交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 最終回
五十嵐貴久
2025.09.26
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Last Flight 12 北ウイング
1
時計の針が午前五時七分を指した。一ノ瀬さん、と麻衣子は呼びかけたが、返事はなかった。
どうなってる、と原が鼻から息を吐いた。
「なぜ、何も言わん? 犯人が若杉たち突入班に気づいたのは確かだ。だから無線を切ったのか?」
若杉です、と無線から声がした。
『原警視、突入許可を出してください! 現在位置、BW996便後方百メートル。脚立やガスバーナー等装備の準備も整っています。ここから一階中央非常口まで一分、ドアの破壊に二分、トータル三分で機内に突入できます! 人質を救出するには強行突入しかありません!』
勝手なことを言うな、と原がデスクを平手で叩いた。
「突入すれば、過剰反応する恐れがある。ここまで来て、犠牲者を出すわけにはいかん。遠野、呼びかけを続けろ」
犯人を刺激するだけです、と麻衣子はマイクから手を放した。強行突入に反対していたくせに、と原が腕を組んだ。
「どうした、遠野? ハイジャック発生直後、俺は強行突入で片がつくと考えていた。梶原が犯人だとわかればなおさらだ。あいつはただの臆病なナルシストで、人質を殺す度胸なんてない。だが、交渉によって人質が解放され、犯人が投降するなら、それに越したことはない。理屈はその通りで、だからあんたに交渉を任せた」
「はい」
俺だって無茶はしたくない、と原が捜査本部を見回した。
「しかし、今は違う。梶原は窮鼠で、追い詰められたら猫を咬むぞ。遠野、何としてでも奴を説得しろ。冷静になれ、と話すんだ!」
応答がないんです、と麻衣子はマイクを指でつついた。
「どうやって犯人と話せと? この状況では交渉も何もありません。犯人が一方的に無線を切ってから、十分以上経っています。このままでは人質を殺傷しかねません。残る手段は強行突入だけです」
わかったようなことを言うな、と原が怒鳴った。
「俺はな、何十人も殺人犯を見てきた。まともな精神状態で人を殺せる奴なんて、めったにいない。今、梶原はぎりぎりのところにいる。非常口の扉を開ければ、それが引き金になって、人質を殺しかねない……各員、冷静になれ。五時十分になった。五時半には明るくなる。それまでは待機だ」
明るくなれば、と無線から若杉の声が流れ出した。
『テレビかユーチューバーか、いずれかが我々を撮影します! 梶原は機内でパソコンをチェックしているのでは? 我々に気づけば、何をするかわかりません!』
とっくに気づいてる、と原が舌打ちした。
「若杉、前進を許可する。BW996便一階中央非常口で突入の準備を始めろ。だが、俺の指示なしで扉に触れるな。わかったな?」
了解しました、と不満げな声で若杉が答えた。麻衣子は窓に目をやった。いつの間にか、雪が止んでいた。
2
午前五時五十分、東の空がうっすらと白み始めた。一時間近く、犯人は沈黙したままだ。
六時ジャスト、麻衣子はマイクのスイッチをオンにした。
「遠野です。犯人に伝えます。わたしには交渉を続ける意志があります。話し合いで事態を解決しましょう」
反応はなかった。向かいの席で、原が横を向いている。五時以降、若杉から再三強行突入の要請が出ていたが、人質が危険だと待機を命じるだけだ。
捜査本部には原を筆頭に数十人の刑事がいるが、針を落とした音が聴こえそうなほど静かだった。息が詰まる、と麻衣子は首筋を伝う汗を拭った。
空が一分ごとに青みを増している。ターミナルビル三階の投光機と夜明け前の光がBW996便を照らし、奇妙なほど静かで美しい光景が広がっていた。
麻衣子はタブレットを引き寄せ、画面に触れた。痴漢を私人逮捕した、と梶原が得意げに語っていた。
ハイジャック発生後、早い段階で梶原は容疑者になっていた。犯人の性格を知っておくと、交渉はスムーズに進む。そのため、麻衣子は梶原の動画を何度も見返していた。
梶原は典型的な迷惑系ユーチューバーで、思考は自己中心的だ。何であれ自らを正当化し、他人に責任を押し付け、異論はシャットアウトする。精神構造は幼児に近い。
梶原の収入源はYouTubeだけで、民事訴訟で敗訴が続き、実質的には破産しているのと同じだった。まだ証拠固めの段階だが、傷害や詐欺の容疑で逮捕されるのは時間の問題だ。あらゆる意味で、梶原は詰んでいた。
子供と同じで、梶原は欲望に忠実に動く。大金を摑み、高飛びする。一挙両得を狙い、BW996便をハイジャックしたのか。
五分おきに、麻衣子は呼びかけを続けたが、返事はなかった。重苦しい沈黙が捜査本部を包んだ。
六時三十分、麻衣子はマイクのスイッチに手を伸ばす。これが最後だ、と原がつぶやいた。
「犯人が連絡を断って、約一時間半経つ。さすがに限界だ、呼びかけに応じなければ若杉に突入命令を出すが――」
パッセンジャーコールが鳴った。わたしです、とほとんど聞き取れないほど小さな声で聡美が言った。
各員待機、と顔を強ばらせた原が命じた。聞こえています、と麻衣子はマイクを摑んだ。
「一ノ瀬さん、無事ですか? 人質に負傷者はいませんか?」
わかりません、と聡美がため息をついた。声が疲れていた。
『遠野さんと最後に話した時、犯人は罵り声をあげ、裏切ったな、とメッセージを送ってきました。調子のいいことばかり言いやがって、さっさと突入班を下げろ、全部見ている、そんなことを言っていたと思います』
一時間半前です、と麻衣子は壁に目を向けた。午前六時四十二分になっていた。
一時間半、と聡美が長い息を吐いた。
『あの後、犯人からメッセージが入り、女刑事と話すな、返事をすれば人質を殺すと脅され、何も言えなくなって……呼びかけは聞こえていましたが、指示に従うしかありませんでした。アイマスクをつけたままだったので、どれぐらい時間が経っているのか、それもわからなくて……』
「わたしと話す許可が出たんですか?」
いえ、と聡美が首を振る気配がした。
『十分ほど前、男の人の悲鳴と、何か大きな音が聞こえました。犯人が乗客を襲ったのだと思います。その後もメッセージは入っていません。このままでは危険だ、と判断しました。今からアイマスクを外し、乗客の皆様の安全を確認します。それがCAの責任だと信じます』
駄目だ、と向かいの席で原が顔をしかめた。
「危険過ぎる。梶原がチーフCAを襲うかもしれん」
原の声が聞こえたのか、覚悟があります、と聡美が叫んだ。
『お客様を守るのはわたしたちの義務です。わたしが犯人を説得します』
待て、と原が右手を上げ、繋いだままの無線に呼びかけた。
「若杉、CAの話は聞いていたな? 彼女はアイマスクを外し、犯人を説得すると言ってる。ここまで来たらやむを得ない。直ちに中央非常口の扉を破壊し、機内に突入しろ。犯人は二階にいる。奴を逮捕し、人質を保護せよ。チーフCAにはお前たちの突入まで動くなと指示する。急げ!」
了解、と若杉が短く答えるのと同時に、麻衣子のパソコンに映像が浮かんだ。突入班のGoProが撮影を始めていた。
原の目配せに、一ノ瀬さん、と麻衣子はマイクを強く握った。
「深呼吸を……落ち着いてください。あなたはプロのCAです。プロなら、わたしたちがどう動くかわかるでしょう。わたしが指示するまで、アイマスクを外さないでください」
『でも、犯人が何をするかわかりません。お客様に万一のことがあったら――』
突入班の一人がガスバーナーに点火し、ドアロックに青白い炎を向けた。凄まじい勢いで火花が飛んだ。
音が聞こえます、と聡美が不安そうな声を上げた。
『遠野さん、いったい何を――』
わたしを信じてください、と麻衣子はあえて声を低くした。無意識のうちに、体が前のめりになっていた。
ひとつ目のドアロックを焼き切った突入班員が逆側に炎を近づけた。バターに熱したナイフを当てたように、分厚い金属があっさり溶けた。
後十秒、と若杉が怒鳴った。映像が大きく揺らいだのは、突入班員が蹴った扉が勢いよく内側に倒れたためだ。
先頭に立った若杉のGoProが右、左、そして前後に向いた。クリアとつぶやきが聞こえ、若杉が通路を走り出したが、すぐ足が止まった。
「どうした?」
原の問いに、人が倒れています、と若杉が低い声で答えた。
『男性、肥満体型。グレーのスラックス、茶色い革靴を履き、ワイシャツの上に濃紺のセーターを着ています。うつ伏せなので、顔は見えません。指示願います』
梶原か、と原が首を捻った。カメラの位置が下がり、若杉の腕が映った。倒れている男の首に手を当て、一歩退いた。
『脈が取れません。階段、下段の二段に血痕と髪の毛がこびりついています。頭を打ったようですね……末次、この男を頼む。夏目と設楽は俺に続け。二階に上がるぞ』
若杉のGoProに三人の男が映った。前に出た若い男が倒れている男を上に向かせた。
やはり梶原か、と原がつぶやいた。
「どうなってるんだ……若杉、人質の保護を優先しろ。梶原を除き、十二人いるはずだ」
若杉が階段で二階に上がった。真っ先にGoProが捉えたのは、アイマスクをつけて座っている制服を着たCAだった。
一ノ瀬さん、と麻衣子はマイクのボリュームを上げた。
「突入班が機内に入りました。もう大丈夫です、アイマスクを外してください」
膝をついた若杉が聡美の肩に触れた。反射的に体をすくめた聡美がアイマスクを取った。
頬を大粒の涙が伝っている。眩しいのか、まばたきを繰り返した。
その間に、二人の突入班員が通路を進み、怪我はありませんか、と左右の人質に声をかけた。
『我々は警察です。アイマスクを外して構いません。体調に不安がある方は申し出てください』
救急車を出せ、と原が唾を飛ばした。
「人質の中に、五十歳以上の男女が五人いる。ハイジャックされてから半日以上経つが、彼らはほとんど座りっ放しだ。エコノミー症候群が起きるとまずい……若杉、援護班と予備隊を向かわせる。歩けない者には手を貸せ。援護班は若杉に協力、予備隊は機内の捜索に当たれ。考えにくいが、共犯が潜んでいるかもしれん」
現場保存を徹底しろ、と原が矢継ぎ早に指示を出した。
「ターミナルビルからも応援を出す。広報の白岩課長に連絡、マスコミはシャットアウトしろ。撮影は三階の固定カメラのみ。取材は禁じる。特にユーチューバーの撮影は絶対に止めさせろ!」
末次です、と声が割り込んだ。
『倒れていた男性ですが、パスポートで身元の確認が取れました。梶原浩之、二十九歳。住所、東京都新宿区。例のユーチューバーですね……左の額から鼻にかけて打撲痕と裂傷あり。呼吸していません。心停止を確認。大至急ドクターを寄越してください!』
向かっている、と原が怒鳴った。
「梶原は死んだのか? 何があった?」
わかりません、と末次が咳払いをした。
『階段は約二メートル二十センチ、おそらくですが、一階に降りようとして躓き、そのまま転落したのではないかと……梶原の周りに荷物や衣服が散らばっています。タブレットもありますね。両手に持ったまま降り、手摺りを摑み損ねたのかもしれません。鑑識が来ないと、これ以上は何とも……』
二階はどうだ、と声をかけた原に、人質十二人の安全を確認、と答えた若杉がGoProを自分に向けた。
『全員、疲労と喉の渇きを訴えていますが、思っていたより体調はいいようです。一階に降ろすので、車両の手配を願います』
原が指で合図すると、桑山が電話に飛びついた。パスポートで全員の身元を確認、と若杉が親指を立てた。
「予備隊を機内に入れて、捜索を始めます」
コックピットに連絡、と原が成宮の肩を叩いた。
「状況を機長に伝えてやれ。とにかく、ハイジャックは片がついた。不明な点もあるが、そこは今後の捜査次第だな」
待ってください、と麻衣子は腰を浮かせた。
「ハイジャック犯が梶原だとしたら、なぜあの男が死んだのか不明なままでは、事件解決と言えません」
わかりきったことを言うな、と原が肩をすくめた。
「ある意味じゃ、捜査はここからが始まりだ。機長や副操縦士を含め、残った人質全員に詳しく話を聞く。だが、それは俺たちの仕事だ。お前たちは休め」
疲れただろう、と原が首を左右に傾けた。大きな音が鳴った。
「実は俺もだ。まず人質を医師に診せる。疲労度で言えば、俺たちの比じゃないからな。詳しい事情を聞くのは早くても夜だ。話はそれからだよ……ホテルを手配するから、しばらく待ってろ」
後で会おう、と軽く敬礼した原が離れていった。戸井田くん、と麻衣子は囁いた。
「ここにいても、わたしたちにできることはない。疑問は山のようにあるけど、原警視が言った通り、人質全員に話を聞かないと推測にしかならない。わたしたちも疲れている。少し休んだ方がいい」
麻衣子は窓からハコナンを見下ろした。十数台のパトカーと二台の救急車がBW996便に向かっていた。
3
二月十二日午後一時、函館方面本部の大会議室に五十人の捜査官が集まった。麻衣子と戸井田はその末席にいた。
ハコナンBW996便ハイジャック事件の捜査会議を始める、と道警本部刑事部長の阪下がマイクに向かい、よろしく頼む、と目配せした。隣りの原がマイクを引き寄せ、ご苦労だった、と野太い声で言った。
「ここまでの経緯を簡単に説明しておく。BW996便がハコナンに緊急着陸したのは十日午後一時四十分、そこをハイジャックの起点とするが、約十七時間後の昨日午前七時までに、一人を除き乗客乗員四百五十八人が解放された。最後まで機に残ったのは機長、副操縦士、チーフCA、そして乗客十二名で、医師の指示に基づき、全員を市内の総合病院に収容、脱水症状や疲労を訴えた者が多かったため、同日夜七時から事情聴取を行なった。彼らが病院で診察を受けている間、並行して全員の身元を調べたが、不審な点は一切なかった」
ペットボトルの水で舌を湿した原が説明を続けた。
「機長と副操縦士はコックピットにいたので、ハイジャックの実態を見ていない。客席にいた乗客たちも、アイマスクの装着を命じられていたので、証言は断片的だった。状況がわからなかった、と誰もが口を揃えていた。また、一階で犯人が乗客に暴行を加えていたため、指示に従うしかなかったとも話している。ただし、交渉人と犯人のやり取りは聞いていた。それまで比較的穏やかだったが、BW996便の近くに突入班がいると気づき、犯人のメッセージが乱暴になり、恐怖を感じたとCAは話している。それは乗客にも伝わっていた。その後交渉人の呼びかけに応じなくなったが、犯人は焦っていたようだ、と乗客の多くが印象を語っている。通路を歩く足音を聞いたためで、その時点で乗客はアイマスクをつけていたから、歩けるはずがない。足音の主は犯人で、左通路側の乗客数人から、くそ、と吐き捨てる男の声を聞いたと証言があった。ここで結論を述べると、梶原浩之、二十九歳、現住所東京都新宿区、職業ユーチューバーを本件の犯人と断定する」
捜査官たちが一斉にうなずいた。一人を除き全員が解放されたと言ったが、と原が咳払いをした。
「その一人が梶原だ。昨日午前六時四十五分、突入班が機内に入り、一階通路で男性の死体を発見した。念のために言っておくと、死亡確認はその二十分後、死因が脳挫傷と判明したのは昨日の深夜だ。死体は梶原で、死亡推定時刻は午前五時半から六時半前後。これは犯人が交渉人の呼びかけに応じなくなった時間と一致する。死体周辺の状況、乗客の証言、検視報告から以下の事実が推察できる。突入班に気づいた梶原は交渉を打ち切り、逃亡を図った。梶原は二階にいたので、まず一階に降りざるを得ない。梶原の死体のそばにタブレットが落ちていたが、そこに一階中央非常口で待機中の突入班が映っていた。梶原は後部貨物室から逃げるつもりだったが、慌てたため階段で足を滑らせ、そのまま落下し、頭を強く打ち付け、死亡に至ったと考えられる。階段の高さは二メートル二十センチ、医師によれば打ち所が悪いと脳挫傷が起こり得るし、体重は九十三キロだから、衝撃も大きかったと推定される。チーフCA及び乗客全員が男の悲鳴と大きな音を聞いていたが、梶原の悲鳴であり、階段と頭がぶつかった際の音と考えていい。以下、成宮が説明する」
梶原の頭部および顔面の傷ですが、と立ち上がった成宮が写真をホワイトボードに貼った。
「左前頭骨及び頬骨、鼻骨が折れていました。タブレットとバッグを手に持ったまま階段を降りようとしたため、手摺りを摑めなかったようです。また、梶原が着用していたのは乗客の千丈さんが目撃した濃いグレーのスラックスと茶の革靴でした。更に、バッグの中からベージュのハイカットのスニーカー、黒の革靴、ジャージ生地のズボンが見つかっています」
梶原のタブレットとスマホの検索履歴を調べたところ、と成宮が椅子に腰を下ろした。
「ハイジャックについて調べていたことが判明しました。警視庁捜査一課が梶原のマンションにガサ入れし、新宿区立図書館の貸出しカードを発見、計二十冊以上のハイジャック関連書籍を借りていた履歴が確認できました。おそらく、他人名義のスマホでハイジャックに関する資料を検索していたはずですが、そこはまだ不明です。次に犯行動機ですが、梶原は無理な借金を重ね、金に困っていたと複数の証言があります。半月以内に逮捕状が出るのもわかっていたようで、追い詰められた揚げ句、ハイジャックを計画、実行したと考えられます」
成宮の合図で、正面のスクリーンに映像が映った。ビジネスクラスのチケットを握ったまま、近いうちにでかいことをする、と梶原が笑っていた。
こちらは梶原のYouTubeです、と成宮がスクリーンを指した。
「言うまでもなく、でかいこととはハイジャックの意味でしょう。最後に、梶原が機内に持ち込んでいたタブレットやスマホ、その他数台のカメラから、ハイジャックされた機内の動画が見つかりました。犯人でなければ、撮影はできません」
以上の理由から、BW996便ハイジャックの主犯は梶原という結論に至った、と原が話を引き取った。
「残る最大の疑問は梶原の単独犯か、共犯がいたのかだが、現段階では前者の可能性が高い、と考えている。十一日深夜二時五十分、犯人は警視庁にメールを送り、自分がハイジャックの主犯だと書いたが、時刻指定でスマホからメールを自動送信したようだ。電源がオフになっているため、そのスマホの所在は不明。もうひとつ、一階の乗客、水口さんを襲ったのが誰か、それはわかっていない。梶原だと思われるが、奴には水口さんを襲う理由がない。ただ梶原が犯人だと示す何かを水口さんが見ていたとすれば、説明はつく。結果的に犯人逮捕には至らなかったが、犯人を除く全乗客乗員の救出に成功したのは確かだ。今後は警視庁と協力し、継続して捜査を行なう。現在時刻、二月十二日午後一時四十分。ただ今をもって、捜査本部を解散する。改めて、お疲れだった」
刑事たちがうなずき合い、それぞれ席を立った。麻衣子の前を原が通り過ぎたが、目は合わなかった。
4
三月二十四日、午後四時、麻衣子は戸井田を伴い、成田空港北ウイング四階の喫茶店に入った。奥の席でサンドイッチを食べていた一ノ瀬聡美が顔を上げ、目を丸くした。
解放された後、麻衣子は原と共に聡美から詳しい事情を聞いた。交渉を担当した遠野です、と伝えると、涙を浮かべた聡美が麻衣子の手を強く握り、ありがとうございましたと何度も頭を下げた。会うのはその時以来だ。
「休暇を取っていたそうですね」
声をかけた麻衣子に、丸々ひと月、と聡美が微笑んだ。
「あの後、数日函館で機内の状況を説明したり、そんなことが続いて、さすがにかわいそうだと思ったんでしょう。会社が特別休暇を取っていいと……先週、職場復帰したばかりです」
少しお時間をいただけますか、と麻衣子が尋ねると、どうぞ、と聡美が空いていた椅子を指さした。
「五時まで休憩なので、わたしは大丈夫です。あの時、きちんとお礼を言えず、申し訳ありませんでした。落ち着いたら挨拶に伺おうと思っていたんです。遠野さんがいなかったら……考えただけでも鳥肌が立ちます。どれだけ感謝しても足りません」
麻衣子は戸井田と並んで座り、アイスティーを二つ、と店員にオーダーを伝えた。どうしてわたしがこの店にいるとわかったんですか、と聡美が左右に目をやった。
「成田空港の北ウイングには、カフェやレストランがたくさんあります。捜したんですか?」
国家権力を濫用しました、と戸井田が警察手帳を一瞬取り出し、すぐスーツの内ポケットにしまった。
「冗談です……ベストウイング航空に連絡して、あなたのスケジュールを伺いました。休憩は午後三時半から五時までですね? 後は簡単で、一ノ瀬チーフはどこにいますか、とCAの柳沢さんに聞いただけです。たぶんこの店だろう、と言ってました。よく来るそうですね」
「そうですね。成田便の時はしょっちゅう……ここのミックスサンドが好きなんです。わたしに話があるんですね?」
あなたには知る権利があると思ったので、と麻衣子は店員がテーブルに載せたアイスティーのグラスにミルクを注いだ。
「感謝していると言いましたが、それはわたしも同じです。あなたがいなかったら、どうなっていたかわかりません。BW996便の乗客乗員、全員があなたの対応を絶賛しています。メディアの取材が殺到したそうですね。自らを犠牲に他のCAを機から降ろし、四百三十九人の乗客を救った。大勢の人達が感動していますし、わたしもその一人です」
そんなことはありません、と聡美が恥ずかしそうに小さく手を振った。
「CAとしての責任を果たしただけです。どの航空会社のCAでも、同じことをしたでしょう」
誰にでもできることじゃないと思いますよ、と戸井田が微笑んだ。
「あなたは事態に冷静に対処し、勇敢でもありました。最後まで人質に寄り添い、彼らのために行動したんです」
あの時は無我夢中でした、と聡美がコーヒーカップに触れた。
「それを伝えるために、わざわざ成田まで来たんですか? かえって申し訳ないというか……」
アイスティーのグラスに手を掛け、麻衣子はゆっくりと口を開いた。
「ハイジャックの舞台はハコナンでしたが、梶原の現住所は東京都新宿区です。警察は縦割りの組織で、縄張り意識が強く、道警本部も無闇に立ち入れません。しかも、ハイジャックは最高刑が死刑の重大犯罪です。捜査を担当するのは警視庁捜査一課で、わたしたちも加わりました」
「まだ捜査が続いているんですね……ご苦労様です」
時代が変わっても捜査の基本は足です、と麻衣子はパンプスの踵で床を軽く蹴った。
「最後まで機内にいた屋代機長、野沢副操縦士、そして十二人の乗客と会い、話を聞きました。あなたは彼ら、彼女らの顔と名前を覚えていますか?」
もちろんです、と聡美がうなずいた。
「あんなことがあったんです。忘れるわけがありません」
加山英次さんは千葉県の中学校教師です、と麻衣子はスマホをスワイプし、やや白髪の多い男の写真を画面に出した。
「奥様は東京の高校で教えていましたが、二年前に早期退職されています。二人とも今年六十歳で、加山さんは三月末に定年と伺いました。お二人の現住所は江戸川区ですが、それは奥様の実家です。加山さんが生まれ育ったのは隣りの市川市で、高校まで市内の公立校に通っていたそうです」
わたしも皆さんと話しました、と聡美が額に垂れた前髪を直した。
「解放されて、函館市内のホテルに入った夜です。あの時、わたしたちが感じた恐怖は誰にもわからないでしょう。理解してくれる人が必要でした。加山さんと奥様とも話しましたが、時間がなくて細かいことまでは――」
真面目で厳しい先生、と麻衣子はスマホに触れた。
「校長先生や同僚の先生はそう話していました。悪い意味ではなく、生徒のためを思ってあえて厳格な態度を取ることもあるが、心の優しい先生だと……加山さんを慕う生徒も多く、昔の教え子が相談に来たり、友人同士で集まって加山さんの自宅を訪ねたり、そんなこともよくあると聞きました。大学時代の友人によると、責任感が強く、周囲への気配りを欠かさず、誰からも頼られる存在だったとか……勉強ひと筋というわけではなく、女子高生と付き合ったり、そんなこともあったようですね」
「大学時代の友人? 会いに行ったんですか?」
それがわたしたちの仕事です、と麻衣子はまたスマホをスワイプした。
「こちらは田辺涼子さん、杉並区で図書館司書として働いています。今年の十月で五十七歳と伺いました。涼子さんが通っていたのは松戸市の私立高校で、彼女は加山さんの三歳下です。今話したように、大学二年生の加山さんは高校二年生の涼子さんと二年ほど交際し、涼子さんが京都の大学に進学したため、別れました。いつの時代でも、遠距離恋愛は難しいですからね……ケンカ別れではなく、その後も折に触れ連絡を取り合っていた、と涼子さんの同級生が話していました」
遠野さん、と聡美が眉間に皺を寄せた。
「何の話ですか? わたしはそんなこと知りませんし、関係もありません。言いたいことがあるならはっきり――」
この三人を覚えていますね、と麻衣子はスマホを聡美に向けた。
「加賀美貴子さん、麻宮渚さん、弓張奈々さん、いずれもTVキョードウの技術部員で、同期入社しています。現在三人は独身ですが、加賀美さんは大学時代にバイト先の店長と授かり婚し、二十歳の時に娘の秋穂さんを出産しています。離婚したのはTVキョードウ入社一年後で、家庭裁判所の記録によると、夫のDVが原因だったようですね。女手ひとつで秋穂さんを育て、大学にも進学させました。職場でも何かといえば自慢の娘だと話していたそうです」
聡美が唇を結んだ。この男性はノンフィクションライターの滝上さんです、と麻衣子はスマホの写真を見せた。
「大学卒業後出版社に入社、四十歳の時に独立、著書も十冊以上あります。二十九歳で結婚、一人息子の謙一さんが生まれたのはその二年後でした。謙一さんが通っていた江戸川区の中学校で、加山さんの奥さんが担任を勤めていたのはご存じですか?」
「知りません。だから何だっていうんです?」
BW996便には四人の大学生が乗っていました、と麻衣子は次々にスマホをスワイプした。
「同じ湖北大学の四年生ですが、細見辰也さんと赤谷美佳さんは千葉県市川市生まれ、高校まで市内の学校に通っていました。本郷翔さんと高井沙耶香さんは杉並区の公立校の同級生で、四人は大学で友人になったんです。加賀美秋穂さんも湖北大生で、細見さんと赤谷さんと同じ文学部の同期でした。秋穂さんは赤谷さんの親友で、細見さんと交際していたんです」
「遠野さん――」
「滝上謙一さんもやはり湖北大の卒業生で、本郷さんが所属していたサッカー同好会の二年先輩に当たります。同好会でマネージャーだった高井さんにとっては憧れの人で、本郷さんにとっては頼れる先輩であり、いい兄貴分でもあったと周囲の方が話していました。本郷さんが就職を決めたのは謙一さんが勤めていたアケボノ商事です。売り手市場と言われていますが、アケボノ商事は戦前から続く超大手商社で、簡単には入社できません。謙一さんが人事部に掛け合い、本郷さんを強く推薦したのは社内でも有名な話だそうです」
わたしにはわかりません、と聡美が麻衣子を見つめた。
「遠野さん、何のためにそんなことを調べたんですか?」
梶原浩之はハイジャック犯ではない、と麻衣子はスマホを伏せた。
「すべてはそれを証明するためです」
聡美が目を逸らした。麻衣子はテーブルのベルを鳴らし、店員にアイスティーのお代わりを頼んだ。
5
便利になりました、と麻衣子はテーブルにタブレットを立て、動画アプリを開いた。
「わざわざ警察まで来ていただかなくても、タブレットがあれば動画の再生は簡単です……これはBW996便の防犯カメラの映像で、二月十日PM十一時四十七分と時刻が入っています。映っているのが誰か、わかりますか?」
お客様です、と聡美がタブレットを指した。
「千丈さんでしたっけ? 防犯カメラのガムテープを剥がして警察に協力した方、と刑事さんに聞きました。この時、犯人はお客様にアイマスクをつけさせて、座席から動くなと命じていたと思います。映っているのは千丈さんの肩と座席の背、階段、そして通路……これはわたしの足ですね? 今、通路を太った男性が通りましたけど、見えたのは背中だけです。これがどうしたと言うんですか?」
警察はユーチューバーの撮影を禁止しました、と麻衣子はアイスティーを飲んだ。
「ある程度はうまくいっていましたが、ハコナンの奥側から敷地内に侵入し、BW996便に接近した二人組のユーチューバーがいたんです。彼らは三時間以上撮影のチャンスを待っていましたが、犯人に動きはなく、寒さに耐え切れず移動を始めました。そして、進行方向にいた突入班に見つかり、慌てて逃げた際に撮影用のライトを振り回し、その拍子にスイッチが入ったんです。強い光がBW996便を照らしました。一秒や二秒ではなく、午後十一時四十七分四十秒から十二秒間です」
意味がわかりません、と首を振った聡美に、見てください、と麻衣子は動画を一時停止にした。
「繰り返しますが、十二秒間です。時刻が画面に出ています。午後十一時四十七分四十九秒ですね?」
「そうですけど……」
光は映っていません、と麻衣子はタブレットを指でこすった。
「ターミナルビルからでも見えた光ですよ? 何かがおかしいとわたしが感じたのは、この映像がきっかけです」
前後の映像を確認しました、と麻衣子は話を続けた。
「千丈さんはガムテープを半分しか剥がせず、そのため防犯カメラの画角は狭く、限定されています。あなたが言った通り、人質となった乗客は動きを制限されていたので、通路を歩く男は犯人となります。肥満気味の体型、そして座席の位置から、ハコナンの捜査本部はこの男を梶原浩之と断定、同時に容疑者と見なしました」
「当然だと思います。人質になった他のお客様に、こんな太った方はいませんでした」
妥当な推定ですが、と麻衣子はうなずいた。
「顔は映っていませんし、見えるのは背中だけです。他に不審人物がいなかったから、警察は梶原を犯人と考えた。でも、この映像がフェイクなら話は違ってきます」
フェイク、と聡美がつぶやいた。事件の経過を見直しました、と麻衣子はメモ帳を取り出した。
「BW996便がハイジャックされた、と屋代機長がスコークコード7500のコールサインを出したのは二月十日深夜十二時三十一分です。なぜ機長はコールサインを出したのか? あなたが通路に落ちていた紙片を拾い、そこに記されていたメモによってトイレで脅迫文とサリンが入った点滴バッグを発見し、機長に報告したからです」
CAとしての義務です、と聡美が口を尖らせた。
「悪戯の可能性もありましたが、ベストウイング航空のマニュアルに則り、機長に報告したんです」
マニュアルとはこれですね、と麻衣子はトートバッグから書類を取り出した。
「野沢さんにお借りしました。マニュアルによると、機内の清掃はJALやANAと同じ専門業者に外注する、となっています。ハイジャックや自爆テロなど、旅客機はある意味で危険と隣り合わせですから、どこの会社でもいいとはなりません。信頼できる会社と契約を結ぶのは、世界中どの航空会社でも同じだそうですね」
「はい」
「わたしはBW996便の清掃を担当した責任者と会い、話を聞きました。もし、あなたが拾った紙片と同サイズのゴミが落ちていたら、何であれ見逃さないと胸を張っていました。つまり、乗客が搭乗するまで、あの紙片は通路に落ちていなかったんです」
「梶原があそこに捨てた、と道警の原警視が話してましたけど……」
そうとしか考えられん、と麻衣子は原の口真似をした。
「でも、おかしな話だと思いませんか? 梶原の座席はビジネスクラス十列のA席、あなたが紙片を拾ったのはエコノミークラス二十七列B席とC席の間です。二階席の前方と最後方ですよ? 何のために梶原は後ろの席へ? あんな太った男が通路を歩いていたら、CAであれ乗客であれ、覚えている人がいたはずです。でも、あの男を見たと証言した者はいません。なぜだと思いますか?」
離陸して三十分ほど経った頃です、と聡美は時計に目をやった。
「注意して見ていなかったからでしょう。お客様はまだ落ち着いていませんし、CAにとっては最も忙しい時間帯です。誰が通路を歩いていたか、そんなこといちいち――」
あなたは柳沢CAと組んでいました、と麻衣子はスマホで制服姿のCAを映した。
「彼女はこう話しています。ドリンクサービスのため、自分が真っ先に最後尾のギャレーに向かった。カートにアルコールやソフトドリンクを積み、一ノ瀬チーフが引っ張り、自分が後ろから押した。すぐに一ノ瀬チーフがストップと声をかけ、通路に落ちていた紙片を拾い上げた……柳沢さんは先に通路を進んでいたのに、なぜ落ちていた紙片に気づかなかったんでしょう?」
彼女は二年目です、と聡美が横を向いた。
「経験不足なのはわかりますよね? 目の前の仕事に精一杯で、床に注意が向かなかっただけです」
もっと簡単な回答があります、と麻衣子はポケットに手を入れ、折り畳んだ紙片をテーブルに載せた。
「通路には何も落ちていなかった。だから柳沢さんは気づかなかった。ドリンクサービスの際は、あなたが先に立っていましたね? 何もないはずの床から紙片を拾い上げたのは、あなたが落としたからです」
見ていたように言うんですね、と聡美が皮肉な笑みを浮かべた。このメモを用意したのはあなたです、と麻衣子は紙片を広げた。
「冗談や悪戯ではない、一階と二階のトイレを調べればわかると書いた。あなたは自分のメモに従い、二階のトイレを調べ、そこで脅迫文と点滴バッグを見つけ、すぐ機長に報告した……BW996便の二階には前部、中央部、後部にトイレが計八つあります。あなたは迷わず後部左通路側のトイレに入り、不審物を発見しました。八分の一の確率ですが、ずいぶん勘がいいんですね」
一番近いトイレだからです、と聡美が腕を横に伸ばした。
「わたしは機の後方にいたんですよ? 前部に移動して、そこのトイレを調べる方がおかしいでしょう」
柳沢さんは本当にあなたに感謝していました、と麻衣子はメモ帳を開いた。
「一ノ瀬チーフが乗務していたのはラッキーだったと……あの日は奥村チーフCAがBW996便に乗る予定だったそうですね。半月前、あなたはコロナに罹り、一週間入院したと会社に届けを出しています。その間、代わりを務めたのは奥村チーフCAで、だからあなたはBW996便に乗ると手を上げた。そうですね?」
「恩は恩です。それに、奥村さんに借りを作りたくなかったんです」
「どちらの病院に入院されましたか?」
一瞬聡美が口をつぐみ、そのまま顔を伏せた。
「すみません、入院したと会社に届けを出しましたが、本当は自宅療養でした。LCCはどこも人手不足で、自宅療養だと五日しか休めないので、つい噓を……あの時は体がきつくて、休まないと倒れると思ったんです」
BW996便でなければならなかった、と麻衣子はメモ帳を閉じた。
「梶原が乗る便だからです。ひと月前、あの男は自分のYouTubeチャンネルで、メキシコ行きのビジネスクラスのチケットを取った、と自慢していました。あなたたち(傍点)には梶原と直接話したい理由があった。でも、あの男は警察の捜査から逃れるため、新宿の自宅マンションには帰らず、友人の家やネットカフェを転々としていた。メキシコに逃げてもいずれは強制送還されたと思いますが、そのまま拘置所へ直行したでしょう。梶原が犯した詐欺その他の犯罪は悪質で、最低でも懲役三年の実刑となったはずです。その前に、あなたたちは梶原と話さなければならなかった。確実なのはBW996便に乗ることだけで、そこを話し合いの場にすると決めた。そうですね?」
遠野さん、と聡美が背筋を伸ばした。
「ハコナンでわたしを支えてくれたのはあなたで、心から感謝しています。あなたがいなかったら、わたしはCAとしての務めを果たせなかったでしょう。どうやってお礼をすればいいのか、それさえもわかりません。ですが、これ以上下らない話に付き合う必要はないと思います。あなたの話には何の裏付けもありません。これで失礼します」
立ち上がった聡美に、麻衣子はスマホ内の写真を突き付けた。
「一昨年の十月、加賀美秋穂さんが自殺しました。彼女の自殺の理由は、SNSでの誹謗中傷に耐えられなくなったことです。秋穂さんがパパ活をしていた、AVに出演していた、とネットの噂を目にした梶原が彼女につきまとい、撮影した写真や動画をYouTubeにアップすると、あっと言う間に拡散が始まりました。そのために苦しみ、死を選ぶしかなくなったんです」
聡美がゆっくりと腰を下ろした。昨年の五月、滝上謙一さんは自動車事故で亡くなりました、と麻衣子は若い男性の写真を見せた。
「母親も同乗していました。滝上謙一さんは赤信号を無視して直進、横から走ってきたトラックと衝突、即死でした。不注意運転による事故、と警察は結論を出しましたが、そんな奴じゃなかった、と友人たちは首を傾げていました。去年の四月、通勤中に謙一さんは梶原によって痴漢の現行犯として私人逮捕されています。そのため、彼はひと月の休職処分を受けました。交通事故はその一週間後に起きています」
いずれも梶原による濡れ衣です、と麻衣子はため息をついた。
「秋穂さんによく似たセクシー女優がいただけの話を誇張してAV出演、パパ活をしていたとデマを拡散したのは梶原です。ネットでの偽情報は簡単に拡散し、デジタルタトゥーは永遠に消えません。梶原はYouTubeで秋穂さんへの誹謗中傷を煽り、面白半分でそれに乗っかる連中も大勢いました。秋穂さんの絶望の深さは、想像すらできません」
謙一さんも同じです、と麻衣子は二枚の写真を並べた。
「痴漢被害に遭った女性の勘違いで、真犯人は二週間後に捕まっています。でも、テレビや新聞は目立たない訂正を出しただけで、ネットニュースに至っては扱われもしませんでした。謙一さんが勤めていたアケボノ商事は一流商事会社で、世論には敏感にならざるを得ません。事情がはっきりするまで彼を休職扱いにするしかなかった、と同社の総務部長が肩を落としていました」
何を言ってるのかわかりません、と聡美が冷めたコーヒーに口をつけた。
「ハイジャックの後、わたしも梶原について調べました。有名な迷惑系ユーチューバーだそうですね。恨んでいた人も多かったのでは? テレビ制作会社の加賀美さんの娘さんと、ライターの滝上さんの息子さんは梶原のせいで亡くなったんですね? でも、わたしには関係ありません。遠野さんも梶原と同じように、作り話が得意なんですか?」
計画の中心にいたのはあなたです、と麻衣子はテーブルを指で軽く叩いた。
「あなたがいなければ、誰も具体的な行動はできなかった。わからなかったのは、あなたと秋穂さん、または謙一さんの関係です。亡くなった時、秋穂さんは二十歳の女子大生、謙一さんは二十三歳の会社員でした。あなたは宮城県生まれで、今年二十七歳、大学は仙台ですね? 二人との接点はありません」
「そうです」
麻衣子は隣りの席に目をやった。戸井田が足元に置いていたボストンバッグから薄いファイルを取り出し、テーブルに載せた。
6
遠野さんと違って、僕は理論派じゃありません、と戸井田がファイルを開いた。
「あなたと関係があったとすれば、謙一さんだと見当をつけました。こう見えて、勘はいい方でして……根拠というか、ヒントになったのはアケボノ商事の同期社員の話です。高身長、イケメン、モテ要素が揃っているのに、合コンに誘っても来たためしがない、と首を捻っていました。そうなると、あなたと出会ったのは入社前かもしれない……調べると、大学四年の冬に彼が数人の友人と韓国旅行に行ったことがわかりました。大学生ですから、JALやANAってわけにはいきません。LCC航空を使ったはずだ……勘は当たっていました。彼が乗ったのはベストウイング航空の旅客機で、このファイルはその時の乗員名簿です。一ノ瀬聡美、六番目にあなたの名前があります」
偶然です、と言った聡美に、偶然でしょう、と麻衣子はうなずいた。
「ですが、恋愛に偶然の要素があるのは、誰でも知っています。謙一さんは五歳下ですが、お互いに魅かれ合った。連絡先を交換し、東京に戻ってから会い、交際が始まった……順調に関係は進んでいき、彼が社会人二年目を迎えると、将来について考えるようになった。バラ色の未来が二人を待っているはずでした」
でも、彼は痴漢冤罪に巻き込まれ、自動車事故で亡くなった、と麻衣子は低い声で言った。
「あなたが謙一さんとの交際を誰にも話さなかったのは、彼が五歳下だからですか? わたしは何の問題もないと思いますが、世間には偏見を持つ人もいますから、話しにくかったのはわかります」
年上の恋人がいると謙一さんは大学の友人にほのめかしていたそうです、と戸井田が頭を掻いた。
「真面目な性格で、軽々しく恋愛について話すような男ではなかった、と友人たちは口を揃えていました。この一カ月、僕も謙一さんについて徹底的に調べたつもりです。誰に対しても優しく、友人も多かったそうですね。残念だ、悔しいと僕の前で泣いた人もいましたよ」
あなたが滝上さんと初めて会ったのは謙一さんの葬儀の時だったはずです、と麻衣子は言った。
「あなたには後悔があった。謙一さんが痴漢のような卑劣な犯罪をするはずがないと信じていたけれど、支えられなかった。もっと早くご両親と会い、彼を信じていると言うべきだった。そうすれば、三人で謙一さんを守れたはずなのに……」
しばらく沈黙が続いた。梶原のYouTubeのために、と麻衣子は口を開いた。
「多くの人が誹謗中傷を受け、行き過ぎた正義感によって深刻な被害を受けているのを、ノンフィクションライターの滝上さんは知っていました。記事にできないか、と親友の田辺さんに話し、奥さんの涼子さんは昔のボーイフレンドの加山さんに相談した。謙一さんは加山さんの奥さんの教え子で、生徒を殺された無念さは教師にしかわからないでしょう」
聡美は何も言わなかった。もうひとつ要素があります、と麻衣子は人差し指を立てた。
「湖北大生の細見さんと赤谷さんが誹謗中傷のために自殺した加賀美秋穂さんについて、中学の恩師の加山さんに相談していたんです。本郷さんと高井さんは謙一さんを失った悔しさを母親の加賀美さんに訴えた。点と点が繋がり、あなたたちは定期的に集まるようになった。違いますか?」
聡美の唇がかすかに震えていた。苦しかったでしょう、と麻衣子は目を閉じた。
「娘を、息子を、教え子を、友人を、先輩を失い、奪われた者たちがお互いを慰め合った。でも、それでは駄目だと誰かが言い出した……梶原に復讐する、そんな話ではなく、あなたたちが欲していたのはあの男の心からの謝罪です。でも、逃げ回る梶原を捕まえることはできなかった。最後のチャンスがBW996便の機内だった……長田克巳さんを覚えていますか?」
いえ、と聡美が唇だけで言った。二月十日のBW996便のビジネスクラスの席を予約していた方です、と麻衣子は紙のエアチケットを取り出した。
「去年の十一月、長田さんはご家族とのメキシコ観光旅行のために、BW996便のビジネスクラスの座席を四席ネットで購入しました。ところが、手違いでダブルブッキングしていた、お詫びに同日午後二時のJALのファーストクラスのチケットを送りますとベストウイング航空から連絡があり、二日後紙のチケットが届いた。予定通り十日間のメキシコ観光を楽しみ、何もおかしなことはなかった、と長田さんは話していました」
他にも数人、JALのファーストクラスに変更した方がいます、と麻衣子は何枚かのエアチケットの写真をスワイプした。
「あなたはベストウイング航空のCAで、二月十日のBW996便の乗客に関する情報を入手できた。一カ月前、梶原がビジネスクラスのチケットを購入した時点で、ほぼ満席だったと旅行代理店の担当者が話していました。それでは加賀美さんや滝上さんたちが乗れません。あなたはビジネスからファーストクラスへのアップグレードを申し入れ、長田さんたちにチケットをキャンセルさせた。そんなことができるのは、CAのあなたしかいません。梶原の周りの座席を押さえ、他の十二人をBW996便に乗せ、ハイジャックを装った。他の乗客をすべて降ろしてから、梶原と話す。すべてはそのためだったんです」
最初から違和感がありました、と麻衣子は水をひと口飲んだ。
「警視庁のハイジャック対策マニュアルでは、事件発生後可及的速やかに最低一人の人質の解放を認めさせる、という一項があります。子供だから、高齢者だから、病人だから、理由は何でも構いません。その時、犯人の中に同情という感情が生まれます。人質に同情した犯人は、最終的に必ず人質全員を解放します」
とはいえ簡単ではありません、と麻衣子は苦笑した。
「人質は犯人を守る盾になります。盾は多ければ多いほどいいんです。まともな(傍点)犯人なら、一人も解放しないと言うでしょう。でも、今回のハイジャックは違いました。交渉を始めると、犯人は早々に二百五十六人の解放に同意したんです。人質の半数以上で、常識的にはあり得ません」
その後、と麻衣子は両手の指を合わせた。
「あなたは交渉に応じるふりをして、順次人質を解放していきました。乗客の肉体的な、あるいは精神的なダメージを考慮したためで、CAとしては当然ですが、ハイジャック犯としては間違っています。二階の人質解放に際し、あなたはわたしに解放する乗客を選ばせた。巧妙なトリックで、すっかり騙されました」
何の話をしてるんですか、と聡美が僅かに声を高くした。
「騙したなんて……わたしは犯人のメッセージを代わりに読んだだけです」
梶原が犯人だと警察に思わせるために、あなたは身代金の要求を続けた、と麻衣子は言った。
「四百五十九億円を貨物室に運び入れた運搬役の乗客をそのまま解放した。体調不良の乗客も同じです。すべてが計画通りに進んでいました」
梶原にはできません、と麻衣子は首を振った。
「乗客の水口さんが一階のトイレで犯人に襲われたと訴えたのも計画のひとつです。彼は重傷を負いましたが、犯人は暴力的で何をするかわからないと警察に先入観を植え付けるためですね? 他の人質がアイマスクを外せなくなったのは、彼らが怯えたからです。水口さんは加山さんの昔の教え子で、謙一さんと同じアケボノ商事に勤めていました。部下である謙一さんの無実を訴え、休職処分に強く反対したと同社の総務部長は話していました。加山さんに頼まれて、その役回りを引き受けたんでしょう。千丈さんもあなたたちの仲間です」
彼は水口さんの恋人だった、と麻衣子は肩を組んだ二人の男性の写真をスワイプした。
「多様性の時代と言われていますが、現実は厳しく、二人は関係をオープンにできなかった。だから、警察も関係に気づきませんでした。千丈さんは芸能事務所のマネージャーで、過去に担当していたアーティストが誹謗中傷に苦しみ、自殺を図っています。あなたたちに協力したのは、そのためだったのかもしれません」
加賀美さんは同期の二人に手を貸してほしいと頼んだ、と麻衣子は言った。
「テレビ局のパワハラやセクハラが表面化したのは二年ほど前でしょうか? それは会社の体質で、形だけ反省しました謝罪しましたと言っても、虎の縞は落ちません。下請けの番組制作会社はもっと酷いそうですね。三人は同期入社で、お互いに助け合わなければ生き残れなかった」
麻宮さんと弓張さんには子供がいませんが、と麻衣子はInstagramの写真を見せた。三人の女性が小さな女の子と追いかけっこをしていた。四人とも笑っていた。
「二人は秋穂さんを自分の娘のように可愛がっていたそうですね。わが子を殺されて、黙っている母親はいません。三人は技術部員で、防犯カメラの映像を差し替えるのは簡単でした。ドラマのセットを利用してBW996便機内を再現し、梶原に扮した男性……おそらくは千丈さんに通路を歩かせた。梶原が犯人、と警察に刷り込むためで、それには成功しましたが、アクシデントの発生までは想定できなかった」
ユーチューバーのライトが機内を照らすとは思っていなかったでしょう、と麻衣子はタブレットの防犯カメラ映像を呼び出した。
「冷静に考えると、千丈さんが半分だけガムテープを剥がしたのはおかしな話です。そんなにうまく半分だけ剥がれるはずがないでしょう」
他にも不審な点があります、と麻衣子は座り直した。
「犯人は有名なドラマの話をしました。第一シリーズは二〇一三年に放送されています。梶原は二十九歳ですから、当時十六歳で、翌日の月曜に友人とカフェで盛り上がるはずがないんです」
人によるでしょう、と聡美が小さく咳をした。いえ、と麻衣子は首を振った。
「梶原は引きこもりで、高校には行ってません。友人もいませんでした。あのメッセージを送ったのは、加賀美さんではありませんか? もしくは麻宮さんか弓張さん? 年齢で考えると、あの三人の誰かとなりますが……」
聡美が視線を逸らした。メッセージにも問題がありました、と麻衣子はスマホのボイスメモを開いた。録音した麻衣子と聡美の声が流れ出した。わたしではありません、と聡美が長い息を吐いた。
「メッセージを読め、と犯人に言われただけで……」
犯人はコントローラーを使ってメッセージを送った、と麻衣子は言った。
「代わりに読み上げたのはわかっています。それぞれ梶原に言いたいことがあったので、全員がメッセージを作った。ですが、一人称や語尾ぐらいは統一しておくべきでした。俺、僕、わたし……乱暴かと思えば丁寧語になる。細かい指摘は控えますが、使用する単語である程度年齢を特定できるんです。一般的に誤差は三歳以内ですが今回は、明らかに十歳以上差のある複数の人間がメッセージを送っていました。わたしはプロですから、自信があります」
わたしがここへ来たのは、と麻衣子は自分のグラスに手を掛けた。
「あなたたちに梶原を殺す意図はなかった、と信じているからです。望んでいたのは謝罪であり、反省でした。その意を表わすため、YouTube上での謝罪動画のアップとチャンネルのBANを要求した。それに従うなら許すつもりもあった、とわたしは考えています。ですが、あなたたちの怒りに怯えた梶原はその場から逃走を図り、階段で躓き、転落して死んだ」
これが第一の可能性です、と麻衣子はグラスを前に出した。
「梶原は自意識が肥大しきった男で、過去にも口先だけの謝罪を繰り返しています。あなたたちの要求に対しても、ごめんなさい、許してください、と土下座して詫びたかもしれません。でも、薄っぺらい謝罪に腹を立て、かっとなって殴りつけた人がいてもおかしくないでしょう。結果として、梶原は死んだ。その人の怒りは全員の怒りでもあり、非難する者はいなかった。それどころか、事故死を装うと決めた。階段に梶原の血をなすり付け、髪の毛も残した。あの男の死体の周りにバッグやタブレットを散らし、両手が塞がっていたと偽装した」
第二の可能性です、と麻衣子は戸井田のグラスを前に出した。
「あなたたちが真のハイジャック犯だとわたしは確信していますが、証拠はありません。犯人の死で事件は終わった、と警視庁は記者会見で正式にコメントを出しています。この話はわたしと戸井田しか知らないので、怯える必要はありません。ですが、真実を話さなければ、これからずっとあなたたちは虞れを抱いたまま生きていくことになります。事故であれ、殺人であれ、あなたたちには梶原の死に対する責任があるんです」
遠野さんには失望しました、と聡美が吐き捨てた。
「わたしを含め、最後に残った人質たちがどれほど怯え、怖かったか……それなのに作り話をでっちあげ、被害者のわたしを脅すなんて、残酷過ぎます……仮に、誰かが梶原を殺したとして、何がいけないんですか? あの男が多くの人を傷つけ、苦しめ、何人も死人が出ているのは知ってますよね?」
もちろんです、と麻衣子はうなずいた。仕事がありますので、と聡美が席を立った。店を出るまで、振り向くことはなかった。
遠野さん、と戸井田が残っていたアイスティーをストローですすった。
「言ったでしょう? 彼女は罪を認めないと……BW996便はある意味で密室でした。何があったのかは、その場にいた者しかわかりません。事故だったのか、殺人だったのか、僕たちにも決め手はないんです」
確かに、と麻衣子はつぶやいた。ここだけの話ですが、と戸井田が顔を伏せた。
「梶原の死は自分で蒔いた種ですよ。警視庁内にも不審な匂いを嗅ぎ取っている者がいますが、積極的に捜査をしないのはそのためもあります。これ以上どうしろと? 終わりにしませんか?」
いずれ彼女は自首する、と麻衣子は吹き抜けの天井に目を向けた。
「あのハイジャックのために、大勢の人々が辛い目に遭った。人質だけではなく、ハコナンの関係者、管制官、道警の警察官、そして振替を余儀なくされ、他の空港に降りた乗客たち……CAとしてのプライドがあるなら、自分を許せるはずがない」
「しかし……」
戻りましょう、と麻衣子は立ち上がった。
「ここに来たのは、彼女に心の準備をさせるため。犯人たちには情状酌量の余地がある。わたしは弁護側の証人として立つつもりでいる。そのためにもっと多くの人に会い、証言を得る。それが警察官としてのわたしのプライドよ。あなたは?」
ミックスサンドが美味しいそうです、と戸井田が手を上げ、店員を呼んだ。
「一ノ瀬さんが言ってたでしょう? たまにはゆっくりお茶でもしませんか?」
麻衣子は小さくうなずき、座り直した。大きな窓に目をやると、飛び立った旅客機が白い雲の彼方に消えていった。
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