路上の輝き 第6回

路上の輝き 第6回

(第5回はこちらから)

 

 その前夜は、三人で『ファンタスティックス』を観に行ったのだった。冬樹がチケットを用意しておいてくれた。礼子は仕事が遅くなるとのことで、来なかった。
 ワシントン広場から少し南、ファンタスティックス・レーンと名付けられた路地の奥に劇場があった。横に細長い小劇場で、舞台も奥行きがあまりなく、中央にポールが一本立っていた。その最小限のセットの簡素な舞台で、ミュージカルが上演されたのだ。上演前に、冬樹がストーリーを教えてくれた。隣り同士の家の若い男女を結びつけるために、親たちは仲が悪いふりをして子供たちに試練を与えていくというストーリー。
 客たちの雰囲気を観ていると、さすがに何年もロングランを続けているミュージカルだけあって、それが初めてという客はむしろ少数のように思えた。難解な題材ではないし、ミュージカルであったから、英語の台詞のわからない修平も楽しむことができた。
 終わって表通りに出ると、奈津美は『トライ・トゥー・リメンバー』を口ずさんでいた。
 冬樹が言った。
「少しお酒を飲みたい気分だけれど、明日、飛行機に乗り遅れるわけにはいかないよな。お茶だけにしよう」
 ホテルのほうに歩いて、冬樹はマクドゥガル・ストリートの喫茶店に連れていってくれた。
 店の名を覚えている。ラ・ランテルナ。日本の喫茶店のような内装の、あまり大きくはない店だった。日本にいたことがあるという、イタリア系かと思える顔だちの若いウエイトレスが働いていた。
 その店でひとしきり『ファンタスティックス』を話題にしたあと、冬樹が修平たちに訊いてきた。
「ニューヨークで、収穫はあったかい?」
 奈津美がすぐには答えなかったので、修平が言った。
「なるほど、という都会だった。広告の仕事をしている身では、もっと早くに来ておくべきだったかも」
「もう慣れたんだ」と冬樹がうなずいて言った。「何度でも来るといい」
「冬樹さんがいるあいだに、来たいな。いつまでいるのか、決まった?」
「まだ決めきれていない。大学の教授は、もう少し芝居を観てから帰国しろっていう。翻訳すれば、ニューヨークにいても成功しないから、東京に帰れってことだ」
「もっと好意的に言っていると思うな」
「おカネが続く限りはいたい。一年もいれば、いろいろと義理もできた。帰国するのも、簡単じゃないし」
 奈津美が少し笑いながら言った。
「成功、だなんて、冬樹さんはニューヨーカーになりましたね」
「そうか?」と冬樹は首を傾けた。「まわりでも、ふつうに使っているけど」
「冬樹さんにとっては、まだ成功は不十分なんですね?」
 冬樹は、質問の意味を考えたような表情になってから言った。
「ひとが何ものかになるには、一年では足りない」
「もうとっくに何ものかだったじゃないですか」
「ぼくはまだニューヨークで、自分の舞台を上演していないんだ。成功前の段階だ」
「上演が成功するまでは帰れない?」
「いいや、そうは思っていない。ニューヨーク体験をもとに東京で作って、それをニューヨークでかけるのでいいんだ」
 修平は言った。
「じゃあ、東京での劇団再結成は早いほうがいいのかもしれない」
 冬樹が笑った。
「まあ、急かさないでくれ。まだやっと一年なんだ。まだやっとだ」冬樹が話題を変えた。「そろそろおひらきにするかい」
 奈津美が時計を見て言った。
「ワシントン広場の中を歩いて帰りたい」
 ラ・ランテルナからだと最短距離を歩くことにはならなかった。でも冬樹も賛同した。
 広場には南西角の入り口から入った。まだそこそこひとの姿があった。夜遅くには入らないほうがいいと、旅行代理店の担当者から聞いていたけれども、さほど危ないという印象ではなかった。奈津美を中央に遊歩道を進み、広場中央の噴水を回った。凱旋門を右手に見たあたりで、奈津美が歌い出した。さっき観たばかりの『ファンタスティックス』の劇中歌だ。今度は明瞭な歌声だった。
 修平も数小節だけは歌詞を覚えた。その次の歌詞を続けた。
 冬樹もその後を続けてきた。三人の声が重なった。
 奈津美がとつぜん修平の腕を取ってきた。見ると冬樹の腕もだ。
 冬樹がうれしそうに言った。
「フランス・デモだな」
 ホテルの方角、真西に向かって腕を組んで歩きながら、歌を続けた。
 奈津美は完全に歌詞を覚えていた。ブラザーズ・フォアのLPで覚えていたのだろうか。修平と冬樹はリフレインの部分以外はスキャットで合わせた。
 すれ違う中年男が、微笑を修平たちに向けてきた。
 広場の西の出口に着くまでに、繰り返して歌った。広場を出て道路を渡れば、修平たちが泊まるアール・ホテルまではほんの二十メートルほどだ。その道も腕を組んだままで渡り、ホテルの前まで来て奈津美は腕を離した。
 冬樹が言った。
「明日、十一時前に来る。タクシーで空港まで送る」
 ホテルに入ってエレベーターに乗ってから、奈津美が苦笑したような顔で言った。
「冬樹さん、とうとう部屋に招待してくれなかったね」
 修平は言った。
「狭い部屋だって言っていたし、礼子さんもいるんだし」
「ニューヨークの暮らしを垣間見せてくれてもよかったのに」
 ドアが開いた。
「おやすみ」と言って、奈津美はエレベーターを降りていった。
 冬樹が帰国したのは、それからほぼ一年後のことになる。正確に言えば十四カ月後の八月だった。帰国後は冬樹はいったん甲府の生家に戻り、さらに一カ月後にアパートを借りて東京での暮らしを再開した。
 冬樹が戻ったとき、修平は結婚していた。同棲の時間も取らないままに、同僚だった紀美子と結婚し、新居で生活を始めていたのだった。親兄弟が集まっての会食はしたけれども、結婚式も披露宴もしていない。ずいぶん後になってから、月蝕洞で奈津美、冬樹と三人が集まって飲んだときに、それを自分の結婚祝いの会、ということにしただけだ。
 冬樹が帰国したころ、奈津美はそれまでの勤め先を辞め、友人たちと小さなテキスタイル・デザインの事務所を作っていた。高円寺暮らしはそのままだった。

 

   6

 夕食は、名古屋駅前の商業ビルの和食レストランでとった。冬樹が、きしめんでなくてもいい、と言ったのだ。冷静に考えれば、丼一杯の麺を食べるのはきついと。
 ふたりとも弁当定食を注文してから、冬樹が言った。
「ぼくってわがままだよな」
「そんなことはないし」修平は笑った。「好みがはっきりしているのが、冬樹さんの個性だ」
 冬樹は出てきた弁当の三分の一も食べなかった。漬け物はだめ。出汁巻き卵にも牛のしぐれ煮にも箸をつけなかった。
 お茶に少しだけ口をつけてから冬樹が訊いた。
「ぼくの芝居で、一番好きなのはどれだい?」
 唐突な質問だったけれど、修平は答えた。
「『リンゴの園』」
 冬樹は微笑した。
「修さんは、ずっとその答だ」
 それは山梨のリンゴ農家の物語で、登場人物は一家の父親、息子、近隣の農家に嫁いだ娘の三人だけ。父親が一本のリンゴの老木を伐ろうと決めるまでの数日間の物語。亡くなった母親の死の真相がじんわりは明らかになってくる芝居だった。戦争が後景にあった。
 冬樹が自分の劇団を立ち上げて二番目の上演作だ。初演を観に行った修平に、冬樹は弁解するように言った。
 地元で聞いた、農地解放のころの話なんだ。けっして修平のリンゴ園のことじゃない、と。
 わかるよ、と、そのとき修平は笑った。うちの近所には、こんな話はなかった。
 冬樹は言った。甲府の田舎に、ヒントにした話があったんだ。
 修平は、赤ワインをひと口飲んでから言った。
「べつの答がほしかった?」
「劇作家や演出家は、最新作が好きだ、と言ってもらえるのがうれしい。自分の作品で一番の好きなものはと訊かれて、次の作品だ、と答えた映画監督もいたはずだ」
「奈津美ちゃんは、『入江のホテル』がいいって言う」
 それは、冬樹の劇団が実質的に解散する年の上演作だった。
 晩秋の、おそらくは伊豆半島のどこかと思える小さなホテルが舞台で、中年夫婦と、ホテルのマネージャーや従業員ら登場人物が五人。五人の意外なつながりが、二時間ばかりのあいだに見えてくるという作品だった。
「あれも好きだ」
「作った本人は、すべて好きじゃなければ」
「わが子でも、多少の差はつく」冬樹は少しのあいだ湯飲み茶碗を見つめていたが、やがて顔を上げて言った。「ネットの情報じゃ、ぼくの代表作はいまだに『夜更けの水位』らしい」
「あれもいいお芝居だった」
「あれから二十本以上書いているのに、ぼくはあれを超えられなかったのかな」
「『痛ましい夏』もある。あの戯曲賞受賞作」
 その賞はバブル景気が終わったころには終了していたから、「あの」賞なのだった。
「あれは、その前の年の『風船と手押し車』を選ばなかったことのお詫びの授賞だ」
「ネットにはそちらの作品名も載っているんじゃないの?」
「全部にじゃあない」冬樹は微苦笑しながら言った。「そうなんだ。自分は何をやってきたかが気になる。検索したことがある」
「ぼくも奈津美ちゃんも、冬樹さんが太宰好きだった院生のころからのつきあいだよ。社会的な評価など無関係にずっと」
「そこに不満はないんだけれども」冬樹はまた口をつぐみ、茶碗を見つめてから言った。「ミミもぼくに同じようなことを言ったことがあったな」
 修平は訊いた。
「明日、京都の予定は?」
 冬樹が顔を上げた。
「和久田さんと会う。覚えているかい。京都で彼を入れてお酒を飲んだ」
「二作目を出してくれた出版社のひと?」
「うん。和久田元。修さんたちが京都に来てくれたときに、古本屋でお酒を飲んだ」
「ああ、あのいい感じの古本屋さん。覚えている。出版記念会の非公式版、と冬樹さんは言っていたね。何人も冬樹さんの親しい友達が来ていた」
 冬樹の言う和久田は、京都の中堅規模の印刷会社の経営者の息子で、子会社の小さな出版社の代表だった。自費出版の書籍や京都ローカルなテーマの本の出版を手がけていた。冬樹は京都に移ってから和久田と知り合い、二冊目の詩集を和久田の会社から出版したのだ。
「あのひとは、冬樹さんと同い年だったかい」
「そうなんだ。電話したら、仕事はもう息子に譲ったけれども、会えるよと。夕方に会うことにした。あの雨滴堂書店で」
 そこは古書店だけど、喫茶店と酒場を併設していた。コーヒーやお酒を飲むこともできた。
 二冊目の詩集を出したとき、冬樹の仲間たちがその古書店で出版記念のパーティを開いた。版元の和久田も発起人のひとりだった。
 パーティの案内状をもらったけれども、木曜日の開催だった。仕事を休んで京都に行くことは難しかった。奈津美に電話をすると、やはり案内状を受け取っていた奈津美は言った。
「その週の土曜日に行きませんか。ちょうど広島に行く用事があったの。土曜日なら京都で一泊できる」
 冬樹は、では土曜日の小さな集まりのほうに出てくれと言ってきた。雨滴堂という古書店兼酒場に、平日の夜には都合がつかない友達が集まってくれるのだとのことだった。店を貸切りにしてもらうのだという。
 修平は奈津美と一緒に京都に行った。冬樹が京都に移って二年目の秋だった。
 その日夕方に京都に着いた修平と奈津美は、いったん四条烏丸に近いビジネス・ホテルにチェックインした後、少し道に迷いつつも、中京区の弁慶石町にあるそのお店にたどりついた。古い三階建てのビルの二階にある古書店兼酒場だった。冬樹が待っていてくれた。
 冬樹は和久田元から教えられた店だ、とそのときに言っていた。演劇、映画、詩集や歌集の古書が充実している店だった。店内は個人の居間とか書斎のようにしつらえられていて、客はちょうど店主の蔵書棚から古書を抜き出して買う、という感覚なのだ。似たような性格の古書店が、少し離れた丸屋町という場所にもある、と聞いた。まるで姉妹店のように似た雰囲気の店だというが、うまく棲み分けられているらしい。
 冬樹はその日、いくつかの新刊書店に直接何冊かずつ本を届けに行ったのだという。版元の和久田が、回った書店で冬樹を紹介をしてくれたとのことだった。そのような場合、と冬樹は教えてくれた。京都の地元のネットワークにはかなわないと。
 冬樹が言った。
「あの当時の店主はもう引退して、べつのひとがやってるそうだ」

 ワインをもうひと口飲んでから、修平は訊いた。
「あの年に出版記念会をやったフリースペースは、いまもあるんだろうか。あの当時は、よく京都のカウンター・カルチャーの話題には出てきた」
「デマチ・ロフト。調べたらもうなくなっていた」
「デマチ・ロフトのオーナーは、どうしているんだろう。少し気になるな」
「とうに亡くなっているだろうな。芝居や音楽が好きで、でも自分ではやらない。それよりも小さな劇場を持って、才能ある若いひとたちを支援する側に回りたいと、あのスペースを始めたんだそうだ」
「美大生の中にも、卒業したらギャラリーを持ちたいと考える学生がいたよ。実作者になるのではなく、目利きとしてのセンスを生かそうと思うようになるんだ。その気持ちはわかる」
 冬樹はかすかに微笑した。
「そうか、ぼくはもっと小さなスペースを持つべきだったのか。金重さんが建てようとしていた劇場なんかの規模ではなくて」
「そういう意味ではないけど」
「修さんは、ギャラリーを持ちたいと思ったことはあるかい?」
「ある」
 きっぱりと短く答えたので、冬樹は驚いたようだった。
「いつの時点で?」
「大学を出るとき。いつか話した岩大特設美術科の入試の実技試験のときの、巧すぎる彼のことを考えていた。そのころ彼の名はもう美術界で評判だった。首席で卒業したんじゃないかな。ぼくは、自慢するけれども、岩大特設美術科の教授たちよりも一瞬先に、彼の才能を知っていた」
 冬樹が少し笑った。
「彼を自分のギャラリーの専属にしたいと?」
「同じ大学に行っていたなら、学生のあいだに彼とそういう話をつけたかもしれない。マネージャーをやらせてくれないかと」
「修さんは、マネージャーには向かないひとだよ。やっぱり職人アルチザンだよ」
「わかっている」
「京都の話だけど」と冬樹は話題を戻した。「七十年代前半は、京都では京大西部講堂と、ほんやら洞と、デマチ・ロフトが、そういう場所の代表だったらしい。でもぼくが行ったときには、もうその当時の熱気はほとんど消えていた」
「あのときも、冬樹さんからそう聞いた。でも、あまり残念そうでもなかった」
「そういう熱気の時代なら、ぼくにはそのころの京都は居心地が悪かったろうと思うし」
「そうかい?」修平は笑って言った。「セント・マークス・プレイスとか、イースト・ヴィレッジの雰囲気を、冬樹さんは存分に楽しんでいたようだったよ。自然に呼吸していた」
「そうか。たしかにそうだな。京都にいたときは、歳のせいでこっちの熱量も薄れていたのか。堅気になっていたから」
 冬樹は、名古屋の劇場の構想が破綻した後、京都の芸術系大学に常勤講師の職を得た。その大学が人文学部を増設し、英文学と併せて舞台芸術概論や文学と演劇について教えることのできる教員が必要になったのだ。冬樹は東京の部屋を畳み、京都に引っ越した。バブル景気末期のことだ。冬樹にとって、それが人生で最初の勤め人生活だったという。
 冬樹の二作目の詩集が刊行されたのは、その翌年のことだ。
「京都では、ほかに行きたいところは?」
「あと鴨川沿いの遊歩道とか、哲学の道とか」
「どこもインバウンドでひとは多いんだろうな」
「行くのが少し怖いという気分もある。ニューヨークなんて、どうなっているんだろう」
「日本のインバウンドは、円が安くなったせいもあるはずだ」
「それでもオーバー・ツーリズムは、世界を荒らしている」
 冬樹が口をつぐみ、何かを追想する顔となった。ニューヨーク時代のことだろうか。
 修平は言った。
「そちらの公式的な出版記念会のほうも、盛況だったと、冬樹さんは言っていた。京都のずいぶんそうそうたる文学者や文化人の名前を教えてくれた」
「うん」と冬樹が言った。「和久田さんが自分の知り合いたちに声をかけてくれたんだ。面白い詩人がいま京都に住んでいる。こんど詩集の新刊を出した、って」
「和久田さんとは、その後もつきあいはあったの?」
「いや、年に一度、ハガキを出したくらいだ。何年も、それがなかった年もある」
「ぼくらともそうだった。何年も」
 音信が途切れた、と思える時代があったのだ。九十年代。
 冬樹が言った。
「暗黒時代だ。いまは黒歴史と言うのか」
 その声には、自嘲はなかった。ただ事実を、冷静に口にしただけだ、という口調だった。その語の発音には何の評価も含まれていないと聞こえた。ただし、その話題が続くことは望んでいないとも。
 冬樹が箸を置いて言った。
「やっぱりもう入らない。ホテルに戻っていいかな」
 彼は隣りの椅子に置いたショルダーバッグに手を伸ばした。薬を取り出すようだ。
「ホテルに戻って、テープを貼ろうか?」
「明日の朝、頼んでいいかな。朝食の後に」
 ホテルに戻って冬樹の部屋の前まで行ったときに、冬樹が言った。
「ぼくがこういう体調で、この旅行に退屈していないかい?」
「いいや」と修平は答えた。「懐かしいことをずいぶん思い出している。それを反芻しているだけでも楽しい」
「ぼくはもう眠るけれども、修さんはここでお酒を飲んでくるといい。旅先でのお酒って、ぼくは好きだ」
「そうだな。近場で店を探してみようかな」
「明日は何時に出発する?」
「昼前後ではどうだろう」
「少し早くてもいい。ランチは京都で食べてもいいんだ」
「明日、朝食のときに決めよう」
 冬樹が口調を変えて言った。
「さっきニューヨークのことを思い出して、ずっと気になっていることがあると思い出した」
 修平は冬樹を見つめた。なんとなく彼が気にしていたことがわかるような気がした。
 冬樹が訊いた。
「ニューヨークで、ミミとは何もなかったの?」
「ないよ」と、修平はすぐに答えた。「ワシントン広場で、三人で腕を組んで歌ったのを覚えているかい?」
「ああ。『トライ・トゥー・リメンバー』」
「あのときが、ぼくのニューヨーク体験のハイライトだった」
 冬樹がうなずいた。
「ぼくもそれを思い出したんだ。おやすみ」
 おやすみと修平も答えて、自分の部屋のドアの前に立った。
 部屋に戻ってから、奈津美に電話した。
 奈津美が訊いた。
「冬樹さんはどうですか?」
「うん」と修平は答えた。「休みたいと、部屋に戻ったところ。食欲がない」
「そうだよね。移動って、体力を使うから」
 奈津美の後ろで、数人の男女の声が聞こえた。奈津美はいま店にいるのだろうか。それとも事務所か。いま六時過ぎ。ライブはもう始まっているのかもしれなかった。
「ライブ、始まった?」
「夜の部が、もう少しで」
「明日も、やっぱり直接行かずに、京都で降りる。食事のときも、京都行きを楽しみにしていた」
「ほんとうに無理をしないで」
「ここまで来ると、引き返すのも同じようなものだ。奈津美ちゃんに会ってから、数日静養して途中下車なしで帰るのがいいと思う」
「うん、わかる」
 奈津美が、誰かに声をかけられたようだ。
「あ、いま」
 忙しそうだ。
 修平は、切るね、と言って、通話を終えた。

 

   7

 予約できたのは、京都駅の南側にあるビジネス・ホテルだった。
 地下鉄が使いにくいので、交通の便は多少悪いが、どっちみち冬樹の体調を考えれば、タクシーを使うことが多くなる。修平はホテルを予約するとき、かつて冬樹と会うために奈津美と泊まったビジネス・ホテルを探したが、もうその名のホテルはなくなっていた。四条烏丸近くにあったのだが、建て替えられてシティ・ホテルになってしまったのかもしれなかった。この観光需要で京都のシティ・ホテルの料金は高く、今度の旅行では泊まることは難しかった。
 京都駅に着いたのは、正午過ぎだった。荷物を預けるためにホテルに行ってみると、清掃は終わっているのでチェックインできるという。部屋に入って荷物を置き、身軽になって外出することにした。
 冬樹が言った。
「まず、一乗寺ってところに行ってもらえるかな。ぼくが住んだアパートのあたりを、ちょっと見てみたい」
「北のほうだよね」
「叡山電車っていう私鉄が走っていて、始発から三つ目に一乗寺駅がある。京大生とか、大学の先生なんかもわりあい多く住んでいるエリアだ。ぼくは、学校に電車一本で通いやすいんで、そこに住んだのだけど」
「学校までどのくらい?」
「十二、三分。駅と駅との間隔が近い。東京で言えば、日暮里と西日暮里ぐらいに。そして大学の前が駅だった。事実上直結していた」
「きょうは学校には行く?」
「いいや。一乗寺から、銀閣寺のほうにまわってみたいな。疎水沿いに少し歩きたい」
「哲学の道ってところかい?」
「うん。一乗寺のほうにも同じ疎水の下流沿いに散歩道があるけど、哲学の道のあたりのほうが断然閑静だ。ただ、一乗寺のあたりから哲学の道の北端まで、歩くと小一時間かかる」
「タクシーを使おう。行ったことはないけど、いい散歩道らしいな。楽しみだ」
「宮澤賢治がダービーハットみたいのをかぶり、コートを着て少し前かがみに歩いている写真があるだろ。あれは畑の中かな」
「あの写真をもとにした銅像が、花巻農業高校にある」
「賢治があの服装で歩くと、とても似合いそうな遊歩道だ」
「きっと冬樹さんも真似をしたね」
「まさか。でも、ときどき休みの日には、わざわざ遠回りしてバスに乗って行った」
「食事もしなければ」
「哲学の道の途中で鹿ヶ谷通に降りて食堂を探すか、街なかまで出よう。どっちみち、ぼくはそんなに長くは歩けない」冬樹は京都発祥で有名な喫茶店の名前を出した。「雨滴堂に近い。和久田さんに会うまでは、そこで時間をつぶしてもいい」
 じっさいにそのような午後となった。銀閣寺近くから哲学の道を五百メートルほども歩き、同じ道を戻ったけれども、そのあいだ冬樹はほとんど口を開かなかった。
 銀閣寺前からタクシーで市街地に出て、その有名な喫茶店というかコーヒー店でコーヒーを飲んだ。奈津美と来たときは、その店には来ていない。
 冬樹が和久田と約束した時間となるところで店を出て、三条通りを東に歩いた。冬樹が言っていたとおり、雨滴堂書房はその店のごく近くだった。
 店は古いビルの二階にあった。一度来ていたから、ビルの前に立ったときにここだと思い出した。看板やら外装は、多少変わっているが、面影は残っている。
 もともとは事務所用として建てられた建物なのだろう。階段で二階に上がり、ふたつあるうちのひとつのスチールドアの前へと進んだ。蔵書票のようなデザインの表札が掛かっている。木版画ふうで、店名の上にフクロウが彫られている。
 冬樹がドアを開けて中に入った。修平も続いた。店内も、前回入ったときと印象はほとんど変わっていない。書店というよりは、個人の住宅の応接室という雰囲気がある。室内の基調の色は焦げ茶で、書棚もひとつひとつクラシカルな、しかしバラバラのデザインのものだった。部屋の大きさは二十畳ほどだろうか。奥にバー・カウンターがある。ソファとテーブルもあった。音楽はかかっていない。
 Lの字の形のカウンターの奥のほうに、ガット・ギターが立てかけられていた。あの日もそうだった。
 奥のカウンターのスツールに腰掛けているツィード・ジャケットを着た年配の男が、和久田元だった。身体を半分、冬樹や修平たちに向けてくる。前に会ったときも感じたが、芸術関係の職業人らしい、お洒落で有能そうな男だった。
 修平は冬樹の後ろから和久田に会釈した。
「元気そうだ」と、和久田が冬樹の顔を見て言った。「あれは脅しだったのかい?」
 冬樹はたぶん体調を正直に話していたのだろう。
「ほんとうですよ」と冬樹はカウンターに近づいた。ほかに客はいない。カウンターの中にいるのは、三十代と見える男だ。長髪で、黒い眼鏡をかけている。バーテンダーというよりは、古書店主の雰囲気のほうが濃い男だった。年齢から考えると、アルバイトではないだろう。たぶんオーナーだ。その男が無言で会釈した。
 冬樹が和久田に修平を紹介した。
「及川修平さん。ここで会っています。あの詩集のカバーのイラストを描いてくれたひと」
 じっさいは描きためていた油絵の小品の中から、冬樹が選んだ作品だ。アンモナイトの化石を描いたものだ。
「ああ」と和久田は言った。「奥さんがギターを弾いたひとですよね」
 冬樹が首を横に振った。
「いや、あの夜ギターを弾いたのは、べつのお客でしたよ。彼女はアカペラで歌った。ぼくらの共通のガールフレンド」
 和久田が首を傾げた。
「だって、東京から一緒に来て、同じホテルに泊まっていた。ぼくがタクシーで送っていった」
「じつは違うんです。彼女は及川さんの奥さんじゃなかった」
「そうか。完全に誤解していたのか」和久田が冬樹に訊いた。「何にします。いや、飲めるのかな?」
「ソフトドリンクを。ジュースがいいな」
「及川さんは?」
 修平は言った。
「ビールをいただきます」
 和久田の左横のスツールに冬樹が腰掛けた。修平は三人の左端に着いた。
 目の前に国産ビールの小瓶が出てきて、ひと口飲んだところであの夜のことを思い出した。

 奈津美とふたりしてこの店に入ってきたとき、ドアを開けると談笑の声が聞こえてきた。五時からと知らされていたので、その五分前に到着したのだけれど、すでに会は始まっていたのだ。
 左手に若い女性が立っていた。学生ふうだ。もっと言うならば、美大生ふうだった。大胆なボブカットにタートルネックのセーターを着ていたはずだ。
 奈津美のほうは、ある時期からややとがった印象のある黒っぽいファッションが多かった。その日も、いかにもファッション業界で働く、それもクリエーター系の女性、という服装だったはずだ。
「いらっしゃいませ」とその美大生ふうの女性が挨拶してくるので、修平は案内状を彼女に渡した。テーブルの上の芳名帳に名を書くと、二千円頂戴いたしますとのことだった。少し関西訛りがあった。京都訛りなのかなとも感じた。
 修平が財布を出そうとしたところに冬樹がやってきた。
「修さん、ミミ、はるばるありがとう」
 それから彼女に言った。
「友達なんだ。東京から来てくれた。このふたりは無料で」
「あ、失礼しました」と彼女は言った。
 冬樹が新作の詩集を渡してくれた。かなり凝った装幀の、四六版よりもひと回り大きな判型の本だった。装画としてのアンモナイトを描いた三号油絵を冬樹に送っていたが、もちろんできた詩集を見るのはそれが初めてだった。詩集のタイトルは『伝導率』だ。冬樹がニューヨークにいた時期から書き出したものをまとめたものだった。
 冬樹に先導されて店の奥へと進んだ。先客がカウンターの端のふたつのスツールを薦めてくれた。修平が奥のスツールに腰掛けた。
 そのときの店のオーナーは四十代と見える痩せた中年男性だった。注文を訊かれて修平はビールを、奈津美は白ワインを頼んだ。キャッシュ・オン・デリバリーだった。
 狭い店の中に、立っている客も含めて十三、四人がいた。冬樹と同世代と見える男が多かったけれども、かなりの年配客もいたし、和服を着た中年女性もいた。聞こえてくる会話から、京都の文学関係者が多いのだろうとわかった。
 入り口にいた若い女性は、冬樹の大学の学生だった。冬樹のことを先生と呼んでいることで想像がつき、誰か客が冬樹に彼女はどんなひとなのかと訊いたときに、はっきりわかった。
 彼女はカウンターから離れた場所にいる客のために、ウエイトレスも務めていた。
 冬樹が修平をほかの客たちに引き合わせようとするたびに、修平は狭い店の中を移動した。
「東京でアート・ディレクターをしている及川さん」と冬樹は修平を紹介した。「この詩集の装画も、及川さん。ぼくが芝居をやっているときは、チラシはほとんど及川さんのイラストを使わせてもらった」
 奈津美を紹介するときは、冬樹は言った。
「長いつきあいのミミ。テキスタイル・デザインの仕事をしている。ぼくがニューヨークにいたときは、あちらの及川さんと一緒にやってきて、ぼくが関わった芝居を観ていってくれた。ぼくに詩のインスピレーションをくれている女性」
 冬樹の詩集を出版した出版社の社長、と和久田を紹介された。修平は、彼とは出版や広告の話題で多少会話を続けることができた。
 小一時間ばかり経ったときに、和久田がみなに言った。
「今夜はたぶん、みなさん、期待しているんやないかと思います。堂内さんに、この詩集の中から一篇か二篇を朗読してもらいましょ」
 客たちは拍手をした。冬樹は臆する様子もなくソファ席の横に詩集を持って立った。
 たぶん冬樹はそのつもりでいたのだろうし、読む詩も決めていたのだろう。もしかすると木曜日にあったという公式の出版記念会でも朗読したのかもしれない。
「割れた砂時計が」と、冬樹は刊行されたばかりの詩集を開き、読み始めた。「それでも計りうるものがあるとすれば」
 冬樹が二篇朗読し終えると、あらためて拍手があった。
 和久田が言った。
「みなさんさっきから気づいてはると思うけど、きょうは堂内さんのためにギターをぜひ弾きたいと、てぐすね引いているひとがいます」
 また拍手があった。和久田が関わるこのような集まりでは、定番のプログラムなのだろうかと修平は思った。
 長髪の、黒いシャツ姿の男が店のギターを手にして、スツールの上で腰を掛け直した。彼は慣れた仕種で音を合わせると、弾き始めた。
 クラシック・ギター曲の有名曲のようだが、修平にはタイトルがわからなかった。ギターの音色がそもそもそうだけれども、彼が弾いた曲は、いま冬樹が読み終えた詩の余韻を味わうに似つかわしい曲想のものだった。店内は静まり、いましがた冬樹の朗読に耳を傾けたときと同様の空気となった。三分ほどの曲だった。
 弾き終えたその男は、バッハでした、と店内を見渡して言った。
 それからも、居場所をスクランブルするようにして、修平も店内のあちこちを回った。客の誰もが冬樹の京都の生活と活躍をよく知っていて、修平の知らないことをさまざま教えてくれるのだった。大学の講義の評判、学生たちの評価、京都のほかの大学関係者との交遊などだ。冬樹は京都でそこそこその大学教員生活を楽しんでいるのではないかと思えた。完全に生きる世界を変えたのにもかかわらずだ。いや、冬樹にしてみれば、知り合ったころにおそらくは思い描いていたに違いない道に、遠回りしたけれどもたどりついたというところなのだろうか、と修平は思った。
 ときおり、受付の女子学生の視線が気になった。彼女は冬樹が奈津美の近くで話しているときには必ず、ふたりを見つめていたのだ。顔に感情は読み取れないけれども、彼女自身は冬樹の顔に何かを探ろうとしているように見えた。カウンター席に着いたままの奈津美は、女子学生のその視線にはまるで気づいていないようだった。
 和久田が修平に、美術や絵画にも興味のある大学の教員を紹介してくれた。彼との会話が終わって奈津美を見ると、彼女は少し退屈しているようにも見えた
 奈津美の隣りに行くと、すぐに冬樹がそばに来て、修平に訊いてきた。
「退屈していないかい?」
「退屈ではないけれども」と修平は小声で答えた。「ぼくにはついていけない話題も多い」
「そろそろ自然解散ってことになるから」
 冬樹は修平のそばから離れていった。
 奈津美は言葉が少なくなっていた。退屈に加えて酔ったのかもしれなかった。
 気がつくと、三時間ほども経っていた。客たちの半分はもういなくなっていた。残っていたのは、修平と奈津美、和久田、女子学生、それに男がふたりか三人だった。冬樹は、ソファ席で和久田、女子学生と飲んでいた。
 なんとなく雰囲気が弛緩していた。この会も締めの時間となったようだ。そう思ったときに、冬樹がソファ席から立ち上がり、カウンターに近づいてきて奈津美に言った。
「ミミにお願いしていいかな」
 奈津美が冬樹を見つめた。何を頼まれるのか、少し期待するような顔でもあった。
 冬樹は言った。
「こういう大事な夜なんで、ぼくのために歌ってくれないか」
 奈津美は笑った。
「ずいぶん突然ですよ」
「ひらめきだけで生きている身さ。あつかましいのは承知だ」
「どうして歌なんて」
「ニューヨークで歌った」
「ああ。でもあれは歌ったんじゃなくて、くちずさんだ」
「何軒かのカフェでも、歌いたい様子だった。だめかい?」
「歌えるといいなとは思ったけど」
「こんどの詩集には、ミミなしでは書かなかったものがいくつも入っているんだ。だからぜひ」
 奈津美はそれ以上拒まなかった。小さく心を決めたような顔でスツールから降りた。
 冬樹が和久田に何か言うと、和久田は店の中央に出て、残った客を見渡しながら言った。
「ご歓談中ではありますが、そろそろいったん中締めにしたいと思います。中締めの乾杯の代わりに、堂内さんの友人の、内藤ミミさんが一曲歌ってくれるとのことです」
 控えめな拍手があった。
 奈津美は冬樹と修平を交互に見てから言った。
「きょうの刊行のお祝いに、堂内さんも好きだという六十年代のポップスを歌います。ちょっと思い出のある曲です。メリー・ホプキンの『悲しき天使』。原題は『ゾーズ・ワー・ザ・デイズ』。『そんな日々があった』という曲です」
 少し意外そうな顔をした客が何人かあった。冬樹はうれしそうだ。あの曲をやっぱり、と喜んだようだ。
 奈津美は息を呑んでから言った。
「あ、わたし、酔っているかも」
 それから奈津美は伴奏なしで、修平にも親しいその曲を原詩で歌い始めた。その英語の歌詞に、冬樹の訳が重なって聞こえた。

 思い出して昔のあの酒場のことを
 わたしたちはグラスを重ねて笑い合い
 時も忘れて
 どんなことでもやってのけると考えた
 ……
 友よ、あの日々
 終わりがあるとは思えなかった
 一日じゅう歌い踊った
 選んだ道を生きて闘い
 負けることなどないと信じた
 そんな日々だった、そうでしょう?
 ……

 奈津美は三番の歌詞を省略して歌った。店の中に飽いたという顔になった者がいたのだろう。
 歌い終えて奈津美が一礼した。ブラボーと叫んだ客がいた。冬樹が誰よりも大きく手を叩いた。
 奈津美がカウンターに戻ってきて、修平と冬樹とのあいだのスツールにまた腰をかけた。
 修平は冬樹の目がうるんでいることに気づいた。
 冬樹が照れ臭そうに言った。
「ミミが歌ってくれるたびに、この曲が好きになる」
 何人かの客が立ち上がり、和久田が入口まで送りに行った。カウンターのそばには、修平たち三人だけとなった。
 奈津美が修平と冬樹を交互に見て言った。
「きょう、ちょっと発表があります」
「お」と冬樹が、一瞬だけ顔を輝かせた。いい話が伝えられると思ったのだろう。
 しかし奈津美の顔は、とてもその後に冬樹や修平を喜ばせる言葉を続けるものには見えなかった。
 修平は悪い話を予期して身がまえた。
 冬樹も奈津美を真顔で見つめた。
 奈津美が言った。
「とうとう広島に帰ることを決めたの。今月中に東京を引き払います」
 冬樹が瞬きし、奈津美に確かめた。
「ほんとうに?」
「うん」
 修平を見つめてきた。
「修さんは、聞いていたの?」
 修平は少し動揺しつつ答えた。
「広島に帰るってことだけは、前にも一度」
 奈津美が修平に目を向けてくる。そのとおりだと、かすかにうなずいたようにも見えた。
 自分は一度その言葉を聞いていた。まだ冬樹がニューヨークにいるころのことだ。
 修平は続けた。
「だけど、いま故郷に戻るのだとは思っていなかった」
「どうしてぼくに教えてくれなかったんだ?」
「だからそのときは、ほんとうだとは思わなかった。いや、違う」あわてて言い直した。「そのときは、ほんとうだと思って、衝撃だったから」
 修平を見つめる奈津美の瞳孔が、少し開いたように感じた。そうだったんですか?と聞かれたような。
 冬樹がまた奈津美に訊いた。
「いつ決めたの?」
「ずっと前。冬樹さんがニューヨークにいたころに。でも、なんとなく言うタイミングを逃がしてしまった」
「その後も会っているのに、匂わせもしなかったね」
「迷っていたもの。やっぱり帰るのは間違いかなと考えたし」
「そして、最近決めた?」
「そうなんです。親からも、あらためてやいのやいの言われるようになった。親に嘘をついて東京での暮らしを延ばしてきたけど、そろそろ限界」
「送別会はできるかな」
 奈津美は首を横に振って笑った。
「会えなくなるわけじゃないですよ。少し離れて暮らすようになるだけ。それに、冬樹さんが、そもそも京都に引っ越してきているじゃないですか」
「故郷に帰ってしまうのとは違う」
「誤解しないでくださいね。結婚するんで帰るんじゃありません」
 言いながら奈津美が修平にうなずいた。いま奈津美は、そういう理由じゃないんです、と念押しで言った?
 冬樹が言った。
「それでも実家に帰れば、あんまり気軽には誘い出せなくなる」
「会いに来てください。それに引っ越しまでは、ばたばたします。明日もじつは、広島に行くんです。帰郷の準備で」
 明日広島に行くのは、そういう理由だったのだ。修平が奈津美を見ると、彼女はうなずいた。
 冬樹が訊いた。
「家業を継ぐんだっけ?」
 奈津美は首を振った。
「そっちはとうに廃業しています。店は再開発が始まるまでって契約でドラッグストアに貸していたんです。でも、その話もなくなったんで、わたしが使わせてもらおうかと思って」
「あ、もしかしたらライブハウスか」
「ええ。いまそのつもりになっていて。実現するかどうかわからないけど」
 和久田がカウンターにやってきて、冬樹に言った。
「お二人、送っていきましょうか? タクシーを拾いやすいところまで出て、ホテルまで」
 冬樹が言いよどんだ。
「ええと」
 奈津美を引き止めて詳しく話を聞きたかったのだろう。
 奈津美が和久田に言った。
「お願いします」
 ホテルまでタクシーの中では、和久田がもっぱら自分の仕事のことを語った。京都の多くの文化人の自費出版本や地元・京都をテーマのノンフィクションを刊行してきたこと。印刷会社の二代目なので、いずれは親の跡を継ぐが、出版は趣味としても続けて行くと。冬樹と知り合いになれたことを心底喜んでいるようだった。
「及川さんも」と、ホテルに着く直前に彼は言った。「作品集を出すときは、うちに声をかけてくださいよ」
 そんなことは絶対にあるまいとは思ったが、修平は当たり障りなく答えた。
「そのときはよろしく」
 ホテルに着いて、ロビーで修平は奈津美に訊いた。
「明日、広島には何時に?」
 奈津美が修平に真正面に向かい合って答えた。
「九時前の新幹線」それからつけ加えた。「さっきまで、きちんと話してなくて、ごめんね」
「いいんだ」
 エレベーターのドアが開いた。奈津美とは部屋の階が違った。修平が三階で先に降りる。
 箱に乗ってから、修平は訊いた。
「完全に引っ越す前に一回、会えるよね」
「もちろんです。もしライブハウス計画が実現したら、修さんも広島に来てくださいね」
「冬樹さんと一緒に行くよ」
 ドアが開いた。
「おやすみ」と言って修平は箱を降りた。
 ドアが閉じると、修平は自分の部屋ではなく階段へと向かい、ロビーまで降りた。どこかもう一軒、酒を飲みに行くつもりだった。

 和久田が二杯目のビールに口をつけてから、冬樹に訊いた。
「その後、堂内さんはけっきょく詩集を何冊出しました?」
 冬樹が答えた。
「その後四点。全部で六冊」
 そのうちの一点は、名義上は詩集の専門出版社からの刊行だった。ただしほかの詩集と同様に自費出版だった。冬樹が京都にいたときに出た二冊目の詩集だ。
 和久田が言った。
「そうか。うちではあの一冊だけだったのは残念だけど」
「和久田さんだと、組にも装幀にも凝ったろうから、お願いはしにくかった」
「まあ、たしかに。それに、堂内さんはあの時点で、専門出版社から出すのは正解でしたよ」
「和久田さんには、恩義があったのに」
「うちがいい跳躍板になったのだから、喜んでいますよ。わたしの目利きが証明されたことにもなるんだし」
「そう言っていただけると」
「九州から送ってもらったことがありましたね」
「福岡でも一冊出したんです」
「福岡に行ったのはどうしてなんです? いきなり京都から引っ越したと聞いて驚いた。関わりのあったひとたちに事情を聞いてもよくわからない」
「ひとことでは言えない事情だったんです。だけど、和久田さんがもしかして想像したようなことじゃない」
 和久田が笑った。
「ぼくが何を想像したと思うんです?」
 冬樹も、微笑した。
「大学でありがちなスキャンダル」
「そんなことは想像したこともない」
「むしろそっちだと言っておけば、みなさん納得したのかなと思わないでもないです。後になってから、そう思った」
「いまでも、その事情は訊かないほうがいいですか?」
「いまとなっては、知ってもらっても仕方のないことだし」
 冬樹は首を回して修平に目を向けた。
 ここでは話題にはしないで欲しいと言っている目だった。
 修平は冬樹が京都を離れることにしたという事情を、多少彼自身から聞かされた。でも、冬樹が京都を離れた後のことは、ろくに知らなかった。福岡から、いまここに住んでいる、というハガキをもらったけれども、なぜ福岡に住んでいるのか、どんな仕事をしているのかといったことは、冬樹は書いていなかった。それを返信であえて問うこともしなかった。
 その後冬樹が東京に戻ってきて、またときたま会って飲むようになってからも、そのことを訊ねたことはなかったし、冬樹も自分から話題にしたことはなかった。
 東京に戻ってきてからは、冬樹はかつて大学院生のころからそうであったように、英語の書籍の下訳をやっていた。完全に名前を出さず、ひっそりとだ。おそらくは大学院でのつながりがあって、その仕事ができたのだろう。でも、福岡にいた時代もそうであったのかどうかは知らない。
 冬樹が福岡にいたのは、たしか六年か七年のはずだ。京都にいたのは、六年だろうか。冬樹が京都にいるあいだに、修平は冬樹と一緒に広島へ、奈津美に会いに出かけている。奈津美がライブハウスを開店して少し後のことだ。
 和久田がまた冬樹に訊いた。
「その後の作品をまとめるつもりはありませんか? 書きためているならば」
 冬樹は、かすかに戸惑いを見せた。
「ないわけじゃないけど、ぼくにはもう一冊作る体力がないな。もちろん資力も」
「編集は誰かに外注してもいいんです。校正できるだけの体力があれば、もう一冊、出せますよ。こんな言い方、悪徳商人の言葉のように聞こえるかもしれませんが」
 和久田が冬樹の身体ごしに修平を見つめて訊いた。
「どう思います?」
 自分に編集をやれと言っているのだろうかと、修平は考えた。事実上の遺稿集になることを見越して、それでも出すべきだと、和久田は言っている? その編集を、友人のあなたが手伝ってはどうかと。
 冬樹が言った。
「いまここでは、ぼくは何も先のことを約束できないんです。ぼくの葬儀が終わった後に、こちらの及川さんが和久田さんに相談することになるかもしれませんが」
 葬儀という言葉まで冬樹が出した。そのことに修平は驚いた。自分は冬樹との会話では、それを直接話題にすることは避けてきたけれども。
 たしかに冬樹がなくなった後には、遺稿集のまとめはありうるかもしれない。でもやはり、それはいま考えるべきことではないように思った。旅行は途上だ。目的が達成されないうちは、そのことを考えるべきではない。
 和久田が、冬樹の婉曲な拒絶など聞こえなかったように訊いた。
「詩は、どのくらいの量があります? 点数ではなく、原稿用紙にして」
 冬樹が答えた。
「さあ。原稿用紙には書いていないものも多い。手帳に書きつけてきたものもある」
「パソコンの中には?」
「少しあるかもしれない」
「一冊にできるだけの量があるかが気になります」
「あるでしょう。最後の詩集は十七年も前だ。還暦の節目に出したんです。むしろ多すぎるかもしれない」
「一度読ませてもらうことはできませんか」
「整理をしていないんです」
「残したいでしょう? ご本人を前に遺稿集の打ち合わせをするのは、自分が人でなしになったような気分になるんですが」
「率直な話、遺稿集を出すだけのオカネの余裕はないんです。二百冊刷っても、いまじゃ贈呈先もわずかだし」
 和久田が修平に顔を向けてきた。
「あとで、お名刺をいただけませんか。ご本人とするのは、ちょっとはばかられる話題もあるので」
 冬樹がスツールからゆっくりと降りた。
「トイレに行ってくるので、そのあいだにでも」
 冬樹が店の外に出ていった。この店のトイレは廊下の先にあるのだ。
 和久田が少し上体を傾け、少し小声で修平に訊いてきた。
「ざっくばらんに伺います。無礼でしたら、おっしゃってください。堂内さんの余命はどれほどと医者は言っているんです?」
 修平は少しためらってから答えた。
「半年。六カ月と言われたと聞いています。来月から入院だそうです。堂内はなんと言っていました?」
「半年と。でも、もう入院なんですか。では、原稿を揃えることは、すぐにもやっておかなければ」
「堂内は、いま言っていたように、最後の詩集を出す希望を持っていませんよ」
「詩人は、息を引き取る瞬間まで詩人です。言葉を残したいと望んでいる」
「だとしても、堂内は、おカネがないとも言いました。今後、入院でどれだけの医療費がかかるのかもわかりませんし」
「ご家族はいるのでしたか?」
「そばにいる女性はいます」
「配偶者ということですか?」
「入籍はしていないと聞いています。ご両親はもうなくなっているはずですし、ご兄弟のことはまったく知りません」
 和久田は溜め息をついて腕を組んだ。
 少し経ったところに冬樹が戻ってきて、修平に冗談っぽい口調で訊いた。
「マネージャーに、何か具体的な提案でも?」
「質問が少し」修平は和久田に言った。「こんどはぼくが席をはずしますよ」
 修平がトイレから店の中に戻ると、和久田が微笑を向けてきた。冬樹もどことなく、表情がゆるんでいるように見える。
 冬樹が言った。
「すごい契約がまとまったよ。ぼくは遺稿集を和久田さんに出してもらう」
 冬樹も遺稿集と口にした。それはもう、具体的な作業の打ち合わせになったということか。
 和久田が言った。
「その代わり、わたしが、堂内さんのすべての著作の著作権をいただきます」
「すべて?」と修平は訊いた。
「ええ。『海浜植物』から、すべて。戯曲集も。その代わりに、堂内さんの最後の詩集はわたしのところで刊行します。できれば六カ月以内に刊行を目指します。『伝導率』と同じ程度の造本で。結果として遺稿集になるかもしれませんが。どうであれ、堂内さんに費用負担はありません」
 それでよいのかと、修平は冬樹に顔を向けた。
 冬樹は言った。
「五分前には期待してもいなかった話になった。この申し出を断ったら、ぼくは阿呆だろう。どう思う?」
「冬樹さんさえいいなら。悪い話ではないと、ぼくも思う」
「装画に、修さんの作品使わせてもらっていいかい?」
「何点でも。自由に使っていいよ」修平は、和久田に顔を向けて訊いた。「和久田さんのほうは、この契約で損はないのですか?」
「何を言ってますのや」と、和久田は笑った。「この道楽のために、事業をしてるんですよ」
 和久田が店主に注文した。
「泡を三つ、いただきます」
 冬樹が言った。
「ぼくは飲めない」
「わたしが飲みます。乾杯用です」
 店主がスパークリング・ワインを注いだグラスを、三人の前に出してくれた。

 古書店を後にすると、さっきも入った喫茶店に入り、ごく軽い夕食をとった。
 修平はコーヒーとキッシュの夕食としたが、冬樹はコーヒーとチーズケーキだった。
 冬樹がチーズケーキを食べ終えてから言った。
「ふたりが京都に来てくれたとき、ミミの帰郷の話には驚いた。あのときも奇妙に感じたのだけど、修さんはその前からミミが広島に帰る話を聞いていたんだよね」
 修平は顔を上げて言った。
「聞いた。それまでにも何度か口にしていたけど、そのときは、こんどこそ本気なのだと思った。でも、奈津美ちゃんは帰らなかったんだ」
「いつのこと?」
「ぼくと奈津美ちゃんが、ニューヨークから帰った日だ」
「帰った日?」
「成田空港に戻った日」
 正確には、その翌日の朝だ。
 冬樹が不思議そうに言った。
「そのときは、ライブハウスの計画はあったのかな。それからまだ何年も東京にいたじゃない」
「なかったはずだ。あのときは、洋品店を継ぐのだと思った」
「ま、ぼくにせよ、ミミにせよ、基本的には旅するひとだものな。どこにいても、そこはけっして骨を埋める場所じゃない。仮の暮らしだ」
「そうだな。ぼくは農家の出なんで、住みついたら、そこが永住の地だ。そのつもりでそこで暮らす」
「盛岡には帰ったけれど」
「父親の介護があった。戻るのも自然だった」
「奥さんはそうは思わなかった」
「東京の生れ育ちだもの。盛岡は余生を過ごすには田舎すぎたのだろうし、義理の親の介護のために移り住むことは無理だった。結婚したときから、もしそういう事態になったら、自分はひとりで戻ることになるだろうと覚悟はしていたんだ」
「ぼくは、修さんにはミミが似合っていると、ずっと思っていたんだ」
「何を言っているんだ」修平は思わず、さっきの和久田の言葉を真似して口にしていた。「奈津美ちゃんを、早くからミミと呼ぶ仲だったのに」
「そういう仲だったのは、じっさいはそんなに長くないよ」
「ずっとミミと呼び続けている」
「終わったからといって、奈津美ちゃん、に戻すのもおかしかったから。修さんにも、彼女をミミと呼ぶようになってほしかった」
「そういうことは、勝手に決めちゃいけない」
 修平は冬樹のコーヒーカップも空になっていることを確かめてから言った。
「明日は広島だ。奈津美ちゃんに会える」
「メリー・ホプキンをやっと返せる」
 その顔は、あまりうれしそうではなかった。むしろ苦しげにも見えた。痛みに耐えている?
「戻って、テープ、貼るかい?」
 たのむ、と冬樹がうなずいた。
(つづく)

(第2回はこちらから)
(第3回はこちらから)
(第4回はこちらから)
(第5回はこちらから)

 

関連本

関連記事

著者

佐々木譲

1950年北海道生れ。「鉄騎兵、跳んだ」でオール讀物新人賞、『エトロフ発緊急電』で山本周五郎賞ほか二賞、『武揚伝』で新田次郎文学賞、『廃墟に乞う』で直木賞、2016年に日本ミステリー文学大賞を受賞。

人気記事ランキング

  1. WEBスピン新連載!本気の「好き」を伝えるためのお手紙講座 最果タヒ「燃えよファンレター」第1回
  2. 創刊号、9/27発売!
  3. 「スピン/spin」創刊号の目次を公開!
  4. 最果タヒのお手紙講座「燃えよファンレター」第2回 相手は好きな人なのだから、「うまく言えない」は愛の証明
  5. 【定期購読特典】尾崎世界観さん(創刊号)+斉藤壮馬さん(第2号)の「ことば」入り。「スピン/spin」定期購読・特典栞(3枚セット)が完成!

イベント

イベント一覧

お知らせ

お知らせ一覧

河出書房新社の最新刊

[ 単行本 ]

[ 文庫 ]

河出書房新社

「ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。」

Copyrights © Kawade Shobo Shinsha., Ltd. All Rights Reserved.