、衝突が生じるのだと感じます。だから、虚構の中で、「ずれてしまった人」にうっとりする時間があるというのは特別です。そのうっとりももちろん冷静ではないのだけど、現実とは全く違う「冷静でない様」に、思考のバランスを取るきっかけをもらえる。いつもどれくらい勝手な目で世界を見ているか、気づくこともできる気がする。宝塚のダメな人への共感やときめきは、現実の私にゆっくりと返ってきて、自分はどうしてティボルトの過去や感情に対して思いを馳せることはできるのに、現実ではできないんだろう……と足を立ち止まらせてくれる。まあ、それでも、こんな人が現実にいたらやっぱ嫌だしな……とは思うのですが。ただ、同時に「この人の涙は美しいな」と思えるのが、虚構の素晴らしさだなぁって思うのです。
 他の舞台でも、漫画でも小説でも、そういうところはたくさんあります。宝塚が特殊なのは、たぶん「そこにいる」ということをここまで強調し、きらきらにして、そうやって「ときめき」に直結させている、その剛腕さです。そうやって「虚構である」ということと、「ここにいる」ということをどちらも100の出力のまま、観客にぶつけてくれる宝塚は、物語の悲しみや残酷さをなんの構えもなくなんの先入観もない状態で浴びる貴重な機会をくれています。

 ボニクラ(「BONNIE&CLYDE」)に話を戻すと、兄バックはダメな人というか……悪い人ではないのですが、でも中途半端で人を不幸にしてしまう。そういう人の悲しさを、彼が生んでしまった不幸とその被害者に共鳴しすぎずに、彼の弱さを慈しむ思いで見守れるのは独特だなぁと思います。ブランチも、かなりヒステリックなところもありますがその人間の小ささとまともさに愛らしさを感じるタイミングがあり、とても魅力的な演じ方をされています。そしてクライドとボニーも。二人は悪人としてではなく「若者」として描かれ続け、周囲を不幸にしているけど、その罪を償って終わりという感じもあまりありません。ただ生き抜いていくその姿が、時にきらきらとして見えて、それは宝塚のトップコンビの力だ、と思います。その二人がいるからこそこのお話の後味には、不思議な心地よさと爽やかさがあります。また、宝塚は公演が終わった後、小さなショーの時間がありますが、バックを演じた和希かずきそらさんが笑顔で妻役の野々花ののかひまりさんと踊る時間があり、そういうところもすごく救いがあります。
 彼らを待つ結末に「自業自得だ!」と言ってしまうのはたやすいです。でも、宝塚の舞台の中ではそんな発想にはどうやってもならなくて、出てくる全ての人に対して、ほんのりと好きでいられるのが宝塚の物語の素晴らしさかもしれません。いろんな人の失敗や愚かさを愛情を持って見つめることができるのは、人としてとても特別な時間で、現実に生きる人間としてもかけがえのない経験のように思います。
 また、この作品は雪組トップ娘役の夢白ゆめしろあやさんがはじめてトップ娘役として舞台に立つ作品でもあります。ボニーは銃を構え、強盗をし、宝塚のプリンセス的なキャラクターではありませんが、彼女なりの「愛」がまっすぐに貫かれている人間味のある役です。正しくはないけれどその人にはそれしか無かった、と思わせる「愛情」が、ボニーのお芝居によって、つぶさに「人らしく」描かれているのが私はとても好きです。そういうところも、勝田さんに見てもらえたらとてもとても嬉しいです!
「BONNIE&CLYDE」は3月1日まで名古屋でやっています。
 ぜひご検討いただけると嬉しいです。

②へつづく
(さいはて・たひ/詩人)

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