
交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第十一回
五十嵐貴久
2025.08.29

第十回はこちら
交渉人ハイジャック 11回 Flight 11 突入 1
1
原警視、と手を上げた成宮がスマホをスピーカーにした。道警本部刑事部長の阪下だ、とややしわがれた声が捜査本部に広がった。
『状況は逐一札幌の道警本部にも入っている……遠野警視、聞いているか?』
はい、と麻衣子は一歩前に出た。どうするつもりだ、と阪下が舌打ちした。
『午前三時半に照明を全点灯する? 空港内が明るくなれば、犯人は人質を殺すと機長を脅し、離陸を命じるぞ』
いえ、と麻衣子は首を振った。
「機内から窓の外を見れば、地の果てまで真っ暗だとわかります。それに、管制官の誘導がないと、BW996便は離陸できません。ハコナンの照明をすべて点けろと犯人が命じたのは、突入班の位置を確認するためです」
それならなおさらだ、と不愉快そうに阪下が言った。
『照明の全点灯は認めない。ハイジャックにおいて解決策は二つしかない。交渉か強行突入、そのいずれかだ。警察庁は交渉の優先を命じ、道警本部も了解している。だが、交渉に失敗したら、強行突入するしかない。現在、突入班はBW996便後方三百メートル地点で待機している。位置の秘匿は突入成功の絶対条件だ。繰り返す、照明の全点灯は許可しない』
パッセンジャーコールが鳴り、遠野さん、と聡美が呼びかける声がした。
『犯人からメッセージが入りました。貨物室のドアを閉めろ、と命じています。待ってください、続きが……タラップ車を出して二階機首側の非常口につけろ、ハコナンの照明が点けば人質を九人返すと――』
マイクのボリュームをミュートにし、阪下刑事部長、と麻衣子は囁いた。
「突入班は白の迷彩服を着用、装備その他も白に統一しています。照明を点けても、テレビ局のカメラマンやユーチューバーは気づきません。犯人の要求を受け入れ、九人の人質の解放を優先するべきです。人質が減れば、突入の成功確率が上がります」
駄目だ、と阪下が何かを叩く音がした。
『遠野警視、命令に従え。警察庁も了承している。九人の人質の解放は君の仕事だ。午前五時までに犯人を説得し、投降させろ』
阪下の一方的な命令に、待ってください、と戸井田が成宮のスマホに向かって怒鳴った。
「阪下刑事部長、こちらの都合だけで、交渉はできません。遠野警視はぎりぎりのところでバランスを保っています。そんなこともわからないんですか? 照明は点けない。だが人質は解放しろ、ついでに犯人を投降させろ? そんな勝手な話を犯人が呑むわけないでしょう!」
君は誰だ、と阪下が突き放すように言った。
『勝手な意見具申は認めない。遠野警視、命令は理解したな?』
返事を待たず、阪下が通話を切った。タラップ車に出動を命じろ、と原が小声で言った。
「まず、人質九人の解放だ。照明については交渉で回答を引き延ばせ。犯人は貨物室の扉を閉めろと要求してきた。九人を収容したら、若杉に突入命令を出す。チャンスは今しか――」
貨物室の扉が上がっています、と桑山が叫んだ。麻衣子は立ったままパソコンの画面に目をやった。ゆっくりと閉まる貨物室の扉が映っていた。
遅かった、と原が唸った。
「くそ、突入路を失ったか……桑山、若杉に待機を命じろ。成宮、犯人にわからないように時間を置き、もう一度貨物室の扉を開けろと機長に伝えろ。NHKを含む全テレビ局には貨物室の撮影を禁止するから――」
成宮がタブレットを原に向け、YouTubeです、と囁いた。
「テレビ局は報道協定で縛れますが、ユーチューバーは勝手に撮影しています。制止すれば、それさえ連中のチャンネルで生配信しかねません。どうしますか?」
それも計算済みってわけか、と原がデスクの脚を強く蹴った。
「いざとなったら、ユーチューバーを強制排除しよう。だが、今はまずい。その前に九人の人質の解放だ……遠野、こっちにも都合がある。日の出は六時二十九分だが、五時半過ぎには夜が白み始める。犯人も突入班に気づく」
「そうですね」
「明るくなる時間を気象庁に問い合わせてからタイムスケジュールを決めるが、段取りはこうだ。突入のタイムリミットに合わせ、テレビ局とユーチューバーに撮影の中止を求める。同じタイミングで、貨物室の扉を開けと機長に指示を出す。扉が完全に開くのはその五分後だ。若杉たちはそれを待って機内に侵入、一階から二階に上がって犯人を確保、人質も救出する」
突然撮影が中断されたら、と麻衣子は長い髪を払った。
「犯人は異変に気づきます。何か手はあるんですか?」
何とかするしかない、と原が頭をがりがりと掻いた。麻衣子は窓に近づき、鈍く光るBW996便の機体を見つめた。
2
深夜三時八分、タラップ車がターミナルビルを出た。二分後の三時十分、BW996便機首側の二階非常口に近づき、ゆっくりと停まった。
パッセンジャーコールが鳴り、遠野さん、とスピーカーから聡美の声がした。
『……タラップ車のドアを開けて、投光機で照らせ。運転手以外誰も乗っていないか確認する、拒めば人質を殺すと言っています』
考え過ぎです、と麻衣子はマイクを摑んだ。
「わたしの要求は九人の人質の解放で、その妨げになることはしません」
タラップ車を照らせ、と聡美がメッセージを繰り返し読み上げた。
『遠野さん、犯人は警察を疑っているようです。タラップ車に刑事が乗っていないか、調べるつもりでしょう。犯人の要求に従えば、十八人のうち九人が解放されます。投光機でタラップ車を照らしてください』
疑り深い奴だ、と原が苦笑した。
「ここまで来たら、下手を打った時に損するのはこっちだ。だから俺はタラップ車に刑事を乗せなかった。雨避けのカバー、キャノピーもつけていない。今は九人の人質の解放が最優先だ……成宮、三階テラスに連絡、投光機二台でタラップ車を照らしてやれ」
成宮がスマホを操作すると、すぐにターミナルビル三階の展望テラスから二本の光が伸び、タラップ車を照らした。
運転席から出てきた作業員が助手席の扉を開き、誰もいないと身振りで示した。犯人に伝えます、と麻衣子は低い声で呼びかけた。
「あなたはパソコンで映像を見ていますね? 警察はタラップ車のドアをすべて開け、投光機で照らしました。確認してください」
投光機の光が車内、そしてタラップを何度も往復した。いいだろう、と聡美が言った。
『では、次だ。ハコナンの照明をすべて点けろ。その後、九人の人質を返す』
まず人質の無事を確認します、と麻衣子はマイクに手を掛けた。
「九人を非常口まで出してください。それが先です」
聡美は無言だった。犯人からメッセージが入っていないのだろう。
よく聞いてください、と麻衣子はデスクを指で軽く叩いた。
「あなたと最初に話したのは昨日の午後五時十五分、今から約十時間前です。その間、わたしが噓をついたり、あなたを騙したり、一度でもそんなことをしましたか? 最初から言っている通り、わたしは警察の側にも、あなたの側にもつきません。中立の立場から、この事態を解決するために交渉をしています。非常口のドアを開け、九人の人質を解放してください」
遠野さん、と聡美が小さく咳をした。
『座席番号が送られてきました。人質を連れて二階前方の非常口に行け、と書いてあります。命令に従います』
お願いします、と麻衣子は言った。五分後、ゆっくりと非常口のドアが開き始めた。
男性です、と窓に駆け寄った成宮が叫んだ。
「タラップに足をかけています!」
麻衣子はパソコンの画面を指で拡大した。中年男が疲れ切った足取りでタラップを降り、その腕を摑んだ作業員が助手席に乗せている。
続いて、女性が出てきた。怯えのためか顔が歪み、頬を大粒の涙が伝っている。音声はないが、大丈夫ですか、と作業員が声をかけているのがわかった。
おい、と原が怒鳴った。
「ドアが閉まるぞ! どうなってる? 解放するのは九人のはずだ!」
一ノ瀬さん、と呼びかける麻衣子の声と、聡美の声が交錯した。
『犯人からのメッセージです……まず、二人を解放した。さっさと照明をつけろ。そうしたら、残りの七人を解放してやる……遠野さん、犯人が送った座席番号は二つだけでした。この二人を連れていけと命じられ、やむを得ず従うしか……』
正しい判断です、と麻衣子は言った。まだ人質が十六人残っています、と聡美が僅かに語気を強めた。
『乗務員三人を除き、お客様は十三人……遠野さん、お願いです! お客様を救ってください!』
必ず、と麻衣子はうなずいた。
「全員を救出します。わたしを信じてください……犯人に伝えます。話が違いますね。九人を解放すると言ったはずです。残った七人を解放しなければ、照明の全点灯はできません」
パッセンジャーコールが鳴り、無線が切れた。タラップ車から連絡、と桑山が手を上げた。
「解放された男性と女性が疲労を訴えているため、このままターミナルビルに戻り、医師の診察を受けさせたいと言ってます。許可願います」
やむを得ん、と原が下唇を噛んだ。
「まず、医者に診せろ。その後、事情を聞く。名前と座席番号だけ確認しておけ」
了解です、と桑山が指で丸を作った。遠野、と原が渋面になった。
「こいつは駆け引きか? 二人を解放し、警察が照明を点けたら、七人を追加で渡すと犯人は言いたいのか?」
おそらく、と麻衣子はうなずいた。ずる賢い奴だ、と原が吐き捨てた。
「だが、照明を点けたからと言って、犯人が七人を解放する保証はない。ハコナンの照明をすべて点ければ、奴が突入班の位置を把握する恐れもある。そんな手に乗ってたまるか」
「ですが、わたしたちには他に選択肢がありません」
まだ時間はある、と原が壁の時計を指さした。午前三時五十五分になっていた。
「粘れるだけ粘って、人質の解放にベストを尽くせ。可能なら、乗客乗務員全員の解放、そして犯人の投降を促せ」
こっちにも都合がある、と原が歯軋りした。
「さっきも言ったが、五時半過ぎには明るくなる。雪が止むのは五時前、と予報が出ていた。どこまでもツキがないな……ユーチューバーが待機中の突入班を見つければ、すぐ中継を開始するだろう。その前に決着をつけないと、こっちが不利だ……五時までに離陸許可を出せ、と犯人は言ったな?」
「そうです」
その前に突入を命じる、と原が指を鳴らした。
「タイムスケジュールを計算した。四時五十分、機長が貨物室の扉を開く。同時に、テレビ局とユーチューバーに撮影中止を命じる。貨物室の扉が開くのは五分後、それを待って若杉たちが機内に入る。今から全関係部署に準備させる」
「ですが――」
わかってるさ、と原が小さく笑った。
「それまでに人質全員が解放され、犯人が投降すれば、突入は中止する。あんたが言った通りで、強行突入は最後の手段だよ。だが、あらゆる事態を想定して準備を万全にするのが俺の仕事だ」
わかりました、と麻衣子はうなずいた。窓に目をやると、風が少し収まったのか、雪の勢いが衰えていた。
3
その後、麻衣子は犯人に七人の人質の解放を呼びかけたが、照明の全点灯が先だ、と返事があるだけだった。麻衣子の出方を窺っているのか、メッセージを送ることもない。我慢比べの時間が続いた。
四時三十分、原が若杉に無線で連絡を入れ、突入準備の最終確認を始めた。
「現在、気温はマイナス五度。南西の風四メートル。行動に支障はないか?」
パソコンの画面に映った若杉が小さくうなずいた。画面が緑がかっているのは、暗視カメラで撮影しているためだ。
『こちら若杉、突入班六名はBW996便後方三百メートル地点で待機中。我々の後方二百メートルに援護班八名、更に五百メートル後方で予備隊十六名が待機しています』
BW996便の貨物室だ、と原が若杉に映像を送った。
「現在、地上四メートルの高さで扉が閉まっている。二十分後、午前四時五十分に機長がロックを解除し、扉を開ける。ただし、扉全体が降りるまで五分かかる。従って、四時五十五分に突入せよ」
待つ必要はありますか、と画面の若杉が首を捻った。
『我々は脚立、そしてガスバーナーを装備しています。機体に脚立を掛け、扉をガスバーナーで焼き切れば、手動で開きます』
焦るな、と原が顔をしかめた。
「機内に侵入したら、そのまま一階通路を通り、機体中央の階段で二階に上がれ。ビジネスクラスの客席にチーフCAと十三人の乗客がいる。犯人は十列A席の黒谷だ。この男の確保を最優先せよ」
了解、と短く若杉が答えた。人質の座席について説明する、と原が小さく咳払いをした。
「ビジネスクラスの一列B席は加山英次、六十歳。中学校の教師だ。C席はその妻、尚子。同じ学校に勤めていたが、二年前に早期退職している。夫は三月末に定年で、中学校の校長が有休消化を勧めたそうだ」
『学校の先生がハイジャック犯とは思えませんが……』
どこかで黒谷と繋がっているかもしれん、と原が唸った。
「可能性は排除しない……三列のA席は本郷翔、B席は細見辰也、C席は赤谷美佳、D席は高井沙耶香。いずれも湖北大学の学生で、年齢は本郷が二十三歳、他は二十二歳だ。卒業旅行先にメキシコを選んだ、とそれぞれの家族が話している。最近の大学生は金があるな。俺が初めて海外旅行に行ったのはソウルで、二泊三日のエコノミーだった……老害発言だな。取り消そう」
黒谷と年齢が近いですね、と若杉が首を傾げた。
『マークします。しかし、湖北大学といえばミッション系の名門校ですからね。ハイジャックに加担するとは――』
予断は禁物だ、と原が険しい表情になった。
「続けるぞ……五列のA席は麻宮渚、B席は加賀美貴子、C席は弓張奈々。いずれも四十二歳、テレビジャパンの子会社TVキョードウの社員だ。いずれも技術部に所属、麻宮は音声担当、加賀美はカメラマン、弓張はビデオエンジニア、と同社の技術部長から連絡があった。何でも、一昨日の夜までドラマの撮影をしていたらしい。TVキョードウでは勤続二十年休暇が十日間あり、休ませないとハラスメントで訴えると迫られた、とこぼしていたよ」
テレビマンですか、と若杉が鼻をすすった。
『近頃は女性の技術スタッフが増えているそうですね。しかし、テレビマンとユーチューバーは相性が悪いでしょう。黒谷と関係があったとは……すみません、先入観は禁物でしたね』
七列のB席は田辺茂春、と原が乗客名簿をめくった。
「五十五歳で、恒星出版から出ている週刊文潮の編集者だ。その隣り、C席は田辺涼子、五十四歳。図書館勤務の司書で、この二人は夫婦だ。そしてA席は滝上正文、五十五歳のノンフィクションライターで、田辺夫婦と親しいし、夫とは一緒に仕事をしたこともある」
『はい』
「田辺夫婦だが、一度別れてから元の鞘に収まり、二度目の新婚旅行だ。恒星出版の同僚によると、以前から滝上はメキシコでの取材を企画していた。再婚ってこともあり、それなら三人で行こうと田辺が誘ったようだな。いい歳だから、照れ隠しかもしれん」
五十五歳ですか、と若杉が分厚い手袋で顎を撫でた。
『分別のある年齢です。恒星出版は大手ですよ? ハイジャックにかかわるとは思えません。再婚したばかりですよね? 先入観は禁物というのはわかりますが……三人とも巻き込まれた被害者でしょう』
一ノ瀬チーフCAは黒谷の後方、ギャレー横のCA席にいる、と原はデスクを指で二度叩いた。
「客席の人質は以上だ。ハイジャック発生時から乗客の身元調査を開始し、今も機内に残っている乗務員及び乗客について聞き取り調査を続行している。だが、家族、勤務先の上司や同僚、大学の同級生、どこからも怪しい話は出ていない。やはり黒谷による単独犯の線が強い」
黒谷の席ですが、と若杉が持っていたBW996便の座席表を開いた。
『階段に最も近く、確保には絶好の位置です。我々に気づいたとしても、奴に一番近いのは七列の滝上さんで、間に二列挟んでいます。黒谷のYouTubeチャンネルを見ましたが、太っていて、動きが鈍そうでした』
「そうだな」
『原警視、自分に任せてくれませんか? 仮にですが、ナイフその他凶器を持ち、黒谷が他の乗客を襲ったとしても、百パーセント確保できる自信があります。負傷させることなく、他の人質を救出してみせますよ』
焦るな、と原が麻衣子を横目で見た。
「ぎりぎりまで、遠野が犯人と交渉する。百パーセント自信があると言ったが、一人でも人質が減れば百五十パーセント、二百パーセントにもなり得る。交渉によって犯人が投降する可能性もゼロじゃない。気が逸るのはわかるが、指示に従え」
明るくなると動きが制限されます、とパソコン画面の中で若杉が顔をしかめた。
『テレビやユーチューバーが生中継、生配信しています。暗いうちに百メートル地点まで前進します。許可願います』
了解した、と原がうなずいた。
「絶対に感づかれるな。急げ」
親指を立てた若杉が無線を切った。犯人と交渉すると言っても、と戸井田がぼやいた。
「こちらの呼びかけに答えませんからね」
確かに、と麻衣子はマイクを見つめた。午前四時十分、そして同二十五分に人質七人の解放を呼びかけたが、メッセージが入りません、と聡美が答えただけだった。
十二分後、四時四十五分に最後の交渉に臨む予定だが、照明を点けなければ話し合いに応じないだろう、と予想がついた。
このまま交渉に入っても勝ち目はない。呼びかけを中止して様子を見る、と麻衣子は原に伝えていた。
「なぜ、黒谷は何も言わないんでしょう?」
戸井田が尋ねた。口数が増えているのは、緊張のためだ。交渉を先延ばしにしたので、時間ができたこともあるのだろう。
わかれば苦労しない、と麻衣子は肩をすくめた。
「ただ……犯人は九五年のハイジャックを徹底的に調べている。研究している、と言ってもいい。突入班がBW996便の近くで待機しているのも、想定済みなはず。人質が一人でもいれば、犯人の方が有利よ。わたしが犯人なら、七人を解放して照明の全点灯を命じる。ハイジャックの障害になるのは突入班だけで、その位置さえわかっていれば何の問題もないのに……戸井田くん、妙な感じがしない?」
「妙な感じ? 勘ですか? 遠野さんらしくないですね」
何かがおかしい、と麻衣子はこめかみに指を押し当てた。
「黒谷は逮捕を恐れ、メキシコに逃亡するつもりでいた。でも、ただ逃げるのではなく、ハイジャック騒ぎを起こし、混乱する機内を撮影すればいい、と思いついた。メキシコから自分のチャンネルにアップし、登録者数と再生回数を増やせば、一挙両得になる。でも、計画が予想以上にうまくいったので、四百五十九億円を奪って高飛びすることにした。原警視はそう読んでいる」
僕は最初からハイジャック狙いだったと思いますよ、と戸井田が首をすくめた。
「遠野さんが言った通りで、黒谷は九五年のハイジャックを参考に計画を練っています。しかし詐欺や名誉棄損と違い重犯罪ですからね……。奴は何であれ冗談のつもりだった、洒落もわからないのか、そうやって自分の罪をごまかしてきましたが、今回はそれじゃ済みません。黒谷は危ない筋からも借金していたようです。取り立てに追われ、この計画を思いついたのでは? 四百五十九億円を要求したのはハッタリでしょう。最初は吹っかけ、適当なところで手を打つ……どこで覚えたのか知りませんが、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックの応用ですね」
「そうかもしれない」
黒谷の計画は巧妙でした、と戸井田が紙コップのコーヒーを飲んだ。
「身代金の奪取に失敗し、突入班が機内に入ったとしましょう。奴はアイマスクをつけ、哀れな被害者を演じるつもりだと思います。隠し持っていたスマホやGoPro、何であれ機材のスイッチを入れ、ハイジャックされた機内の様子をすべて撮影し、タイミングを見計らっていずれはその映像を自分のYouTubeチャンネルにアップする……自分はハイジャック犯じゃない、被害者だと訴えるかもしれません」
続けて、と麻衣子は紙コップに手を伸ばした。黒谷が犯人だというのは消去法による想定に過ぎません、と戸井田が舌打ちした。
「現段階で、警察は機内を捜索できていません。はっきり言えば、証拠はないんです。事情聴取をしても、人権侵害、刑事が高圧的だ、違法捜査だ、証拠のでっちあげだ、被害者なのに犯人扱いされた、奴なら何だって言いますよ。言ったもの勝ちはユーチューバーの常識ですからね」
身柄の拘束さえできないでしょう、と戸井田が紙コップを握り潰した。
「証拠不十分のまま、奴は悠々と東京に戻り、撮影した映像を編集する……そんな姿が目に浮かびますよ。ハイジャックされた機内の映像は誰も持っていませんから、登録者も再生数も爆上がりです。表が出れば奴の勝ち、裏が出れば我々の負け、絶対に損をしない計画を立てたんです」
本当に黒谷が犯人なのか、と麻衣子は首を傾げた。何を言ってるんです、と戸井田が大声を上げた。
「証拠はないと言いましたが、物的証拠って意味です。心証は真っ黒ですよ。違いますか?」
「もちろん、嫌疑は濃厚だと思う。でも、黒谷一人でこのハイジャックはできない」
共犯がいたと考えるべき、と麻衣子は壁の座席表に目をやった。可能性は高いでしょう、と戸井田が言った。
「しかし、誰が……」
警察は解放された一階の全乗客、そして全乗務員に事情を聞いた、と麻衣子はパソコンで文書ファイルを開いた。
「三十分前、それをまとめた資料が届いた。一階の畑中サブチーフCAが最後尾のトイレで暴行を受け、意識を失っていた水口さんを発見したのは昨日の午後五時五分だった」
覚えています、と戸井田がうなずいた。
「トイレに入ったのは五時頃だった、と水口さんは話していました。それはわかっていません。BW996便がハイジャックされたと機長がアナウンスし、機内が混乱していた時です。CAが乗客にアイマスクを配っていた時間とも重なっています」
資料に載っている、と麻衣子はうなずいた。犯人が水口さんを襲ったのは、と戸井田が先を続けた。
「CAが乗客にアイマスクを配る前で、それは確かですが、正確な時間は不明です。トイレを監視していた乗客なんていませんよ。CAや乗客は不安で、焦ってもいたはずです。混乱が続く中、黒谷は一階に降りて水口さんを殴り倒してから何食わぬ顔で二階の自分の席に戻った……それで説明はつきますよ。トイレに入った水口さん、そして犯人を見た者はいなかったんです。共犯がいたとは断言できません」
警察は目撃者を探した、と麻衣子はデスクに積んでいた資料のプリントアウトをめくった。
「捜査のいろは(傍点)で、わたしだってそうしたはず。でも、調べるべきだったのは他の乗客よ。アイマスクを配る前にトイレへ行ったと話していたのは……エコノミー二十二列B席の桃園順也さん、商事会社勤務、三十七歳のサラリーマン。彼は警察官に状況を説明している。『小便が漏れそうだったけれど、二つあるトイレはどちらも使用中だった。苛々して、一分経ったらドアを強く叩こうと思っていた。四時五十六分、ノックのために手を上げた時、中から子供が飛び出してきた』……彼は時間をはっきり記憶していたし、具体的な証言と言っていい。彼が入ったのは、九分後に畑中サブチーフCAが水口さんを発見したトイレでもあった」
水口さんは意識を失っていたんですよね、と戸井田が自分の鼻を押さえた。
「鼻骨を折ったと聞きました。かなりの重傷ですね。桃園さんの証言が正しいとすれば、彼の次に水口さんがトイレに入った可能性が高いと思います」
一階にはCAが八人いた、と麻衣子は指で数えた。
「全員が二階から降りてきた黒谷を見ていない? そんなことあり得ない。あえてルッキズムを前面に出すと、体に締まりがないデブで、どこにいたって目立つ。そして、何よりも謎なのは、黒谷が水口さんに暴行をふるった理由よ」
「黒谷が犯人だと示す何かを、水口さんは見ていたのかもしれません」
あの男は二階の乗客だった、と麻衣子は座席表の一階から指を大きくずらした。
「一階でうろうろする理由はない。水口さんが見たのは共犯者で、だから襲われたと考えた方が筋が通る」
確かにそうですが、と戸井田が首を振った。
「道警や函館方面本部の刑事が総出で一階の乗客に話を聞いています。不審な者はいなかった、と報告があったでしょう? 今に至っても、疑わしい人物は見つかっていません。そうなると、黒谷は単独犯ってことに……。なぜ水口さんを襲ったのか、それはわかりませんが――」
何をつまらんことをくっちゃべっているんだ、と原がキャスター付きの椅子を滑らせ、麻衣子と戸井田に近づいた。
「お二人のお喋りは聞こえていたよ。一階の乗客に不審者がいなかったのは本当だ。黒谷と関係がある者もだ」
二階の乗客はどうでしょう、と尋ねた麻衣子に、どうかしてるんじゃないか、と原がこめかみを指でつついた。
「しばらく前から、警視庁その他の県警本部が詳しい報告をメールでこっちに送っている。いいか、加山夫妻はどちらも中学校の教師で、卒業生や生徒、その保護者からも事情を聞いた。二人とも教師の鑑、と校長が太鼓判を押したそうだ。三人のテレビマンは仕事一筋で、今じゃ彼女たちがいないと回らない、と上司が言っている。予断は禁物、と俺は若杉に言ったが、学校の先生やテレビマンがハイジャックに加担すると思うか?」
四人の大学生だってそうだ、と原が咳払いをした。
「卒業旅行だぞ? 四人とも就職が決まっている。大学に確認したが、成績は優秀、真面目な学生だ。本郷は仲間思いで友情に厚い男、とサッカー同好会の会員が口を揃えている。他の三人も経歴は真っ白だった。再婚とはいえ、田辺夫婦は新婚旅行だ。幸せなハネムーンのついでにハイジャック? そんな馬鹿な話は聞いたことがない」
そうですね、と戸井田が肩をすくめた。ノンフィクションライターだが、と原がメモに目をやった。
「メキシコでの取材を企画したタイミングで田辺夫婦に誘われ、一緒に行くことになったと恒星出版の編集長が話していたそうだ。これで納得したか? 単独犯であれ、共犯がいたとしても、主犯は黒谷だよ」
今のままでは逮捕令状を取れません、と麻衣子は腕組みをした。
「それどころか、参考人扱いもできないでしょう」
そんなことは関係ない、と原が唸った。
「いいか、ハイジャックだぞ? 黒谷が犯人だろうが被害者だろうが、事情聴取に応じる義務がある。奴のスーツケース、機内に持ち込んだ荷物、所持品、座席の周り、服のポケット、何だって調べるさ。こっちが強気に出れば、あんな男は何でも簡単に吐く。奴の得意技は私人逮捕だったな? こっちは警察だぞ? 緊急逮捕して家宅捜索すれば、証拠がごろごろ出てくるだろう」
それは別件逮捕です、と苦い顔をした麻衣子に、必要なら何だってするさ、と原がデスクを拳で叩いた。
「遠野、パソコンを見てみろ。ハコナンに集まったユーチューバーの映像が延々と流れている。ショート動画、TikTok、切り抜き切り取り、何でもありだ。広報の白岩課長によれば、少なくとも三十人、おそらくは百人以上のユーチューバーが勝手に撮影し、モザイクも何もなしで生配信しているんだ」
こっちは何度も警告した、と原が唾を飛ばした。
「犯人を刺激する恐れがある、人質の命が懸かっている、プライバシーや肖像権の侵害に当たる、捜査妨害になるから止めてくれってな。だが、連中は報道の自由だとぬかして、ハコナンの敷地に入り込む者さえいる。YouTube撮影のために人が死ぬかもしれないんだぞ? 遠野、奴らをどう思う? きれいごとじゃなく、本音を言ってみろよ」
麻衣子は視線を床に落とした。連中の目的は再生数を稼ぐことだ、と原が低い声で言った。
「それが収益に繋がるからだよ。そのためなら誰が死んだって知ったこっちゃない。ユーチューバー? 俺は今すぐ奴らにクソをぶっかけてやりたいよ。奴らは暴力団や半グレより始末が悪い。違うか?」
真面目なユーチューバーもいます、と言った戸井田を原が鼻で笑った。
「黒谷は迷惑系ユーチューバーの親玉だ。俺はな、今回のハイジャックの真の動機はチャンネルの再生数でも身代金でもなく、行き過ぎた承認欲求だと思ってる。ハイジャックをすれば、全テレビ局が生中継する。ラジオだって新聞だって、メディア全部が集まってくるさ。ネットはそれに輪をかける」
そうかもしれません、と戸井田が声のトーンを落とした。黒谷は今まで誰にも顧みられたことがなかった、と原が口を尖らせた。
「だから悪行三昧を続けて、悪目立ちするしかなかった。承認欲求は麻薬と同じで、どんどん強い刺激を求めるようになる。行き着いたのがハイジャックってわけだ」
ないとは言えませんね、と戸井田が頭を掻いた。見ての通り、俺は態度も言葉遣いも悪い、と原がため息をついた。
「上に何度盾をついてきたか、自分でも覚えていない。ご機嫌を取らないし、忖度もしないから、煙たがられて函館方面本部に追い払われた。いい警察官だ、正義の味方だ、そんなことを言う気はない。だが、ひとつだけ誇りがある。いつだって、俺は市民の安全を第一に考えてきた。そいつは噓じゃない」
誇りと使命感を持って国家と国民に奉仕すること、と戸井田が警察官の基本原則を暗唱した。
「僕も同じです。警察官になったのは、市民の安全を守るためです」
守るべき市民はどこに行ったんだろうな、と原がデスクに肘をつき、顎を手のひらで支えた。
「二カ月前、函館で轢き逃げがあった。市内の繁華街近くの道路で、地元の住人や観光客も大勢いた。そいつらは車に轢かれて血まみれで倒れていた被害者にスマホを向け、撮影に夢中だった。通報しなかったのは、撮影した写真や動画を自分のSNSにアップし、怖いとかキモいとかコメントをつけるのに忙しかったからだ」
ご苦労なこった、と原が皮肉を吐いた。
「五分ほど経った頃、ようやく一人が119番通報し、二分後救急車が現場に到着したが、手遅れだった。あと三分早ければ、と救急隊員が言ってたよ。そんな市民を何で守らなきゃならない?」
もういいでしょう、と麻衣子は囁いた。
「間もなく四時四十五分です。それこそ、くっちゃべっている時間はないでしょう」
まだ三分ある、と原が腕を組んだ。
「どことは言わないが、迷惑系ユーチューバーが市議会選挙に立候補しただろ? 目立つためにスーパーの店頭に並んでいた刺し身をその場で食ったり、自分がコロナに罹ると、わざと他人の前で咳をしてうつそうとした男だ。窃盗や威力業務妨害、詐欺の容疑で逮捕され、執行猶予がついたとはいえ懲役二年の刑が確定している。だが、その男は外国人差別で名前を売り、市議会選挙で当選した」
視線を逸らした麻衣子に、真面目に働いているのが馬鹿らしくなるよ、と原が苦笑した。
「改心した、反省したと本人はのたまっているが、あんなクソ男が改心できるわけないだろう。奴はただのレイシストなんだ。そんなこともわからない市民を守るのが俺たちの仕事なら――」
言い過ぎたか、と首を傾げた原に、麻衣子は壁の時計を指した。四時四十五分になっていた。
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原警視、と成宮が手を上げた。
「突入班はBW996便の後方百メートル地点で待機中。テレビ局やユーチューバーも気づいていません。五分後、四時五十分に屋代機長が貨物室の扉を開けます。同時にテレビ局、ユーチューバーその他に撮影中止を命じます。すべて予定通りです」
突入班はそのまま待機、と原が指示を出した。
「関係全部署に通達。十分後の四時五十五分、若杉以下六名がBW996便に突入する。トラブルは発生していないか? 支障があれば五分以内に報告せよ」
問題なし、と次々に各部署から応答があった。遠野、と原が顔を向けた。
「心配するな。函館方面本部の機動捜査係は、ハイジャック対策訓練を積んでいる。人質の救出、犯人の逮捕、いずれも必ず成功する」
警察庁にいた時、と麻衣子はうなずいた。
「短期間ですが、わたしは生活安全局の地域警察指導室に所属していました。函館方面本部の機動捜査係は精鋭揃い、と上司が話していたのを覚えています。公にはしていませんが、警察庁はハコナンを特別警戒施設と位置付けています。過去にはハイジャックが二度起き、一九七六年には当時のソビエト連邦軍から現役将校が亡命し、ハコナンに強行着陸していますね? 偶然ではなく、地理的な条件によるものです。特別警戒施設に指定されたのはそのためです」
「おっしゃる通りだ」
「突入に不安はありません。ただ、犯人の意図が読めなくて……」
パッセンジャーコールが鳴り、麻衣子はマイクを摑んだ。犯人からメッセージが入りました、と聡美が言った。
『そのまま伝えます……あんたの努力に免じて、人質を無事に返すと約束してやる』
「本当ですか?」
全員待機、と原が命じた。
「犯人から人質解放の申し入れがあった。突入班、絶対に動くな。五分や十分突入が遅れても、事態は変わらん」
全員を解放するんですね、と念を押した麻衣子に、俺は噓をつかない、と聡美が長い息を吐いた。
『だが、今すぐってわけじゃない。三十分も経てば、明るくなるだろう。そうしたら、俺は国外に高飛びする。機長が離陸を拒めば、チーフCAをはじめ残った人質を全員殺すぞ』
外を見てください、と麻衣子は窓に体を向けた。
「雪はほぼ止みましたが、強風が吹いています。滑走路は氷が張っているのと同じですよ? 今、離陸を強行するのは自殺行為です」
そこはパイロットの腕の見せ所だろう、と聡美が声を低くした。
『雪が降っていても、飛行機は飛ぶ。これぐらいの天候で飛行を中止する航空会社には、クレームが殺到するんじゃないか?』
そんなわけないでしょう、と麻衣子はデスクを叩いた。その拍子に紙コップが倒れ、コーヒーが床を汚した。
「除雪作業その他により、機長や管制官が飛行可能と判断した場合のみ、降雪中でも離陸できます。滑走路上の走行すら難しいのに、離陸の許可は下りません」
あんたが何を言おうと、と聡美がメッセージを読み上げた。
『俺は機長に離陸を命じる。人質が死んでもいいなら、勝手にしろ。俺は選択肢を与えた。後はあんたらの責任だ』
遠野、と原がメモをデスクに滑らせた。
〝BW996便の離陸は絶対に阻止する。機長に連絡を入れ、貨物室の扉を開けたままにする。若杉たちは突入準備を終えた。交渉を続けて、奴の気を逸らせ〟
落ち着いて話しましょう、と麻衣子はマイクを引き寄せた。
「国外に高飛びする、とあなたは言いましたね?」
『そうだ。何度も同じことを言わせるな』
確認は重要です、と麻衣子はわざとゆっくり言った。
「では、どこへ向かうつもりですか?」
『まだ決めていない。どこでもいいが、空港に降りたら人質を解放してやる。文句でもあるのか?』
危険です、と麻衣子は首を振った。
「ハコナン周辺が明るくなるのは午前五時半頃ですが、札幌には二十四時間運用の新千歳空港があります。この時間でも、空港からの発着があるんです。離陸したBW996便と航路が重なったらどうなると? 衝突のリスクについて、まだ説明が必要ですか?」
北海道は広い、と聡美の声が低くなった。疲れているのだろう。
『さっきスマホで調べたが、ハコナン以外にも十三の公共用飛行場があるな? 緊急事態が発生したと伝えて、旅客機を近くの空港に降ろせばいい。珍しいことじゃないだろう。四、五年前、俺は仕事で関空に向かったが、着いたのは福岡空港だった。まったく、酷い目に遭ったよ』
事情があったんでしょう、と麻衣子は慰めるように言った。
「大変でしたね。その後、福岡から関空に戻ったんですか?」
当たり前だろ、と聡美が言った。
『福岡空港は大混雑で、何時間も待たされたよ。俺は大阪に用事があったんだ。福岡なんて……まあ、待っている間に食ったラーメンは美味かったな。ついでだから、撮影もしたよ。コメントがいくつもついたな。有名店だったらしい……ちょっと待て』
新しいメッセージが入ったのか、聡美が言葉を切った。不自然な沈黙に、話しましょう、と麻衣子は呼びかけた。
「あなたが食べたのは博多ラーメンですか? いつです?」
騙したな、と聡美が怯えた声を上げた。
『滑走路に誰かいるぞ。BW996便の後方だ……畜生、汚いぞ。ふざけやがって、なめてんのか? 警察の突入部隊だな? 機内に入ってきたら、人質を殺すぞ。脅しだと思ってるのか?』
遠野さん、と聡美が声を振り絞った。
『犯人のメッセージが続いています。あなたのことを口汚く罵り、裏切ったなと……すみません。そのまま読みます……話し合いましょうだと? 調子のいいことを言いやがって、クソ女が。すぐに奴らを下げろ。一歩でも近づいたら人質を殺してやるからな。くそったれ、さっさと下げろ。全部見てるんだぞ』
若杉、と原が無線で指示を出した。
「突入中止。繰り返す、突入は中止だ。二百メートル地点まで後退せよ。人質が危険だ」
どうなってる、と原が頭をかきむしった。
「なぜ犯人は突入班に気づいた? テレビ局やユーチューバーには、撮影を禁止したはずだ!」
確認できなかったユーチューバーがいたんでしょう、と成宮が唇を強く噛んだ。原警視、と若杉の声が流れ出した。緊張した様子が麻衣子にも伝わった。
『突入の許可を出してください。BW996便の仕様書によると、ロックは二か所です。ガスバーナーで扉を焼き切ります。カバーで炎を覆えば、犯人には気づかれません!』
いかん、と原が両手を交差し、バツを作った。
「各員、落ち着け。犯人は自棄になっている。強行突入すれば、人質を殺しかねない。犯人が冷静さを取り戻すまで、しばらく待機せよ。黒谷はそこまで馬鹿じゃない。管制官の誘導なしに闇の中を飛行するのがどれほど危険か、わかっているはずだ」
時間がありません、と若杉が怒鳴った。
『まもなく五時です。三十分後には明るくなります。脅しに屈し、機長が離陸を強行すれば、最悪の場合BW996便は函館市街地に墜落、被害は計り知れません。今なら突入できるんです!』
絶対に許さん、と原がデスクを叩いた。
「若杉、命令に従え! 各部署も落ち着け。全員待機だ!」
待ってください、と麻衣子は一歩前に出た。
「若杉班長の言う通り、今すぐ突入するべきです」
何を言い出すんだ、と原が目を丸くした。
「遠野、強行突入に反対していたんじゃなかったのか? 何で今になって……いいか、黒谷はパソコンでYouTubeの映像をチェックしている。こっちの手の内は丸見えなんだ。貨物室の扉をバーナーで焼き切るには、最低でも十分かかる。黒谷がぼんやりそれを見ていると思ってるのか? 本当に人質を殺しかねないぞ?」
一刻も早く突入するべきです、と麻衣子は繰り返した。貨物室の扉は閉まっている、と原がため息をついた。
「我々は突入路を失ったんだぞ? どうやって機内に入ればいいんだ?」
九五年のハイジャックで、と麻衣子はデスクの資料を指さした。
「道警機動隊は機体ドアを破壊、突入しました。要した時間は二分弱と資料にあります。原警視もその場にいたのでは? 函館方面本部には装備も人員も揃っているはずです。BW996便一階のドアを破壊して、機内に突入するんです」
装備はある、と原が額の汗を拭った。
「人員もいる……だが、そんな無茶はできん。一階のドアを壊せば、ユーチューバーがすぐに撮影するかもしれん。すぐに黒谷も気づくぞ。奴を刺激してどうする?」
何度でも言います、と麻衣子は原に顔を近づけた。
「突入以外、事態を解決する方法はありません。必要なら、わたしが責任を取ります」
どうかしてるぞ、と原が一歩退いた。決着をつけましょう、と麻衣子は椅子に腰を下ろし、マイクを握りしめた。
(つづく)
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