『自閉症のぼくは小説家』 第5回「翼になった自転車」

『自閉症のぼくは小説家』 第5回「翼になった自転車」

連載第5回 翼になった自転車

 
僕の週末
人生において本当に必要なものは、出会うべくして出会うものなのだろうか。運動が苦手で避けてきた僕が自転車という最適のトレーニング方法に出会ったのだから。
 

「今日は自転車トレーニング行くよ」

父はいつも当日にいきなり僕に宣言する。

「どうしていつもいきなり言うの」と母が責めるが、天候やその日の体調などで直前まで決められないから「これは仕方がない」と僕はいつも思う。

だいたい僕の人生においてのほとんどの週末は、必ず自転車トレーニングが組み込まれてきた。だから僕はもういきなり言われることにも慣れている。

「今日は自転車か」

基本いきなり当日に予定を告知されることが大の苦手な僕だが、自分のためになることなら意外とすんなり切り替えられるから不思議だ。そして父が車を1時間ほど走らせて、関東近郊の公園にあるサイクリングコースに向かう。今は立川のサイクリングコース、埼玉のサイクリングセンターと毎週交互に行っている。僕にとってこの毎週の自転車トレーニングは今や人生に必要なものであり、僕の精神、身体のバランスを整えてくれるのに必須なものになっているのだ。

 

父の決意
僕が自転車を始めたのは小学校入学前、療育センターに通っていた頃からだ。

正直重度自閉症で不器用な僕が、自転車に補助輪なしで乗れるわけがないと母も周りの人もきっと思っていたと思う。僕自身もそう思っていた。でも父は違った。必ず乗れるようにすると固く決意していたようで、その絶対的な信念、思いはすさまじいものがあった。

実際それから毎週のように僕を色々な公園(交通公園など)に連れて行き、手取り足取りつきっきりで僕を指導した。しかし補助ありは何とか乗りこなせたものの、そこから補助輪がとれるまでが本当に長い道のりだった。

後ろの父の手が離されると、僕はすぐに傾いて止まってしまう。仕方がないので父は横に寄り添うようにして、僕の乗った自転車を持ちながら一緒に走り動かす。僕自身が動かして乗っているイメージがつくように、何度もそれを繰り返す。父のシャツは毎回汗だくになった。ズボンも毎回自転車の脂汚れで黒いシミがつき、擦れて穴もよくあいた。でも毎週のようにこの練習を繰り返しても、僕の補助輪はなかなか取れなかった。

 

その瞬間はやってきた
交通公園やサイクリングコースで出会った周りの子達は次々と補助輪が取れ、バランスを取りながらスイスイと目の前を走っていく。僕はやっぱり人よりできないのだと実感する瞬間だ。

療育センターでもそうだった。いつも僕だけが皆ができることができなかった。皆が平均台を最後まで歩くのに僕は必ず途中で落ちてしまう。

「はくとくんがんばれ!」

そんな声援も正直嫌だった。悔しくて惨めな気持ちになるからだ。僕は運動機能がまるでダメなのだと。そんな経験を重ねてきたこともあって自転車だって同じ、無理なんだと思った。

でも父は驚くほど毎回動じず、淡々とトレーニングを毎週のように続けた。

僕もこの自転車トレーニングに行くことがいつの間にか習慣になっていた。毎回必ず転ぶので、僕の足はいつも擦り傷だらけだった。父もよく大きな擦り傷をいくつも作っていた。それでも毎週必ず僕らはサイクリングコースに向かった。

 

それから何年たっただろうか。少なくとも3年はかかったと思う。

ある日突然その瞬間はやってきた。

ペダルを踏んだらピュンと進む。その浮いた感覚に毎回ビックリする。ここまではいつもと同じだ。いつもここでバランスを失い倒れてしまう。でもこの日は違った。僕は初めて自転車と一体になった気がしたのだ。

このままいける!

僕の意志で動かしてると初めて思った。

初めて風を感じた。風景が流れていくのを感じた。

左右によろよろ動いてまた倒れそうになったけど僕は踏ん張った。

「はくとがんばれ!がんばれ!もっといけ!もっと!まっすぐまっすぐ!」

倒れるものか。このまま走るんだ。少しでも長く。足がペダルからずれそうなのを必死で耐える。

風景が動く。

僕はこの日生まれて初めて自転車で長く走ることができたのだ。

あまりに嬉しくて後ろの父を振り返った。

「オーケー!」と父が泣き笑いのような表情で笑った。

実際走ってみると、身体を自分の思い通りに動かすことのできない僕にとって、僕の足元に自分を助けてくれる動力がある安心感は心強かった。

僕はこの日嬉しくて何度も何度も走った。どこまでも行ける気がした。

空が近かった。

やり遂げた充足感で心は喜びに溢れていた。

 
本当の難関
しかし次の難関はブレーキだった。約3年かけて何とか補助輪なしで乗れるようにはなったものの、自分で自転車を止めることができなかったのだ。

交差点に差しかかったり、急に人がきたらブレーキをかける。そんな普通の人には当たり前のことが、僕にはどうしてもできなかった。

「危険を察知する」

「止まりたいと思った瞬間に指に力を入れてブレーキをかける」

この二つを同時にすることは、僕にとってはあまりにも難題だった。代わりに僕はザザーッと地に足をついて止める方法を行っていた。でもこの方法だとすぐには止まらない。なので僕はよく木に突っ込んだりして大怪我をした。とにかくこの頃は怪我ばかりしていた。

ブレーキが使えるようになったのはそれから約1年後、このブレーキを初めて使えた瞬間を僕は忘れられない。

目の前に小さな子供がいきなり飛び出してきたのだ。

「危ない!」

父が聞いたこともないくらいの大声で叫んだ。

僕は(嫌だ!絶対にこの子にぶつかりたくない)と思った。

そう思った瞬間、指に思いきり力をこめて握りブレーキをかけていた。ギリギリのところで自転車が止まった。

「えっ はくとブレーキ使えたじゃない!」

父は補助輪が取れた時よりも感激していたと思う。脳と身体の繋がりが弱い僕の回路が、地道な訓練で繋がった。文字打ちもそうだがとにかくやり続けていれば、いつかできるようになると確信した瞬間だった。

 

自転車が最高な理由はたくさんある
自転車という貴重なライフワークをこうして僕は手に入れた。

蓋を開けてみると、僕と自転車の相性は最高に良かった。

自転車の長所はたくさんある。まず四季折々季節を体感でき、自然を思いきり感じることができること。特に僕は冬のサイクリングが好きだ。冷たく澄んだ空気に触れると邪念が飛び、余分なものが取り除かれる感覚になるのだ。そして普段身体がいつも動いてしまう僕が、自転車に乗っている時は集中力が増すのか、バランスが整えられ身体を真っ直ぐにずっと保っていられるのだ。 

そしてさらに最高なのは、目の前の風景が次々と変わり横を横切っていく景色だ。僕は小さい頃、横目で草木を見ることが好きだった。目の中を流れるように草木が映り、緑が目を刺激する感覚が楽しかったからだ。この変わりゆく景色を見る感覚は、あの時の大好きだった横目で見る感覚に似ている。そして振動が身体に伝わる瞬間も気持ちいい。

僕らは時々身体に刺激を与え(頭を叩いたり、手をパチパチしたり)バランスを保っている。自転車は道路の凹凸にあたるたび、ダイレクトに振動や衝撃という刺激を与えてくれる。このように自転車は重度自閉症の僕にとってはメリットばかりなのだ。

運動機能が弱い僕でも、自分で自由に、それもまるで飛ぶように早く移動できる手段を得られたのだ。何より自転車に乗ることは楽しくて気持ちいい。それ自体が大きな喜びなのだ。

      *      *

「人生は自転車に似ている。バランスを保つには動き続けなければならない」

というアインシュタインの有名な言葉がある。

自転車は走り続けたほうが止まるより楽なのだ。立ち止まらずにとにかく動き続けることの大切さを身をもって感じることができる。ペダルを踏み続けていれば、続けてさえいれば必ず前に進んでくれるのだから。

猛烈に暑かった夏も終わり、公園に吹く風にも秋の気配が漂ってきた。今週末も父の号令で僕はきっとどこかにでかけるのだろう。

 

 

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著者

内田博仁

(うちだ・はくと)2008年生まれ。2歳で知的障害を伴う自閉症と診断。6歳でキーボードで文字を打てることがわかる。表現活動を始め、作文コンクールや文学賞の受賞を重ねる(7回)。小6で第4回徒然草エッセイ大賞大賞、15歳で松本清張記念館の中学生・高校生読書感想文コンクール最優秀賞、北九州子どもノンフィクション文学賞で選考委員特別賞・あさのあつこ賞を受賞。平日は学校の後に母と読書や文章を書き、週末は父とサイクリングなど外に出かけている。

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