路上の輝き 最終回

路上の輝き 最終回

 

   11

 ライブが始まってからも、客はさみだれ式に入ってきた。店の最後の営業なので、しばらく足が遠のいていた客も来ているようだ。始まって三十分もしたころには、店内は完全に満席となった。テーブル席がなくなってからは、客たちはカウンターのそばや壁際に立ったままで、酒を飲みつつ演奏を聴いていた。
 奈津美はけっきょく、店主の仕事を優先し始めた。テーブルへの飲み物やつまみの提供に切れ目がなくなったようだ。椅子には戻ってこなくなった。
 ヒロシマ・ドリームスは、前に聴いたときよりも演奏する曲目を広げていた。六十年前後十年ほどの曲ばかりではなく、いくつか六十年代後半から七十年代の曲も混じった。修平も知っている曲が多かった。そのあたりまでが、お客にとっても、ほとんどオールデイズと同様の懐かしの曲となってしまったということだろう。
 二度目の休憩が終わったところで奈津美が戻ってきた。
 冬樹が訊いた。
「一段落した?」
「小休止です」と奈津美が答えた。「いつもこのくらい入ってくれたらよかったのに」
 修平は奈津美に訊いた。
「再開発は、もう完全に決まったことなのかい?」
「うん」と奈津美が答えた。「売却契約も終わった。このビルの解体工事の日程も決まっている」
「終わりはいつだって、自分の意志の外で決まる。だけどそういう場合は、逆らうべきじゃないんだよな。それは潮時だってことだ」
「そうだね」と奈津美は言った。「自分では、なかなか決めることはできなかったろうし」
 ステージで、ボーカルのマリが言った。
「次は『バン・バン』をお聴きください。ナンシー・シナトラ版のアレンジのほうで」
 曲が終わると、冬樹が不思議そうに奈津美を見て言った。
「ナンシー・シナトラって、こんな歌を歌っていたんだ」
 奈津美が言った。
「聴いたことなかったですか? オリジナルはシェール」
「知らなかった。っていうか、バン・バンって部分だけは知っている。歌詞をいま、初めてきちんと聴いた気がする。ナンシー・シナトラを誤解していたかな」
 マリの声がステージから聞こえてくる。
「では、わたしたちのこのお店でのライブもいよいよ終わりから二つ目の曲になります。ブラザース・フォアの『グリーン・フィールズ』。ヒロシマ・ドリームスを結成したばかりのころ、数少ないレパートリーのひとつがこの曲でした」
 演奏が終わって拍手も収まったときに、冬樹が言った。
「喪失の曲が続くな。このグループは、こういう曲が好きなのかい?」
 奈津美が首を振った。
「たまたまだと思う。でもうちのライブでは、どっちかはたいがいプログラムに入っていたかな」
 マリがまたマイクに向かって言った。
「次は、お店の奈津美さんも大好きな曲です。こういう日なので、これを最後の曲にしたいと思います。『悲しき天使』、森山良子の日本語版ではなく、英語版で聴いてください」
 修平と冬樹は奈津美を見た。これは、リクエストしていたのか?
 マリが奈津美に顔を向けて言った。
「奈津美さん、よかったら一緒にどうですか。ここで歌うのは」
 奈津美はステージに身体を向け、大きくかぶりを振った。
「何を言ってるの。わたしは、店側のひとなんだから」
「きょうは特別な日でしょう」
 常連客たちだろうか。奈津美に、歌えとけかしける声が出た。
 奈津美は言った。
「声が出ない」
「そんなことはないと知ってる。奈津美さんのお店の最後の曲は、奈津美さんの大好きな曲で締めるのがいいでしょう?」
「マリさんにも失礼」
 促す声がさらに続いた。悪のりの声とは聞こえなかった。客たちは、本気で奈津美の歌を聴きたいのだと感じられた。もしかすると奈津美は、この店でライブのないときに何度か、常連客たちと歌ったことがあるのかもしれない。
 拒めばその場がしらけると思えてきた。けっきょく奈津美は立ち上がった。もちろん修平は、奈津美が歌ってくれることに異議はなかった。
 奈津美がステージに進んだ。マリも拍手で迎えた。従業員のひとりが、素早く奈津美のためにマイクをセットした。
 奈津美がマイクに向かい、いくらか戸惑いぎみの顔で話し始めた。
「こんなことは、打ち合わせじゃなかったんですけど、そして出てくるべきとも思わないのですけど、いまここには、大事なひとが大勢来ています。お耳汚しになるけど、マリさんの横で、ごく小さな声で歌わせていただきます。最後の日なので」
 ギターでイントロが始まり、マリが奈津美に目で合図した。ふたりが歌い始めた。マリは主旋律を奈津美にまかせ、フォローするように歌ったが、サビの部分は一緒だった。
 マリの声は、さすがにセミプロの艶のあるものだった。滑らかで、声量も豊かだった。奈津美の声は、知り合った当時の張りは薄れているものの、親しみやすい温かみがあった。歌詞のひとことひとことを信じている、と感じさせる真摯さがあった。
 ふたりの声の歌を聴きながら、修平は冬樹が訳した日本語の歌詞を思い起こしていた。

  思い出して昔のあの酒場のことを
  わたしたちはグラスを重ねて笑い合い
  時も忘れて
  どんなことでもやってのけると思っていた

 奈津美が歌うこの曲を聴くのはずいぶん久しぶりだ。京都で歌ったのを聴いたのが最後かもしれない。あれ以降は、たまたま聴いたラジオの番組か何かで耳にしたことがあった程度だ。
 この曲を奈津美の歌で聴いたのは、初めて月蝕洞で会ったときだ。冬樹が、きちんと訳した歌詞を清書して月蝕洞に持ってきたときに、奈津美はまた歌った。尾瀬では、星空の下でやはり奈津美は歌った。
 同じテーブルで、冬樹も無言だ。歌う奈津美の顔を見つめている。

  友よ、あの日々
  終わりがあるなんて思えなかった
  一日じゅう歌い踊った
  選んだ道を生きて闘い
  負けることなどないと信じた
  若いからすべてが叶うとも

 冬樹が、修平に顔を向けてきた。いいね、と言っている。驚いたことに、冬樹の目はうるんでいた。
 修平はワイン・グラスを口に運んだ。

  でもいつしか時に揉まれて
  道の途上で輝きも失くした

 奈津美の視線は客席の後ろのほうに向けられているが、目の焦点はそこではなかった。ずっと遠くで合っているようだった。
 冬樹が、少しうつむいている。

  友よ、あの日々
  終わりがあるとは思えなかった

 ふいに冬樹が、むせるような表情となった。うっと、小さな声を出した。
 修平はテーブルの上に手を伸ばして、冬樹の左手の上に自分のてのひらを重ねた。
 冬樹が顔を上げ、微苦笑して小声で言った。
「なんでもない。いきなり嗚咽しそうになったんだ」
 修平は訊いた。
「嘔気ではなく?」
「違う。感極まったんだ。声が出そうになったんで、こらえた」
 その表情に強がりや虚栄はないように見えた。修平は手をひっこめた。
 冬樹は水に少し口をつけて言った。
「この曲が、こんなふうに聞こえるなんて、以前は想像したこともなかった」
 自分も、同じようにいま感じていた。修平は意識を奈津美とマリの歌声に戻した。
 三番が終わり、続くスキャットの部分は、ヒロシマ・ドリームスのほかの三人の男性メンバーも歌った。
 やがて曲は転調した。少し不安な、悪い結末を伝えるかのような調子に。

  そうね、わたしたち大人にはなれずに
  同じ夢を抱いたままね

 それから同じ歌詞のリフレインとなった。

  友よ、あの日々
  終わりがあるとは思えなかった
  選んだ道を生きて闘い
  負けることなどないと信じた
  そんな日々だった、そうでしょう?

 歌い終えて、奈津美は少し上気しているように見えた。マリはその横で深々とお辞儀をした。
 冬樹が顔を上げた。彼は涙ぐんでいた。
 彼は、修平が自分を見つめていたことに気づいたか、照れたように言った。
「そうだよ。歳のせいで、涙腺がゆるんでる。シンプルな言葉が、若いときよりもずっと深く感じ取れる」
 修平もハンカチを手に取り、鼻水を拭いて言った。
「冬樹さんの訳を思い出して聴いていた」 
「このグループは、どうしてこうも、喪失の曲ばかり続けるんだ?」
 マリが背を伸ばし、マイクに向かって言った。
「三十年以上も、このお店でライブをやらせてもらって、アマチュアなのに多くのファンもできました。でも、きょうこのお店でのライブは最後になりました。わたしたちを最後の最後のプログラムに入れていただいたことを、ほんとうに光栄に思っています」
 また拍手があった。
「ありがとうございます。お店のオーナーの奈津美さんには、感謝の言葉しかありません。奈津美さん、ここまで、ほんとうにありがとうございました」
 マリが奈津美に手を伸ばして、何かあいさつを言えと促したのがわかった。
 奈津美が言った。
「このお店をオープンしてから、もう三十二年になります」
 客の何人かが、驚きをもらした。
「そんなになるんだ」
 修平も、あらためてその年月を意識して驚いた。奈津美が東京を去ってしまって、それだけの年月が経っていたのだ。奇妙なことに、それほど長い時間だったとは感じられなかった。会う頻度は極端に減っていたのに、疎遠になったという感覚はなかった。会っていない時間が空きすぎているとも思えなかった。奈津美が東京を去ったときに、すでに誤解や勘違いや行き違いで一喜一憂するような関係を脱していた、という思いがあったせいかもしれない。自分たちは、もうすでに距離が定まっていた。遠ざかることも、近づくこともなく、安定した距離のままに、仲を維持してきた。
 奈津美が続けた。
「故郷の広島でライブハウスをするのだと決めて帰ってきて、まったく手さぐりで始めたライブハウスでしたが、みなさまに支えられてここまでやってこれました。苦労もあったけれど、いまはいい思い出ばかりです。ほんとうにきょうまでみなさま、ご声援をありがとうございました」
 客のひとりが大声で訊いた。
「また別の場所で始めるんですよね?」
 奈津美は首を横振った。
「いいえ。この建物もなくなります。戦後、両親が古着を売るところから始めて、建物を二度建て替え、店を大きくしていった場所です。高校を卒業するまで、わたしもこのビルに住んでいました。ですから、新しい場所に移ってということは、考えられません。正直言うと、自分の残り時間を考えると、もう新しいことは無理でしょう。紙屋町スタジオは閉めどきです」
「ライブハウスでなくても」
 奈津美は微笑し、あいさつの口調をくだけた口調に変えて応えた。
「どうかな。何もしないな、きっと」
 それまでで一番盛大な拍手の中を、奈津美が席まで戻ってきて言った。
「マリさんたちのステージをだいなしにしたかもしれない」
「そんなことはない」と冬樹が言った。いいライブ、だった。よかった」
 修平も同意した。
「奈津美ちゃんの『悲しき天使』が聴けてよかった」
 冬樹が言った。
「LPを届けられてよかったよ」
 ステージの照明の大半が消え、客席が少し明るくなった。客の声が大きくなっていった。
 マリたちがステージから去る準備を始めた。
 修平は奈津美に訊いた。
「この後、店は?」
 最後のライブは四時に始まったから、まだ六時前なのだ。店自体は営業を続けてもいい時刻だった。
 奈津美は、また客に会釈した。向こうからあいさつがあったのだろう。まだ奈津美には、店のオーナーとしての仕事が残っているようだ。
 奈津美が、客席を見渡しながら言った。「九時までは営業する。そこでおしまい」
「後片づけは?」
「手伝ってもらう。事務的なことは、週明けからだし」奈津美は修平たちに視線を戻した。「修さんたちは、明日は?」
「ホテルを十時ぐらいに出て、お昼の新幹線に乗る」
「切符はもう買った?」
「まだ」
「わたしの運転で、広島巡りをしている時間はないか」
 年配の女性客が修平たちのテーブルに近づいてきた。少し酒が回っているという顔だ。年齢は奈津美と同じくらいだろうか。ファッションが垢抜けて見えた。
 その女性が言った。
「このひとたちがそうなのね」
 奈津美がその女性を見上げて答えた。
「そう。このひとたち」
「ふたり揃って来たんだ」
 奈津美が修平たちにその女性を紹介した。
「高校からの友達の宮越さん」
 宮越と紹介された女性は言った。
「名前を当てられる。こちらが」宮越は修平に顔を向けた。「堂内さん」
 奈津美が微笑して首を振った。
 修平は宮越に名乗った。
「及川です。はじめまして」
 宮越は冬樹に視線を移して言った。
「じゃあ、こちらが堂内さんか」
 冬樹は宮越の顔を見ておらず、言葉に反応もしなかった。
 奈津美が冬樹の顔を見た。
「どうしたの?」
 冬樹が奈津美に顔を向け、唇を一回噛んでから言った。
「トイレに行きたい」
 修平はすぐに椅子から立ち上がり、冬樹を横から支える体勢になった。
 奈津美が冬樹が訊いた。
「大丈夫?」
「ああ」と冬樹は軽い調子で言った。「店の盛り上がりに、少しのぼせたんだ」
 冬樹が椅子から立ったので、修平は彼の左腕を支えた。冬樹は支えを拒まなかった。
 店の入り口寄りにあるトイレへと向かって歩いた。冬樹の体重が修平にかかってきた。足どりは重そうだった。
 奈津美も立ち上がった。自分も支えようとしたようだ。修平は奈津美に微笑した。ぼくで十分だから。
 男性トイレに入ると、冬樹は個室に入った。修平は個室のドアの外に立った。中から、カサカサと紙の触れる音が聞こえてきた。
 三分ほど待ったところで、また紙同士が立てる摩擦音があった。
 でも、外に出てくる気配がない。
「大丈夫かい、冬樹さん」
 中から冬樹が答えた。
「ホテルに戻りたい。送ってくれないか」
 見た目以上に、具合が悪かったようだ。
「ああ。奈津美ちゃんに、タクシーを呼んでもらう」
 ドアがごとんと揺れた。冬樹が体重をかけたかよろめいたのだ。
 水を流す音が聞こえ、冬樹が洗面台を使ったのがわかった。やがてロックをはずす音が聞こえた。
 出てきた冬樹の顔は、白く見えた。額に脂汗が浮かんでいた。
「うん、大丈夫だ」と冬樹が言ったが、すぐにも休ませたほうがよさそうな声だ。力がない。
 トイレのドアが開いた。外から奈津美が中を窺ってくる。冬樹の声が聞こえたのだろう。不安げな顔だ。
 奈津美が訊いた。
「戻る?」
 冬樹が言った。
「そうする。最後までいられなくて、ごめん」
「それはいいの」
 修平は奈津美にタクシーを呼んでもらえるか訊いた。
「呼ぶね。ホテルまで、わたしも行く」
「いいよ」と修平は制した。「まだ用事があるんだろう?」
「まかせて行ける」
「大事な夜なんだ。店にいたほうがいい」
 奈津美はうなずいた。店の外ドアまで行くと、奈津美が席から修平たちのバッグや上着などを持ってきてくれた。
「タクシーはすぐに来る」
 修平は奈津美に言った。
「とりあえず、きょうはおやすみだな」
「おやすみ」と奈津美は言った。「電話がなければ、安心だと思っているからね」
「もし明日の朝、冬樹さんの体調がいいようなら、短い時間、広島郊外を回ってもらおうかな。冬樹さん次第だけど」
 冬樹は反応しなかった。目をつぶって、ぐったりと修平にもたれかかってくる。ほんの一分前よりも、体調は悪くなっているようだ。
「いいよ」と奈津美が、不安げに冬樹を見つめつつ応えた。
 店の外の小路に出ると、ちょうどタクシーが着いた。修平は先に冬樹を後部シートに乗せようとしたが、冬樹は自分では身体を十分に動かせなかった。半ば押し込むように奥のシートに座らせた。冬樹の身体は熱っぽかった。汗をかいている。
 なんとか冬樹にシートベルトを装着させ、自分も乗り込んでから、奈津美に手を上げた。
 奈津美も手を上げてきた。胡町のホテルの名を告げると、タクシーはすぐに発進した。
 修平は冬樹に言った。
「部屋で、休んでいれば、ラクになるよ」
 もちろん気休めだ。
 冬樹が、何かあえぐように言った。濁った、小さな声だ。言葉が聞こえなかった。
「ん?」
 苦しい、と聞こえた。
 冬樹の体調について予想していた症状ではなかった。嘔吐があれば危険かもしれないと考えていたのだ。でも、もう十分に病院に行くべきレベルだ。
 修平はタクシー運転手に言った。
「運転手さん、病院にやってもらえますか」
 運転手はミラーごしに訊いてきた。
「ひどく悪いの?」
「みたいです」
「急性アルコール中毒ってことはないのかい」
「違います。どこか救急患者を見てもらえる病院に」
「そういう病院がどこか、わかんないなあ」運転手は車が大通りへ出るところで言った。「指定してくれたら行くんだけど」
 どうするか。修平は夜の広島の市街地を見やりながら考えた。夜の広島市内をタクシーで走っているよりは、もうここで救急車を呼んでよいのではないか。昨日の夜は緊急入院のことまで想定したのだ。冬樹の体調は、それくらいのところにある。
「運転手さん」と修平は言った。「どこでもいいです。いちばん近い大きめの病院まで行ってもらえますか。そこで救急車を呼びますので、救急車が来るまで乗せていてください」
「ああ、わかった」
 タクシーは、夜の広島市中心部で加速した。

 

   12

 医師から簡単な説明を受けた後、修平は奈津美に電話した。
「どう?」と、奈津美はいきなり訊いてきた。タクシーで店を出てから、もう四十分経っている。彼女はこの時間を、安心だから電話がなかったとは受け取っていなかったのだ。
 修平は言った。
「救急車で、運ばれた」舌がもつれた。自分は動転している。「ぐったりして、意識はもうろうとしているんだ。ICUに運ばれた」
「待って。病院はどこ?」
「広島厚生病院。医者には、すい臓がんの末期で、来月入院することになっていると伝えた」
 病院に着いた直後、女性看護師から、冬樹に代わっての問診があった。救急車の中で救命士から訊かれたことと多くが重なっていた。
 修平は冬樹のショルダーバッグの中から、健康保険の資格証明書、冬樹が服用していた薬のリスト、直近の定期検診の血液検査結果票のコピーを出して看護師に渡した。
 あなたは、と問われたので、修平は自分の運転免許証を出し、意味のないことだと気がつかないままに、自分の健康保険資格証明書も見せた。
 看護師が確認した。患者さんとは、どのようなご関係ですか?
 古い友人で、一緒に旅行中なんです。
 お身内ではないのですね?
 違います、と修平は答えた。
 そこまで伝えると、奈津美が言った。
「わたし、行くね」
「いや」と修平は止めた。「医者からはまだ何も聞いていない。処置中なんだ。医者の説明を聞いたら、また電話する。朝まで眠っていればいいってことであれば、そのときも電話する」
「安心していいってことだよね?」
「いいよ」
 根拠のない答えであったが。
 それが三十分前、救急車でこの病院についたすぐ後のことだ。
 集中治療室に通じる廊下のベンチで、そのときの看護師が戻ってくるのを待った。廊下の突き当たりを右に折れた先に、集中治療室があるようだった。ベンチで待っていれば、ほどなく看護師が戻って医師の所見を伝えてくれるだろうと思ったのだ。あるいは医師本人が来るか。しかし、その看護師はなかなか戻ってこない。
 とうとうたまらず、五分ほど前に修平は、ナースステーションの看護師に訊いた。いま運びこまれた男性の容態はどうなのだろうと。
 処置が終わったら、先生からお話があると思います、との返答だった。
 修平は、ベンチに戻り、できるだけ希望的に事態を解釈しようと努めた。冬樹は自分と一緒に、一時間と少し前まではライブを聴いていたのだ。そのとき冬樹の意識は清明で、ひどい痛みが出ていたようでもない。ライブの後の三人での雑談のころから、ふいに、心ここにあらずという雰囲気になった。もしかすると胸の痛みが出てきたのはあのあたりからか。そのあと、冬樹は話しかける言葉にも反応できなくなった。でも、意識はあったと思えた。寄り掛かりながら歩けたし、タクシーに乗るときも、自分が何をすることになっているのかわかっているかのような反応だった。ただ苦しくて声が出せなかったのだ、と思える。
 最悪の場合までは心配しなくてもいいだろう。そして、医師の所見を聞くまでは、奈津美にも近藤千春にも電話はしないほうがいい。
 そう自分を納得させようとして、しかし不安は募った。いくらなんでも、体調の変化が急過ぎるという印象がある。修平は自分の周囲で、ここまで急激に体調が悪化して、救急車で運ばれた知り合いを知らなかった。また聞きで知ったことがいくつかある程度だ。そういう例でも、ほとんどは、いやすべてが、救命処置で生命は助かっているのだ。
 心配する必要はない。最悪を、ほんのわずかでも想定することはない。
 四十五分が過ぎた。
 廊下に靴音が聞こえた。修平は背を起こして、廊下の角を見つめた。白っぽい上着をひっかけた男性が現れた。その横に若い女性看護師。男性が医師だろう。その顔は、謹厳だった。ここで待ち続けた友人の気持ちを軽くしてはくれそうもなかった。
 男性が修平の前に立った。
 修平もベンチから立ち上がった。
「堂内さんのお友達でしたね?」
「ええ」修平は相手の目をまっぐに見つめて答えた。頼むから、いい所見を。「ここに連れてきました」
「すい臓がんのステージ4という診断はいつのものです?」
 正確には知らない。でも最近だ。冬樹が手紙を投函した何日か前のことだろう。
「たぶん二週間ぐらい前なのだと思います。十日ほど前に、彼から知らされました」逆に訊いた。「容態はどうなのでしょう?」
「堂内さんは、到着時点で肺塞栓を発症していました」
「というと?」
「呼吸困難です。血栓が肺に詰まっています。膵臓がんが進行していた影響でしょう。多臓器の働きも弱っていて、いわゆる急性の全身不全の状態です」
 医師は、修平がその言葉を理解できているのかどうか確かめるように見つめている。
 修平も、理解しようと努めたが、言葉が大脳の表面をただ滑っていったような感覚があった。
 医師は続けた。
「点滴や薬で血圧を上げる処置を行っていますが、体がそれに耐えられる状況ではありません」
 その声音は、決定的な言葉を用意しているかのように聞こえる。
「話せますか」
「いいえ。いまは意識がまったくなく、お声をかけても反応できません」
「容態がおかしくなったのは、ほんの一時間か二時間前です。それまでは、楽しげに音楽を聴いていたんです」
「旅行中だったとか?」
「はい。来月というか、もう来週ですね。緩和ケアの病院に入院の予定で、いまなら思い出の場所もたどれるかと」
「少し無理があったのかもしれません」
 旅行につきあったことが、死期を早めたのだと、いま自分は非難されたのか?
 修平は弁解した。
「旅行できる程度には元気そうでした」
「堂内さんのご自宅はどちらなんです?」
「東京です」
「広島には、どなたかご親戚でも?」
「古い友達がいます」
「お身内には、ご連絡したほうがよいかもしれません。わたしはICUに戻りますが」
 つまりそれは、危篤状態ということか。家族は覚悟しておけ、と助言をもらったのだろう。
 医師は廊下をいまきた方向へ去っていった。
 奈津美に電話した。
「どう?」と、またいきなりに訊いてくる。この四十分ばかりを安心して過ごしていた声ではなかった。ならば口にしやすい。
「医者から伝えられた。身内に連絡をしたほうがいいと」
「それって」
 修平は医師の言葉を少しだけトーンを変えて伝えた。
「がんが、本人が思っていた以上に進行していたようだ。内臓が、いろいろ一気に機能低下したらしいんだ。医者の言葉をひとつひとつ正確には思い出せないけど、そういう意味だった」
「危篤って意味なの?」
「そうなんだと思う」
「急過ぎる」
「旅行で無理をさせたかもしれない」
「修さんが責任を感じることはない。わたしも案内を送ったのだし」
「それでも」
「行くね」
「ICUに入れるわけじゃない」少し強い調子で言った。「次の電話を待って」
「危篤なら、病院に行っていたい」
 奈津美が通話を切った。
 修平はベンチに腰掛けた。
 緊急入院の心づもりはしていたが、この事態は予測していなかった。いや、予測することを避けていた。意識が追いつかない。少し落ち着かねばならなかった。
 やることはいくつかあったはずだが、それはどんなものだったろう。優先順位はどうだったろう。
 気がつくと足音が廊下を近づいてきた。まっすぐ自分の方に向かってくるようだ。顔を上げると、奈津美だった。さっき話してから十分くらい経っていたようだ。
 奈津美は訊いてきた。
「どう?」
 修平は首を小さく横に振った。
「その後はまだ」
「じゃあ、回復するかもしれないのね」
「わからない。医者の口調は、覚悟してくださいと聞こえた」
「いまの状態はどうなんだろう?」
 電話でも教えたことをもう一度言った。
「そうした言葉だけでも、つらい」
「冬樹さんの身内に連絡を取ろうと思うけど、ぼくは近藤千春さんしかしらない。何かの場合、自分が内縁の妻だと言っていいと」
「ああ、千春さんはそうなんだ」
「だれかご家族を知っている?」
「ううん。千春さんは、きっと知っているよね。わたしが電話する。番号を教えて」
 修平は千春の番号を奈津美に伝えた。
「わかった」
 すぐに近藤千春に電話した。
 奈津美は修平から数歩離れて、電話をし始めた。
「上浦奈津美といいます。広島厚生病院から電話をしています」
 奈津美が冬樹の症状を伝えた。
「千春さんは、冬樹さんの身内、家族の連絡先をご存じですか?」
「もしこちらで亡くなったら、葬儀の手配が必要だけれど、冬樹さんは何か希望を残していました?」
「その余裕はないと思います。医師の言葉では、もうほどなく息を引き取るニュアンスだったそうです。わたしは直接は聞きませんでした」
 奈津美の声を聞きながら、修平は時計を見た。十時三十分になっていた。どこかの時点から、時間は進行を早めていたようだ。さっきまでは焦れったいほどに、その進みは遅かったのに。
 廊下に靴音が聞こえた。振り返ると、さっきの医師だった。
 奈津美がスマートフォンに言った。
「ちょっと待ってください。先生が来ました」
 近づいてきた医師は、修平の前で立ち止まって言った。
「できる限りのことをしましたが、いま、堂内さんは息を引き取られました。力及ばず申し訳ありません」
 奈津美が顔を医師に向けたまま、スマートフォンで千春に言った。
「亡くなった」
 修平は医師に訊いた。
「そばに行けますか?」
「どうぞ」
 奈津美が千春に言った。
「いったん切ります」
 修平は奈津美と一緒に医師の後について廊下を進んだ。

 冬樹の身体が集中治療室から霊安室に移されたのは、それから十分後だ。霊安室までは年配の女性看護師がついてきてくれた。もうひとりの若手の女性は事務職員だった。病院内はもう静まり返っている。四人とも無言のままで、ストレッチャーをあいだに音のない廊下を歩いた。
 奈津美はそれまでも涙顔だったが、霊安室では声を出さずに泣き始めた。目から涙をあふれさせている。
 修平も霊安室であらためて冬樹の死に顔を見た。冬樹は目をつぶっているが、どこか微妙に皮肉っぽい微笑にも見える。修平にはごく親しい冬樹の生前の表情だ。苦しんだり痛みに耐えている顔ではないのが救いだった。
 修平はまだ感情が整理できていなかった。混乱している。理性が冬樹の死を受け入れていなかった。ほんとうに息を引き取った? 冬樹の顔は寝顔のようにも見えるのに。つい二、三時間前までは、一緒に音楽を楽しんでいたのに。
 事務職員が言った。
「こんなところで、事務的な話題になって恐縮なのですが、お身内の方は明日来られるのでしたね?」
「はい」と奈津美が答えた。「身内と言っても、内縁の奥さんです」
「そうですか。どうしてこれを確かめるかというと、死亡届けは基本的にはお身内の方が出すものですから。内縁ということは、その方は患者さんと同居されているのですよね。それを証明できる書類があれば、問題ありません」
 修平は訊いた。
「書類というと?」
「ふつうは住民登録が同じ場所であれば」
「そのひとは、同居していません」
 事務職員は一瞬だけ戸惑いを見せたが、言った。
「何かご事情があるのかもしれませんが、同じ住所で住民登録さえあれば、その方が死亡届けは出せます」
「救急車を呼んで看取ったわたしではだめなんですか?」
「事実婚でしょうか?」
 真顔だった。同居しているかどうかを問われたのか。修平は首を横に振った。
「いいえ」
「では駄目ですね」
 奈津美が言った。
「わたしも古い友人ですが、やはり死亡届けは出せませんか?」
「患者さんと結婚していたことはありますか?」
 修平は奈津美の横顔を見た。
 奈津美は事務職員に答えた。
「いいえ」
「やはり、無理ですね」
 修平は言った。
「明日来る女性に書類のことを訊いてみますが、身内とどうしても連絡が取れない場合は、どうなります?」
「ええと」事務職員は難しそうな顔になって答えた。「院長名義で出すことになります」
 手はあるのだ。
 事務職員はまた確認してきた。
「お身内は、広島にはいらっしゃらないのですね?」
 修平が答えた。
「いません」
「ではご葬儀はどうされます? ふつうはお身内のいらっしゃる土地で火葬ということになりますが」
「まだ決めていません」
 遺体を東京に運ぶことになるが、それをする必要はあるのだろうか。冬樹には、彼の安否を気にかけている親族はいたのか、よく知らない。彼が福岡に行ったときの事情を思い出しても、当時すでに親族とはろくにつながりを持っていなかったように思えていたのだが。
 事務職員は奈津美を見てから続けた。
「もし広島で葬儀をされるのでしたら、市内の火葬場と葬儀社のリストを後ほどお渡しします」
「念のために、いただけますか」
 事務職員は一礼して霊安室を出ていった。
 奈津美が千春に電話した。冬樹の臨終をあらためて千春に告げ、死亡届けを出す資格について話している。
 千春の声は聞こえないが、奈津美は言っていた。
「ああ、住民登録は別の場所なのですね」
「いまここにわたし上浦と及川さんもいるんですが、どちらも資格はないと言われました。病院の院長名義で死亡届けを出すことになるそうです」
「直葬? お通夜や告別式をせずに? 縁者を呼ぶ必要もないし、演出もいらない?」
「千春さんは、それでいいのですか?」
「ええ、こちらでやらせていただけるなら」
 通話を切ってから、奈津美がいまのやりとりの中身を伝えてくれた。千春には死亡届けを出す資格はない。冬樹の希望は直葬であったと。
「直葬であれば、その日のうちにできるそうです」
「つまり明日?」
「火葬場の空き次第だそう」
「奈津美ちゃんは出られる?」
「うん。骨上げをする」
「直葬とはいえ、やることはいろいろあるね」
「そうなんだよね。ひとが亡くなると、そばにいる者はまず手続きで追われる。悼んでいる間もない」
「あとはぼくがやる」と修平は言った。「休んでいて」
 事務職員が戻ってきて、一枚の紙を渡してくれた。市内の火葬場と葬儀社のリストだった。葬儀社の中にも、火葬場を持っているところがいくつかあった。
 事務職員が言った。
「深夜までは、だいたい電話は通じると思います。二十四時間開いている葬儀社もあります」
 修平は訊いた。
「直葬の場合、こうした葬儀社にお願いすると、すべて段取りをつけてくれるんですね」
「お身内の方に代わって、手続きもなどもすべてやってくれます」
 事務職員の去った後、修平はざっとリストを見てから言った。
「この中でどこがいいだろう。見当もつかない」
「近めの葬儀社にするのがいいかな」
 奈津美が指さした葬儀社に電話した。若い男性が出た。
 修平は事情を説明し、直葬のシステムと費用について訊ねた。翌日は日曜日でもあり、火葬が明日じゅうにできるかどうかを心配したが、公営の火葬場のひとつが十五時からなら大丈夫だという。死亡届けを役場に提出し、火葬許可証をもらう手続きもその葬儀社が代行してくれるとのことだった。
 火葬料は、その火葬場を使う場合、広島在住者の場合は格安だが、非市民の場合は五万九千円だという。当然それと、付帯の費用は自分が支払うつもりだった。
 奈津美の了解を得て、十五時の火葬を決めた。相手の火葬場担当者は、ホームページを見て火葬に必要な最低限のセットを選んでくれという。棺桶、骨壺、旅装束などだ。簡素なものから豪華版まで何種類もある。これも奈津美の了解を得て、ごく簡素なものとした。自分たちと千春以外に葬儀を目にする者はない。見栄を張る必要はなかった。
「その代わり」と奈津美が言った。「お棺の中にはいっぱいにバラを入れる。バラの中に冬樹さんを埋める。白いバラがいい」
 修平は、もっとも簡素な葬儀セットを葬儀社に伝え、柩の中に入れる白バラも注文した。葬儀社の担当社員が、翌日十時に病院に来て、打ち合わせをしてくれるという。
 奈津美がまた千春に電話して、直葬の手配を終えたと伝えた。一部は事後承諾となったわけだが。
 千春が言ったという。
 何もかもおまかせで申し訳ありません。明日は遅くとも午後の二時には広島に着くようにします、と。
 奈津美の携帯電話に着信があった。聞いていると、店の従業員から何か問い合わせのようだった。店の最後の夜だ。イレギュラーなことが多かったのだろう。もしかすると、今夜はまだ営業しているのかもしれない。
 通話を終えて奈津美が言った。
「いったん二次会に出たお客さんたちが、また店に戻ってきている。常連さんたちが、クローズを惜しんで、即興のジャム・セッションをやりたいと言っているの。楽器を持ってきたひともいる。やって頂戴と返事をした。もう今夜は、二時でも三時でもやる」
 修平は言った。
「奈津美ちゃんは、店に戻って。そっちにいたほうがいい」
「修さんは、ここでお通夜?」
「いや、もう少しいて、ホテルに戻る。冬樹さんのチェックアウトの準備もして」
「ああ」と、奈津美はそのことに思い至ったように言った。「冬樹さんは、ひと足先にチェックアウトしてしまったんだ」
「明日、葬儀社との打ち合わせまでにここに来る」
 奈津美は少しのあいだ修平を見つめてきたが、やがて言った。
「ありがとう。あっちは、子供みたいなものなの」
 修平は奈津美を霊安室から送り出した。

   13

 火葬は午後三時に始まり、修平と奈津美、それに東京から着いた近藤千春の三人で骨を拾って午後五時にはすべて終わった。
 千春は骨壺を持って、その日のうちに東京に戻ると、火葬場を後にしていった。
 修平と奈津美は、ほとんど言葉を交わさないまま、矢賀町にある火葬場からタクシーで、紙屋町のライブハウスまで戻った。
 店の看板には灯は入っていない。奈津美が鍵でドアを開けた。中に入って、照明をつけると、しらじらとした明かりに空のホールが浮かび上がった。椅子はテーブルに逆さに積み重ねられ、カウンターの上には何も置かれていない。床は昼間に掃除されたらしく、かすかに洗剤の匂いがした。役割を終えた空間が、昨夜の印象とはまるで違って、よそよそしく感じられた。
 修平は入口の近くに立ったまま、奥まで進まなかった。
 奈津美が言った。
「ここで待ってて」
 奈津美はカウンターの内側に入った。何かを探すように、棚を開けたり閉めたりする音がしたが、やがて片づけの音は聞こえなくなった。
 ほどなくして壁のモニタースピーカーにプツっとノイズが入った。小さな音量で流れてきたのは『悲しき天使』Those Were the Daysのイントロだった。修平と冬樹が東京から持ってきたLPがかかったのだろう。
 奈津美はカウンターの中で、修平は外で、向かい合わず、天井近くにある同じスピーカーのほうに目を向けた。メリー・ホプキンの歌が聞こえてきた。
「昨日」と、奈津美が何か言いかけた。
 修平は奈津美に顔を向けた。
 奈津美は、修平を見ずに言った。
「修さんが、結婚したって言ったあの晩、言おうかどうか、迷った」
 その話題が出た。というか、とうとう自分たちの過去のことが話題になった。昨日、冬樹とこの店に入ったときからずっと、絶対に過去を話題にしない、昔話を避けると決めていた。おそらくは冬樹も奈津美も同じ思いであったはずなのだ。自分たちは昨夜、かつて自分たちがどこで何を見て何に笑い何を口にしたか、それを語らなかった。語ればせっかく修正されていた過去の記憶が、いまいましいほどに薄っぺらく月並みなものであったとわかるような気がしたのだ。少なくとも自分は。
 でもいまこの瞬間に奈津美が過去のとある一瞬を口にしたなら、逃げるわけにはいかない。
 奈津美が言った。
「言えば、修さんは、やっちゃいけないことをしたと思う」
 奈津美の声は、悔やむでもなく、自分を責めるでもなく、ただ事実を確認するような言い方だった。
 修平は、何も言わなかった。
「修さんは、そういう人だったでしょう」
 黙ったままでいると、奈津美は修平を見た。
「修さんは、なにごとも早く決めてしまうひとだから」
 修平は、目を伏せた。否定する言葉は浮かばなかった。自分が油絵に進むことを断念したときのことを思い出した。岩手大学特設美術科の入学実技試験会場。修平の隣りでアグリッパをデッサンしていたのは、後に知ったけれども藤井勉という名の受験生だった。あのときの彼の木炭デッサンを見ての断念は早すぎたか? いいや。あれは自分の生涯でも自画自賛に値する、時期に適ったよい決断だった。自分がもしほんとうに早く決めがちな性格であったとしても、それは自分にとって厄介な特質であったろうか。
 奈津美は言った。
「だけど、わたしが何も言わなければ、修さんはそのまま進む。そう思った」
 奈津美は肩をすくめた。言いすぎたか、と一瞬後悔したかのような表情となった。
 続いたのは、修平が想像したことのない言葉だった。
「そうであれば、誰かを傷つけるのは、わたしじゃなくて、修さんになる。それでも、誰もが傷つくよりはいい」
 修平は、息を深く吸ってから言った。
「そういうことで、広島に戻ったのか」
「タイムラグはあったけれども。あれは、わたしの迷いの時間だった」
「そんなふうに考えたことはなかった」
「知ってたら、どうした?」
 奈津美の言葉には、なじる調子はなかった。確認でもない。ただの好奇心のようにも聞こえた。いまさらどんな答えがあろうと、何も変わらないと言っている。
 修平は答えなかった。答えはなかった。あのことに、どれだけ自分は自覚的であったか。深い考えがあっての選択ではなかった。ただ、あの朝の奈津美の言葉に反応しただけだった。
 ふたりの間に、また沈黙が落ちた。
 奈津美は、カウンターの上に置かれていた紙ナプキンを一枚、折って、そしてもう一度折った。折ってから、それを広げ、また元に戻した。
 曲が終わり、リピートされたところで、奈津美が顔を上げた。
「ここも、もう終わり」と、奈津美が店内を見回した。「みんな、順繰りに終わっていく」
 自分と冬樹の荷物がどこかにまとめてあるはずだった。
 奈津美が察して言った。
「こっちに」
 奈津美はふたりのショルダーバッグを持ってホールへと出てきた。
 奈津美は腕時計を見てから言った。
「ほんとに、よくサンライズ瀬戸のチケットが取れたね」
 いまでは珍しい夜行寝台列車の個室寝台を確保できたのだ。山陽新幹線で岡山に行き、そこで乗り換える。きょう、できるだけ遅い時刻に広島を出発しようと、この列車を取ったのだ。
 修平はうなずいた。
「念のためにと確かめたら、運良くひとつ空いていたんだ。直前にキャンセルがあったんだろう」
「岡山が、十時半だった?」
「十時三十四分。そろそろ行こうと思う」
「ここで送るね」
 修平は、もう一度だけ店の中を見た。すでに熱を失ったホールの中には、いまただささやくほどの音量で、メリー・ホプキンの歌が流れている。
 修平は自分のショルダーバッグを肩に斜め掛けし、冬樹のバッグを左手に提げた。
 内ドアまで進んで振り返ると、奈津美は昨夜三人がいたテーブルから椅子を下ろし、腰掛けたところだった。テーブルに肘をついて修平を見つめてくるが、何も言わなかった。穏やかに微笑しているだけだ。
 内ドアを開けて廊下に出ると、奈津美も修平の後についてきた。
 外ドアから小路に出て振り返った。奈津美も小路に出てきて、寒いのか、両腕を抱えるように立って、修平を見つめてくる。穏やかに微笑していた。
「じゃあ」という言葉しか出てこなかった。
「うん」と奈津美がうなずいた。
 修平は小路の先に身体を向けて歩き出した。
 小路には飲食店の看板がいくつか点灯している。アーケードのある商店街に接した小路のせいか、日曜日なのにそこそこ人が歩いていた。
 修平はその小路を、北の相生通り方向に向かって歩き出した。相生通りには、路面電車が走っていると覚えていた。広島駅に向かう路面電車に乗ることができる。
 小路と交差する通りの手前で、振り返った。奈津美はドアの前に立ったままだ。修平は身体をひねり、奈津美に大きく手を振った。子供っぽい、屈託のない別れの仕種と見えるとよいと願いながら。
 奈津美が右手を胸の前で振って応えた。
 すぐに奈津美の姿は、通行人たちの陰に隠れて見えなくなった。
 修平は小路の先に身体を向け直し、交差点を渡った。
 広島駅で山陽新幹線に乗り、岡山まで行く。岡山には、高松か出雲発の在来線夜行列車、サンライズ瀬戸とサンライズ出雲が入ってきて連結する。自分はこれに乗り換える。
 東京駅に着くのは明日の朝七時八分だ。東京で余裕を持って東北新幹線に乗り換えても、盛岡駅には明日の昼前には帰っているだろう。すべてが始まったあの駅に。
 あの日も自分は、ひとりで夜行列車に乗ったのだった。
(了)

 

*単行本は2026年9月発売予定です。

 

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著者

佐々木譲

1950年北海道生れ。「鉄騎兵、跳んだ」でオール讀物新人賞、『エトロフ発緊急電』で山本周五郎賞ほか二賞、『武揚伝』で新田次郎文学賞、『廃墟に乞う』で直木賞、2016年に日本ミステリー文学大賞を受賞。

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