交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第九回

交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第九回

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交渉人ハイジャック Flight9  ライト


 桑山が大きく開けたドアから、麻衣子は捜査本部に入った。原と成宮、そして他の捜査官がパソコンの画面を食い入るように見つめている。
 麻衣子も自分の席に戻り、マウスをクリックした。画面を拡大すると、BW996便の機内の一部が映っていた。
「千丈の席は二階のエコノミー、十二列のAだな?」
 原の問いに、そうです、と成宮が答えた。
「壁の座席表に赤の付箋が貼ってあります。千丈さんは窓側のA席で、ひとつ前の十一列の壁に防犯カメラが埋め込まれています。犯人の指示に従い、CAがガムテープで魚眼レンズを塞ぎましたが、席に座る時、千丈さんはその一部を剥がしたようですね」
 BW996便にはテスト用の防犯カメラが十二台設置されている。一階と二階、それぞれ六台ずつあった。
 二階の防犯カメラの位置はビジネスクラス一列目のA席、D席、エコノミークラス十一列目のA席、H席、そして二十一列目のA席とH席だ。ボタンに似た形状なので、防犯カメラだと気づく乗客はほとんどいない。
 惜しいな、と原が舌打ちした。
「千丈は手を伸ばし、ガムテープを剥がしたんだろう。ちぎった、と言った方がいいか? 千丈の側から言うと、奥側に手をかけて引っ張ったが、途中で切れて半分ほどガムテープが残ったんだな。だから、俺たちに見える範囲が限られているんだ」
 麻衣子はパソコン画面を見つめた。映像の半分は真っ黒だった。原が指摘したように、その部分はガムテープで覆われたままのようだ。 
 映っているのはエコノミークラスの十一列目とビジネスクラスの間にある通路、そして階段だった。他にギャレーとトイレがあり、ビジネスクラス十列目の背が高いため、乗客の姿は見えなかった。
 ベストウイング航空に問い合わせました、と成宮が壁の座席表の前に立ち、一階と二階を繋ぐ階段の辺りを指で押さえた。
「ビジネスクラスについては機首から見て右側、一列目の防犯カメラが十列目までのA席とB席、左側のカメラがC席とD席をカバーしています。死角もあるそうですが、テスト用なのでやむを得ないと……」
 続けろ、と原が促した。千丈さんがガムテープを剥がしたエコノミークラスの防犯カメラですが、と成宮が言った。
「死角を減らすため、ビジネスクラスの一部とエコノミークラス十一列から十五列、A席からD席辺りを撮影していました。魚眼レンズなので、約一八〇度を撮影できるんですが、ガムテープが残ったため、映っているのは十二列より前方になります。ギャレーや階段、そしてトイレが邪魔になって、我々が確認できるのは主に通路と階段になります。十一列目と十二列目のA席からD席の乗客は先ほど解放されたので、映っているのは千丈さんだけです。これでは犯人を特定できないと――」
 そこまで望んじゃいない、と原が鼻を鳴らした。
「千丈がガムテープをすべて剥がしてくれたら、と言いたいところだが……その場合、犯人も気づいただろう。そこまで考えて、千丈は半分残したのか? だとしたらファインプレーだな……女の足が映っているが、チーフCAか?」
 麻衣子は画面を拡大した。座席の背もたれに遮られて全身は見えないが、十一列A席の正面にヒールのないパンプスを履いた女性の足が映っていた。
 一ノ瀬さんですね、と横から戸井田が麻衣子のパソコンに指を当てた。
「膝丈のスカート、黒のストッキング、光沢のある黒のパンプスはベストウイング航空CAの制服です。立ち上がるか、歩いてくれれば顔が見えるんですが……」
 何もないよりましだ、と原が眉間を指で揉んだ。
「遠野、呼びかけてみるか? 犯人にもお前の声が聞こえているから、立ってくれ、歩いてくれと言えば、何のためだってことになる。だが、乗客の様子を聞くとか、チーフCAに声をかける理由を作ればいいんじゃないか?」
 待ちましょう、と麻衣子は首を振った。
「今は呼びかけるタイミングではありません。いずれ、犯人からメッセージが入ります。トイレに行きたい、と申し出る乗客もいるでしょう。その時は一ノ瀬さんがケアするので、姿が見えるはずです。ここまで、わたしは一ノ瀬さんを通じ、犯人と話していましたが、彼女に直接呼びかけてはいません。下手なことをすれば、犯人が怪しむでしょう」
 専従担当者をつけろ、と原が指示した。
「二人一組で映像をチェックするんだ。遠野が病人や高齢者の解放を要求した時、犯人は座席を廻ったと言った。BW996便で自由に動けるのは奴しかいない。通路を歩く姿が映れば、身元を特定できる」
 すぐ手配します、と成宮がスマホを耳に当てた。意見を言っても構いませんか、と桑山が手を上げた。
「我々は乗客名簿をチェックし、新興宗教団体の信者、あるいは教団関係者を捜しましたが、そんな人物はいませんでした。九五年のハイジャック犯と同じで、犯人はハッタリをかましたんです」
 そんなことはとっくにわかってる、と原が苦笑した。
「サリンを所持しているとメッセージを残し、信憑性を持たせるために信者を匂わせたんだ」
 続けます、と桑山が下唇を突き出した。
「前科者や反グレ団体の構成員も調査済みで、スピード違反レベルの乗客はいましたが、暴力犯はいません。メキシコ行きの便に乗ってるぐらいで、乗客のほとんどは経済的な余裕があります。勤務先の同僚や家族、友人などにも可能な限り話を聞きました。犯人は思想犯や過激派の可能性を示唆していますが、いずれも偽装でしょう。犯人の目的は金で、困窮している者と考えられます。浮かび上がってくるのはやはり黒谷です」
恐れ入ったな、と原が目を剥いた。
「どうした、桑山。名探偵気取りか?」
 自分だけの考えではありません、と桑山がデスクを軽く叩いた。
「犯人の条件に合うのは黒谷しかいない、と犯人像を分析した道警本部からも指摘がありました。捜査本部でも既に黒谷を疑う声が出ていましたよね? 自分も同じ意見で、犯人と断定はできなくても、あの男には不審な点がある、と断言できます。黒谷の座席はビジネスクラスの一番後ろ、十列のA席です。障害物がなければ黒谷の動きを追えたはずなんですが……」
 犯人は機内にいる、と麻衣子は戸井田に囁きかけた。
「主犯が他にいても黒谷は有力な容疑者の一人と言っていい。座席に座ったまま、犯人はコントローラーで一ノ瀬さんに指示を出している。もちろん、アイマスクはつけていない。通路を歩いて、乗客の様子を見た、と犯人は話していた……黒谷には動機がある。自分のYouTubeチャンネルの登録者数と再生数を増やすことだけど、その場合、カメラを回して動画を撮影する必要がある」
「自分の回りばかり撮影していたら、見る者も飽きますからね」
 一時的に登録者が増えても、その後解除されたら意味はない、と麻衣子はパソコンを指さした。
「他の乗客の撮影は重要なポイントになる。怯えて泣いたり、動揺して騒ぐ乗客の映像をYouTubeチャンネルで流せば、登録者は減らない。遅かれ早かれ、犯人は通路を歩くはず。その姿を防犯カメラが捉えたら、犯人が黒谷だと示す決定的な証拠になる」
「しかし、今のままだと黒谷は映りませんよ」
「何とかして黒谷を動かしたいけど、無理はできない。他の五台の防犯カメラはガムテープに塞がれ、撮影できない。犯人にエコノミークラス十二列目の防犯カメラの近くを通らせるには、どうすればいいのか……」
 誘導するわけにもいきませんしね、と戸井田が苦笑した。
「BW996便機内の防犯カメラはテスト用です。魚眼レンズで撮影すると、映像の周辺部が大きく歪むので、直線が曲線になったり、解像度が落ちる傾向があります。黒谷が通路を歩き、その姿を撮影できたとしても、決定的な証拠になるのか、そこは疑問があります……ただ、千丈さんのおかげで機内の様子がわかるようになりました。そこは一歩前進でしょう」
 麻衣子はパソコンに目を向けた。機内に動きはなかった。
タラップ車が来ました、と成宮が右手を上げた。
「三分以内にBW996便に到着し、犯人が指定した二十人が降りてくる予定。全員をターミナルビルに収容、事情を聞きます。ただ……ほとんどが高齢者なので、体調には不安があります。医師による診察を優先しますか?」
 その方がいいだろうと、原が下唇を突き出した。
「一階はもちろんだが、先に解放された二階の百人も犯人を見ていないし、何もわからないのと同じだった。二十人について、俺はそれほど期待していない。事情を聞くのは後でいい」
機内に残った人質は八十三人になりました、と戸井田が囁いた。まだ多い、と麻衣子は長い息を吐いた。

 すまなかった、と屋代が大きく息を吐いた。
「大声を出して悪かったな……ストレスが溜まって、自分でもどうしようもなかった。もう大丈夫だ」
 野沢は屋代の横顔を見つめた。こめかみからひと筋の汗が垂れているが、貧血から回復したのか、顔色が少し明るくなっていた。
「BW996便の全権責任者は屋代機長です。プレッシャーは僕やナベちゃんの比ではありませんし、乗客の安全はすべて機長にかかっています。苦しい立場は理解しているつもりですが、ハイジャック犯と戦っているのは機長だけではありません。僕や一ノ瀬CAはもちろん、警察もいます。粘り強い交渉によって、人質の解放は成功しつつあります。四百五十九人いた人質を八十三人まで減らしたのは、交渉の力によるところが大きいでしょう」
「わかっているが……」
 屋代の顔色が暗くなった。警察の肩を持つわけではありませんが、と野沢は無線機を指さした。
「彼らは容疑者を絞り込んだようです。黒谷浩之、ビジネスクラス十列A席の男です。迷惑系ユーチューバーで、九五年のハイジャックを模倣し、新興宗教団体の信者を装っています。しかし、真の狙いは混乱する機内を撮影し、自分のYouTubeチャンネルにアップすることだ、と原警視が話していました」
 これを送ってきた、と屋代が自分のスマホをスワイプした。パスポート、そして羽田空港の防犯カメラに映っていた黒谷の写真だった。
「見ているだけで不愉快になる顔だな。パスポートはともかく、どの写真でもにやけた笑みを浮かべている……大学中退の二十九歳か。若いくせに、シャツからはみ出すほど腹がたるんでいる。腕力があるようには見えない」
 そうかもしれません、と野沢はうなずいた。迂闊なことを言えば、屋代が感情的になるだろう。
 こんな男なら、と屋代が写真を何度もスワイプした。
「我々だけで制圧できるんじゃないか? 座席もわかっているし、我々は護身術の研修を受けている。二人掛かりで取り押さえれば――」
 危険です、と野沢は首を振った。屋代が意地になるとわかっていたが、そうですね、とはさすがに言えなかった。
「機内に共犯がいる可能性がある、と原警視は言ってました。外部に共犯、あるいは協力者もいるようです。黒谷を抑え込んだとしても、共犯が乗客を傷つけたり、最悪の場合殺害するかもしれません。リスクが高過ぎます」
 屋代が眉間に深い皺を寄せた。頬が痙攣を始めている。言うべきではなかった、と野沢はため息をついたが、遅かったようだ。
 君はそう言うが、と屋代が野沢を睨みつけた。
「たかがユーチューバーじゃないか。共犯も似たようなものだろう。過激派ならともかく、人質を殺傷するとは思えない」
 おっしゃる通りですが、と屋代をなだめるため、野沢はさりげなく笑みを浮かべた。
「リスクは避けるべきでしょう。僕たちがコックピットを出れば、共犯が侵入する恐れもあります。もっと大きなリスクを招きかねません。それだけは避けろ、と警察も本社も指示しています。コックピットの死守が僕たちの任務で――」
 警察は何もわかっちゃいない、と屋代の唇からつぶやきが漏れた。いつの間にか、また顔色が白くなっていた。
「間もなく十一時半だ。ハイジャックされて、十一時間が経つ。十一時間だぞ? その間、警察は一方的に指示を出すだけで、何もしていない」
「そんなことはないと……」
 連中は何もしていないのと同じだ、と屋代が怒鳴った。
「黒谷が犯人だとわかっているなら、さっさと逮捕すればいいのに、手をこまねいて見ているだけじゃないか。いつまで待てばいい? いつになったら、我々は解放されるんだ?」
 落ち着きましょう、と野沢は屋代の背中に手を当てた。コックピットは狭く、閉塞感が強い。
 屋代の顔が強ばっている。ハイジャックという異常な状況に、閉所パニックを起こしたのではないか、と野沢は不安になった。
 警察に対し、屋代が強い不満を抱いているのは、野沢もわかっていた。犯人を刺激するな、自重しろ、辛抱しろ、無茶をするな、そういった指示を百回以上受けている。
 屋代の提案や意見はことごとく却下された。ストレスが溜まらない方がおかしいだろう。
 年齢もある、と野沢はゆっくり屋代の背中をさすった。屋代は四十五歳で、野沢より八歳上だ。その分、ストレス耐性は弱いだろう。
 心理的な重圧と肉体的な負担が重なり、それが屋代のプレッシャーを増幅している。些細なきっかけで顔色が変わるほど怒り、怒声を発するのはそのためだ。
 警察も慎重にならざるを得ない、と屋代も頭ではわかっているはずだ。だが、十一時間はあまりにも長い。
 犯人への怒りが警察への不満に変換されているようだ、と野沢は思った。理屈を説くのではなく、なだめるしかないだろう。
 もういい、と屋代が背中を固くした。
「触るな……言いたいことはわかるさ。我々には乗客を守る義務と責任がある。だが、もうそんなことを言ってる場合じゃない! 警察が何もしないなら、我々が動くしかない! そうだろう?」
 人質全員を無事に解放するため、警察も懸命に努力しています、と野沢は声を低くした。大声を出しても、屋代を刺激するだけだ。
「時間こそかかっていますが、着実に人質を減らしています。機内に残っているのは我々も含めて八十三人です。警察は今後も交渉を続け、人質の解放に手を尽くすでしょう。それを待つべきです」
 乗客だって限界だ、と屋代が操縦桿を平手で強く叩いた。
「もう我慢できない。原警視に連絡を入れ、犯人逮捕の許可を取る。反対されても知ったことじゃない。当機の責任者は機長の私で、警察といえども容喙ようかいできないんだ!」
 屋代の頬を涙が伝っていた。数分で態度が急変するのは、内心の動揺の現れだろう。
 屋代が無線機のスイッチを入れ、こちらBW996便、と叫んだ。野沢は黙って見ているしかなかった。

 遠野、と無線をオフにした原が声をかけた。
「現在時刻、午後十一時二十七分……自ら犯人を制圧する、と屋代機長が言い出した」
 聞いていました、と麻衣子は設置されているスピーカーに目をやった。参ったな、と原が肩をすくめた。
「経験豊富なベテランパイロット、とベストウイング航空の人事部長は話していたが、パニックを起こしているんだろう。何を言っても聞く耳を持たない。黒谷がクロの可能性は限りなく高いが、絶対の証拠はないんだ」
「そうです」
「この段階では制圧も何もないだろう。乗客の中に共犯が紛れ込んでいたらどうする? 屋代が黒谷の肩に手をかけたら、共犯が人質に危害を加えるぞ。そんなリスクは冒せない」
 犯人制圧を訴える屋代の声が、麻衣子の頭を過った。冷静さは微塵もなく、追い詰められた男の悲痛な叫びだった。
 どんな不測の事態が起きるかわからん、と原が呻いた。
「とにかく一時間待ってくれと説得し、副操縦士の協力もあって、何とか納得させた。深夜十二時半までってことだ。犯人より機長に手を焼くとは思ってなかったよ……察しはついているだろうが、強行突入に備えて函館方面本部の機動捜査係を招集し、突入班を編成した。二十名の隊員が準備を始めている」
 わかっています、と麻衣子はうなずいた。
「彼らの現在位置は?」
 BW996便の右後方五百メートル地点だ、と原が空港地図の一点を指さした。
「特務大型車両と応援の機材車を停め、BW996便の様子を窺っている。副操縦士の野沢に命じ、客席の電子シェードを開けさせた。外は真っ暗だから、犯人は気づかない。ターミナルビルの照明は突入班の車両に届かないし、客席からも見えない」
「はい」
「BW996便は二階建で、乗客が解放されたため、一階は無人になっている。外から一階の非常扉を破壊し、機内に突入する。その後階段で二階に上がり、犯人を制圧する……それが我々のシナリオだ」
 どうでしょうか、と麻衣子は首を傾げた。難しいのは俺もわかっている、と原が口元を歪めた。
「非常扉をバーナーで焼き切れば、どうしたって大きな音がする。二階にいる犯人が気づかないわけがない。九五年のハイジャックの時も、そこが問題になった。俺は現場にいたから、よく覚えている」
「はい」
 犯人が投降しなければ、と原がため息をついた。
「いずれは強行突入せざるを得ない。だが、まだ人質が八十三人もいる。死傷者が出るリスクが高すぎて、このままでは手を出せない……遠野、犯人との交渉を頼む。十人でも二十人でもいいから、解放させるんだ」
 簡単に言わないでください、と戸井田が二人の間に入った。
「遠野さんは魔法使いじゃないんです。一階の人質全員、そして二階の人質の半数と十六人の乗務員を解放させたばかりですよ? そんなに言うなら仕方ない、人質を返してやるよ、と犯人が言うわけないでしょう」
 BW996便の二階から二十人の人質が降りたのは午後十一時二十分です、と麻衣子は時間を確認した。
「再交渉を始めるには早すぎます」
 このままだと一時間後に屋代機長はコックピットを飛び出すぞ、と原が顔をしかめた。
「黒谷が単独犯ならいいが、共犯がいたら最悪の事態になる。それなら強行突入した方がましだ……屋代には我々に対する不信感がある。警察は何もしない、と叫んでいただろう? 犯人と交渉すれば、彼のストレスは和らぐ。人質の安全を守るため、交渉をしてほしい」
 頼んだぞ、と背を向けた原に、人質の解放は無理です、と戸井田が叫んだが、交渉する、と麻衣子は手で制した。
「屋代機長の喚き声を聞いたでしょう? 彼の心は壊れかけている。人質を解放できなくても、交渉を試みれば彼も落ち着く……とにかく、犯人に呼びかけて、反応を見る」
「何を呼びかけるんですか?」
 まだわからない、と麻衣子はこめかみを指で強く押した。時計の針が十一時三十分を指していた。

 現金の袋詰めは順調に進んでいます、と麻衣子はマイクのボリュームを僅かに上げた。
「三分前、十一時三十分の段階で、百五十億円分が終わったと連絡がありました。あなたも進捗状況を知りたいはずです」
 パッセンジャーコールが鳴り、結構なことだ、と聡美がメッセージを読み上げた。
『思っていたより早いな。約三分の一か? この調子だと、二、三時間で終わりそうだ』
 何とも言えません、と麻衣子は答えた。
「作業を担当しているのは十人の経理部員で、交替要員はいません。同じ作業を続けていれば、どうしてもスピードが落ちます。経理部長は深夜一時半を目処にしたいと話していましたが、もう少し遅くなる、とわたしは予想しています」
 こっちは待つだけだ、と聡美が言った。ただ待つだけでは退屈でしょう、と麻衣子は笑みを浮かべた。
「どうです、自己紹介でもしませんか? この事態を無事に終わらせたい、それがわたしたちの共通の目的です。その意味では共犯関係にあり、もっとお互いを知るべきだと思いますが――」
 あんたのことなんか知りたくない、と聡美が声を小さくした。
『すみません、遠野さん。続けます……女刑事に興味はない。どうだっていい』
 それでは身代金の受け渡しについて話しましょう、と麻衣子は流れるように話題を変えた。
「今、キッズコーナーに現金一億円を詰めた袋を三つずつ積んだカートが五十台並んでいます。スーツケースやおみやげの袋を載せて運ぶためのカートで、あなたも見たことがあるでしょう。そして床には現金入りのバッグがごろごろ転がっている……日本の犯罪史上、どの事件より大量の現金で、あなたも見たいのでは? こんな機会は二度とありませんよ」
『おいおい、のこのこそっちへ行くと思ってるのか? 俺たちはそんなに甘くない。なめてるのか?』
 わたしは見てきました、と麻衣子はペットボトルのミネラルウォーターをひと口飲んだ。
「広い床を一万円札が埋め尽くしていましたが、本当に見なくていいんですか?」
『くどいぞ』
 話を戻しましょう、と麻衣子は軽く咳払いをした。
「教えてください。どうやって四百五十九億円の現金をBW996便に運び入れるつもりですか? 手段は考えているんですか?」
 考えてるさ、と聡美が囁いた。
『何も考えないで、こんなことができると思ってるのか? 俺は全部プランを立てている。そっちは命令に従うしかない。人質がいるのを忘れるな』
 手段を尋ねているだけです、と麻衣子はペットボトルを強く握った。
「何度でも繰り返しますが、一億円の重量は約十キロあります。カートに三袋しか載せていないのは重量制限があるためで、無理をすれば五袋でも大丈夫だと思いますが、カートが壊れて一万円札が散らばると一からやり直しです。警察は効率を重視する組織で、二度手間を嫌います」
『わからんでもない』
「現時点でカートは五十台、最終的には百五十台以上になります。今後、袋を輸送用車両に積み替え、BW996便まで運ぶ予定ですが、四百五十九個の十キロの袋を誰がBW996便の貨物室に積み込むんですか?」
『その辺にハコナンの作業員がいるだろう』
「それなら、彼らの安全を保証してください」
『我々は作業員に手出ししない。それは約束する』
 わたしはあなたを信じています、と麻衣子はうなずいた。
「ですが、作業員たちは違います。あなたはBW996便をハイジャックした犯人で、常識で考えれば凶悪犯なんです。何が起きるかわからない、と不安になるのは当然ですし、彼らに危険な作業を引き受ける義務はありません。わたしたちも強制はできないんです。作業員に代わって警察官が車両を運転し、同乗した数名の警察官が搬入作業を担当する……それでも構いませんか?」
 冗談じゃない、と聡美がかすれた声で言った。
『遠野さん、笑いのマークがついています……あんたがそんなことを言い出すのは、最初からわかっていたよ。来るのは交番の巡査じゃないんだろ? ガタイのいい機動捜査隊員か? 道警のSATか? 作業をするふりをして何人かが機内に残り、俺たちを逮捕するつもりだな? ふざけるんじゃない、そんなことを許すと思ってるのか? こっちは命懸けなんだ』
「では、どうしろと?」
 全部プランを立ててると言っただろ、と聡美がメッセージを読んだ。
『誰にとってもいいプランだ。俺はみんなをハッピーにしたいんだよ。いいか、四百五十九億円の現金の袋詰めが終わったら連絡しろ。その時、どうするか教えてやるよ……その前に要求がある』
「要求?」
『しばらく前、YouTubeの生配信をやっていたチャンネルがすべてBANされたようだ。警察が手を回したんだろう。いいか、すべてのチャンネルを復活させろ。もう一度生配信を始めるんだ。警察が許可すれば問題ないはずだ』
 道警の白岩広報課長が空港周辺にいたユーチューバーを緊急逮捕した、と麻衣子は報告を受けていた。公務執行妨害と罪状を示すと、抗議するユーチューバーもいたが、非常事態だからやむを得ないだろう。
 BANされたと犯人は言ったが、正確には違う。逮捕と同時にカメラを押収し、白岩が撮影を強制終了させていた。
「なぜ、もう一度生配信を始めろと?」
 うるせえな、と聡美がため息をついた。
『聞け、俺たちはテレビを見ている。NHKも民放も、ずっと同じ映像だな。どこから撮影している? ターミナルビルの屋上か?』
 三階の展望テラスです、と麻衣子は答えた。各テレビ局を代表する形で、NHKのカメラが機首から右斜めの角度でBW996便を映している。カメラ位置は固定で、変わるのは降り続ける雪の流れだけだ。
 いいかげん飽きてきた、と聡美が何度か咳をした。
『視聴者だって同じだろう。カメラをパンするとか、少しは工夫した方がいいんじゃないか? その方が視聴率を稼げるぞ』
 カメラマンが勝手に動けばどんなアクシデントが起きるかわかりません、と麻衣子はデスクを叩いた。
「BW996便の乗客、乗員、そしてカメラマンやスタッフの安全を護るための措置です。視聴率のために警察が協力するべきだと? そんな義理はありません」
 要求その二だ、と聡美が言った。疲れているのか、声が細くなっていた。
『今、カメラが映しているのはBW996便の機首がメインだ。アップは止めて、ロングショットにしろ。機体全体が映るようにするんだ。我々はオールドメディアを信用していない。ユーチューバーの生配信を命じたのは、ごまかしがないか見比べるためだ』
「あなたを騙すつもりはありません」
 遠野、と向かいの席で原が手を振った。麻衣子がマイクをミュートにすると、少し待て、と原が囁いた。
「機体全体を映せと犯人が要求しているのは、BW996便の近くに警察官がいないか、確かめるためだろう。後方五百メートル地点で、突入班が待機している。ロングショットに変えると、隊員や車両がテレビに映るかもしれない。NHKのカメラマンに確認を取る。回答があるまで、返事をするな」
 わたしたちは警察官です、と麻衣子はミュートを解除した。
「撮影について詳しくありません。ロングショットにしろと言われても、技術的に可能なのか確認しないと、何とも言えません」
 できないわけないだろう、と聡美が長い息を吐いた。
『遠野さん、いくつも笑いのマークが続いています……今、カメラはアップで撮影している。ズームレンズを広角にすればいいだけだ。何なら、カメラごと後ろに下げたっていい。展望テラスは広い。スペースはいくらでもあるはずだ』
 スマホを耳に当てた原が指で丸を作り、殴り書きのメモをデスクに滑らせた。
〝雪が降っているので、突入班は映らないとNHKは言ってる。ユーチューバーたちには、ターミナルビル側からの撮影だけを許可する。連中が使っているのはスマホのカメラで、プロ仕様のカメラとは違う。要求に従う、と犯人に言ってやれ〟
 あなたの要求は二点ですね、と麻衣子は自分が書いたメモに視線を落とした。
「ユーチューバーによる生配信の再開、そしてNHKのカメラでBW996便全体を映せ……これだけですか? 他には?」
 聡美は無言だった。それだけだ、という意味だろう。
 わたしは嘘をつきません、と麻衣子は声を低くした。
「正確な状況を説明します。捜査に支障があるため、空港周辺にいたユーチューバーを逮捕し、彼らの身柄を函館方面本部に移しました。既に取り調べも始まっています。釈放手続きをした上でハコナンに戻しますが、配信の再開は〇時半頃になるでしょう。それでもいいと言うなら、手配をします」
 パッセンジャーコールが鳴った。了解した、という合図だ。
 NHKのカメラですが、と麻衣子は話を続けた。
「あなたが言った通り、カメラ位置を後方に下げればBW996便の機体全体を映せるそうです。その作業は数分で終わりますが、雪除けのカバーを取り付けるため、十分ほど時間をください」
 構わんよ、と聡美の声がした。
『まずBW996便の機体全体を映せ。次はユーチューバーの釈放と生配信の準備だ。急げよ。身代金の用意ができるのは一時間後か? 準備がすべて整ったら知らせろ。それまで俺たちは動かない。果報は寝て待てと言うだろ? ゆっくり待たせてもらう』
 機内にいるとわからないと思いますが、と麻衣子は顎に指をかけた。
「現在時刻は午後十一時四十五分、気温は二・二度です。北々東の風が時速四キロで吹き、体感温度はマイナス〇度以下、NHKの技術スタッフはその中で作業を強いられています」
『だから? 何だっていうんだ?』
「オールドメディアは信じない、とあなたは言いましたね? ここ数年、ネットでもそんな声をよく目にします。ですが、技術スタッフが懸命な努力を続けているのは認めるべきです。そんな人たちを信じないのはなぜです? 理由はあるんですか?」
『マスコミは嘘ばかりじゃないか。昔からそうだったが、もうそんな時代じゃない。誰でも撮影や発信ができる。俺たちが何も考えずにハイジャックをしたと思ってるのか? 警察の言いなりのオールドメディアなんか、信じられるわけないだろう』
「でも、ユーチューバーは信じている?」
『そうだ』
「なぜです? 誰であれ、撮影した映像を編集し、発信できるのはその通りです。でも、ユーチューバーは恣意的な切り抜きをしたり、事実を曲げることもあります。それはあなたも知っていますね? やっていることはオールドメディアと変わりありません」
『全然違うね。ユーチューバ―は忖度しない。警察の命令に従う義務はないんだ。もちろん、常識ってものがあるし、法律を破るのはまずい。誰だって、それぐらいわかってるさ』
「その通りです」
『だが今回は違う。生配信に編集はない。目の前で起きていることを配信するだけだ。警察が隠したいことも全部映す』
「何も隠してはいませんが、あなたの望みはそれですか?」
『そうだよ。一人や二人のユーチューバーならともかく、十人もいれば死角はなくなる。あんたらが妙な動きをすれば、一発でわかるぞ。余計な真似をしなけりゃ、人質には手を出さない。じゃあな、連絡を待ってる』
 パッセンジャーコールが鳴った。話は終わった、と言いたいようだ。
 麻衣子はマイクをオフにして、額に浮かぶ汗をハンカチで押さえた。オールドメディア不信というより、と原が口を開いた。
「嫌っているようだ。一ノ瀬CAはメッセージをそのまま読み上げたが、犯人の言葉のチョイスに刺があった。逆に、ユーチューバーは好きらしい。擁護のニュアンスが感じられただろ?」
 そうですね、と麻衣子はうなずいた。やはり黒谷か、と原がデスクに肘をついた。
「道警本部の担当者が過去に溯って、黒谷のYouTubeやSNSの発言を調べた。私人逮捕を始める際、社会正義のためで正当性があると奴は主張していた。要件を満たさない限り、私人逮捕なんて認められるはずがない。奴はパパ活していた女子大生の顔をモザイク無しで晒したり、パワハラやセクハラをしたと根拠もなしに男性の実名や住所をアップしたこともある」
「聞いています」
「それを非難され、テレビ局員の自宅に押しかけた動画は俺も見た。ハコナンに集まってきたユーチューバーだが、俺に言わせれば同じ穴のムジナで、犯罪者予備軍と言ってもいい。だが、黒谷から見れば仲間なんだろう。NHKやオールドメディアよりユーチューバーを信じる……黒谷が言いそうな台詞だ」
 ハイジャック犯は黒谷でしょう、と成宮が手元のファイルをめくった。
「機内の様子や乗客を撮影し、その動画を自分のチャンネルにアップする、登録者や再生数が増えれば収益が見込める……それが黒谷の動機では、と我々は疑っていました。そして、ベストウイング航空が四百五十九億円の身代金を用意し、支払う方向で事態は進んでいます。YouTubeではそんな大金を掴めません。黒谷は当時の計画を変更し、人質を取ったまま高飛びするのでは?」
 最初から二段構えの計画だったのかもしれませんね、と桑山が左右に目をやった。
「たまたま乗り合わせた旅客機でハイジャックが起き、常に持っているカメラで撮影し、その動画を自分のチャンネルにアップした……黒谷は被害者の一人になりすます気だったのでは? 微妙なところですが、証拠がなければ逮捕できません。安全圏にいながら収益を望めます。悪くない考えですが、ベストウイング航空が身代金の支払いに応じるなら、四百五十九億円を奪って外国に逃げる……そう考えると、黒谷がメキシコ行きの便を選んだ理由も説明できます」
「どういうことだ?」
「メキシコには巨大麻薬カルテルがあり、政府や警察も歯牙にかけないそうです。ダークウェブを通じ、黒谷はカルテルと接触したのでは? 奪った身代金の半分を渡すと言えば、カルテルは黒谷を保護するでしょう」
 捜査本部に沈黙が流れた。重要なのは、と原が握った拳でデスクを強く叩いた。
「人質全員の救出だ。犯人の目的が何であれ、それを忘れるな……身代金の準備はどうなってる?」 
 深夜〇時半までに完了すると報告がありました、と成宮が手を上げた。
「BW996便まではベルトローダーと呼ばれる車両で運びます。乗客のスーツケースや荷物を貨物室に送る車両です。現在、ターミナルビル駐車場で待機中。約二百個の袋を積み終わった、と連絡が入っています」
 BW996便の貨物室は機体後方だ、と原が壁の座席表に視線を向けた。
「その扉を開けて、袋を投げ入れろと指示するつもりか……テレビで見たことがあるが、ベルトコンベアを使っていたな。無人でもできるのか?」
 作業員が貨物室に入るそうです、と成宮が肩をすくめた。
「奥から順にスーツケースや荷物を詰める、とハコナンの担当者が話していました。大型機だと、十人以上で作業するようですね。貨物室には乗客のスーツケースその他が詰め込まれたままになっています。それを外に捨てて、金の袋を入れろと命じるつもりでしょうか?」
 作業員が必要なら、と桑山が首を傾げた。
「突入班の予備隊に作業員の制服を着用させても、犯人にはわからないでしょう。NHKやユーチューバーのカメラに映っても、見分けはつきません。袋の搬入が終わっても、突入班員は貨物室内に留まれます。そこから一階客室に入り、二階に上がって犯人を制圧できると思いますが」
 予備隊指揮官の熊本くまもとを呼べ、と原が命じた。
「黒谷は欲をかき過ぎたな。被害者を装い、チャンネルの収益化に的を絞っていれば、俺たちも証拠固めに苦労しただろうが、身代金に目が眩んだのか……犯罪者は皆同じだよ。墓穴を掘って、勝手に自滅する。熊本に状況を説明しよう」
 桑山がスマホの画面に触れた。突入班の隊員が作業員を装ったと犯人が知ったら、と戸井田が麻衣子に半歩近づいた。
「人質に危害を加えるかもしれません。ですが、僕も逮捕のチャンスだと思います。黒谷には共犯がいるかもしれませんが、十人の突入班が機内に入れば、制圧は容易でしょう」
 違う、と麻衣子は首を振った。
「犯人はそこまで頭が悪くない。別の手段を考えているはず」
「しかし、現金を詰めた袋を機内に搬入する場所は貨物室しかありませんよ?」
 違う、ともう一度麻衣子は首を振った。捜査本部の電話が立て続けに鳴り出した。

 陽ちゃん、と坂内がスマホの画面を向けた。
「NHKのニュースを見てたんだけど、カメラ位置が変わったみたいだ。今までは機首から斜めに撮ってたけど、ロングに切り替わってる。機体全体が見えるぞ」
 貸せ、と大迫は手を伸ばした。坂内が見ているのはTVerのアプリで、NHKのリアルタイム視聴はできないが、ハイジャックは重大事件だ。特別番組として放送します、と画面の下にテロップが流れていた。
「本当だ……なしてかな?」
 視聴者から苦情があったんじゃないの、と坂内がのんきな声を上げた。
「テレビ局はどこもハイジャックの生中継をしてるけど、何時間経つ? 五、六時間か? ずっと同じ画面が続いていたら、誰だって飽きるっしょ。地上波もBSも同じだもんねえ。だけど、いつ何が起きるかわからんから、テレビ局も放送中止ってわけにもいかんだろうし……折衷案じゃないけど、ちょっと画角を変えてみるかって思ったんじゃないの?」
 大迫はスマホのスーパーズームデジタルカメラの倍率を上げた。名称こそ仰々しいが、双眼鏡アプリで、誰でもインストールできる。
 最大倍率にすると手ブレが酷くなるし、暗いとピントを合わせにくくなる。それでもBW996便に目立った動きがないのはわかった。
 あっちも動かんねえ、と坂内が背後を指さした。
「警察だっていうからビビったけど、でっかい車が二台停まったままで、お巡りも車の中に入ったきりだ。ヒーターをつけてるんだろうな。ええよなあ、車ん中はぬくいだろうし、雪も降り込まないもんね。こっちは大変だよ。お巡りがいると思うと、迂闊なことはできんし……」
 このままだと朝までに人間雪室かまくらができる、と大迫は肩に積もった雪を払った。
「少し小降りになったけど、止む気配はないねえ……どうするよ、上も下も完全防寒仕様だから、凍え死にはせんだろうけど、人質が解放されても、こっちからだと何も撮れん。かといって、これ以上近づけば犯人が気づくかも……タモツ、もう止めないかい?」
 失敗だったな、と坂内が苦い顔でうなずいた。
「滑走路に入れるのはオレらだけだし、独占映像になると思ってたけど、甘く考え過ぎてた。撮影した映像をモニターで見たけど、雪ばっかりだ。BW996便の機体はぼんやりとしか映っていない……戻って熱燗でも一杯やろう」
 気楽なことを言うな、と大迫は坂内の胸を押した。
「どうやって戻る? 前はBW996便、後ろには警察の車がいるんだぞ? 老人ホームのパターゴルフ場に出るには、警察の車の前を通るしかないが……」
 迂回すりゃあいい、と坂内が右側を指した。
「遠回りになるけど、滑走路を横切って管制塔の辺りに出よう。お巡りが見張ってるのはBW996便で、静かに行けばわからんって……そうと決まれば荷物をまとめよう。後に何も残すなよ、警察が見つけたら疑われるからな」
 大迫はカメラをリュックに押し込んだ。入り切らなかった撮影用ライトは手持ちで、それは坂内も同じだった。
 立つなよ、と坂内が囁いた。
「俺の後ろに続け。四つん這いになって、ゆっくり進めば――」
 誰だ、という低い声に、大迫は前を見た。降っている雪の間に、二つの大きな人影が見えた。二十メートルほど先だ。
 誰だ、と繰り返した人影が大股で近寄ってきた。白いヘルメットで顔を覆い、目の下に突起物があった。着ている服もすべて白だ。
 突然現れた大男に、怯えた坂内が叫び声を上げ、走りだした。腰が抜け、大迫はその場に座り込んだ。
 大迫の趣味はサバイバルゲームで、男たちの目の下にある突起物に見覚えがあった。ナイトビジョン、と震える唇からつぶやきが漏れた。
 サバゲープレイヤーがレプリカを持っていたが、自衛隊や警察の特殊部隊が使用する暗視装置だ。
 特殊部隊の隊員は迷彩服を着用するが、雪の中ではかえって目立つ。真っ白な服を着ているのは、保護色になるからだ。体格がいいので、異形の怪物に見えた。
 走りだした坂内が手にしていた撮影用ライトを振り回した。その拍子に指が触れたのか、ライトが点灯した。
「待て!」
 特殊部隊の隊員が後を追ったが、パニックに陥った坂内はBW996便に向かい、走っている。機体に反射したライトの光が大迫にも見えた。
 五十メートルほど走ったところで、特殊部隊の隊員が坂内を組み伏せた。ライトが消えたのは、その五秒後だった。
 残っていた特殊部隊の隊員が大迫の腕を捻り、顔を地面に押し付けた。すいません、と叫んだ大迫に、黒谷の仲間か、と体重をかけてのしかかった男が囁いた。
「黒谷?」
 ユーチューバーの黒谷だ、と男が腕に力を込めた。知りません、と大迫は何度も首を振った。
「ぼくたちは函館のユーチューバーです。ハイジャックされたBW996便を撮影していただけで――」
 坂内の首根っこを掴んだもう一人の男が戻ってきた。ナイトビジョンを外し、まずいぞ、と大迫を押さえ込んだ男に抑えた声で言った。
「こいつら、地元のユーチューバーらしい。さっきのは撮影用のライトで、光がBW996便に当たった。犯人が気づいてなければいいんだが……」
 離してくれ、と叫んだ坂内の口を塞ぎ、一度車両に戻ろう、と男が前を指さした。手首に食い込む手錠の感覚に、終わった、と大迫はつぶやいた。

 突入班の若杉です、と捜査本部のスピーカーから声が流れ出した。どうなってる、と原が怒鳴った。
「今のは何の光だ?」
 BW996便の後方五百メートル地点に特務大型車両と機材車を停め、待機していました、と若杉が早口で報告を始めた。
『どこまで近づけるか、隊員二名を偵察に出したところ、BW996便から二百メートル離れた場所で不審者二名を発見、確保しましたが、その際一人が所持していた撮影用ライトのスイッチを入れ、光がBW996便の機体に当たり――』
 テレビにも光が映っていた、と原がデスクを蹴飛ばした。
「カメラ位置は逆だが、機体の上下を通る光が見えた。機尾から機首に向かっていたぞ。一秒二秒じゃない。十秒以上だ。確保した二人は何者だ? ハイジャックの共犯か?」
 違うようです、と若杉が声を低くした。
『運転免許証で身元の確認が取れました。大迫陽一、二十二歳、現住所函館市入船町、もう一人は坂内保、二十一歳、現住所函館市末広町。二人は函館科学大学を中退、一年半前に函館観光案内をメインにしたYouTubeチャンネルを開設、現在に至っています。友人からのLINEでハコナンのハイジャックを知り、日没前後に空港裏手の老人ホームから滑走路に侵入、BW996便の撮影を試みたと供述しています』
 どうかしてる、と原が呻いた。二人とも実家住まいです、と若杉が報告を続けた。
『自分たちのチャンネルを有名にするためだった、と動機を説明しています。要は再生数狙いです』
 馬鹿なのか、と原が天井を見上げた。装備を調べました、と若杉が空咳をした。
『不審な物は持っていません。素人にしては高価な撮影機材を揃えていますが、今時のユーチューバーなら普通でしょう。二人のスマートフォン、iPadその他の端末も確認済み。二十四時間前までの通話記録、LINE、メール等の送受信履歴をチェックしましたが、怪しいところはありません。ハイジャックとは関係ないと思われます』 
 そっちはどうだ、と原が囁いた。録画していた機内の防犯カメラ映像をチェックした成宮が肩をすくめ、光は映っていません、とため息をついた。
「ライトの光が機体に届いたのは確かですが、機内までは入らなかったようですね。時間を測りましたが、トータル十二秒でした。雪も降っていますし、犯人は気づかなかったでしょう」
 白岩広報課長を呼べ、と原が怒鳴った。
「今の光は何だ、とニュース番組を見ていた視聴者数人がポストしている。ご丁寧なことに、ハコナンハイジャックのハッシュタグ付きだ。犯人もXやSNSをチェックしている。BW996便の機体に光が当たったと知れば、突入部隊が近くにいると気づく。まず、テレビ局を押さえろ。今のはライトの光です、そんなことをアナウンサーが言ったら――」
 白岩さんです、と桑山が受話器を差し出した。状況の説明を始めた原に目をやってから、麻衣子は窓に歩み寄った。
「戸井田くん、ここからだと突入班の車両は見えない。でも、光は見えた。撮影用ライトの光量は強かったはず。機内に光が入らなかったのは、ラッキーだった」
 一時ほどの勢いはありませんが、と戸井田が隣に立った。
「雪は降り続けています。ライトの光は雪に反射するので、機内まで届かなかったでしょう」
 テレビ越しでも光が見えた、と麻衣子は窓を指で叩いた。
「機尾から機首に光は向かっていた。本当に犯人は気づいていない?」
 十二秒です、と戸井田が腕時計を麻衣子に見せた。
「黒谷が犯人だとしましょう。奴の座席は十列目のA席、突入班やユーチューバーから見ると奥側になります。光が見えるとしたら、反対側のD席でしょう。後方のエコノミー席に光が当たっても、十列目の黒谷には見えません。機内に残っている人質は八十三人、彼らはBW996便の中央より前側の席に座っています。そこを光が照らしたのは五、六秒でしょう。共犯がいたとしても、光には気づかなかったと思いますね」
「そうならいいけど……」
 問題なのはSNSです、と戸井田がスマホの画面を開いた。
「原警視も指摘していましたが、テレビ画面を光が横切ったのは誰でも気づいたでしょう。あの光は何なんだ、と考察好きな連中が喜ぶ姿が目に浮かびますよ。理由をつけて説明しないと、彼らは納得しません。それどころか、ライトの光だったのでは、と勝手なことを言い出すでしょう。誰がライトを照らしたのか……警察だと言う者がいても、おかしくありません」
「そうね」
 こんな時のための報道協定です、と戸井田が笑みを浮かべた。
「すぐにでも記者会見の要請があるはずですが、広報の白岩課長が公式コメントを出せば、メディアはそれに基づいて報道するしかありません。後で問題になっても、突入班の存在をニュースで流せば犯人を利するだけで、やむを得なかったとメディアも引き下がります」
「うん」
「集まっていたユーチューバーの生配信が再開する前だったのは、不幸中の幸いでしたね。連中は報道協定に縛られませんし、角度によってはもっとはっきり光を撮影できたのでは? そうなったら、考察隊が黙っていませんよ。テレビで見た限り、何の光かわかりませんから、白岩課長がもっともらしい理由をつければ、それで終わります」
 光に気づいたら犯人から連絡があったはずです、と背後に目をやった戸井田が先を続けた。
「人質に危害を加えるかどうかはともかく、無茶な要求を突き付けてくるでしょうし、こちらも呑まざるを得ません。テレビに光が映ってから、五分が経っています。犯人から連絡がないのは、気づいていないからで――」
 パッセンジャーコールが鳴った。麻衣子はデスクに戻り、マイクをオンにした。
 遠野さん、と囁く聡美の声がした。
『あの……聞こえますか?』
 はい、と麻衣子はうなずいた。犯人からのメッセージです、と聡美が言った。
『まだユーチューバーはハコナンに戻っていないのか……同じ文章が二回送られてきました。急げ、と言いたいようです……待ってください、金の準備はできたのか、と書いてあります』
 五分でユーチューバーが戻る、金の準備には十分かかる、と原がコピー用紙に殴り書きした。
 もう少し待ってください、と麻衣子はマイクに顔を近づけた。
「五分以内にユーチューバーが戻ります。現金の袋詰めは十分後に終わるでしょう。それくらいは待てるはずです」
 待ちくたびれた、と聡美が言ったが、その声も疲れていた。
『NHKを見ているが、要求通りBW996便の全体を映しているな。戻り次第、ユーチューバーに生配信を命じる。ついでだ、民放のカメラにも撮影許可を出せ。展望テラスにずらっとカメラが並んでいるが、奴らも退屈だろう。今、夜中の〇時十一分か……もう少しだけ待ってやるよ』
 成宮と桑山が捜査本部を飛び出していった。まだある、と聡美が声を低くした。
『金を適当な車に積み、BW996便まで運んでこい。トラックでも何でもいい』
 駄目だ、と首を強く振った原がメモを渡した。
〝まだ突入班予備隊の準備が整っていない。時間を引き伸ばせ〟
 車両の運転者と作業員は空港の外で待機しています、と麻衣子は眉間に皺を寄せた。
「いきなりでは対応できません。彼らの安全の保証も取れていないんですよ? 時間をください」
『あんたは俺たちを信じるしかないんだ。文句あるか? そうだ、さっきは作業員にやらせると言ったが、連中はいらない。運転手だけでいい』
 パッセンジャーコールが鳴った。話は終わった、という意味だ。
 運転手だけでいい、と麻衣子はつぶやいた。犯人の意図が読めなかった。

(つづく)

 

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