『自閉症のぼくは小説家』 第9回「ぼくを変えた1冊の本ーー松本清張『或る「小倉日記」伝』」

『自閉症のぼくは小説家』 第9回「ぼくを変えた1冊の本ーー松本清張『或る「小倉日記」伝』」

連載第9回 ぼくを変えた1冊の本ーー松本清張『或る「小倉日記」伝』

 
偶然の出会い

 

中学生の時、僕の今後の人生に大きく影響を与える小説に出会った。

この頃の僕は少し心が不安定になっていて、そんな自分の辛さを紛らわせいという思いもあって、何か新しいものにチャレンジしたいと思っていた。そんな時に偶然母が、北九州にある松本清張記念館の読書感想文コンクール作品募集の広告を見つけてくれたのだ。

「はくちゃん、チャレンジしてみない?」

母は僕に言った。

実は僕達家族はこの前年、北九州の小倉に行く機会があって、その際に松本清張記念館の横を通った。母が「うわあ、松本清張記念館かっこいい。清張さんの大ファンのお母さんに見せたいなあ」と大興奮していた。そんな僕たち家族の憧れの松本清張記念館の作品募集ということもあって、僕は「是非応募します」と打った。

松本清張さん。初めて読む作家さんだ。大人の世界に入りこむようなドキドキ感があった。

課題図書の中から選んだのは『或る「小倉日記」伝』。後にこの小説が、僕の価値観を大きく変える作品になることは、この時は知る由もなかった。

読み始めた瞬間これは…と思った。これは僕のために書かれた小説かもしれないと思ったぐらいだ。

主人公である田上耕作の生きざまとその人柄に、一瞬で惹きこまれてしまったのだ。耕作は障害のため上手く話せず、動きも奇妙で周りから偏見と憐みの目で見られ生きてきた。耕作は「誰が見ても白痴のように思えたが、実際は級中のどの子よりもよくできた」というのだ。見た目で判断されてしまう悔しさ、劣等感と孤独感を抱えながらも隠れた闘志や情熱を秘めていた耕作。まるで僕のようじゃないかと思った。真面目に一生懸命日々を生活しているにもかかわらず、その見た目で笑われたり、不当な扱いを受け続け生きてきた耕作。

耕作は言う。「自分の身体に絶望してどのように煩悶しているかは他人には分からないのだ」と。

この言葉を読みながら、僕はある出来事を思い出していた。

 
悲しみが誘う笑い

 

それは通っている歯医者でのことだった。その日、僕はもうすぐ始まる治療に不安が高まって、身体を大きく揺すりながらソファに座っていた。

「次はくとくんだよ!」

と衛生士さんに言われても、僕は不安から診察室になかなか行けなかった。身体を大きく揺すり続け、何度呼ばれても席を立つことができない。急に僕の隣のおじさんが「いけよ!」と怒鳴った。「おまえいいかげんにいけよ!」と。母が驚いて「はくちゃん順番だから行こうね」と僕をたしなめる。母は「申し訳ありません」とその方に帰り際謝っていた。

一般社会では僕のこういう行動は迷惑だということも分かってる。でも僕はこの時、悔しくて絶望感でもうどこかに消えてしまいたいような思いだった。

悲しみが頂点に達すると僕は笑ってしまう。僕はへらへらとにかく笑っていた。こうやってやり過ごすしか乗り越える術を知らなかったのだ。こんな風に耕作も僕も気にしない風を装いながらそれでも前を向いて歩いていくしかないのだ。

 
思いは波のように

 

自分は世の中の役に立つことはできない、人生で何も成し遂げられないという劣等感と焦りが次第に生まれてくる耕作。耕作の思いは僕の思いそのままだと思った。あの頃中学生だった僕の壊れそうだった心。

大きな波が押し寄せてくる感覚があった。何かが変わっていく。いや変えていきたい。耕作に同調していくうちに少しずつ僕の心が動いていく。

 

しかしそんな耕作に大きな転機が訪れる。耕作はあるきっかけから、森鴎外の未完の日記を自分が調査し埋めていくのだと決意するのだ。これは鴎外が軍医部長として九州の小倉に滞在した時に残したとされることから「小倉日記」と呼ばれたものだ。

耕作がずっと探し求めていた何か、自分のこの溢れる情熱を傾ける何か、失われた小倉日記を埋めてもし自分が完成させたなら、自分も世の中の役に立てるのだ。

僕はそうそれだ!と思った。どんな人でもたとえ障害があろうとも、人は何かの、誰かの役に立ちたい、成長したいと思っているのだ。このような瞬間こそ、人は生きる目的や生きる喜びを感じるのだ。たとえ障害があったとしても。僕の心で眠っていた思いや情熱が再び目覚めた瞬間だった。

 

しかし耕作の道のりはやはり簡単ではなかったのだ。皆、耕作の見た目を見て適当にあしらったり、真剣に向き合うとはしてくれない。耕作は時にそんな目線、扱いに「たちまち希望は消え真っ黒い絶望が襲ってくることがあった」という。

この頃の僕も絶望感が襲うことがよくあった。日々の努力でどんなに文章が打てるようになっても、学校での僕は相変わらず劣等生で、皆のようにできないということばかりだった。イライラしてパニックもよく起こした。そんな時は「僕は何のために頑張っているのだろう」と思ったりもした。しかし耕作はどんなに苦労しようとも、挫折を繰り返そうとも、何度も立ち上がり小倉日記を自らの力で完成させるという目標に向かってひたむきに取り組んでいくのだ。

どんな風に見られてもいい。人の役に立つことをしたいんだというその一途な強い思いに、僕は言葉を失った。凄いと思った。何のために頑張ってるのか?と思ってしまった自分の甘さと傲慢さが恥ずかしくなった。そして僕は気づいたのだ。これだけは続けたいというものに出会ったのなら、それだけで生きる喜びを得たも同然ではないかということに。

確かに僕は何一つ誰よりもできない劣等生かもしれない。でもこれだけは一生続けていくという唯一のものを僕は手に入れたではないか。それはこうやって文章を打つこと。僕がこのことに出会えたのは奇跡なのだ。どうして自分のこの幸運に気づけなかったのだろう。

 

書くことは喜び

 

戦争が始まり食糧不足もあり衰弱した耕作は、どんな気持ちでこの世を去ったのだろうか。耕作の死後小倉日記が発見されたことを「不幸か幸福かわからない」と松本清張は小説を結ぶ。耕作の人生は結果だけ見れば「徒労」だったのかもしれない。しかしはたして耕作の人生は悲しい人生だったのだろうか。僕には耕作が真剣に一つの目標に向かい、ひたむきに取りくむその生きざまが、深く豊かな美しい人生であったようにしか思えなかったのだ。

耕作が苦労して取材している姿から、僕は本当の幸福とは何なのかと自分に問いかけ、そして気づくことができたのだ。こうやって何かにひたむきに取り組み、何かを目指すその道のりそのものこそが、実は幸福だったのだということに。

僕はこの時に得た思い、感動を正直にそのまま感想文として書いた。すると(本当にビックリしたのだが)中学生の部で最優秀賞を受賞することができたのだ。そして僕はとうとう憧れの松本清張記念館を訪れることができた。

 

いざ、松本清張記念館へ

 

受付から展示室に入るとまず全著書が並べられたモニュメントに出迎えられ、その巨大さに圧倒された。その数なんと約700冊。それはカラフルであまりに美しくてまるで「松本清張」という名の芸術作品のようだった。その後、松本清張の年表、文学性をジャンルごとにまとめあげたものなどの展示物が続いていく。しかし何より一番驚いたのは、松本清張さんの自宅を再現した中にある本棚だ。見たこともないくらいの本、本…。小学校しかでていない松本清張さんはあらゆるジャンルの本を読み、独学で勉強を重ねたのだという。

館長さんが教えてくれた。「清張さんは努力の天才なんですよ」と。そして「はくとくんの感想文の『僕は努力を重ねるという才能がある』という一文はまるで清張さんのようだと思いましたよ」と言ってくれた。松本清張さんは不遇だった時代に培った自分の不屈の精神を耕作に重ねて書いたのかもしれない。そして中学生だった僕に、その苦しみや苦難は生きる力を身につけるために必要なものなのだ、決してあなたは不幸ではない、と伝えた。少なくとも僕はそう思っている。

 

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著者

内田博仁

(うちだ・はくと)2008年生まれ。2歳で知的障害を伴う自閉症と診断。6歳でキーボードで文字を打てることがわかる。表現活動を始め、作文コンクールや文学賞の受賞を重ねる(7回)。小6で第4回徒然草エッセイ大賞大賞、15歳で松本清張記念館の中学生・高校生読書感想文コンクール最優秀賞、北九州子どもノンフィクション文学賞で選考委員特別賞・あさのあつこ賞を受賞。平日は学校の後に母と読書や文章を書き、週末は父とサイクリングなど外に出かけている。

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