『自閉症のぼくは小説家』 第11回 「バスが好き」
内田博仁(うちだ・はくと)
2026.03.13
連載第11回 「バスが好き」
母はバスが遠くに見えると「バスだ…」と露骨に嫌な顔をする。これは仕方がない。何故ならバスが目の前を通る時、僕は大興奮して「うおおお!」と叫びながら大ジャンプをしたり、バスを食い入るように見つめたりと、周りの人に奇異な目で見られるような行動をしてしまうからだ。さらにバス駐留所のような多くのバスが集合している所を通った時は最悪だ。次々に訪れるバスに釘付けになって興奮で身体が固まってしまい、その場から動けなくなってしまう。
どうしてこうなってしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくバスがくると大興奮してしまうのだ。しかしあまりにも好きで興味のあるものが目の前に現れたら、人が感情を押し殺すことができなくなってしまうのは、無理もないのではないだろうか。これが普通の話せる人だったら「バスだ、凄いなあ」とか「かっこいい」とかその思いを日々表出することで、興奮した感情をなだめ、行動をコントロールできるのだと思う。
でもそもそも僕は、その大きな感情を心から出す方法がないのだ。全身汗でびっしょりになって震えながらこれ以上ないほどジャンプして、僕はそうやって興奮、興味、喜びを身体全体で爆発させるしかない。周りから見ると異常行動とか、奇妙な人としか見えないのかもしれない。でも僕にしてみたら純粋に「好き」という感情を身体全体で目一杯表現しているだけなのだ。
この行動について自閉症特有の「こだわり」とか「執着」という言い方をされるのは、少し抵抗がある。「好き」の表現の仕方は人それぞれだと思う。確かに普通の人から見たら奇妙な行動に映るのかもしれないけれど、僕らの心の中には言葉では表現できなくとも、抑えようもないたくさんの「好き」という思いや熱い感情が日々溢れているのだから。
ある日「そんなにバスが好きなら、この番組はくと好きなんじゃない?」とある番組を父に勧められて観た。テレビ東京の『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』という番組だ。
僕は普段あまりテレビ番組を観ない。よく映画など勧められるのだが、観ても5分と持たないのだ。ずっと同じ画面を見続けるのがしんどいからだ。しかしそんな僕がこの番組にはすっかりハマってしまった。何時間でも見続けられるのだ。じっとしているのがしんどくなったら、テレビの前に立ち、身体を動かしながらでもとにかく見続けてしまう。いつも気が付けば3時間ぐらい平気でたっている。
この番組を好きな理由はいくつもある。
まず単純に大好きなバスが常に画面に映っていること。バスを見ていると身体中に血が流れていくような高揚感と興奮が何度も訪れる。まったく飽きない。さらにこの番組には虜になる要素が他にいくつかある。ただバスが好き、という理由だけでは飽き足らない理由がそこにはあるのだ。
その一つが「旅に厳しいルールがある」こと。二泊三日という限られた期間内に目的地に到着しなければならないという過酷な状況設定、路線バス以外は利用禁止、インターネットで調べるのも禁止。そんな厳しい縛りの中でいかに自らルートを作り、点と点を繋ぎ目的地まで着くのかというぎりぎりの頭脳戦と緊張感。そこに惹きこまれてしまうのだ。
路線バスは理想通りには配置されていない、むしろ困難にさせるため、複雑にバラバラに停留所があるようにさえ思えてしまう。停留所が途切れた時はひたすら歩くしかない。夏は暑さに顔を歪めて、大雨の時や寒い時はその苦しみに耐えながら、ただひたすら進んでいく。見ているこちらまで共に困難を乗り越えていくような感覚になり、出演者と一体になった気持ちを抱きながら、成功を心から願い応援してしまうのだ。時に親切な人が導いてくれたり、助けられたりすると心が癒され和む。そうやって想定外な苦難と喜びが交互に訪れて、僕を画面から離さないのだ。
人間同士の絡み合いもありながら目的地に向かって歩んでいくそのストーリーは、いつもまるで人生そのもののようだと思う。
時に思い通りにいかなくても、道が途切れとどまってしまうことがあっても、どんな状況が訪れても明るく元気に切り換え前を向いて進んでいく。次々変化する状況にも冷静に向き合い見事に対処していく。全て僕に足りないものだ。この出演者の皆さんは凄いと思う。いつも学ぶものがある。好きなバスがきっかけで出会ったこの番組は、日々落ち込んでばかりの僕に、先が見えなくても果敢に挑戦し続けよう、困難な時は焦らずゆっくり休めばいい、人生は楽しいものなのだという前向きなメッセージを与えてくれる。何よりテレビを観るという趣味ができたことで日々充実感と喜びを感じることができているのだ。
先日僕はバスについてもっと探求しようという思いから、川崎にある「電車とバスの博物館」を訪れた。
僕は博物館や美術館見学、いわゆる社会見学というものが大の苦手だ。人混みと予想できない先行きが不安で毎回パニックを起こすか座り込んでしまう。そんな事情もあって、2階にある電車のコーナーを飛ばし、いきなり1階にあるバスの展示場まで一気に階段を駆け降りた。
すると僕の目の前にレトロな風情のバスが何台も並んでいる壮観な景色が飛びこんできた。それは昭和40年代から50年代に走っていた昔のバス達だった。発信機で呼び出しができるデマンドバス、昭和になって初めてできたワンマンバス(運転手1人で運行するバスのこと。それ以前は車掌さんが乗っていたそうだ)。
バスの歴史を目で見て体験できる展示場の様子に、僕の胸は高まった。しかしこの「体験」が僕にはいつも大きなハードルなのだ。苦心して何とか見ることはできたとしても、初めてのことをするのが苦手な僕は「体験」にどうしても二の足を踏んでしまう。
「はくと運転席に座ってみる?」
父が提案した。
「見れただけで充分だよね?」
と母がやんわり釘をさす。僕は何とかバスの中には入れたものの、次々入ってくる子供達の興奮する声と、目の前を走り回る様子にすっかり気圧されてしまい、端のほうで様子を窺っていた。運転席に座るには順番を待たなければならない。そこは母が代わりに並んでくれた。
「次はくとの番だよ! 3分だけだからね」
父の勢いある声に背中を押されたのと、座ってみたいという欲求が勝ったのか、エイっと勢いで何と僕は運転席に座れたのだ!
まず窓が大きいことに驚いた。横にも前にも大きな窓があって、その浮遊感はまるで空中に浮いているみたいだ。大きなハンドルを腕全体で回してみる。曲がる感覚を疑似体験できたことに喜びがこみあげる。右にある開閉ボタンを手前に引いてみると、「プシューッ」「ごおーっ」という音と共に中扉が開く。
自分の指示で扉が開くという何とも言えない快感、自分がバスをコントロールしているという実感に気持ちが高ぶり何度も振り返る。夢のような3分間は一瞬で終わった。
これがバスの運転を体験するということなのか。バス好きが高じて苦手だった「社会体験」ができてしまった。知識だけでは得られない発見、五感で感じる感覚や感触はバスへのより深い理解へとつながった。その満足感と充足感は想像以上だった。
興奮するほど、執着するほど好きなものがあることは決して悪いことではない。何故なら僕のようにそれが趣味につながったり、苦手なものを克服する力になったりと、強みになることがあるからだ。好きなものにはどんなことも乗り越えてしまうようなパワーがある。
きっとバスの魅力は乗り物が好きだった子供の時の気持ちを想い出すと分かってもらえるかもしれない。大きくて迫力があって強いイメージに皆一度は惹かれた経験があると思う。
小さい頃、バスのおもちゃを手に寝ころんで、まるで自分がバスになったような気持ちで走らせていたものだった。まだ知らない世界、夢の世界にバスは連れていってくれるような気がした。僕は子供の頃好きだったあの純粋な思いをずっと持ち続けているのかもしれない。







