WEB版第2回 吉澤嘉代子さん(シンガーソングライター)と 花組「うたかたの恋/ENCHANTEMENT-華麗なる香水-」1
最果タヒ
2023.10.03
舞台作品はどれもがいつか必ず千秋楽を迎え、そしてほとんどの場合、二度と完全に同じメンバーで同じ作品が上演されることはありません。そんな中でその公演を知らないまま生きる人が多くいて、その中には少しのきっかけで見るかもしれなかった人もたくさんいるのだと思います。
それぞれに出会うタイミングというものはあり、私がそこに関わることなんて許されるのだろうか、と感じながらも、それでも、あの人に見てもらえたらなと身勝手に願ってしまうことはある。ただいろんな人に見てほしい、とかではなく、「あの人に」と思えたなら、それはきっと公演の儚さと同じくらい、無視するわけにはいかない刹那なのです。この連載は、「あの人」を「あの公演」にお誘いしたその記録です。ときには恋への招待状になることも、ならないこともある。どちらなのかわからないからこそ、私はきっと勇気が出せています。*この連載は、雑誌「スピン」でも連載中です。3号(3月発売)には「名久井直子さんと雪組「蒼穹の昴」」、4号(6月発売)には「犬山紙子さんと星組「JAGUAR BEAT-ジャガービート-」」、5号(9月発売)には「末次由紀さんと宙組「カジノ・ロワイヤル~我が名はボンド~」」を掲載。ぜひ雑誌版もご覧ください。
1 最果タヒから吉澤嘉代子さんへ
こんにちは。突然で恐縮なのですが、宝塚歌劇ってご覧になられたことはありますか? 花組で今「うたかたの恋」という公演が行われていて、吉澤さんにご覧になっていただけたら嬉しいなと思って招待状を書いています。
「うたかたの恋」は宝塚歌劇の中でもかなり昔(1983年)に作られた作品で、令和に合わせてリライトされ久しぶりの大劇場公演として上演されます。内容は王族の悲恋、という「宝塚らしい」ものでもあり、ロマンチックのふりをした人間の欲と身勝手さとわかりあえなさの話でもあります。私はこの作品の「宝塚」らしいふりをして、一般的に言われる「宝塚」らしさでは実はないところが好きで、吉澤さんの作品における一つの物語性やテーマの「確かさ」とそれにわかったつもりになって近づくととても生々しいものに触れられるあの感じを、見ていてふと思い出しました。
宝塚は必ず、というわけではないですが、かなり頻繁に愛をテーマにした作品を上演します。コミカルなものから悲劇性の高いものまで内容は様々ですが、宝塚という時点で「愛の賛美」をテーマにすることがかなり大前提となってはいて、その「お決まりである」という点がむしろ「愛」の形骸化に対してものすごく強いというか、「愛は素晴らしい」という価値観が最初から決め打ちであるからこそ、逆に「本当はそうではないのではないか?」という視点がずっと作品に残り続けているように思います。
宝塚は男役と娘役がいて、男役、娘役それぞれに伝統的な型があり、それを演者さんたちは全員が忠実になぞりながら自分だけの舞台人像を作っていきます。ここでもやっぱり男役、娘役という「最初から決まっている型」があるからこそ、そこを積極的に芸にして、その芸を超えたものを見つけ出す方向に表現を持っていくあり方が徹底されています。作品テーマの「愛」も同じように一つの型なのかな? と思うことがよくあり、「愛を賛美する」という大前提があり、そういう見せ方が貫かれるけど、考えてみたら内容はなかなかトリッキーな愛だな……と思うことも多くあります。そして、演者さんはそれらを宝塚らしいやり方で演じますが……「型」としてあるからこそなのか、恋の話をする時に、恋にうっとりして作っている人はそういないように見えて、それが私は面白いです。恋が、ひたすら技術と共に描かれる。むしろ、その先にあるものが本題であるかのように見えるのです。演者さんとテーマの距離感が、恋や愛の作品を受け取る時にとても効果的に感じます。
「うたかたの恋」もやはり、見ていると「それは愛なの……?」という気持ちになりつつ、「でもそれを愛ということにすることでしか見えない強烈な矛盾」が浮き彫りになって見えてもいて、しかも宝塚らしいドレス! 舞踏会! 耽美! の空気の中にあり続けるので、宝塚というイメージで固められた砂糖菓子の真ん中にとんでもない毒が混ぜられているような感覚になります。宝塚は、たとえば男役が娘役とどのように並べば恋をして見えるかとか、そういう技術や型がいくつもあるので、この独特な距離が、物語やテーマの偏りや濃さを単なる「メッセージ」にせずに済ませているのかもしれません。愛がテーマの作品は多いですが、私は宝塚公演で愛って素晴らしいなという感想を抱いたことはないです(私が偏っているだけかもしれませんが)。もっとその場で打ち上がった花火のような刹那的なものに見えて、愛が祭りみたいだ、って思います。これを吉澤さんがどうご覧になるのかにすごく興味があるのです。
私は詩を書くので、人が固定のイメージを持っている「愛」や「希望」のそのイメージの重さについてよく考えます。使う人が多ければ多いほど自分じゃない人が持つその言葉の印象が、言葉そのものに絡んでしまって、自分の言葉としてその言葉を使って喋っても、どこかで他者が作った「イメージ」に自分の考えを合わせてしまいそうになる。けれど詩は、そうした「イメージ」から言葉を解放する表現なのかなぁと思っていて。そうした強い意味を持つ言葉こそを使って詩を書くのはそのためかなと思います。使うことでその言葉を自由だと感じたくて、そのために書き、そしてそれがうまくいく時に詩になるのかなって。
宝塚の「愛」についても同じ印象があります。「愛の賛美」を避けるよりそれをもはや「型」としてしまうことで、その中で完全な自由になる。宝塚の人たちは「愛する男」や、「愛する女」を演じることで、むしろそれらの役を遠巻きに冷静に見つめることができる。愛というものでつい塗りつぶして隠してしまう人間の身勝手さや、わかりあえなさにものすごく意識的で、そこに重点を置いた芝居が生まれる。愛の話なのに愛より別の感情が目に焼きつくように思うのです。
人間の感情ってなんでもエンタメになるんだな〜と、宝塚を見ているとよく思います。エンタメがそもそもそういう感情を力技でハッキングするようなものなのかもしれないですが……。もしよかったら見ていただけると嬉しいです。この公演は「うたかたの恋」の他にショー「ENCHANTEMENT」もついてくる、2部構成です。ご検討くださいますと幸いです!
(②へつづく)
(さいはて・たひ/詩人)