交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第二回

交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第二回

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交渉人ハイジャック   Flight 2 ハコナン

 聡美はドリンクサービスを優菜たち他のCAに任せ、二階後部にあるトイレを調べた。ペーパータオルボックスの下から、まったく同じメッセージ、そして透明な液体が入った点滴パックが出てきた。
 二つの点滴パックをひとつずつ備え付けのエチケット袋に入れ、聡美はコックピットに向かった。機長の屋代に報告し、判断を仰がなければならない。
 旅客機において、機長は全権責任者だ。何よりも優先されるのは安全な飛行で、例えばカスタマーハラスメントが起きた場合、乗客を強制的に降ろす権限も持っている。
 ハイジャックが疑われるこの状況では、すべての情報を機長に伝え、指示に従わなければならなかった。
 乗客へのサービス、取材など特別な場合を除き、日本の航空会社は機長、副操縦士、CA以外のコックピットへの立ち入りを禁じている。BW996もそれは同じで、テロリスト対策のためドアを所定の順序でノックし、名乗った上でドア脇にあるパネルに暗証コードを打ち込むと、機長もしくは副操縦士がロックを解除する。
 どうした、と振り向いた屋代が首を傾げた。聡美の表情で、何かが起きたと察したようだ。
 これを、と聡美はエチケット袋を屋代と野沢に渡した。
「気をつけてください。中に点滴パックが入っています」
「点滴パック? 何でそんな物が入ってるんだ?」
 説明します、と聡美は制服のポケットから紙片を取り出した。
「十分ほど前、ドリンクサービスを始めました。わたしと柳沢さんは二階後部ギャレーから通路を進みましたが、エコノミー席L2とL3の間に、この紙片が落ちていたんです」
 BW996は一列六席で、左側座席、通路、中央座席、そして通路を挟んで右側座席という構造だ。二階はコックピットに近い順にA列からE列までのビジネスクラス、トイレを挟みF列からO列までエコノミークラスが続く。O列のみ二席だが、不測の事態に備えて満席時以外は空席となる。
 エコノミークラスのK列とL列の間にトイレがあるが、聡美が落ちていた紙片を拾ったのはその辺りだった。
 この飛行機をハイジャックした、と屋代が紙片に記された文字を読み上げた。
「冗談や悪戯ではない。1階と2階のトイレを調べればわかる……ハイジャック? どういうことだ?」
 紙片を受け取り、表と裏を調べた野沢が首を振り、普通の紙です、と言った。
「B5サイズのコピー用紙……いや、葉書サイズかな? 文字は印刷されているので、筆跡は不明です」
 悪戯だと思いましたが、と聡美は説明を続けた。
「念のためと思い、二階前方のトイレを調べると、その点滴パックがペーパータオルボックスの下から出てきました。後部トイレも同じです。ゆっくり引き出してください」
 屋代と野沢が顔を見合わせ、それぞれがエチケット袋を開き、中から点滴パックを取り出した。この液体は毒ガスのサリンだ、と屋代が貼ってある紙の文字を読んだ。
「あり得ない、と思うだろう。偽物だと確信があるなら、開けてみればいい」
 一分で君は倒れ、と野沢が先を続けた。
「サリンガスが機内に漏れ出す。乗客と乗員全員が死に、この飛行機は墜落する……馬鹿らしい、たちの悪い悪戯ですよ。サリン? 例の新興宗教団体が作った毒ガスでしょう? 教団は分裂し、公安が今も監視していると聞いたことがあります。地下鉄テロ事件から約三十年経ち、後継団体では最近信者が増え始めている、そんなニュースをネットで見ました。でも、地下鉄でサリンをばら撒けと命じた教祖は死刑になったし、サリンを製造していたプラントも壊されたんですよね? 誰が、どうやってサリンを製造したんです? なぜこの996便をハイジャックするんですか? 悪戯に決まってますよ」
 わたしもそう思います、と聡美はうなずいた。
「でも、万が一ということもありますし……それに、悪戯にしては手が込み過ぎていませんか? 文章におかしなところはなく、要点だけを記しています。サリンは脅しかもしれませんが、何か……わたしたちが知らない薬剤を所持しているかもしれません」
 点滴パックを安全な場所に保管しよう、と屋代が重さを手で量った。
「百ccぐらいかな? 地下鉄サリン事件が起きた時、私は高校生だった。父は日比谷の会社に勤めていたが、普段通りの時間に出社していたら、犯人たちがサリン入りのビニール袋に穴を空けた地下鉄に乗っていたはずだった。たまたま早朝会議があって、二本前の地下鉄に乗ったから命拾いした、と夜遅くに帰ってきて体を震わせながら話していたよ。あの事件のことはよく覚えている。百ccもあれば、乗客と乗員全員が死亡する」
「ですが――」
 わかっている、と屋代が野沢を手で制した。
「私だって、これがサリンのはずはないと思っているさ。しかし、リスクは冒せない。この飛行機をハイジャックしたとあるが、犯行声明と考えていいだろう。そうなると、私だけでは判断できない。管制塔と連絡を取り、指示を仰ぐ。野沢くん、渡辺くんを呼んでくれ……一ノ瀬チーフ、他のCAには話したか?」
 まだです、と首を振った聡美に、君から伝えろ、と屋代が命じた。
「乗客には絶対に知らせるな。パニックが怖い。一階のトイレも調べろ。CAたちに対処しろと言うんだ。いいね?」
 了解です、と聡美は返事をした。大丈夫だよ、と野沢が肩を軽く叩いた。
「令和だぞ? ハイジャックなんてあり得ないさ」
 そうでしょうか、と聡美は野沢の目を覗き込んだ。
「あの点滴パックに入っているのは水かスポーツドリンクで、サリンではないとわたしも思います。でも……あの文章は計画性のある者でなければ書けません。本気でハイジャックするつもりだし、成功する自信もある……そんな気がします」
 無言で野沢がコックピットを出た。笑って、と聡美は自分の顔を叩いたが、頬は引きつったままだった。

 東京航空交通管制部は埼玉県所沢市に置かれている。国土交通省の先任航空管制官、高比良誠たかひらまことは飲みかけていたコーヒーカップをデスクに置き、二次監視レーダーを凝視した。
 午後十二時三十一分。茨城上空を飛行中のBW996便から、スコークコード7500が出ていた。ハイジャック発生時のコールサインだ。
 東京コントロール、とスピーカーから男の声が流れ出した。
『BW996便の機長、屋代です。応答願います』
「東京コントロール、高比良です。スコークコード7500を確認。屋代機長が出したんですか?」
 そうです、と屋代が答えた。声は落ち着いていた。
『CAが当機トイレでペーパータオルボックスの下に隠してあった点滴用パックを発見、パックには紙が貼ってあり、中に入っている液体はサリンで、疑うなら開けてみればいい、一分で乗客と乗員が死に、当機が墜落すると書いてありました』
「なぜCAはペーパータオルボックスの下を見たんですか?」
『チーフCAの一ノ瀬くんがドリンクサービスの際、通路に落ちていた紙を拾ったところ、“この飛行機をハイジャックした、1階と2階のトイレを調べればわかる”と書いてあったそうです。彼女が二階を調べると、ペーパータオルボックスの下にパックがあったと……報告を受けたのは一分ほど前です』
「サリンが点滴用パックに入っている? 形状は?」
 薄いビニール製です、と屋代が言った。
『点滴用パックと言いましたが、よく似ているという意味で、医療用かどうかは何とも……ただ、二年前に熱中症で治療を受けた時、私はまったく同じ物を見ているので、間違いないと思います。中に透明な液体が約百cc入っています。密閉されているので、漏れ出す心配はありません』
 触れないように、と高比良は指示した。
「サリンとは考えにくいですが、何らかの有害物質が入っているかもしれません」
『了解です』
「この飛行機をハイジャックした、と紙に書いてあったんですね? 他に指示は?」
『ありません。現在、当機はフライトプラン通りのコースを通り、茨城県から福島県へ向かっています。正直なところ、私は悪戯の可能性が高いと考えていますが、リスクがゼロとは言えない状態です。羽田に戻るか、近くの飛行場に降りるか、他に選択肢がないか、確認中です』
「機内に不審人物は?」
「CAに調べさせています。ただ、明らかに挙動がおかしい乗客がいれば、CAもわかったはずです。その報告はありません。また、怪しいという理由だけでは拘束できません」
「三分……五分待ってください。それまでは現在の高度、速度を維持せよ」
 了解です、と屋代が無線を切った。全員集まれ、と高比良は声をかけた。十人の管制官が立ち上がった。
「ベストウイング社のBW996便がハイジャックされた可能性がある。非番の管制官を全員呼び出せ。大至急だ。本当にハイジャックなら、東京コントロールマターじゃない。警視庁に状況を伝え、指示を待つ」
 高比良さん、と隣りの席で年かさの管制官が顔を向けた。
「無線を聞いていました。BW996便の機長は冷静でしたね」
 確かに、と高比良はうなずいた。
「悪い悪戯と考えているようだった。甘く見てはいないが、私も同じだ。サリン? そんな物、あるわけがない。ハイジャックしたと犯人は宣告したが、それだって脅しだよ。犯人に動きはないんだ。CAが右往左往しているのを見て、腹の中で笑っているんだろう。だが、ハイジャックと書いたのは確かで、悪戯や冗談じゃ済まない。立派な犯罪だよ。警視庁に通報するのは我々の義務だ」
 気になるのは、と年かさの管制官が首を傾げた。
「一九九五年に起きた全日空ハイジャック事件との類似性です。あの事件でも、犯人はサリンを所持している、と客室乗務員を脅しました」
 もちろん覚えている、と高比良は舌打ちした。
「三十年前か……私のような古株にとっては忘れようがない事件だ。あの頃、私は当時の運輸省にいた。君は国土庁だったな?」
「はい」
 私は入省四年目だった、と高比良はため息をついた。
「だから、直接関わってはいないが、運輸省が入っていた中央合同庁舎全体が針でつつけば爆発しそうなくらい緊張していたのを覚えている。何しろ、地下鉄サリン事件を起こした宗教団体の施設に強制捜査が執行され、教祖をはじめ主だった幹部が逮捕された直後だったからね」
「はい」
「我々はサリンの恐ろしさを知っていたし、怯えもあった。あの時、ハイジャック犯は教団信徒を名乗ったから、本当にサリンを隠し持っていてもおかしくなかった。だが、あれから三十年経っている。サリンを持っているはずがない」
 そうだとしても、と年かさの管制官が空咳をした。
「犯人が九五年のハイジャック事件を知っているのは確かです。あの事件は何度も情報番組で特集が組まれていますし、関連書、研究本も出ています。調べるのは難しくなかったでしょう」
「そうだな」
「あの事件を模倣しているのは明らかですが、目的は不明です。私も新聞で読んだだけですが、例の宗教団体はいくつかに分裂した後、まだ活動しているようです。三十年前、何らかの形で製造プラントに関係していた者が犯人だとすれば、サリンの可能性は否定できません」
 我々は航空管制官だ、と高比良はデスクを叩いた。
「犯人の正体が何であれ、我々の仕事はBW996便を無事に着陸させ、乗客乗員を救出することだ。犯人逮捕は警察に任せよう」
 十人の管制官がうなずいた。高比良は座り直し、警視庁直通のボタンに触れた。

 桜田門の警視庁本庁舎の駐車場から出たパトカーがサイレンを鳴らして晴海通りを走り始めた。
 遠野麻衣子は後部座席でスマホをビデオ通話にした。刑事部捜査一課長の長谷部はせべの不機嫌そうな顔が映った。
 いきなりパトカーに乗れと言われても、と麻衣子はスマホを睨みつけた。隣りで、戸井田が頭をがりがりと掻いた。
「どこへ行くのか、それさえ聞いていません。何のためです?」
 一刻を争う事態が生じた、と長谷部が口を開いた。
『約三十分前、午後十二時二分に羽田空港から離陸したベストウイング社のBW996便がハイジャックされた。機内のトイレで液体が入ったビニール製袋が見つかった、と機長から連絡があった。サリンの可能性がある、と機長は話している』
 サリンって、と戸井田が苦笑した。
「地下鉄サリン事件が起きたのは三十年前ですよ? 教団は解散、教祖や幹部は逮捕、山梨の製造プラントは警察が徹底的に捜査した後、解体したと聞いています。サリンを作る奴なんて、いるわけないでしょう」
 羽田まで十五分で着く、と長谷部が言った。
『その間に状況を説明する。離陸後約十八分が経った午後十二時二十分、チーフCAが通路に落ちていた葉書大の紙片を拾った。折り畳まれていたその紙片を開くと、この飛行機をハイジャックした、一階と二階のトイレを調べればわかる、と書いてあった……聞いてるか?』
 はい、と麻衣子は答えた。チーフCAは二階のトイレを調べた、と長谷部が説明を続けた。
『すると、ペーパータオルボックスの下から点滴用のパックが見つかり、中には透明な液体が入っていた。そのパックには紙が貼ってあり、液体はサリンだ、疑うなら開けてみろ、乗客乗員全員が死に、飛行機は墜落すると書いてあった。文字はいずれも印字で、筆跡も何もない。機内で指紋の検出はできない。その後、犯人に動きはない』
 悪い冗談ですと言った戸井田に、黙って聞け、と長谷部が口元を曲げた。
『常識で考えればそうだが、一九九五年の六月二十一日に全日空ハイジャック事件が起きている。お前たちが小学校に通っていた頃だから、詳細は覚えていないだろう。犯人は借金を抱えた銀行員で、例の宗教団体との関係はなかったが、サリンを持っていると客室乗務員を脅し、全日空857便のハイジャックに成功した。今回の犯人はその模倣犯と考えていい』
「はい」
『現在、BW996便は福島上空を飛行中だ。同便はメキシコ行きだが、国外に出すわけにはいかない。旋回して羽田空港に戻すことも考えたが、逆方向に飛行すれば乗客が気づき、何があったと騒ぎになるかもしれない。下手をすれば、機内でパニックが起きる。警視庁に情報を伝えたのは東京航空管制部だ。彼らと協議し、機材トラブルのためという名目で北海道の函南空港、通称ハコナンに着陸させることにした』
「では、わたしと戸井田警部補の二人で犯人と交渉しろと?」
 わかりが早くて助かる、と長谷部が咳払いをした。
『警察ほど縄張り意識の強い組織はない。北海道警は地元に任せろと言うだろうが、道警の特殊犯捜査係は形だけで、交渉人はいない。全日空ハイジャック事件では最終的に道警が強硬突入したが、犯人が素人だったから無事に済んだだけで、ひとつ間違えば乗客や乗員が殺された可能性もあった』
はっきり言うが、我々は道警を信用していない、と長谷部が声を大きくした。
「あの時、道警に強硬突入のノウハウはなく、にもかかわらず指揮官は警視庁の介入を拒んだ。最終的に警察庁が間に入る形で警視庁は側面協力に回ったが、そのために極秘だったSAPの存在をマスコミにすっぱ抜かれた。最初から我々に任せておけばよかったんだ」
「地元警察にも面子があります」
 道警の顔を立てる必要はなかった、と長谷部が吐き捨てた。
『だから、今回は警視庁特殊犯捜査係から交渉人を出すと決めた。警察庁も了解済みだ。交渉人研修官を務めていた君たち二人が庁舎内にいたのは不幸中の幸いだった……いいか、羽田空港で新千歳空港行きのJAL便が待機している。離陸準備は終わっていたが、君たちが着くまで飛ぶなと命じた。それに乗って札幌へ行け。ハコナンまではヘリで移動だ。その間、状況に応じて連絡を入れる』
 パトカーが高速道路に上がった。スピードは百キロを超えている。
 麻衣子は戸井田と顔を見合わせ、小さくため息をついた。

 一階のトイレを調べました、と聡美は三枚の紙を屋代に渡した。
「点滴用パックはありませんでしたが、これがペーパータオルボックスの下に……」
 この飛行機の進路を北朝鮮に向けろ、と屋代が一枚の紙を読み上げ、一枚を野沢、もう一枚を渡辺に渡した。
 我々は機内で監視しているとあります、と野沢が口を尖らせた。
「ナベちゃん、そっちは?」
「乗客乗員一九一名の身代金として一九一億を要求する、機内の防犯カメラにガムテープを貼れ、と書いてあります。身代金は一人一億ってことでしょう。しかし、防犯カメラは……」
 計画的な犯行だ、と屋代が腕を組んだ。
「二〇一九年にアメリカン、ユナイテッド、デルタ、三つのアメリカの航空会社とシンガポール航空が座席スクリーンにカメラレンズをつけていると公表した。アメリカの三社の座席スクリーンは日本のエレクトリ社製だ。同社は記者会見を開き、近い将来、機内からテレビ会議に出席するための機能で、まだ実験段階だとコメントを出した。だが、実際にはテロリスト対策用の防犯カメラだ」
 実験段階なのは確かです、と渡辺がしかめ面になった。
「撮影はしていません」
 長時間のフライトなんてざらにある、と野沢が言った。
「その間、ずっと撮影されているとなったら、プライバシーの侵害だとクレームが入る。食事中の顔のアップ、欠伸や大口を開けて寝ているところを撮影されたらリラックスできない。ノーメイクの顔を映された、と怒る女性もいるだろう。この機で言えば、メキシコに着くまでじっと座っていろってことだ。そんなこと、言えるわけがない」
 当機には防犯カメラがある、と屋代が額の汗を拭った。聡美も含め、四人が狭いコックピットで顔を突き合わせているので、誰の顔にも汗が浮いていた。
「BW996便は新型機で、テストを兼ねて一階と二階にそれぞれ防犯カメラを三台ずつ設置している。あくまでもテスト用で死角もあるが、撮影した映像はコックピットのモニターで確認できる。一部の業界紙でそれが記事になったが、乗客が読んだはずもない。だが、犯人はそれを知っていた。詳しく調べ、入念に計画を練ったようだ」
 どうしますか、と尋ねた聡美に、今十二時五十分だ、と屋代が腕時計を指した。
「五分前、ハコナンに降りろ、と東京コントロールから指示があった。ハイジャックの事実は伏せ、機材トラブルが起きたとする。ハコナン着陸は一時半の予定だ。その間に北海道警が捜査本部を設置し、事態の収束を計る。警視庁も捜査に加わるようだ」
「はい」
「東京コントロールの高比良管制官によると、我々と同じく、警視庁もサリンをブラフと考えている。しかし、犯人が何らかの凶器を所持している可能性は残る。極論だが、これでも人は殺せるんだ」
 屋代が制服のポケットに触れた。そこに二本のボールペンが刺さっていた。
「乗客乗員合わせて一九一人を安全に996便から降ろす。それが我々の絶対の義務だ。一九一億円の身代金を支払えば解放するというなら、会社でも国でも構わないから、金を用意してもらう。北朝鮮に行ってもいいが、領海侵犯が問題になり、最悪の場合ミサイルで撃墜されかねない。そんなリスクが冒せると思うか? ハコナンに降りたら、全員が解放されるまで離陸するつもりはない」
 犯人が飛行機に詳しいのは確かです、と聡美は言った。
「一九九九年の全日空61便ハイジャック事件で、犯人はコックピットに侵入し、機長を殺した上で操縦席に座り、操縦を試みました。フライトシミュレーションゲームで訓練をしたから操縦できる自信があった、と逮捕後に供述したそうです。もし、今回の犯人が飛行機免許を持っていたら……自分で操縦するかもしれません」
 飛行機のライセンスは大きく分けて三種類ある。自家用操縦士技能証明を取得すれば、セスナなどの自家用機を操縦できる。事業用操縦士技能証明取得者は物資輸送など事業用飛行機の操縦が認められる。
 旅客機の操縦には定期運送用操縦士技能証明が必須だが、車の普通免許があれば大型免許を持っていなくてもバスの運転も技術的には可能なように、法律的には禁止でも、自家用操縦士技能証明があれば旅客機の操縦は可能だ。
 それは理屈に過ぎない、と屋代が舌打ちした。
「素人がバスを運転したら、最初のカーブで事故を起こす。少なくとも、車体がガードレールを擦ったり、対向車に接触するとか、そんなことになるだろう。バスなら軽微な事故で済むかもしれないが、飛行機だと大事故に直結する。乗客乗員は全員死亡だ。自分で操縦して北朝鮮へ行く? できるはずがない」
 一ノ瀬チーフは最悪の事態を想定しているだけです、と野沢が肩を小さくすくめた。
「犯人が操縦席に座ったら、何をするかわかりません。しかし、対策はあります。コックピットに犯人を入れなければいいんです。二〇〇一年九月十一日のアメリカ同時多発テロ事件以降、世界中で航空法が改正され、コックピットのドアが強化されました。BW996便は決められたノックや暗証コードの入力でロックを解除しますが、機長または副操縦士の確認がないと外から開くことはできません。犯人が操縦するという最悪の事態は避けられるんです」
 しかし、と渡辺が聡美に目を向けた。
「犯人が一ノ瀬チーフ、あるいは他のCAの首にナイフを当てて脅したらどうします? 開けなければ刺すと言われたら……」
 開けないでください、と聡美は壁を平手で叩いた。
「わたしたちの仕事は乗客の皆様の安全を守ることです。CAになった時から、危険は覚悟していました。他のCAも同じです。わたしたちにはプライドがあります」
 仮定の話は止めよう、と屋代が微笑を浮かべた。
「機材トラブルでハコナンに降りるとアナウンスし、トラブルの原因を調べる間は機内でお待ちくださいと説明すれば、不平や不満は出るにしても、仕方ないと乗客は思うだろう。だが、一時間……長くても二時間が限度だ。いずれはハイジャックされたと伝えざるを得ない。それまでに警察が犯人を逮捕してくれればいいんだが……とにかく、最善を尽くそう。一ノ瀬チーフ、君の負担が重くなるが、よろしく頼む」
 他のCAに状況を説明しました、と聡美は報告した。
「全員、冷静に受け止めていました。お客様のことはわたしたちに任せてください。機長、野沢さんと渡辺さんは管制官や警察との通信、そしてコックピットの守りをお願いします」
 我々はプロだ、と屋代が手を伸ばした。
「乗客はもちろん、乗員全員を無事に降ろす」
 屋代の手を聡美は強く握った。野沢と渡辺が大きくうなずいた。

 午後十二時四十分、BW996便がハイジャックされ、函南空港に緊急着陸する、と東京コントロールから北海道警察本部に連絡が入った。
 即時、道警本部は捜査本部を立ち上げた。本部長に任命されたのは道警函館方面本部捜査課長兼機動捜査係長の原弘だった。
 道警が俺を本部長にしたのはなぜだと思う、とパトカーに乗り込んだ原は捜査課長補佐の成宮なるみやに大きな顔を近づけた。
「そりゃあ、地元だからっしょ。札幌の連中はハコナンのことをよう知りません。それに、函館方面本部の機動捜査係は対ハイジャック訓練を定期的に行なってます。ここはハラコウしかない、と上も考えたんでしょ」
 ハコナンは俺の庭だからな、と原は太い腕を組んだ。
「だが、それだけじゃない。三十年前、全日空ハイジャック事件があった。あん時、俺は二十五歳だったが、選抜されて強硬突入に加わった。なるべく独身の隊員を選ぶ、と当時の本部長が決めたんだ。そうでなきゃ、いくら俺が手を上げたって相手にされなかっただろう。犯人を逮捕したのは先輩の刑事で、俺は見ていただけだが、あの頃いた刑事たちはみんな定年退職した。何人か、道内の警察署長として残った者もいるが、現役で機動捜査係にいるのは俺だけだ」
「だから、課長を捜査本部長に据えたわけですか」
 一九七七年にも全日空の旅客機がハイジャックされた、と原は口ひげを擦った。
「千歳空港から仙台空港へ向かう全日空便に犯人は乗っていた。最初から様子がおかしかったらしい。昔の言葉で言えばノイローゼで、神経を病んでいたんだな。数人の乗客が取り押さえて、ハコナンに緊急着陸した。田舎の小さな空港だが、大事件がいくつも起きている」
「ソ連の中尉がミグ25で降りたんもハコナンでしたね。あれは確か……昭和五十一年でしたっけ? 平成に入ってからも全日空のエアバスが着陸に失敗したり、自衛隊機の事故があったり……言われてみると、事件や事故の多い空港です」
 犯人は三十年前のハイジャックを模倣している、と原は空咳をした。
「管制官の話では、サリンを所持していると乗務員を脅迫しているようだ。三十年前の事件と同じだな。ただ、背景が決定的に違う。あの時は東京で地下鉄サリン事件が起きた直後だったから、脅しが利いた。だが、令和だぞ? サリンを持っているなんて、誰が信じる?」
 原は後ろの窓に目をやった。二十台以上のパトカーがサイレンを鳴らし、猛スピードで走っていた。
「まるで昔の刑事ドラマだな……乗客乗員、トータルで一九一名だ。万が一、サリンが本物なら大変なことになる。道警本部長が万全を期すのはわからんでもないが、まだ犯人に動きはない。悪戯かもしれん」
 サリンは偽物だとしても、と成宮が声を低くした。
「犯人が凶器を所持している可能性はあります。メキシコ行きの便と聞きましたが、機内にはナイフやフォークもあるでしょう。一人でも殺されたら、道警が非難されます。最近、旭川で刑事が容疑者と不適切な関係を持ったり、不祥事続きですから、マスコミも叩くでしょう。こっちに責任を押し付けるつもりでは? 損な役回りだ、とこぼしている刑事もいましたが……」
 そうは思わん、と原は肩をすくめた。一八五センチ、百キロの巨漢なので、威圧感があった。
「必ず犯人を投降させる。状況によっては強硬突入してもいい。三十年前、俺たちは実弾を装填した拳銃を握っていた。最悪の場合、射殺しても構わないと許可が出ていたんだ。無論、そんなことはしたくないが、乗客や乗員に危険が及ぶと判断したら躊躇なく射殺命令を下す」
 本気ですか、と怯えた目になった成宮に、最悪の場合だ、と原は大きな口を開けて笑った。
「北海道警察本部には特殊急襲部隊がある。他には警視庁、大阪府警、愛知県警、福岡県警にしかない部隊だが、そこから狙撃チームが来ると連絡があった。オリンピッククラスのスナイパー揃いだぞ? 彼らをハコナン内の建物に配置する。射殺は最悪の手段だし、最後の手段でもある。そんな手は使いたくないが、射殺も辞さない覚悟があるってことだよ。俺は定年まで四年、辞めれば済む話だ」
 十分でハコナンに到着します、と運転していた警察官がバックミラー越しに原を見た。
「警視庁が交渉人を派遣した、と無線連絡が入っています」
 面倒だな、と原はつぶやいた。
「警察庁もうるさいが、連中は現場に来ない。だが、警視庁は……三十年前も揉めたよ。偉そうにしやがって、道警に任せてはおけない、指揮権を寄越せの一点張りだった。地元の事件は地元が片をつける、それが警察の筋だろ? 余計な口出しをされると指揮系統が混乱する。成宮、適当に相手をして、顔を立ててやれ」
 わかりました、と成宮がうなずいた。パトカーのスピードが上がった。

 ファーストクラスの乗り心地はどうだ、とスマホの画面で長谷部が唇を吊り上げて笑った。初めて乗りました、と戸井田がシートのひじ掛けを叩いた。
「座席が広くていいですね」
 君たちが乗ったJAL便は二時十分に新千歳空港に着く、と長谷部が腕時計を見た。
『屋上ヘリポートに直行しろ。自衛隊の高速ヘリが待機している。函南空港までは十分もかからない』
 今、一時十分です、と麻衣子はスマホの端の時刻表示に目をやった。
「BW996便が函南空港に着くのは一時半と聞きました。その後、犯人に動きは?」
 何もない、と長谷部が答えた。
『現在、BW996は青森県上空を飛んでいる。五分後、機材トラブルが起きたと機長がアナウンスする予定だ。不平不満がCAに殺到するだろうが、単純な点検をするだけだから機内でお待ちくださいと言われたら、我慢するかって話になる。ソフトドリンクやアルコール、アメニティやノベルティグッズを配って、客の機嫌を取るんだろう』
「はい」
『北海道道警本部が函南空港に捜査本部を設置した。本部長は函館方面本部捜査課長の原警視、五十五歳。いわゆる準キャリアで、ノンキャリアより有利に処遇されるが、警視まで昇進する者は稀だ』
「そうですね」
 彼が本部長に命じられたのは二つ理由がある、と長谷部が言った。
『ひとつは原が機動捜査係長を兼務していることだ。札幌の道警本部には特殊急襲部隊があるが、それとは別に函館方面本部にも機動捜査係が置かれている。過去、函南空港でハイジャック、旅客機や自衛隊機の墜落など多くの事件が起きたのは君も知っているな?』
「はい」
『道内で本州に最も近い空港だから、有事の際は警察や管制官が飛行機を誘導しやすい。事故の舞台になるのはそのためだ。ハイジャックに備え、機動捜査係は精鋭揃いだ。そんな事態は避けたいが、最悪の場合は機内に強硬突入するしかない。主力となるのは機動捜査係で、原が指揮官となる。だから、道警は彼を選んだ』
「他にも理由があるんですか?」
 原は三十年前の全日空ハイジャック事件で臨場している、と長谷部がうなずいた。
『当時彼は二十五歳だったが、自ら志願したこともあり、抜擢された。その時の主力部隊にいた警察官はほとんどが退職している。函館方面本部に残っているのは原しかいない。経験を買われたってことだ。日本国内で起きたハイジャック事件で、警察が強硬突入したケースは他にない。そして、現場を踏んだ警察官で現役なのは原だけと言っていい。その意味では当然の人選だ』
 怖い顔になってますよ、と戸井田がこめかみを掻いた。
「何かあったんですか?」
 原とは何度か会ったことがある、と長谷部が早口になった。
『全国部課長会議や会合で話したんだ。身長一八五センチ、体重百キロの大男で、五分話す間にビールの大瓶を空にしていたよ。柔道四段、逮捕術上級、頭も悪くない。検挙率は道内でもトップクラスで、優秀な刑事だが道警本部では浮いている、と噂を聞いた。独断専行が酷く、命令無視は日常茶飯事だし、取り調べで被疑者を恫喝したり、逮捕時に暴行を加えて謹慎処分を食らったり、何かと問題が多い男だ。何度か札幌の道警本部に上がったが、結局は函館方面本部に戻されている。私に言わせれば、昭和の刑事の化石だな』
「一課長も相当なもんですよ」
 戸井田の軽口に、冗談を言ってる場合じゃない、と長谷部が呻いた。
『この事件だが、警察庁刑事局の特殊事件捜査室、俵(ルビ:たわら)室長が責任者になった。俵室長の方針は一に交渉二に交渉で、犯人を説得し、投降させろと命令が出た。君たちの任務はそれだ』
 交渉人は説得をしません、と麻衣子は首を振った。
「犯人と話し合い、投降を勧めるだけです。ただ、俵室長の意向は理解できます。乗客乗員の救出を最優先とする……わたしもそのつもりです」
 隙があれば突入、と長谷部が肩をすくめた。
『原はそう言うだろう。彼は私より五歳上で、押しが強い。俵室長と私は道警本部を通じ、強硬突入は最後の手段だと伝えるが、おとなしく指示に従うとは思えない。原は猟犬と同じで、一度食らいついたら離れない。原以上に職務に忠実な警察官はいない、と道警本部の刑事部長は話していた』
 道警が全責任を負うならそれでいいが、と長谷部が話を続けた。
『ハイジャックはそうもいかない。下手をすれば、警視庁がケツを持たされる……現時点で、犯人は動いていない。交渉以前に、原警視との話し合いが必要になるだろう。さっきも言ったが、彼は昭和の化石だ。女だからというだけで、君を捜査本部から追い出しかねない』
 勘弁してくださいと言った戸井田に、黙って聞け、と長谷部が唸った。
『俵室長は警視庁からSATを送り込むつもりだが、調整には時間がかかる。空港に設置された捜査本部のトップは原で、君たちは彼の下につくことになる。うまくやれとしか言えないが……』
 警視庁でも同じです、と麻衣子は目線を下げた。
「女だからという理由で、何度煮え湯を飲まされたかわかりません」
 皮肉は止せ、と長谷部が目を逸らした。
『能力を認めているから、君を函館に派遣したんだ。私はそこまで頭が固いわけじゃない。動きがあれば状況を伝えるし、情報が入ればすぐ連絡を入れる。今のところは以上だ』
 長谷部が通話を切った。敵陣に乗り込むのと同じですね、と戸井田が頭の後ろで腕を組んだ。
「ぼくたちは二人だけ、函南空港の捜査本部に詰める警察官は二百人……三百人以上かもしれません。先が思いやられます」
 なぜ犯人は動かないのか、と麻衣子は自分の肩を揉んだ。
「十分前、長谷部課長からメールが届いたでしょ? 犯人の要求は三つ、BW996便の進路を北朝鮮に向けろ、身代金として一九一億円を用意し、機内の防犯カメラにガムテープを貼れ……要求に一貫性がない。北朝鮮に行ってどうするつもり? 一九一億円の重量は約一・九トン、BW996便までどうやって運び、どうやって積むの? BW996便には防犯カメラが設置されている、とメールにあった。そんな話、聞いたことがない」
「ぼくもです」
 テロリストではない、と麻衣子は人差し指を立てた。
「北朝鮮に亡命するなら、もっと簡単な方法がある。金目的でもない。政治的な主張もない……犯人の目的は何だと思う?」
 ぼくに聞かれても、と戸井田がため息をついた。麻衣子は窓の外に目をやった。黒い雲が流れていた。

 すいません、と細見辰也ほそみたつやは通路でドリンクを配っていたCAに声をかけた。胸のプレートに“一ノ瀬”とあった。
「何をお飲みになりますか?」
 問いかけた一ノ瀬に、そうじゃなくて、と細見は手を振った。
「機材トラブルって、何があったんです? 故障とか、そんなことですか? 函南空港に降りたのはいいけど、これからメキシコに飛ぶんですよね? 危なくないんですか?」
 通信系統のトラブルです、と一ノ瀬が笑みを浮かべた。
「軽微なトラブルですが、日本を出る前にチェックしておきたいと機長から指示がありました。お客様の安全を守るためですので、ご理解ください。確認が終わるまで、機内でこのままお待ちください」
 降りちゃダメなんですか、と隣りに座っていた赤谷美佳あかたにみかが尋ねた。
「去年、シンガポールへ旅行した時、台風が接近しているのでしばらく離陸できない、一、二時間後に通過するので、それまで空港のロビーで待っていてくださいって言われました。飛行機の中だと息苦しいっていうか……ロビーで歩いたり、お茶を飲んだ方が楽だと思うんですけど」
 通路を挟んだ座席で、本郷翔ほんごうしようが様子を見ていた。その隣りの席では、高井沙耶香たかいさやかが目をつぶっている。四人は同じ湘北大学の学生だ。
 お客様が搭乗されたのは成宮でしょうか、と一ノ瀬が笑みを浮かべた。
「それとも羽田空港ですか? どちらかであれば、わたしたちもロビーでの待機をお勧めしますが、函南空港は小さく、喫茶店が二つ、レストランが三つあるだけです。ラウンジはJALもしくはANA専用で、当機のお客様はご使用になれません。申し訳ありませんが、ご了承ください。何を飲まれますか?」
 オレンジジュースを、と美佳が答えた。同じものを、と細見は言った。ドリンクを渡した一ノ瀬が次の席に移った。
「沙耶香は……お休み中か。どこでも寝られるのは特技だし、こういう時は羨ましいな」
 辰也くんだってそうじゃない、と美佳がオレンジジュースに口をつけた。
「うちの親の前で居眠りした時は焦ったな……ねえ、本当に故障なの? 何ていうか、もっとヤバい感じしない?」
 故障だよ、と横から本郷が言った。
「直るまで待つしかない。さっきのCAは軽微って言ってた。そんなに時間はかからないんじゃないか?」
 シンガポールの時は三時間待った、と美佳がネックピローの位置を直した。
「結局、飛ばなかった。成宮市内のビジネスホテルに泊まって、出発が一日延びたんだよ。三泊四日が二泊三日になって、何でこの日にしたのって沙耶香と大ゲンカ……ねえ、CAだけど、何かおかしくない?」
「どこが?」
「笑ってたでしょ?」
 あれは微笑っていうんだ、と細見は言った。
「CAがブスっとしてたら、その方が変だろ」
 そうじゃなくて、と美佳がピーナッツの袋を開いた。
「作り笑いっていうか……もっと言えば、笑みが引きつっていた。そういう仕事だって辰也くんは言うかもしれないけど、何か違う気がする」
「何かって?」
 わかんないけど、と美佳がピーナッツを口にほうり込んだ。
細見は腰を上げ、周りに目をやった。ビジネスクラスの客たちの話し声が聞こえるだけだった。

 犯人の要求に応えるべきです、と聡美は操縦席の屋代に言った。その隣りに座った野沢が予備席の渡辺と不安そうに目を見交わしていた。
 君は簡単に言うが、と屋代が顔をしかめた。
「東京コントロールと警察の指示で、機材トラブルを理由に我々はハコナンに着陸した。犯人の意図に関わらず、絶対に離陸するなと命じられている。国交を結んでいない北朝鮮へ行け? 無理だ。危険過ぎる」
「ですが――」
 一九一億円の身代金については、と屋代が言葉を継いだ。
「我々が判断できるはずもない。犯人だって、それぐらいわかっているだろう。言い方は悪いが、金で済むならさっさと支払って乗客を解放したい。それは警察にも会社にも伝えた。しかし、LCCのベストウイング社が右から左に一九一億円を用意できるはずもないし、警察は身代金の支払いに反対している。我々に何ができる? 機内にATMはないし、一九一億円の現金を積んでいるわけもない」
 ですから、と聡美は操縦席のヘッドレストに手を掛けた。
「機内の防犯カメラにガムテープを貼れ、という要求は呑むべきです。乗客は防犯カメラの存在を知りません。カメラのレンズにガムテープを貼っても、おかしいとは思わないでしょう。犯人は機内にいて、わたしたちを監視しているんです。レンズにガムテープを貼れば、要求に従う意思があると示せます。すべてにノーと言えば、苛立った犯人が何をするかわかりません」
 警察には状況を伝えた、と屋代が眉間に皺を寄せた。
「犯人を刺激するのは危険だ、三つの要求のうち、応じられるのは防犯カメラにガムテープを貼ることだけだとも言ったが、しばらく待て、それが警察の回答だ」
「しばらく待て? なぜです?」
 北海道警がハコナン三階のレセプションルームに捜査本部を設置している、と屋代が声を低くした。
「捜査本部長は函館方面本部の原警視で、彼は既に空港に着いているが、一人では何もできないし、通信その他機材も必要だ。言うまでもないが、警察官だけじゃなく、技術者が揃わないと話にならない」
「はい」
「函館方面本部はもちろん、管轄下にある九つの警察署からも三百人以上の警察官が動員されると聞いた。北海道道警本部からも応援が来る。おそらく総数は五百人を越えるだろう。配置を決める前に防犯カメラで機内の様子を見たい、と原警視は言っている」
「何時間待てばいいんですか? 道警本部は札幌ですよね? 大学生の時、わたしはレンタカーで北海道を回ったことがあります。札幌から函館まで車で四時間かかりました。それまで待ってください、と犯人に頼むんですか?」
 函館方面本部の三百人が到着するまでだ、と屋代が目をこすった。
「ハコナンまでは車で二十分、パトカーなら十分で着く。既に百人以上が空港周辺の警備を始めたようだが、捜査本部は看板だけで、機材や人員が揃うのは一時間後だ。少なくともそれまで待て、と指示が出ている」
「でも……」
「当機がハコナンに降りて二十分が経過したが、犯人に動きはない。悪戯の可能性もあるし、犯人が機内にいるなら、警察としても確認したいだろう。可能な限り警察の指示に従え、と本社から命令が出ている。急いで防犯カメラにガムテープを貼る必要はないんだ」
 悪戯ではないでしょう、と野沢が口を開いた。
「ここまで悪質なら、犯罪だと誰でもわかります。爆弾を持っていると乗客がジョークを言った事件は機長も知ってますよね? 訴訟沙汰になって、その乗客は何億ドルもの賠償金支払いを命じられたと――」
 アメリカの話だ、と屋代が顔の前で手を振った。
「訴訟大国と日本を一緒にするな」
 犯罪は犯罪です、と野沢がシートを叩いた。
「一九七〇年、昭和四五年のよど号事件の際、いわゆるハイジャック防止法が制定されました。航空会社に勤務する者なら、誰でも知っていますよ。暴行、脅迫その他の手段で飛行中の航空機を強奪し、運航を支配する行為は処罰する……乗っ取られてこそいませんが、犯人は脅迫によって進路を変更し、正常な運航を妨害しています。無期または七年以下の懲役刑ですよ? 刑法に詳しくはありませんが、脅迫罪も成立するはずです。子供にあんな文章は書けません。犯人は成人で、自分が何をしているかわかっています。冗談では済みませんよ」
「だから? どうしろと?」
 ナベちゃんと話しましたが、と野沢が渡辺に目をやった。
「僕たちに課せられた任務は乗客乗員にかすり傷ひとつ負わせず、無事に機から降ろすことでしょう? 機長がそう言ったんですよ? その通りだ、とぼくもナベちゃんも思っています。一ノ瀬さんが言うように、防犯カメラにガムテープを貼ってもいいのでは? 話し合いの余地があると示せば、犯人も無茶はしないでしょう」
「その保証はない」
「警察の連中はこの996便に乗っていません。機材トラブルで引っ張れるのは二時間が限度で、その後はハイジャックされたとアナウンスするしかありません。どれだけ騒ぎが起きるのか、パニックになってもおかしくないんです!」
「落ち着け!」
 その対処はぼくたち乗務員にかかっています、と野沢が声を高くした。
「警察はそこがわかっていないんだ! だから、しばらく待てなんて悠長なことを……機長、譲歩や妥協も必要だと思いませんか? 防犯カメラをガムテープで塞げば、犯人も――」
 駄目だ、と屋代が首を振った。
「当機の機長は私で、君たちは私の判断に従う義務がある。警察も必死で動いている。今頃、搭乗名簿を調べ、乗客一人一人の身元を確認しているだろう。座席表もある。偽造パスポートを使用している者がいれば、そいつが犯人だ」
「しかし――」
「手荷物検査、金属探知機、ボディスキャナーゲート、すべて厳重で、凶器になり得る物を携行していれば確実にわかる。凶器を持っていない犯人なら、我々三人で取り押さえることもできる」
 犯人が一人とは限りません、と渡辺が頬に伝う汗を拭った。
「二人、それ以上いたらどうするんです? 一人を取り押さえても、もう一人が乗客を殺すかもしれません。機長の考えはわかりますが、犯人が複数名いる可能性がある限り、我々だけでは解決できないと思います。犯人を刺激しないために、今できることをするべきでは? 防犯カメラにガムテープを貼っても、特に支障はありませんし……」
 意見はよくわかった、と屋代が聡美、野沢、そして渡辺を順に見つめた。顔が強ばっていた。
「乗客乗員を守るためなら、何でもするつもりがある。しかし、私の読みでは犯人が動くのは乗客が騒ぎ始めた後だ。いつになったら離陸するのか、故障は直るのか、文句やクレームが出るのは一時間後だろう。二時半まで待とう。警察に情報を伝えるのは我々の義務であり、責任でもあるんだ」
 機長を信じます、と聡美は言った。コーヒーを頼む、と屋代が表情を緩めた。
「長丁場になるだろう。野沢くん、渡辺くん、トイレに行ったらどうだ?」
 他のCAに伝えます、と聡美はコックピットを出た。まだ機内は静かだった。
(続く)

*毎月最終金曜日更新予定

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