交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第十回
五十嵐貴久
2025.07.25

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交渉人ハイジャック Flight 10 対立
1
時計の針が深夜〇時半を指した。パッセンジャーコールが鳴り、遠野さん、と聡美が囁いた。
『犯人からメッセージが入りました……我々は機内でYouTubeを見ている。ユーチューバー連中が撮影を再開したようだな。NHKはもちろん、民放各局も生中継を始めた。指示に従っているから、人質に危害は加えない。だが、金はどうなってる? もう車に積んだのか?』
五分前、準備が整ったと連絡があったが、まだです、と麻衣子は首を振った。
「わたしたちが車に積んでいるのは現金です。土砂や木材ならショベルカーでほうり込むだけですが、現金が入った袋ではそうもいきません。十分以内に終わると想定していますが、多少遅くなっても問題はないでしょう」
待っているのに飽きたんだ、と聡美が言った。
『時間を区切ってもらおう。十分後、十二時四十分までに作業を終えるんだ。一分遅れたら人質が一人死ぬ。それでもいいのか?』
「……わかりました」
『車はトラックか? 何でもいいが、運転手一人で車をBW996便の後部につけろ。貨物室のロック解除を機長に指示するんだ。我々はBW996便の仕様書を確認した。コックピットで開閉が可能なのはわかっている。できないとか、つまらん嘘は止めろ』
金を貨物室に運び入れるつもりですね、と麻衣子はマイクに口を寄せた。
「ですが、乗客のスーツケースなど荷物類で貨物室はほぼ満杯です。運転手一人ですべて運び出し、その後金の入った袋を積み込めと? できるわけないでしょう。作業員が十人いても、二、三時間はかかりますよ。二十人なら、もっと早く終わるでしょう。応援の作業員を空港に呼び――」
そいつらはお巡りだろ、と聡美が声を低くした。
『あんたらのやり口はわかってる。変装したSAT隊員が貨物室に入り、そこから二階客室に突入しようって魂胆だな? 作業員はこっちで用意する。余計なことは言わず、指示に従え』
「作業員を用意する? どういう意味ですか?」
『言ったはずだ。俺は全員をハッピーにしたいってな。いいか、今から五十人の人質を解放してやる。悪い話じゃないだろ? 八十三人のうち五十人だぞ?』
「……その五十人を作業員にするんですか?」
『ナイスなアイデアだろ? よく聞け、車を運転するのはベテラン作業員にしろ。そいつが五十人に指示を出せ。機内の人質は男も女もいる。だが、スーツケースを外に投げ捨て、金の袋を運び入れるのは女でもできるはずだ。一人でも逃げたら、残った三十三人を皆殺しにする。寒い中ご苦労だが、一時間ですべて終わるさ。それで解放されるなら、安いもんだろ?』
五十人、と麻衣子はつぶやき、マイクをミュートした。原が小さくうなずき、太い親指を立てた。
「遠野、それで人質は三十三人になる。金の積み込みを終え、五十人を保護したら、若杉に突入を命じる。貨物室の扉が開いていれば、機内に入るのは簡単だ」
待ってください、と戸井田が早口で言った。
「犯人はテレビの生中継、そしてYouTubeをチェックしています。突入班がBW996便に接近すれば気づきますよ。危険です!」
五十人が外に出れば、と原が顔をしかめた。
「突入班が紛れても、犯人にはわからんさ。テレビ局もユーチューバーも、ターミナルビル側から撮影している。突入班は滑走路の奥だ。慎重に近づけば――」
これを、と戸井田がスマホを差し出した。生配信中のYouTubeチャンネルに、BW996便の後部が映っていた。
「テレビ局は抑えが利きますが、ユーチューバーはそうもいきません。ベルトローダーが近づけば、連中はカメラを向けますよ。突入班が映ったらどうするんです?」
戸井田の問いに、原が口を閉じた。パッセンジャーコールが鳴り、返事はまだか、と聡美が言った。
『我々の命令を拒否するなら、さっさと言ってくれ。二、三人殺せば、あんたらも気が変わるんじゃないか? それから、つまらん真似はするなよ。警察官だろうが何だろうが、BW996便に近づく奴がいたら取引は中止だ。身代金なんかどうだっていい。残った人質を全員殺してやる。俺たちは裏切りを許さない』
何もしません、と麻衣子はマイクを握った。
「わたしが望んでいるのは人質全員の救出です。そのために身代金を用意し、あなたの要求にすべて従ってきました。ただ、ひとつだけ……五十人で足りますか? スーツケースは重く、二十キロ以上の重量があるでしょう。キャスター付きでも、外に投げ捨てるのは難しいと思います。BW996便には四百四十人の乗客、十九人の乗務員が乗っていました。スーツケースは五百個以上です。五十人で作業しても――」
ごちゃごちゃうるさいな、と聡美がため息をついた。
『八十三人全員で作業しろと? ふざけんな、そんなことができると思ってるのか? 人質あってのハイジャックだ。あんたのメンツを考えて、五十人にしてやったんだぞ。感謝のひとつもないのか? 付け上がるなよ、主導権を握ってるのはこっちなんだ……五分経ったぞ。金の積み込みは終わったのか?』
間もなく完了します、と麻衣子は言った。
「あなたの要求を呑みます。その代わり、作業員一名を加えます。運転手一人で五十人に指示を出すのは無理です。あなたもわかっているでしょう?」
『そう言うと思ってたよ。いいさ、譲ってやる。だが、一人だけだ。わかったら、さっさと始めろ』
パッセンジャーコールが鳴り、通話が切れた。桑山、と原が目を向けた。
「ベルトローダーに同乗しろ。運転手は空港のベテラン作業員だが、一人じゃどうにもならん。気温は零下二度、体感温度はもっと低い。急いで作業を終わらせないと、人質が倒れるぞ」
了解です、と立ち上がった桑山に、待て、と原が鋭い声で言った。
「共犯が五十人の中にいるかもしれない。刑事だとわかったら、機内の犯人が何をするかわからん。不審な動きをする奴がいたら、すぐ報告しろ。だが、絶対に手を出すな……戸井田の言う通り、いくつかのYouTubeチャンネルが貨物室付近を映している。あれじゃ突入班は動けない。それも計算済みか? 腹の立つ奴だ」
大きくうなずいた桑山が捜査本部を飛び出した。成宮、と原が手招きした。
「金の積み込みは終わったな? 屋代機長に連絡して、貨物室の扉を開けさせろ。三分後、ベルトローダーを出す」
麻衣子は時計に目をやった。〇時三十七分になっていた。
よくやったな、と原が労いの言葉をかけた。
「作業員一名の追加を認めさせたのは、たいしたもんだ。俺なら、咄嗟に頭が回らん。運転手一人で行かせただろう……それにしても、人質を作業員代わりに使うとは思わなかったな。もっとも、それで五十人が解放されるなら、悪くない取引だ。しかし、機長、副操縦士、チーフCAは別として、まだ人質は八十人いる。その中から、犯人は五十人をどうやって選ぶつもりだ?」
ここまで犯人はトータル三百七十六人の人質を解放しています、と麻衣子は壁の座席表を指さした。
「機内に残っているのは、エコノミー十八列から前の席の八十人と三人の乗務員です。金の搬入はベルトローダーのベルトコンベアが使えますが、スーツケースを機外に捨てるのは人手が必要で、しかも腕力のいる作業です。わたしが犯人なら、男性を優先的に選ぶでしょう」
「力仕事だからな……それで?」
「犯人は座席番号を一ノ瀬さんに伝え、彼女の誘導で五十人を階段から一階に降ろし、後部ギャレーの下にある貨物室へ移動させるのでは? 後は五十人がベルトローダーの運転手と桑山刑事の指示に従うだけです」
残り三十三人か、と原が鼻をすすった。
「成宮、突入班の若杉に現状のまま待機と伝えろ。機長が貨物室のロックを解除すると、扉が開く。金を積み込んだら扉を閉めろ、と犯人は命じるだろう。だが、ロックはかけるな、と機長に指示するんだ。突入班はBW996便後方五百メートル地点にいる。走れば二分もかからない距離だ。ロックしていなければ、隙をついて貨物室から侵入できる」
原警視、と戸井田がモニターを指さした。
「一ノ瀬チーフが立ち上がりました。コントローラーを手に持ったまま、通路に出ています……声は聞こえませんが、何か叫んでいるようですね。座席番号を言っているのでは?」
犯人がメッセージを送った、と麻衣子はつぶやいた。原が唾を呑み込む音がした。
2
ベルトローダーが出ました、とスピーカーから桑山の声がした。
『名称通り、ベルトコンベア付きで、スーツケースその他乗客の荷物類を貨物室に運び入れる際に使う車両です。金の袋を積んだ囲いのあるパレットを牽引していますが、貨物室の扉は二メートルで、ベルトコンベアを延ばせば届くそうです。ただ、どうしても扉近くに金の袋が固まるので、奥に運ぶには人質の協力が必要になると思われます』
麻衣子はテレビに目をやった。ベルトローダーがゆっくりとBW996便に近づいている。
画面が切り替わり、函館ハイジャック事件に動きがありました、と緊張した表情のアナウンサーが口を開いた。
『現在、画面に映っているように、空港ターミナルビルから大型運搬車がBW996便に向かっています。情報によると、こちらの車両に四百五十九億円の身代金が積まれている、ということです。貨物室の荷物を外に出し、その後現金が入った袋を運び入れる、と情報が入っています』
ボリュームを下げろ、と原が頭を抱えた。
「各テレビ局には貨物室をアップにするなと通達したが、ユーチューバーはそうもいかん。撮影を止めさせれば、気づいた犯人が人質を殺すとか、物騒なことを言いかねない。頭が痛いよ」
麻衣子はパソコンのモニターを見つめた。BW996便の機内が映っている。そこに聡美はいなかった。
「一ノ瀬さんは五十人の人質を一階に誘導しているようです。彼女を介してしか、犯人と交渉はできません。戻るまで待つしかありませんね」
千丈が防犯カメラのガムテープを剥がしたが、一部は残っている。そのため画角は狭く、乗客の動きまではわからなかった。
屋代機長が貨物室のロックを解除しました、と成宮が手を上げた。
「ベストウイング航空のエンジニア部長に確認しましたが、貨物室の扉を開くと自動で脚立が降ります。スーツケースを投げ落とし、その後ベルトコンベアを使って金の袋を搬入することになります。作業が終われば、五十人の人質は脚立で地上に降ります。袋は全部で四百五十九個、ベルトコンベアで運べば、それほど時間はかからないということです」
麻衣子はパソコンに視線を戻した。ベルトローダーの車載カメラがBW996便の後部を映している。貨物室の扉が開き始めていた。
見てください、と戸井田がスマホを麻衣子に向けた。大型旅客機の前で、武装警察官がショットガンやライフルを乱射している。
「これは?」
フェイク動画です、と戸井田がうんざりした顔になった。
「ChatGPTを使って作ったんでしょう。BW996便と同じ機体と刑事ドラマの映像を組み合わせただけですが、Xにアップされてから五分も経っていないのに、リポストは百件以上、次々にコメントがついています。見てください、“人質が死んだら警察は責任を取れるのか”“どんどん撃て、ハイジャック犯なんか殺せばいいんだ”……何を考えているんだか……」
これからもフェイク動画やデマの拡散が続く、と麻衣子はため息をついた。
「警察が注意を呼びかけても、騒ぎが大きくなるだけ。わたしはハイジャック犯より彼らの方が怖い。無意識の悪意はどこまでも連鎖する。エスカレートした悪意の果てに何があるのか――」
遠野、と原が声をかけた。
「何をぼんやりしている? ベルトローダーが所定の位置についた。桑山が映像を送っているぞ」
麻衣子はキーボードに触れ、モニターを切り替えた。BW996便の機体に、桑山の抑えた声が重なった。
『貨物室の扉が開きました。人影が見えます。人質でしょう』
「顔は映せないのか?」
『暗いので顔までは……待ってください、乗客に指示を出します』
私はハコナン運輸の者です、とメガホンを使って桑山が怒鳴った。
『皆さん、落ち着いてください。警察の要請で、私が搬出入を指示します。二手に分かれて、列を作ってください。その後、スーツケースや荷物類を下に落としてください。焦らなくても大丈夫です。繰り返します。まず、右と左に分かれてください』
原警視、とメガホンを外した桑山が小声で言った。
『ざっと見た感じですが、男性も女性もいます。手前にいる男性は六十代に見えます』
「男と女、どっちが多い?」
原の問いに、同じぐらいです、と桑山が答えた。
『若干、男性の方が多いですが、数人でしょう。男も女も年齢も関係ない、と犯人は言ってましたが、本気のようですね。泣いている人もいますが、パニックとまでは言えません。このまま作業を始めます』
乗客名簿をチェックした、と原がデスクのファイルをボールペンで叩いた。
「大学生が八人乗っている。二十歳から四十歳の乗客は三十一人、そのうち十九人は男だ。その年齢なら、女性でもスーツケースぐらい運べるだろう。いや、五十代だって何とかなるはずだ……桑山、六十歳以上の乗客を貨物室後部に下げろ。すべての荷物を外に出すまで、誰も降ろすな。一人でも逃げると、パニックを誘発するぞ」
大学生はいますか、と桑山が声を張ったが、返事はなかった。では二十代と三十代の男性、と桑山が呼びかけた。
「搬出に協力を願います。スーツケース類を投げ落とすだけです。他の方は奥の荷物を手前に運んでください」
数人の男がモニターに映った。一人がスーツケースを放り投げると、他がそれに続いた。女性も加わっている。
次々にスーツケースが滑走路に落ちてきた。衝撃で蓋が外れ、衣服や洗面道具が散乱したが、放っておけ、と原が吐き捨てた。
「高価な物なら、スーツケースには入れないさ。命あっての物だねで、解放されたら文句は言わんよ……映画みたいだな。ユーチューバーが喜んでいるだろう」
警視、と成宮が眉を顰めた。思っていたより早い、と原が視線を逸らした。
「投げ捨てるだけだから、時間はかからんだろう。桑山、もっとカメラを上げろ。貨物室の中が見えない……どれぐらい終わった?」
五十個ほど落ちてきました、と桑山がベルトローダーの車載カメラを上に向けた。
「三十代半ばくらいでしょうか、前に立って動いている男性がいます。風で声は聞こえませんが、彼が指示を出しているようです。年配の乗客は後ろに下がっています。十人……いや二十人ほどの男女が奥からスーツケースを運んでいるのが見えます」
パッセンジャーコールが鳴り、遠野さん、と聡美の声がした。
『犯人の指示で五十人の乗客を貨物室に下ろし、二階に戻りました。エコノミークラスの12-Aのお客様がスーツケースを放り投げたのは見ましたが、すぐ戻れ、と犯人からコントローラーにメッセージが入ったので……』
12-A、と麻衣子は顔を上げた。千丈だ、と原がうなずいた。
「やっとツキが回ってきたな。チーフCAはともかく、千丈は機内の状況をある程度把握しているだろう。アイマスクをずらし周囲を見ているし、防犯カメラのガムテープを剥がしたのも彼だ。今まで解放された乗客や乗務員とは違う。犯人を見たかもしれん。それが黒谷なら、若杉に突入を命じる」
共犯がいたらどうするんですか、と言った戸井田に、いるわけないだろう、とデスクを叩いた原が立ち上がった。
「黒谷に仲間はいない。迷惑系ユーチューバーたちの間でも鼻つまみ者だったんだぞ?」
「しかし……」
「いたとしても、奴らは愉快犯だ。警察をからかい、マスコミを馬鹿にして、全能感を楽しんでいるだけだ。勘違いして、何をやっても許されると思っている。逮捕されたら黒谷はこう言うぞ。悪気はなかった、世間を驚かせたかっただけだ、冗談もわからないのかってな」
いつからこんなことになったんだろうな、と原が額に皺を寄せた。
「戸井田、冷笑が流行っているそうだな。揚げ足を取って論破したと勝ち誇り、それを持て囃す馬鹿も多い。黒谷はそんな時代のアンチヒーローかもしれん。だが、ハイジャックは私人逮捕とレベルが違う。刑務所にぶち込まれた時、どんな泣き言を言うか、楽しみだよ……黒谷に人を殺す度胸はない。何なら、俺一人で突っ込んでもいい。あんな奴は片手で逮捕できる」
まず千丈さんに話を聞きましょう、と麻衣子は二人の間に割って入った。
「黒谷のYouTubeを見ましたが、卑怯で臆病な男だと誰でもわかります。でも、そういう男だからこそ危険です。強行突入すれば、怯えて他の乗客に危害を加えるかもしれません」
確かにそうだ、と原が呻いた。わたしも共犯はいないと思います、と麻衣子はうなずいた。
「ですが、可能性がゼロとは言えません。貨物室に金の袋を搬入するまで、まだ時間はあります。その間に交渉して、更に人質を減らした方がメリットは大きいのでは?」
今すぐ突入せよとは言ってない、と原がしかめ面になった。
「道警本部や警察庁からも、死傷者を出すなと厳命されている。あんたは俺が昔気質の乱暴な暴力刑事だと思っているだろうが、昭和は遠くなりにけりだ……とにかく五十人が戻り、千丈に事情を聞くまでは様子を見よう」
パッセンジャーコールが鳴り、わたしです、と聡美が言った。
『遠野さん、テレビに貨物室の内部が映っていない、見えるのはベルトコンベアだけだ、カメラのポジションを変えろ、と犯人が要求しています』
各局に伝えます、と麻衣子はペットボトルの水をひと口飲んだ。
「ですが、カメラ位置を変えても貨物室の内部までは撮影できません。ターミナルビルの展望テラスからBW996便までは三百メートルの距離があり、雪も降っています。ライトで照らしても、中まで光は届かないでしょう。金の袋を積んでいるか、確認したいんですか? わたしが嘘をついていると? それなら投光車を近づけて――」
あんたを信じるよ、と聡美がメッセージを読み上げた。
『いいか、絶対にお巡りを近づけるな。影が見えただけでも人質を殺すぞ。わかったな?』
何もしません、と麻衣子は答えた。
「荷物類を外に出し、金の入った袋を積み終わったら、五十人の人質をパレットに乗せ、ターミナルビルに収容します。運転手と作業員も同乗しますから、自分の目で確認してください。警察は手を出しません。今、二階に残っている乗客は三十人ですね? そして機長、副操縦士、チーフCA……提案があります」
『何だ?』
一時間後、あなたは四百五十九億円を手に入れます、と麻衣子は声を低くした。
「サラリーマンの平均生涯年収を知っていますか? およそ二億二千万円です。ざっくりとした計算ですが、サラリーマン二百人分、それ以上の金額になります。これほど巨額の身代金を支払った例は過去にありません。乗務員を除き、他の三十人を解放してください。それでこそ、巨額の身代金と釣り合うのでは?」
四百人以上を解放した、と聡美が言った。
『十分だろ? これ以上人質を解放する気はない』
わたしたちは乗客名簿を持っています、と麻衣子はパソコンのキーボードに触れた。画面に乗客の顔写真が映った。
「ここまで解放された人質について、身元の確認を終えました。メキシコはハワイや韓国とは違います。観光旅行に行くのは年配の方が多く、あなたは高齢者の解放に同意しましたが、わたしたちの調べでは六十歳以上の方が二十人近く残っています。今の六十代は現役世代と言うかもしれませんが、体力的な衰えはあるんです」
知ったことか、と聡美がため息をついた。
『俺はまだ若いから、年寄りの体調なんかわからない。何度も言ったが、俺は年齢で扱いを変えたりしない』
では確認してください、と麻衣子は僅かに声を張った。
「体調不良を訴える方、心理的に限界だという方がいるでしょう。そんな人質を抱えて、何のメリットがあるんです? 四百五十九億円を手に入れたら、高飛びでも何でもすればいい」
『そのつもりだよ』
ベストウイング航空の資本金は一億円です、と麻衣子は咳払いをした。
「JALやANAと比べれば、小規模な航空会社です。なぜベストウイング航空が四百五十九億円の身代金の支払いに応じたのか、理由はわかりますか?」
『さあね』
ハイジャック保険に入っているからです、と麻衣子は言った。
「保険会社にとって、四百五十九億円は大損害と言えません。わたしに言わせれば、保険会社は儲け過ぎです。人質が無事に戻れば、あなたの逮捕にこだわる理由はありません」
『あんたの冗談は面白いな』
遠野、と原が顔を真っ赤にして立ち上がったが、麻衣子は手で制した。
「いいですか、人質は長時間座ったままで、恐怖に晒され、心に強い負荷がかかっています。ストレスは体調悪化の引き金になります。それは知っているでしょう? 彼ら、そして彼女らを解放した方が、あなたの得になるんです。すぐに答えを出せ、とは言いません。時間はあります。ゆっくり考えてください」
ふざけるな、と聡美が言うと、すぐ通話が切れた。無茶苦茶だ、と原が頭を掻きむしった。
「遠野、何を言ったかわかってるのか? 高飛びでも何でもすればいい? 逮捕にこだわる理由はないだと? 上が知ったら、訓告や減給じゃ済まないぞ」
交渉人もブラフぐらいかけます、と麻衣子は微笑んだ。
「それより、重要なポイントがあります。俺はまだ若い、年寄りの体調なんかはわからない、と犯人は言っていました。今までの交渉でも、犯人の言葉遣いは若者のそれでした。二時間前、昨夜十一時五分に二十人の高齢者を解放した時、こう言っていたのを覚えていますか? 医者がハイジャックをすると思ってるのか、そんなわけないだろう、百回転生したって医者にはなれないと――」
いちいち覚えちゃいない、と原が手を振った。キーワードは転生です、と麻衣子は宙に文字を書いた。
「書店に行けば、転生系のライトノベルが山のように並んでいます。メインの読者は十代から二十代で、それは犯人の年齢とも重なると考えられます。犯人はYouTubeに詳しく、知識も豊富です。口にはしていませんが、自分のチャンネルも持っているようです。それもまた、若者の特徴と言っていいでしょう。もちろん、六十代や七十代のユーチューバーもいますが、圧倒的に若者が多いと原警視も知っているはずです」
やはり黒谷か、と原が腕を組んだ。
「ふざけた野郎だ……成宮、若杉に連絡だ。出動準備を開始せよ、と伝えろ。貨物室に四百五十九億円を運び入れ、五十人の人質を保護したら、BW996便に突入する。ユーチューバーの一人や二人、簡単に逮捕できる」
深夜一時になりました、と成宮が腕時計を前に出した。
「貨物室のスーツケース類はほとんど機外に投棄した、と連絡が入っています。五分以内にベルトコンベアを使って現金が入った袋の搬入を開始する、と……作業終了の予定時間は午前二時」
それまでは待機だ、と原がうなずいた。
「辛抱した甲斐があったな。夜明けまでに決着をつけてやる。遠野、ご苦労だった。交渉タイムは終わりだ」
千丈さんと話します、と麻衣子は言った。
「詳しい事情を聞かないまま、強行突入するのは危険では?」
わかってるさ、と原が足を組んだ。麻衣子は座り直し、テレビに目をやった。貨物室から二つのスーツケースが続けて落ちた。
3
予定通りです、とスピーカーから桑山の声が流れ出した。モニターにベルトコンベアと金の袋が映っている。
「十分後、午前二時に四百五十九億円の搬入が完了します。それを待って五十人を下ろし、パレットに乗せて戻ります」
了解した、と原が大声で言った。作業を指示していた男性と話しました、と桑山が先を続けた。
「やはり千丈さんでした。詳しい話まではできませんでしたが、自分が防犯カメラのガムテープを剥がしたと言っています。犯人の足元は見たが、顔は見えなかったと――」
戻り次第詳しい事情を聞く、と原がスピーカーのボタンを切り替えた。
「若杉、聞いていたな? 五十人の人質がターミナルビルに戻るのは二時十分、千丈に話を聞いて突入可能と判断したら命令を出す。出動準備を急げ」
了解、と短い返事があった。他の人質にも話を聞きたい、と原が手をこすり合わせた。
「犯人を見た者がいるかもしれん。黒谷の写真があるから、確認を取れる。奴だとわかれば、遠慮はいらない。共犯がいるなら、そいつも確保する……戸井田、何か言いたそうだな。意見があるなら言ってみろ」
いえ、と戸井田が目を伏せた。こう見えて俺は慎重でな、と原が笑った。
「何もわからないまま突っ込んだりはしない。まず千丈に話を聞き、その上で強行突入について判断する。だが、一度命令を出したら中止しない。余計なことは言うな。わかったか?」
パッセンジャーコールが鳴り、麻衣子はマイクをオンにした。
『遠野さん……五分前、犯人からメッセージが入り、乗客への呼びかけを命じられました』
「メッセージ?」
体調不良の者は挙手しろ、と聡美が言った。
『警察には知らせるな、呼びかけが終わったらCAはアイマスクをつけろと書いてあったので、どのお客様が手を上げたのかはわかりません。ですが、たった今新しいメッセージが入りました。座席番号がいくつも並んでいます。一、二……十四人分です。待ってください、続きが……CAはその十四人を貨物室に連れて行け。そこにいる五十人と一緒に解放する……指示に従いますが、構いませんね?』
麻衣子は正面に目を向けた。OKだ、と原が指で丸を作った。
「十分後、午前二時に搬入が終わる。五十人に加え、十四人を収容しよう……黒谷も先のことを考えたようだな。ここまで来れば、人質の数は関係ない。機長と副操縦士がいれば、BW996便は離陸可能だ。下手に人数を抱え込むと、警察が突入するリスクが高くなる。それを避けたかったんだろう」
おそらく、と麻衣子は囁いた。お前の言葉がボディブローになった、と原が小さく笑った。
「だから、黒谷は追加で十四人を解放すると決めた。残り十九人か……過去の例で言うと、立てこもり事件で犯人が順次人質を解放するのは、投降を示すサインだ。黒谷が投降するつもりなら、強行突入の必要はないが……」
なぜ今なのか、と麻衣子は唇を噛んだ。
「犯人の意図が読めません。確かに、わたしは体調不良の人質の解放を要求しましたが、BW996便は夜明けまでハコナンから離陸できません。まだ四時間半あります。深夜二時、周辺は真っ暗で、突入班の動きは犯人もわからないでしょう」
「そうだな」
「警察にとって、有利な状況です。今、機内に残った人質を三十三人から十九人に減らすのはリスクにしかなりません。犯人が人質を解放するのは夜が明けてから、とわたしは予想していました。なぜ、自ら不利な状況を作ったのか……」
黒谷の意図なんかどうだっていい、と原がマイクに顎の先を向けた。
「チーフCAに了解したと伝えろ。黒谷のYouTubeチャンネルを見ただろう? 勝手な理屈をこねて無謀な真似を繰り返していた。十四人を解放した方が得だと考えただけだ。要領よく立ち回っているつもりだろうが、人質を減らせば警察を利するとわかっていない。そういう男だ」
一ノ瀬さん、と麻衣子は呼びかけた。
「犯人が新たに解放を命じた十四人を貨物室に誘導してください。急ぐ必要はありません。金の搬入作業はまだ続いています。五十人全員が脚立を降り、パレットに乗るのは二時二十分前後でしょう。焦らず、落ち着いて行動してください」
そのつもりです、と聡美が微笑む気配がした。通話は切れたが、モニターに席を立つ聡美の姿が映っていた。
桑山に連絡だ、と原が成宮に命じた。
「十四人の人質が貨物室に来る。五十人と合わせてパレットに乗せ、ターミナルビルに戻れ」
成宮がスマホを耳に当てた。麻衣子は長い髪を払い、モニターを見つめた。
4
深夜二時三十一分、六十四人の乗客を乗せたパレットを牽引したベルトローダーがBW996便から離れた。
麻衣子は原に続き、階段で一階へ降りた。外に出ると、横殴りの雪が麻衣子の顔に当たった。一時小降りになったが、しばらく前から勢いが強くなっていた。
二分後、ベルトローダーが目の前で停まった。大勢の警察官が乗客たちに毛布をかけた。
誰の顔にも、安堵の表情が浮かんでいる。泣いている者がほとんどだった。
こっちだ、と原が手を上げた。背広を着た男と話していた桑山が近づき、千丈俊雄さんです、と囁いた。
麻衣子は持っていた毛布を千丈に渡した。四十二歳と資料にあったが、三十代後半に見えた。
警察手帳を提示した原が先に立って通路を進み、宅配便受け取り所手前のパーテーションの中に入った。
「桑山、何か温かい飲み物を……千丈さん、コーヒーでいいですか?」
すみません、と毛布をかぶったまま、千丈がパイプ椅子に腰を下ろした。他の乗客と同じで、寒さのために肩が小刻みに震えていた。
あなたには直接話を伺いたかったので、と原が口を開いた。
「まず、ご協力に感謝します。防犯カメラのガムテープを剥がしてくれて、どれだけ助かったかわかりません」
桑山が紙コップのコーヒーをデスクに置いた。無茶をしていると自分でも思いましたが、と千丈が両手で紙コップを掴んだ。
「助かりたい一心でした。何かの役に立てればと思って……うまく剥がせなくて、冷や汗を掻きましたよ。機内の様子は見えましたか?」
感謝しています、ともう一度言った原が麻衣子に目をやった。
「警視庁の遠野警視です。今回、交渉を担当していたのは彼女で――」
あなたですか、と千丈が目を丸くした。
「声は聞こえたんですが、もっと年齢が上かと……失礼、こんなことを言ったらまずいですよね」
声が低いので、と麻衣子は立ったまま言った。我々は解放された乗客と乗務員に事情を聞きました、と原が空咳をした。
「一階の二百四十人、副操縦士、十五人のCAに関して言えば、ハイジャックされた状況を認識できなかったこともあり、犯人について情報を持っていませんでした。二階の乗客百人もアイマスクをつけていたので、犯人を見ていません」
「そうですか」
「しかし、あなたは違うと我々は考えています。午後六時半、後方から通路を歩く足音がした、ベージュの古いハイカットを履いた男を見た、と我々にショートメールを送りましたね?」
そうです、と千丈が紙コップのコーヒーを一気に飲んだ。桑山がパーテーションの外に出た。
僕は窓際の席だったんですが、と千丈が唇を手で拭った。
「後ろから足音が聞こえました。その時、アイマスクをずらしたんです。バレるとまずいと思って顔を伏せていたので、足元しか見えませんでしたが、間違いなくハイカットのスニーカーと黒い靴下でした」
「くどいようですが、顔は見ていませんか?」
そこまでは、と千丈が首を振った。
「男なのは確かです。それぐらい雰囲気でわかりますよ。その後……七時半くらいかな? 濃いグレーのスラックスと茶色い革靴をはいた男を見たので、LINEしました。革靴に染みが浮かんでいたのを覚えています。何となく、僕と同じぐらいの歳か、ちょっと上かなって思いましたが、それは印象に過ぎません。もっと若かった気もします」
ここからが重要でして、と原が前傾姿勢になった。
「人質は座席に座ったままで、行動を制限されていました。従って、午後六時半、そして七時半頃に通路を歩いていたのは犯人と考えていいでしょう」
「僕もそう思います」
「我々が確認したいのは、犯人が一人か、それとも二人以上だったか、つまり単独犯か複数犯かです。ベージュのスニーカーと茶の革靴は明らかに別物ですが、犯人が履き替えた可能性もあります。見たのはあなたしかいません。意見を聞かせてください」
目を閉じ、右手の中指を額に押し当てた千丈の口から、何とも言えません、とつぶやきが漏れた。
「どんなに怖かったか、あなたたちにはわからないでしょう……僕は気が小さい男です。死にたくない、それしか考えられませんでした。怯えもあって、記憶は曖昧です。それでも答えろと?」
コーヒーのポットを持った桑山が入ってきた。無理にとは言いません、と麻衣子は囁いた。
「機内にはまだ十九人の人質が残っています。全員の救出のためには、犯人が一人なのか、複数なのか、そこが重要なポイントになります。とはいえ、わからないのであれば、答えなくて結構です。不確実な情報はかえって捜査の妨げになります」
プレッシャーだな、と千丈が苦笑した。
「言った方がいいのか……あくまでも僕の勘ですが、同じ男だったような気がします。たぶん、靴を履き替えたんでしょう」
「根拠は?」
麻衣子の問いに、歩き方です、と千丈が自分の足首に触れた。
「履いている靴が違ったので、あの時は犯人が二人いると思いましたが、よく考えると歩き方が同じだったと……でも、絶対じゃありません。解放された他の人たちにも聞いてください」
そのつもりです、と原がうなずいた。
「気が小さいとあなたはおっしゃったが、勇気のある方だと私は思っています。貨物室では他の乗客に指示を出していたそうですね。勇気がなければ、そんなことはできません」
買いかぶりですよ、と千丈が毛布で髪の毛を拭った。顔に照れ笑いが浮かんでいた。
「貨物室にいた五十人のうち、半分は女性だったんです。お年寄りもいましたね……僕ぐらいの年齢の男が前に出ないと、いつまで経っても終わらないと思っただけですよ。僕だけじゃなく、他にも何人かいました。生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、必死にもなりますよ」
どこか軽い口調は芸能マネージャーとしての習性だろう、と麻衣子は千丈を見つめた。瞼が小刻みに痙攣し、目に涙が浮かんでいる。死にたくなかった、とつぶやいた千丈がコーヒーをゆっくり飲んだ。
最後に確認します、と原が指を一本立てた。
「我々にLINEを送るため、あなたは何度かトイレに入りましたね? その際、アイマスクを外していたと思いますが、不審な行動をしている乗客はいませんでしたか?」
それどころじゃありませんでした、と千丈が肩をすくめた。
「最初は高をくくっていました。現実味が感じられなくて、ハイジャックなんて冗談だろ、それぐらいにしか思っていなかったんです……他の乗客も同じだったんじゃないですか? でも、時間が経つに連れ、機内の空気がどんどん重くなって……あんなに怖かったことはありません。LINEで警察に機内の様子を伝えましたけど、何度もトイレに行けば怪しまれる、とわかっていました。周りを見る余裕なんて、あるわけないでしょう」
「犯人は自分の席からコントローラーを使い、チーフCAを通じて警察とやり取りしていました。コントローラーに触れていた乗客を見ていませんか?」
コントローラーって何ですか、と千丈が首を傾げた。
「もしかして、CAさんが持っていた
「なるほど」
「それに、犯人は僕より後方の席にいたはずです。足音がしたのは後ろからでしたからね。振り返る度胸なんてありませんよ。近くの席にいたのか、それさえはっきりしないんです」
通路の後方から足音が聞こえた、と麻衣子は耳に手をやった。
「その後、足音はどうなりましたか? 聞こえなくなった? それとも前に進んでいった?」
どうだったかな、と千丈が顎の先に指をかけた。
「よく覚えていませんが、通り過ぎていった気が……いや、待ってください。足音を聞いたのはその時だけです。搭乗手続きでベストウイング航空のカウンターに行った時、今日のフライトは満席です、と係員が話していました。犯人は僕より後ろの席にいたはずですが、前方に空席はなかった……奴はどこに行ったんでしょう?」
実は、と言いかけた麻衣子を制し、犯人があなたより前の席にいた可能性を我々は考えています、と原が紙にBW996便の略図を書いた。
「二階には左、中央、右に座席があり、通路が二本あります。アイマスクをつけ、座席から動くなと犯人は命じましたが、乗客が素直に従うか、確信はなかったでしょう。そのため、通路を歩いて様子を確かめる必要があったはずです」
「そうかもしれませんね」
「他言無用ですが、我々は犯人をある程度絞り込んでいます。ビジネスクラス左側通路の乗客で、自席から前に進み、機首側で右に折れ、右通路に入った。そして最後尾まで行き、再び右に曲がり、左通路を使って乗客の様子を確認しながら自分の席に戻った……そう考えると、あなたの後ろから足音が聞こえたのは不思議でも何でもありません。その後、あなたが足音を聞いてないのは座席が前だったからで――」
誰なんです、と千丈が紙コップをデスクに叩きつけた。
「ビジネスクラスの乗客? 僕はエコだったので、そっちは見ていません……いや、言われてみると、太った男が勝手に機内を撮影して、CAと揉めていましたね。あいつがハイジャック犯ですか?」
これ以上は捜査上の機密になるので、と原が立ち上がった。
「ご協力ありがとうございました。おかげで犯人を逮捕できそうです……すぐ他の刑事が来ますから、指示に従ってください」
戻ろう、と促した原がパーテーションの外に出た。
「千丈の話を聞いて、黒谷がホンボシだと確信できたよ。百パーセントどころか、二百パーセントだ。九十五年のハイジャックでもそうだったように、黒谷は靴や服を変えて共犯がいると装った。逆に言えば、単独犯の証拠だ」
「はい」
「奴は自分のYouTubeチャンネルで、スーパークリエイターを自称していたが、オリジナリティなんかかけらもない、単なるお騒がせの模倣犯だ。遠野、まだ交渉による解決にこだわるのか?」
こだわってはいません、と麻衣子は階段に足を向けた。
「わたしがこだわっているのは人質の安全の確保で、全員が無事に解放されるなら、どんな手段でも
そんなリスクはない、と原が階段を駆け上がった。
「残った人質は十九人……いや、黒谷を除けば十八人か? 若杉に突入を命じよう。黒谷は自分が犯人だとバレたと思っていない。簡単に逮捕できるさ。道警本部に連絡して了解を取る。いいな?」
慎重に手を打つべきです、と麻衣子は言った。
「ここで焦っては元も子もありません。自棄になった犯人が人質を殺傷した事件もあります。黒谷が警察の意図に気づいていないなら、コックピットに連絡を入れ、屋代機長と野沢副操縦士に制圧させた方がいいのでは? 突入班には残った十八人の人質の保護を命じ――」
警視庁はいつでも上からだな、と原が足を止めた。
「三十年前もそうだったよ……遠野、交渉人としての能力は認めている。四百五十八人の人質を十八人に減らしたのは見事だった。だが、交渉人は現場に出ない。犯人に手錠をかけたこともないだろ? 素人に指図される覚えはない。ここからは俺たちの仕事だ」
二人の視線が交錯した。捜査本部のドアが大きな音を立てて開き、原警視、と成宮が叫んだ。
「犯人から警視庁にメッセージが入りました! すぐ来てください!」
警視庁、と首を捻った原を追い越し、麻衣子は捜査本部に飛び込んだ。誰の顔にも困惑の色が浮かんでいた。
5
私はBW996便ハイジャック事件の主犯だ、と椅子に腰を下ろした原がメールの文面を読み上げた。
「まず、身代金の支払いに応じたベストウイング航空、そして空港関係者に感謝する。警察の活躍にも拍手を贈ろう。心ならずも私に協力することになった乗客、乗務員には深くお詫びしたい……気取りやがって、何様のつもりだ?」
憤慨したのか、鼻を鳴らした原が続きを読んだ。
「さて、私の指示に従い、諸君は身代金をBW996便の貨物室に運び入れた。そうなると、私が空港に留まる意味はない。以下は要求だ。どんな手段を使っても構わないから、午前五時までにBW996便に離陸許可を出せ。行き先は離陸後に知らせる。この要求を拒めば、機内にいる同志が人質を殺す。機内に食事用のナイフがあるのを忘れるな。全員とは言わないが、五人ないし十人を殺せるだろう。それは警察の責任だ。言うまでもないが、警官隊が突入した場合でも人質を殺す。改めて伝える。午前五時までにBW996便の離陸を許可せよ……このメールを送ったのは誰だ?」
調査中です、と成宮がスマホを耳に当てたまま叫んだ。どうかしてる、と原が座ったままデスクを膝で蹴りあげた。
「無茶を言いやがって……若杉、聞こえるか? いつでも突入できるようにBW996便まで二百メートル前進しろ。だが、俺が命令を出すまで絶対に動くな。いいな?」
了解、とくぐもった声で若杉が答えた。捜査本部のすべての電話が鳴っている。音の洪水に、麻衣子は耳を塞いだ。
本性を現わしましたね、と戸井田が壁の時計に目をやった。午前二時五十分になっていた。
「四百五十九億円を手に入れ、逃げると決めたんでしょう。メールは誰が送ったのか……主犯、と名乗っていますが、黒谷は単なる実行役ですか?」
何とも言えない、と麻衣子は首を振った。
「印象だけで言うと、黒谷が書いたメールとは思えない。文体が違う。でも、意図的にそうしているのかもしれない。メールは時間指定で送信できる。黒谷が事前に準備していた可能性もある」
ないとは言えませんね、と戸井田がうなずいた。
「函館の正確な日の出は午前六時二十九分です。夜が明けないと離陸許可は出せませんが、それは安全面を考慮した建前でもあります。ハコナンには照明設備があり、全点灯すれば離着陸は可能です」
「そうね」
「北海道の航空管制業務を管轄する福岡航空交通管制部は午前五時の旅客機の飛行を想定していません。従って、周辺の空港、あるいは自衛隊や海外の航空会社との調整が必要ですが、クリアするのは難しくないでしょう。午前五時になれば、日が出ていなくても明るくなりますから、パイロットも操縦できます。強引で乱暴な手段ですが、高飛びするには絶好のチャンスかもしれませんね」
まだ二時間十分ある、と麻衣子は言った。
「犯人と交渉して、残った人質を解放させる」
二時間九分です、と戸井田が訂正した。時計の秒針が信じられないほど速く回っていた。
「時間がありません。僕も強行突入には反対ですが、この段階ではやむを得ないと思います。犠牲を最小限に留めるには――」
交渉人に最小限はない、と麻衣子は唇を強く噛んだ。
「わたしたちの仕事は死傷者をゼロにすること。それができなければ交渉人の存在意義はない」
パッセンジャーコールが鳴り、遠野さん、と聡美が悲鳴のような声を上げた。わたしです、と麻衣子はマイクを掴んだ。
『犯人からメッセージが……残った人質には最後まで付き合ってもらう。覚悟しておけ……何があったんです?』
機内の犯人に伝えます、と麻衣子は意図的に声を低くした。
「現在の正確な時刻は午前二時五十二分です。一時間後……いえ、きりのいいところで午前四時にハコナンの照明をすべて点灯します。外は真っ暗で何も見えません。どんな名パイロットでも離陸できないのはわかりますね?」
さっさと照明をつけろ、と聡美が言った。
『時間の引き延ばしには応じない。こっちは命を懸けてるんだ。命令に従わなければ人質を殺すぞ』
わたしたちも命を懸けています、と麻衣子はマイクに口を近づけた。
「一人でも負傷者が出れば、捜査本部長が突入命令を出します。彼は昭和の刑事の最後の生き残りで、あなたを殺してでも手錠をかけるでしょう。それが望みですか? 四百五十九億円を手にしたのに、一円も使わないまま死んで、何の得があるんです? 原警視を意地にさせるのは、これ以上ない悪手です。あなたなら、それを理解できるとわたしは信じます」
『なぜ照明をつけない?』
不測の事態を避けるためです、と麻衣子は座り直した。
「あなたは四百五十九億円を手に入れ、逃げるつもりでいる。どこに向かうつもりですか? 国内ではありませんね?」
『当たり前だ』
「どこへ、とは聞きません。ですが、海外のどこの国でも飛行機は飛んでいます。フライトプランを立てないままBW996便が離陸し、飛行を続けたらどうなるかわかりますか? 最悪の想定ですが、他の飛行機と空中で衝突し、墜落するでしょう。照明をつければ、一分でも早く逃げたいと考え、あなたは機長に離陸を命じます。でも、それが不測の事態を招きます。照明をつけないのは、あなたのためなんです」
聡美は無言だった。メッセージが入っていないのだろう。
「人質はもちろんですが、あなたを死なせたくない。今、わたしたちは国土交通省を中心にあらゆる関係省庁に働きかけ、他国の航空会社と調整を図っています。準備が整うまで待つべきです。警視庁に届いたメールには、午前五時までに離陸許可を出せ、とありました。午前四時はその時間内です。それまで待って、不都合がありますか?」
『いいかげんにしろ。あんたの言い訳は聞き飽きた。さっさと照明をつけろ』
間を取りましょう、と麻衣子は指を三本立てた。
「三時半に照明を点灯します。わたしが譲歩したと認めますね? 加えて、五時を目安に離陸許可を取ります」
『三時半だな? いいだろう』
次はわたしの番です、と麻衣子は言った。
「照明をつけたら、残った人質全員を解放してください」
全員を解放したら、と聡美が長い息を吐いた。疲労が声に出ていた。
『警官隊を突入させる気だな? そんなわけにいくかよ。高飛びに成功して警察を振り切ったら、そこで人質を解放してやる』
では半数、と麻衣子は窓に目をやった。
「十九人のうち八人を解放したら、照明をつけます。それが条件です。あなたは運転免許を持っていますか? 真っ暗闇の道路で、ヘッドライトをつけないまま走れますか? 明かりがなければBW996便は一メートルも動けません。常識で考えればわかるはずです」
腹の立つ女だ、と聡美が囁いた。
『すみません、遠野さん。メッセージにそう書いてあるので……あんたには負けたよ。適当に選んで、何人か外に出す。三時になった。十分後、タラップ車をBW996便につけろ』
何人かではありません、と麻衣子は声に力を込めた。
「八人です。わたしも譲歩しています。あなたも折れるべきです」
パッセンジャーコールが鳴り、通話が切れた。了解した、という意味だろう。
遠野、と原が椅子を蹴り倒すような勢いで立ち上がった。
「勝手なことをするな! 照明をつけたら、犯人は機長を脅してBW996便を離陸させるぞ。そんなことになったら、道警のメンツは丸潰れだ!」
いずれ明るくなります、と麻衣子は窓を指さした。
「明けない夜はありません。照明を条件にしても、こちらにマイナスはないんです。八人の人質の解放を引き出し、三十分の猶予を得ました。ここが勝負です。わたしは更に交渉を重ね、日の出までにすべての人質を解放させます」
強行突入で片がつく、と原が床を蹴った。
「道警もゴーサインを出した。後は警察庁の了解だけだ。長引かせてどうする? 残った人質にとってどれだけのストレスになるか、わかってるのか? ここの指揮管は俺だ。俺に従わないというなら、道警本部長に命令違反を報告し、正式に警視庁に抗議するぞ。長谷部一課長もお前を引っ込めざるを得なくなる。上司に恥を掻かせたいのか? 今すぐここから出て行け。その方がお前の顔も立つ」
三十分あります、と麻衣子は椅子に腰を下ろした。
「八人の人質を収容するまで、わたしはここを動きません。状況は刻一刻と変わります。言い争っている場合ではありません。この三十分で何ができるか、何をするべきかを考えるんです」
成宮、と原が空いていた椅子に座った。
「報告書を作れ。警視庁の交渉人が命令を無視し、捜査を妨害している。速やかな対処を願う、そんなところか? 八人の人質を収容したら、即時本部長にメールしろ」
無言で成宮がうなずいた。麻衣子は外を見つめた。雪の勢いがまた強くなっていた。
(つづく)
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