交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第五回

交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第五回

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交渉人ハイジャック  Flight5  パッセンジャーコール

 

 

 畑中さん、と聡美は耳のインカムに手を当てた。

「今、五時ジャストよ。アイマスクは配り終えた?」

 はい、と一階の畑中が震える声で返事をした。

「お客様の様子は?」

 思っていたより落ち着いています、と畑中が囁いた。

『犯人からの要求について説明し、電子シェードですべての窓を閉じました。乗客の皆さんはわたしたちの指示に従っています。会話をする方はほとんどいません。今、他のCAが客席を廻っています。二階はどうですか?』

 聡美は辺りを見回した。立っているのはビジネスクラス席とエコノミー席の間にあるトイレの前だ。右手に乗降用の出入り口があった。

 反対側の通路で、申し訳ありません、と優菜が頭を下げ、男の乗客にアイマスクを渡した。怯えた表情を浮かべた男がそれを受け取り、耳に紐を引っかけた。

(どうしていいか、わからないのだろう)

 十分ほど前から、聡美は二階の通路を行き来し、乗客一人一人に声をかけていた。誰の顔も恐怖で引きつっていた。

 それはCAも同じだ。優菜を含め、七人のCAが蒼白な顔に無理やり作った笑みを浮かべ、乗客にアイマスクを配っている。

 聡美は手のひらで額の汗を拭った。

(でも、思っていたより混乱は少ない)

 数分おきに、機長の屋代がアナウンスを繰り返している。情報を伏せるよりオープンにした方が乗客の信頼感が増す、と判断したためで、乗客のパニックを防ぐには効果的な対応だった。

 メキシコ行きの便は比較的乗客の年齢層が高い。機長やCAの指示におとなしく従っているのは、そのためもあるのだろう。

 一ノ瀬くん、とインカムから屋代の声がした。

『間もなく犯人が指定した十七時四分だ。一階、二階、どちらも防犯カメラをガムテープで塞ぐので、それ以降コックピットから客席は見えなくなる。ここまでの経緯を考えると、犯人は二階にいる可能性が高い。挙動不審な者はいないか?』

 わかりません、と聡美は答えた。ハイジャックされて、冷静でいられる者などいるはずがない。

 ある意味では、乗客全員が挙動不審だった。誰が怪しい、とは言えない。

「二階に犯人がいる、とわたしも思います。ですが、一階に共犯者がいる可能性は否定できません」

 四百四十人だからな、と屋代が長い息を吐いた。苛々した様子が伝わってきた。

『私も防犯カメラ映像を見ているが、死角もあるし、隣の乗客と重なって見えない者もいる。参ったな……とにかく、十七時四分になったら、アイマスクを装着し、話さないように、と乗客にアナウンスで伝える。君たちCAもそれぞれの席に座るように。今は犯人の指示に従うしかない』 

 お客様がアイマスクをつけるでしょうか、と聡美は眉根に皺を寄せた。

「今のところ、ほとんどのお客様はアイマスクを手に持ったり耳に引っかけているだけです。機長がアナウンスをすれば、大半は従うと思いますが、中にはうまくずらして、ある程度見えるようにするお客様もおられるのでは? 何も見えなければ怖いですし、不安になるのはわかりきっていますから……」

 いないとは言えない、と屋代の舌打ちが聞こえた。

『だが、こちらから注意はできない。犯人に悟られなければいいんだが……警察も会社も、犯人は九五年の全日空機ハイジャック事件を入念に調べ、それを参考にしていると考えている。私の見方も同じだ。だとすれば、今後、犯人はCAを通じ、要求を突き付けてくるだろう』

「はい」

『九五年の事件で、犯人はガムテープで乗客に目隠しをし、手足を拘束した。それと比べると、アイマスクは外しやすい。君が言ったように、ずらす者がいるかもしれない。その際、犯人の顔を見てしまったら……報復が怖い。詳しい事情までは説明できないが、協力を呼びかけ、理解を得るしかない』

 お客様の中には小さなお子様もいます、と聡美は言った。

「一階と二階、合わせて十五人ほどで、子供は何をするかわかりません。泣いたり喚いたり、そんなこともあるでしょう。犯人を刺激しなければいいのですが……」

 メキシコ行きの便で良かったよ、と屋代が苦笑した気配がした。

『一人旅の子供はいない。そこは親に託すしかないと――』

 下から悲鳴が聞こえ、聡美は階段から一階フロアを覗き込んだ。一ノ瀬チーフ、と叫ぶ畑中の声がインカムから響いた。

『大変です! 一階最後尾のトイレで、血まみれのお客様が……』

 すぐに行く、と聡美は素早く階段を降りた。すべての乗客が立ち上がり、後ろを見ている。あちこちで悲鳴が上がり、誰もがアイマスクを外していた。

 こちらです、と先に立った畑中が通路を小走りで進んだ。聡美が最後尾のギャレーに回ると、顔を真っ赤な血で染めた中年男が横たわっていた。跪いた渡辺が応急手当をしている。

 エコノミー席23-Cの水口みずぐち様です、と畑中が小声で名前を言った。

「ドリンクサービスの時、少し話しました。商社勤めで、休暇でメキシコ旅行をすると……近くに座っていたお客様に伺ってみましたが、水口さんがいつトイレに立ったのか、どなたも覚えていなくて……」 

 誰であれ他人の様子に気を回す余裕はなかったはず、と聡美は通路に目をやった。

「家族や友人ならともかく、他人が席を立っても気にならなかったでしょう」

 応急手当を終えた渡辺が立ち上がった。顔が真っ青になっていた。

「気を失っている。鼻の骨が折れているようだ。トイレを見てきたが、鏡が割れていた。後ろから襲われ、顔を叩きつけられたんだろう。出血が酷いのは鼻血が出たからで、それほど心配ない。他に外傷はなかった」

「誰がこんなことを?」

 怯えた表情の畑中に、わかれば苦労しない、と渡辺が横を向いた。機長に報告して指示を仰ぎます、と聡美はインカムに触れた。

 

 

 屋代が早口で状況を説明する声が捜査本部のスピーカーから流れている。落ち着いてください、と原が大きく咳払いをした。

「一階のトイレで犯人に暴行された乗客がいる、鼻の骨が折れたようだ、そういうことですね? 今、その乗客はどこに?」

 クルーレストです、と屋代が答えた。

『副操縦士の渡辺くんが水口さんを運び入れました。ワイシャツが血で真っ赤だ、と報告が入っています。ただ、出血は止まったようです。命にかかわるような怪我ではないと――』

 十七時七分、と原が時計に目をやった。

「犯人が指定した時間を三分過ぎています。機内で何か動きは?」

『水口さんのジャケットのポケットに、紙切れが突っ込まれていました』

「紙切れ?」

 1730まで時間を与えるとあります、と屋代が言った。

『我々が監視しているのを忘れるな。我々に逆らえば、乗客が怪我をする。アイマスクをつけ、絶対に外すなと乗客に命じろ。1730以降、我々はチーフCAを通じ、要求を伝える。チーフCAのマイクをスピーカーホンに切り替え、座席で警察の交渉人の声が聞こえるようにしろ……紙のサイズは前と同じです』

「他には?」

『乗客乗員の身代金四百五十九億円を準備しろ。我々はその金を北朝鮮に運ぶ。平成二四年に逮捕、収監中の地下鉄毒ガス事件の同志二名を即時釈放せよ、と書いてあります』

「同志? ハイジャック犯は例の宗教団体の残党か?」

 そうとは思えません、と戸井田が前に一歩出た。

『あの宗教団体は三つに分派してますが、いずれも公安の監視下にあります。警視庁の長谷部一課長を通じて問い合わせましたが、不穏な動きはないと――』

「信者全員を監視しているのか? 漏れがあったらどうする?」

 冷静に、と麻衣子は囁いた。言われなくてもわかってる、と原が座り直した。

「ハイジャック犯が宗教団体の関係者であろうがなかろうが、無理なものは無理だ……ベストウイング航空だが、身代金を用意すると連絡があった。四百五十九億円は大金だが、乗客が無事に解放されたら、世界で最も信頼できる航空会社ってことになる。金で信頼が買えるなら、それに越したことはないからな……ハイジャック犯の狙いは金だろう。北朝鮮へ飛ぶと見せかけて、中国かロシアへ逃げるんじゃないか? 遠野、身代金の受け渡しは警察にとってチャンスだ」

「チャンス?」

 四百五十九億円は約四トン半だ、と原が言った。

「BW996便は満席で、乗客乗員四百五十九人と彼らの荷物を合わせると、積載重量に余裕はほとんどない。スーツケースや荷物を捨てないと、四百五十九億円の運び入れは無理だ。搬入作業には人手がいる。作業員に扮した道警の突入班が紛れていても、ハイジャック犯にはわからんさ」

「どうするつもりですか?」

「二階で犯人のメッセージが見つかり、一階で乗客が襲われた。どちらのフロアにも犯人がいると考えていい。しかし、多くてもトータル十人ってところだ。一人ずつかもしれない。機内に突入して、犯人を逮捕する」

 犯人の数は確定していません、と麻衣子は首を振った。

「どの席に座っているかも不明です。一人を逮捕しても、他の一人が乗客に危害を加えたらどうするんです?」

 原警視、とスピーカーから屋代の声がした。

『指示願います。犯人に従うべきですか? それとも――』

 原が捜査本部の奥にある小窓に目をやった。陽は沈んだが、残照がハコナンを染めていた。

 犯人と交渉するしかないようです、と原が口を開いた。

「交渉人は警視庁の遠野警視。犯人の指示通り、乗客、あなた以外の乗務員にアイマスクの装着を命じてください。犯人は乗客を暴行しています。厳重な注意を呼びかけること。ヒーローは不要です。警察に任せてください」

『わかりました』

「ベストウイング航空が身代金支払いに応じたのは、大きなアドバンテージです。それを伝えれば、犯人も無茶はしないでしょう。ただし、現金で四百五十九億円を揃えるには時間がかかります。交渉によって、その時間を稼ぎます」

 そうだな、と原が麻衣子の顔を覗き込んだ。いいですか、と戸井田が手を上げた。

「CAを通じて警察と交渉する、と犯人はメッセージを残していますね? 九五年のハイジャック事件の犯人の手口の模倣ですが、CAのマイクをスピーカーにして、座席で声が聞こえるようにしろ、と要求しているのは、あの時と違います。狙いは何です?」

 わからんよ、と原が肩をすくめた。

「交渉で聞き出してくれ。そのために来たんだろ?」 

「CAはマイクを持っているんですか?」

 よく見るじゃないか、と原がボールペンを握った手を口元に寄せた。

「機内の壁にマイクが取り付けられているだろ? 昔はあれで救命胴衣の使用法を説明していた。今でも必要な時には使っているはずだ」

 あのマイクは機内専用でしょう、と戸井田が首を傾げた。

「警察は管制塔を通じ、コックピットの機長と無線で話しています。機内のマイクだと、繋がらないのでは?」

 いえ、と成宮がデスクのベストウイング航空のマニュアルを指さした。

「BW996便は二階建なので、CA全員がインカムをつけています。何かあった場合、乗務員同士が連絡を取り合うためで、機長からの指示もインカムで受けます。機内のスピーカーと繋げば、交渉人の声を座席で聞けるんです」

 屋代機長、と麻衣子は呼びかけた。

「警視庁の遠野です。犯人が乗客をトイレで襲い、負傷させたのは意図があります。要求を通すためには暴力も辞さない、とわたしたちに宣言したんです。これ以上負傷者を出さないため、アイマスクの装着を乗客に徹底してください。五時三十分になったら、犯人と交渉を始めます」

 危険ではありませんか、と震える声で屋代が言った。

『犯人が自棄になれば、何をするかわかりません。我々乗務員はともかく、お客様に万一のことがあれば――』

 そんな事態にはなりません、と麻衣子は微笑んだ。

「犯人は綿密な計画を立てています。粗暴犯ではない、と断言しても構いません。負傷者を出したのも計画のうちです。犯人は綿密にBW996便を調べ上げ、機内のどこに何があるか、すべて把握していると考えられます。そんな犯人が乗客や乗員に手を出すはずがありません」

『しかし、既にお客様の一人が――』

 脅しです、と麻衣子は言い切った。

「暴力的で危険な犯人、と印象付けるのが狙いです。今のところ、犯人の想定通りに事態が進んでいます。わたしの仕事は乗客乗員の解放で、全員を無事に機から降ろすと約束します……準備を始めてください」

 麻衣子の自信のある声音に安心したのか、屋代が大きく息を吐いた。

『了解しました。適宜、指示をお願いします』

 無線はこのままでと言って、麻衣子は一歩下がった。あんたの声には説得力があるな、と原が唸った。

「色気も可愛げもないが、機長も納得しただろう……成宮、俺は道警本部に状況を報告する。しばらくここを頼む」

 原がレセプションルームのドアに向かった。強行突入班の編成を道警に要請するつもりですよ、と戸井田が麻衣子の耳元で囁いた。

「交渉で解決できれば、それに越したことはないが、万が一の事態に備える……二段構えってことでしょう。遠野さんを信用していないのは確かです」

 彼の立場としてはそうせざるを得ない、と麻衣子は出て行く原の背中を見つめた。どうも妙です、と戸井田が眉をひそめた。

「ベストウイング航空のCAは国内線、国際線、いずれもインカムを標準装備している、とマニュアルにありました。コックピットとの意志疎通、CA同士の報告連絡相談、何かあればその場で話せるので便利な機能ではあります。しかし、コックピットの無線と繋げば機内のスピーカーから声を流せる、とまでは記載がありません」

「そんな細かいことまで書く必要はないでしょう」

「記載されていないことを、犯人はどうやって知ったんです? マニュアルは内部資料で、検索しただけじゃ何もわかりません。ベストウイング航空の関係者がハイジャックを実行した? それとも、手を貸したんですか?」

 可能性はある、と麻衣子は低い声で言った。

「でも、それを言い出したらきりがない。インカムや機内の通信機器の製造メーカーに勤務している者も容疑者リストに入る。経験のある技術者なら、インカムと無線の接続について知識があるでしょう。彼らも疑うの?」

「そうは言ってませんが……」

 わたしがわからないのは、と麻衣子は額に指を押し当てた。

「これだけ周到な計画を立てているのに、犯人が乗客に重傷を負わせたこと。鼻の骨が折れている、と機長は話していたでしょ? 脅しのために暴力をふるうのは有効な手だし、多少の怪我はやむを得ない、と考えたのかもしれない。でも、骨折だと話が違ってくる」

「強行突入も止むなし、と原警視が命令を出すかもしれませんね」

「身代金目当てのハイジャックなら、警察の介入を極力避けたいはず。それなのに、なぜ乗客の骨を折るまで暴行したの?」

 水口という男性だそうです、と戸井田が乗客名簿に目をやった。

「犯人の正体に気づいたとか、何らかの証拠を見つけたとか、そんなところでは? 今の段階で犯人と特定されたら、副操縦士やCAに制圧されかねません。周りの乗客も確保に協力します。暴力の行使は避けたかったと思いますが、正体を隠すためやむを得ず後ろから鏡に叩きつけた。骨が折れたのは想定外だったんでしょう」

 そうかもしれない、と麻衣子はうなずいた。時計の針が午後五時十五分を指していた。

 

 

 警視庁の遠野です、と麻衣子は無線のマイクに向かって名乗った。すぐ後ろに戸井田が控え、隣に原が座っている。成宮や桑山たち、十数人の道警警察官が鋭い視線を送っていた。

「BW996便をハイジャックした犯人との交渉を担当します。一刻も早く事態を解決する、それがわたしの仕事です」

 事件ではなく事態と表現したのは、乗客に不安を与えないためだった。

「犯人はわたしと直接話すのではなく、チーフCAを通じ交渉する、と条件をつけました。わたしもそれに同意しますが、逆に提案があります。あなたを何と呼べばいいのか、教えてください」

 そこまでへりくだらんでもいいだろう、と聞こえよがしに原がつぶやいたが、無視して麻衣子は呼びかけを続けた。

「わたしは自分の名前を名乗りました、あなたもわたしも人間で、人間には名前があります。交渉と言いましたが、要するに話し合いであり会話です。呼び名があれば、会話がスムーズになります」

 しばらく待ったが、返事はなかった。チーフCAの一ノ瀬さん、と麻衣子は名前を呼んだ。

「機内で何か動きは?」

 わたしはアイマスクをつけています、と聡美が小声で言った。一ノ瀬聡美、二十七歳、と麻衣子は資料の写真を見つめた。

 CAにしてはやや小柄だが、目は大きく、笑顔がよく似合っている。有能な女性、とベストウイング航空の営業部長が話していたが、麻衣子の印象も同じだった。

「では、何もわからない?」

 何も見えないので、と聡美が言った。

『動きと言われても……』

 犯人はあなたを介してわたしと話します、と麻衣子はマイクを握り直した。

「必要に応じ、席を離れてあなたに近づくでしょう。九五年に起きた全日空機ハイジャック事件について、知っていますか?」

『聞いたことがあります。研修で講師の方が話していました。でも、詳しいわけではありません』

「犯人が直接わたしと話さないのは、情報を与えないためです」

 麻衣子の声は機内に流れている。手の内を明かすことになるが、乗客を安心させるために説明が必要だ、と麻衣子は判断していた。

「頭のいいやり方で、今回の犯人はその手口を模倣しています。計画的な犯行であり、九五年のハイジャックでもそうだったように、犯人は乗客に危害を加えないでしょう。負傷者を出すのはリスクになるだけだとわかっているはずです」

 あの事件では軽傷者が一人いたぞ、と原が顔をしかめた。静かに、と麻衣子は小さく首を振った。

「もう一度言います。警察官とハイジャック犯、立場は違いますが、お互い人間です。話し合いで事態を解決できれば、お互いメリットが大きいのは言うまでもないでしょう。話し合いには呼び名があった方が便利です。ニックネーム、あだ名、何でも構いません。何と呼べばいいのか、教えてもらえませんか?」

 麻衣子は口を閉じた。三分待ったが、返事はなかった。

 どうするんだ、と原が睨みつけた。麻衣子が手元のカフでマイクの音量をミュートにした。

「犯人にとっては想定済みの問いかけです。交渉に際し、交渉人は呼び名を求める、と犯人は知っています。警察関係の資料を開けば、一ページ目に載っている情報ですから……犯人の声を聞けば、わたしたち交渉人は年齢を特定できますし、体格や出身地もわかります。それを避けたいのは、犯罪者に共通する心理でしょう」

「本名なんか言うわけがない。ニックネーム? そんなものを聞いて何がわかるって言うんだ?」

 ニックネームにはさまざまな形があります、と麻衣子は言った。

「最も多いのは、名前の頭の文字を使って呼ぶパターンです。原警視なら、はーくん、はっちゃん、そんな風に呼ばれたこともあったのでは? 本名を調べるヒントになるのは言うまでもありませんね? 体型の印象からあだ名がつくパターンもあります。痩せていればガリ、背が高ければジャンボ、そこから派生するあだ名もあり、育った土地の習慣、環境によるニックネームも――」

 言語学者並みの分析力だな、と原が苦笑した。

「このハイジャックで、呼び名は単なる符牒に過ぎない。オオタニショウヘイと名乗ったらどうする? ドジャースの選手だと断定する気か? アニメの登場人物、アイドルの名前、何でもいいんだ」

 それも手掛かりになります、と麻衣子はうなずいた。

「そこには犯人の選択が介在するからです。オオタニショウヘイと呼べというなら、野球好きか、メジャーリーグに興味がある確率が高くなります。犯人はBW996便の乗客で、四百四十人の内の誰かです。全員の氏名、パスポートナンバー、職業、どの席に座っているかも判明しています。絞り込めれば、警察にとって有利な材料になります」

 何も言わないじゃないか、と原がスピーカーを指さした。わたしが犯人でも無言を通します、と麻衣子は言った。

「それが最適解だからです。本名はもちろん、ニックネームのかけらだけでも、身元を特定されかねません。だから、答えないんです。お前が張った罠などお見通しだ、そんな意味もあるでしょう。駄目元の問いで、マイナスはありません」

 プラスもない、と原がデスクを叩いた。

「何のための交渉人だ? 犯人に話をさせるためにいるんだろう? あんたは最初から自信たっぷりで、すべて任せろと言わんばかりだが、交渉を始めても奴は無言の行だ。あんたが弱気だからだよ。奴におもねる必要なんてない。犯罪者なんだぞ? 丁寧語なんか使わなくても――」

 犯罪者である前に人間です、と麻衣子は顎に手をかけた。

「そして、わたしも人間です。過去に犯人と話したことはなく、言ってみれば初対面です。顔も年齢も不明な相手に対し、お前呼ばわりはできません。コミュニケーションを深めるには、お互いを人間と認め合うことが重要です」

「様子を見ていた、と言いたいのか?」

 最初のボールを投げました、と麻衣子は手首を振った。

「どう反応するか、探りを入れたんです。闇雲に名前を言えと迫るのではなく、事態を解決するにはお互いの協力が必要で、そのためには名前を呼び合うことから始めた方がいい、と理由を説明しました」

「わかってる」

「ここまでの経緯を考えれば、犯人が冷静なのは明らかで、練りに練った計画をプラン通りに実行しています。答えがないのは予想通りですが、人間にはミスが付き物です。呼び名はともかく、声を上げるとか、思わず反応することもあるでしょう。だから、呼びかけを続けているんです」

 あんたは理屈にうるさい、と原が頭をがりがりと掻いた。

「だが、結局奴は何も言わなかった。それじゃ、どうしようもないだろう」

 いえ、と麻衣子は首を振った。

「何も言わないのも答えのひとつで、そこから推察できることはあります。犯人には強い意志があり、考え抜いた計画をもとにBW996便をハイジャックしました。乗客乗員四百五十九人に対し、一人一億円の身代金、北朝鮮への亡命や収監中の囚人の釈放を要求しています」

「そうだ」

「身代金はともかく、後の二つは現実を考えれば困難が予想されます。少なくとも、頭のいい人物なら、こんな無茶な要求はしないでしょう。まだ隠し球を持っているんです」

 そうは思わん、と原が口をへの字にした。

「ベストウイング航空は身代金の準備を進めている。こういう時代だ、払わなければ人命軽視とSNSでどれだけ叩かれるかわからない。誠意のない会社と批判されたら命取りだ。犯人はそこまで読んでいるんじゃないか? 奴の狙いは四百五十九億円の金で、他は偽装だと言うのはその通りかもしれんが……」

 遠野さん、とスピーカーから聡美の低い声が流れ出した。麻衣子はカフを上げ、ミュートを解除した。

『誰かが動いている気配が……』

 防犯カメラは、と左右を見た原に、駄目です、と成宮が肩をすくめた。

「五時四分の時点で防犯カメラをガムテープで塞いだので、撮影不能になっています。機内の様子はわかりません」

 音が、と麻衣子は耳に手を当てた。スピーカーから小さな音が聞こえていた。

 パッセンジャーコールです、と聡美が言った。

『座席のコントローラーを使えば、CAを呼び出せます。誰かがボタンを押したんです』

 なぜだ、と唸り声を上げた原を手で制し、一ノ瀬さん、と麻衣子は言った。

「あなたが座っているのは二階のビジネスクラス席とエコノミー席の間ですね? 誰がボタンを押したか、わかりますか?」

 いえ、と聡美が答えた。

『アイマスクをつけているので……お客様がパッセンジャーコールでCAを呼び出すと音が鳴り、頭上のライトがつきます。それを確認して、CAはお客様の席に向かいますが、何も見えないと……あっ!』

 悲鳴に似た声に、どうした、と原が表情を険しくした。誰かが、と聡美が声を震わせた。

『わたしの手に何かを……これはコントローラーです』

「コントローラー?」

 首を傾げた原に、座席についているリモコンです、と成宮が早口で説明した。

「ハンドセットと呼ぶ航空会社もありますが、座席の照明やパッセンジャーコールなどで使用する機器です。ほとんどの旅客機には座席背面または引き出し型のモニターがついていますが、原さんもそれはわかりますよね?」

 あれだろう、と原が指で四角の窓を描いた。

「前の席のヘッドレストについているな。自分の座席の袖から引っ張り出すタイプもあったんじゃないか?」

「コントローラーによって映画を見たり、ゲームをしたり、音楽を聞けます。曲を選んだり、音量の上げ下げもできます。BW996便ではCA席にもついていますが、犯人はそれを一ノ瀬チーフに渡したようです。コードレスなので、席から離れても使えます」

「なぜ犯人はそれをチーフCAに渡したんだ?」

 原が首を捻った。一ノ瀬さん、と麻衣子は呼びかけた。

「周りに誰かいますか?」

『いえ……気配がしません。いないと思います』

「では、アイマスクを外してください」

 遠野、と原が椅子を蹴り倒して立ち上がった。

「何を言ってる? 犯人が見ていたらどうするんだ?」

 これは犯人のメッセージです、と麻衣子は右手を上げた。

「原警視、座ってください……交渉のイニシアチブを握っているのは自分だ、自分のタイミングで交渉を始める、そういう意味でしょう。犯人には伝えたいことがあるんです。一ノ瀬さんがアイマスクを外さないと、何もわかりません」

 危険過ぎる、と原が呻いたが、アイマスクを外してください、ともう一度麻衣子は言った。

 コントローラーに紙が巻いてあるようです、と聡美が怯えた声を上げた。

『何か……指示が書いてあるのでは? 遠野さん、アイマスクを外しても大丈夫でしょうか?』

 わたしを信じて、と麻衣子はデスクを軽く叩いた。

「紙に何が書いてあるか、読んでください」

 数秒間が空き、警察官を函南空港の滑走路から排除しろ、と聡美が読み上げ始めた。

『午後八時までに、身代金全額を空港ターミナルビル三階のキッズコーナーに運び入れろ。一億円ずつ布袋に入れること。作業が八時までに終わらなければ、一分ごとに乗客が犠牲になる。我々の同志が監視しているのを忘れるな。今後、パッセンジャーコールが鳴ったら、チーフCAはアイマスクを外せ。コントローラーにメッセージを送る。機内にも同志がいる。警察官が突入すれば、乗客が死ぬ……そう書いてあります』

 コントローラーにメッセージを送る、と麻衣子はマイクをミュートにした。

「どうやってそんなことを?」

 シートtoシート機能です、と成宮がパソコンの画面を向けた。

「略称StS、ボーイング社の旅客機の一部が導入しているシステムです。コントローラーの裏面にアルファベットと数字の小さなキーがあり、それを使うと乗客同士がチャットできます。例えばですが、出張などで上司がビジネスクラス、部下がエコノミー席に分かれることがあるでしょう?」

「はい」

「部下が持っている資料を機内で読もうと上司が思っても、席が離れていると部下に伝えられません。StSはそのための機能です。BW996便は二階建なので、席が一階と二階に分かれてしまうと、もっと面倒ですから、全席がStSを装備しています。今のところ機内でのみ使用可能ですが、数年以内に地上とのチャットも可能にする、とボーイング社が記者発表した、と内部資料に載っていました」

 犯人には隙がない、と麻衣子は額に手を当てた。

「九五年のハイジャック犯はCAに近づき、耳元で要求を囁き、警察と交渉した。今回の犯人はそのリスクも排除するつもりでいる」

 一ノ瀬チーフ、と手を伸ばしてミュートを解除した原が名前を呼んだ。

「犯人はパッセンジャーコールを押したんだな? 誰の座席上でライトがついているかわかったか?」

 いえ、と聡美が声を小さくした。

『そこまで確認する余裕がなくて……すみません』

 無理もない、と原が舌打ちした。

「逆探知はできないのか?」

「電話ではありませんから……」

 成宮が体を小さくし、原が渋面を作った。

「コントローラーはどうだ? 犯人はチャットでメッセージを送っている。どの座席から送信したかわからんのか?」

 座席番号を見ました、と聡美が言った。

「……これはCAの柳沢さんの席です。彼女がハイジャック犯なんてあり得ません!」

 データを出せ、と原が指示した。柳沢優菜、二十四歳です、と成宮がファイルを開いた。

「入社二年目のCAですが、犯人とは考えにくいですね。若すぎますし……ベストウイング航空はLCCですが、JALやANAとレベルはほとんど変わりません。犯罪者と付き合いがある女性を入社させる会社じゃないでしょう」

 共犯かもしれん、と原が唸った。

「脅されて従っているとか、そんな可能性もある。パワハラやセクハラの意趣返しだとしたらどうだ?」

 彼女は犯人じゃありませんよ、と戸井田が咳払いをした。

「自分の席のコントローラーを使えば、犯人だと名乗っているのと同じです。コードレス、と成宮さんが言ってましたが、犯人はCAのコントローラーを取って戻り、自分の席からパッセンジャーコールを押したんでしょう。そしてチャットでメッセージを送ったんです」

 ごちゃごちゃうるさい奴だ、と原が吐き捨てた。

「とにかく、そのCAについてベストウイング航空に問い合わせろ。不審な点があるかもしれない」

うなずいた成宮がスマホをスワイプした。

「身代金の準備はどうなっていますか?」

 麻衣子の問いに、八時は無理だ、と原が肩をすくめた。

「ベストウイング航空が函館市内の全銀行から金をかき集めているが、半分にも達していないと連絡が入った。キャッシュレス時代だから、どこも多額の現金を持っていないんだ。二時間前、夜十時までにはハコナンに届ける、と協力を要請した札幌の郵便局や信用金庫から回答があったが……」

 麻衣子は時間を確かめた。五時四十分になっていた。

「滑走路で待機している警官隊を下げましょう。犯人を刺激するだけです。ターミナルビルに戻して、要求通りにしたと伝えます」

「いいだろう」

 原が目配せすると、桑山がスマホに触れ、一時撤収、と指示を出した。

 遠野、と原が鼻を鳴らした。

「札幌の金融機関が現金を用意するが、移動の時間もある。警備も必要だ。こっちに届くのは十時で、犯人が要求する八時には間に合わない。時間を過ぎたら一分ごとに乗客を殺すというのはブラフだろうが、無視するわけにはいかん。犯人に襲われ、負傷した者がいるからな……交渉人だろう? 犯人に時間の延長を認めさせろ!」

 そのつもりです、と麻衣子はパソコンの画面を見つめた。映っているBW996便に、雪が積もっていた。

 

 

 五分が経った。ミュートを解除し、一ノ瀬さん、と麻衣子は口を開いた。

「わたしの声がスピーカーから流れていますね? 犯人に対し、提案があります。お互いの立場を理解し、妥協点を探るために話し合いましょう」

 あくまでも提案です、と麻衣子はわざとゆっくり言った。

「イエス、ノー、どちらであれ回答してください……一ノ瀬さん、犯人は何らかの形でリアクションします。おそらく既にCA席のコントローラーを外しているはずで、それを使ってパッセンジャーコールを押すでしょう。犯人がStSでメッセージを送れば、音が鳴ります。聞こえたらアイマスクを外し、メッセージを読んでください」

『……はい』

 待ってくれ、と原が声を潜めた。

「他の席のコントローラーでパッセンジャーコールを押す? なぜそんなことが言えるんだ?」

 乗客がボタンを押すと呼び出し音が鳴り、同時に座席の頭上のライトが点灯します、と麻衣子は壁に貼ってある座席表を指さした。

「そのライトはCAが座席に向かうまでついたままになります。一ノ瀬さんが座っているのはビジネス席10Aの後ろ、トイレ、搭乗出入り口を挟んだエコノミー席11Aの向かいです。彼女から見て前方にエコノミー席が二十列、後ろにはビジネス席が十列あります」

「座席表を見ればわかる」

「犯人がどこに座っているにせよ、自分の席のボタンを押せばライトがついて、誰が犯人かすぐわかります。特定させないためには、他の席のコントローラーでパッセンジャーコールを押すしかありません」

「動けば近くの乗客が気づくだろう」

「アイマスクをつけている乗客にはわかりません」

 麻衣子はミュートを解除し、無線のマイクを握った。

「犯人に伝えます。四百五十九億円の現金を集めるには、どうしても時間がかかります。東京の都心なら話は違いますが、ここは函館です。人口は約二十四万人で、渋谷区と同じレベルに過ぎません。銀行や郵便局、信用金庫、金融機関の規模は小さく、あなたが指定した午後八時までに全額を揃えるのは物理的に不可能です」

 札幌の全金融機関にも協力を要請しました、と麻衣子は淀みなく先を続けた。

「あなたの要求は身代金であり、北朝鮮への亡命であり、収監中の囚人の釈放ですね? 人質を傷つけることではないはずです。暴力を行使してもメリットはない、とわたしは認識しています。それはあなたも同じでしょう」

 あなたってことはないだろう、と毒づいた原に、黙って、と麻衣子は唇に指を当てた。

「すべての金融機関は人質救出のために現金を準備すると約束しましたが、集めた四百五十九億円をヘリでは運べません。夜間の飛行は危険で、道警がストップをかけました。警備上の理由で、特急北斗も使えません。現金輸送車で札幌から函館まで運ぶしかないんです。あなたはスマホやタブレットを持っていますね?」

 麻衣子は自分のスマホで乗換案内アプリを呼び出した。

「ルートを検索してください。札幌駅から函館駅まで、北海道縦貫自動車道と道央自動車道を走っても、四時間かかります。従って、現金が函南空港に届くのは深夜十二時前後になるでしょう。理解を求めます」

 小さな音が鳴った。パッセンジャーコールだ。

 遠野さん、と聡美が小声で言った。

『犯人ですね? メッセージを送ってきたのでは……』

 アイマスクを外してください、と麻衣子は指示した。聡美が小さなため息をつき、リミットは八時だ、とメッセージを読み始めた。

『深夜十二時? 人質が死んでもいいのか?』

 あなたにとってメリットのある話をしています、と麻衣子は言った。

「八時でなければならない理由は何です? 函南空港の運用時間は午前七時三十分から午後八時三十分までです。八時に四百五十九億円の身代金がターミナルビルに届いても、布袋に詰め替えるのに一時間以上かかるでしょう。午後八時三十分以降、函南空港から離陸はできません」

『遠野さん……特例措置を出せ、と犯人からメッセージが入りました』

 聡美の声に、北海道はロシアの玄関口です、と麻衣子は苦笑した。

「異例な時間に旅客機が飛べば、ロシアの迎撃戦闘機に撃墜されてもおかしくありません。乗客乗員四百五十九人、そして四百五十九億円が海に沈みます。それがあなたの望みですか?」

 しばらく沈黙が続き、午後十時まで待つ、と聡美が言った。

『犯人のメッセージです。一分でも遅れたら人質を殺すと……』

 いいでしょう、と麻衣子はうなずいた。

「わたしたちは理性と常識に則って話し合い、互いの妥協点を探りました。今回はわたしが譲歩し、十時というあなたの要求に従います。その代わり、わたしの要求も受け入れてください」

 あなた、と呼んでいますが、と麻衣子は軽く咳をした。

「おそらく一人ではない、とわたしは想像しています。正確にはあなたたちと呼ぶべきでしょう。あなた、そして共犯者がBW996便に乗っているわけですが、常識で考えればその人数は十人以下で、もっと少なくても不思議ではありません。ハイジャックは重罪で、犯行に加わる者は限られます」

 仮に四人だとしましょう、と麻衣子は話を続けた。

「一階に二人、二階に二人? 一階の乗客は二百四十人、二階は二百人です。人質が多すぎませんか? 機長、副操縦士、CAもいます。長時間彼らを制圧するのは難しいでしょう。人質が四百五十九人でも一人でも、わたしにとっては同じです。一人でも犠牲者が出れば、わたしの負けなんです」

 何を言ってる、と原が眉間に皺を寄せたが、冷静に考えてください、と麻衣子は僅かに声を高くした。

「あなたたちは武器を持っていません。それは断言できます。羽田空港の保安検査場が見逃すはずがないからです。もちろん、BW996便には食事用のナイフやフォーク、他にも凶器になり得る物があるでしょう」

 紐が一本あれば、と麻衣子は指を伸ばした。

「あるいは素手でも、人質を殺傷できます。その意味であなたのアドバンテージは大きく、有利な立場なのは確かです。でも、二人で二百人をいつまで監視できますか? どちらかがトイレに立つこともあるでしょう。その時は一対二百ですよ? 十九人の乗務員を見くびっていませんか?」

 麻衣子は口を閉じた。犯人に言葉の意味を考えさせるためだ。

「あなたが人質に危害を加えれば、彼らは自らを犠牲にしてでも立ち上がります。あなたは危険な状況を避けたいはず……そこで、わたしから提案があります。一階の乗客、二百四十人を解放してはどうでしょう?」

 くどいようですが、と麻衣子は言葉を重ねた。

「人質が一人でも四百五十九人でも、わたしにとっては同じです。現実的に考えてください。一人で監視できるのは十人ほどでは? 二人なら二十人、それが限界です。二百四十人は負担が大きすぎます。全員の行動を監視できるはずがありません。不測の事態が生じたら、どう対応するつもりですか?」

 麻衣子は一分ほど間を置いた。聡美が無言なのは、犯人からのメッセージが届いていないからだろう。

「一階の乗客、そして乗員を解放すれば、監視を二階に集中できます。有利な状況は変わりません。わたしはあなたのメリットを考慮し、提案しています。受け入れた方がお互いのためだとわかっていますね?」

 返事はなかった。十分後に回答を聞かせてくださいと言って、麻衣子はカフで音量をミュートにした。両肩を回すと、鈍い音が鳴った。

 何を言ったかわかっているのか、と原が怒鳴った。目が血走っていた。

「犯人のメリット? お互いのため? 上にどう報告しろっていうんだ……夜中の十二時まで金が届かないと言い立て、十時を落とし所にしたのはドア・イン・ザ・フェイスって交渉術だろう? 俺だって、それぐらい知ってる」

「初歩的なテクニックです」

「最初に過大な要求を突き付け、相手の譲歩を引き出す……八時、と奴は言っていた。いきなり四時間の延長を求めれば、断るに決まってる。あんたは懇切丁寧に状況を説明し、奴が折れるのを待ち、十時まで時間を引き伸ばした」

「そうです」

「札幌から函館まで、車で四時間かかるのは本当だが、あんたの計算はメチャクチャだ。自衛隊の大型ヘリの最大積載量は八トンだぞ? 乗員を含めても一度で四百五十九億円を運べる。連中なら夜間でも飛ぶ」

 自衛隊は協力しません、と麻衣子は肩をすくめた。

「ハイジャックは犯罪で、自衛隊の管轄ではないからです。もし、彼らが動くと言っても、警察庁が止めるでしょう。それが組織の論理です」

 責めちゃいない、と原が頭を掻いた。

「これでも誉めてるつもりだ。時間があれば、俺たちも二の手、三の手が打てる。しかし、いくら何でも調子に乗り過ぎだ。一階の人質、二百四十人を解放しろ? 犯人が呑むわけないだろう」

 それも交渉です、と麻衣子は言った。

「二百四十人を解放するとは、わたしも思っていません。ですが、人質の人数が多すぎるのは確かです。乗客乗員合わせて四百五十九人を見張り、妙な動きがあれば制止する? 十人でも無理です。納得のいく説明をして、呑みやすいようにしました。おそらくですが、子供や高齢者を解放するとわたしは読んでいます。どちらも犯人にとって夾雑物で、抱え込んでも問題が増えるだけですから、外に出した方が得なんです」

 一割か二割、と戸井田が横から言った。

「二十人から四十人前後が出てくれば、機内の情報が手に入るのでは? 子供はともかく、今時の高齢者はしっかりしています。すぐ落ち着くでしょう。単独犯か、複数犯によるハイジャックか、それがはっきりするだけでも、対策が立てやすくなると思いますね」

 どうかな、と原が首を傾げた。

「ハイジャック、シージャック、バスジャック、何であれこの手の事件で犯人が人質を解放した例は少ない。犯人にとって人質は命綱で、多ければ多いほどいいんだ。解放するのはまだ早い、と考えるだろう。身代金と交換なら、わからんでもないが……」

 ハラコウさん、と桑山が手を上げた。

「函館方面本部通信指令室の山根やまね室長から電話が入っちょります。BW996便の機内から110番通報があったと……五分ほど前で、ハラコウさんに報告したいと山根さんが待っとるんですが……」

 何の話だ、と原がデスクの電話機に手を伸ばし、スピーカーに切り替えた。

「BW996便から通報があった? そんなわけないだろう。悪戯に決まってる。人質はスマホを取り上げられたんだぞ? どうやって通報したんだ?」

 自分もそう思ったんですが、とがさがさした声が響いた。

『通信指令室の山根です。千丈俊雄、と男は名乗っていました。こっちでも確認しましたが、乗客名簿にその名前があります。男の様子では、嘘や冗談とは思えません。BW996便のトイレから電話をしたと……』

「まだ繋がっているのか?」

『切れましたが、音声は録音しています。データを送付します』

 待ってろ、と原が通話を保留にした。山根室長からメールが届きました、と成宮が言った。

「音声ファイルが添付されています」

 聞こう、と原が椅子に腰を落ち着けた。成宮がマウスをクリックすると、早口で話す男の声が流れ出した。

 

 

 麻衣子は目の前のスピーカーを見つめた。千丈俊雄、と男が名乗った。

『BW996便の乗客です。ハイジャックされた旅客機です。責任者はいないんですか?』

 声に切迫した響きがあった。焦りや怯えが声の端々に滲んでいる。

『何分待ったと? たらい回しは止めてくれ、責任者と話したいんだ!』

 函館方面本部通信指令室長の山根です、とがさがさした声が流れた。

『BW996便のハイジャックについては、こちらも情報を把握しています。つまり、あなたは人質の一人ということですか?』

『そう言ったじゃないですか! さっきの人に言いましたよ。機材トラブルだか何だかで函南空港に降りる、そんなアナウンスがあって、乗客は故障が直るまで待つつもりだったんだ。そうしたら、当機はハイジャックされた、席から離れるな、スマホを回収すると言われて――』

 丁寧語と乱暴な口調が入り交じっていたが、千丈の動揺の表れだろう。

『待ってください。あなたはスマホを渡していないんですか?』 

 ぼくは二台持っているんです、と千丈が声を低くした。

『芸能事務所のダイヤナムエージェンシーで、マネージャーをやっています。グランブルーQは知ってますか? 彼らのチーフマネージャーなんです。金本社長に問い合わせてください。この業界じゃ、二台持ちは常識ですよ。そんなことより――』

『落ち着いてください。あなたは二台のスマホを所持していて、一台をCAに渡し、もう一台は隠し持っている? そのスマホで110番通報した? 今、どこにいるんです?』

『トイレです。CAがアイマスクを配る隙をついて、個室に入ったんだ。無茶なのは自分でもわかってますよ。でも、混乱で機内がざわついている。今なら大丈夫だと……あの音は何だ? 席に戻らないと――』

 いきなり通話が切れた。原が電話機のボタンを押すと、録音はここまでです、と山根が言った。

『彼が話している時、パッセンジャーコールが鳴りましたが、聞こえましたか? これ以上話していたら危険だと考え、電話を切ったようですね』

「千丈に電話はしたのか?」

 原の問いに、していません、と山根が答えた。

『彼の番号は控えましたが、こっちからかけると着信音が鳴るか、バイブが震えるでしょう。犯人が気づく恐れがあります』

「そうだな」

『ダイヤナムエージェンシーの金本社長に連絡を取り、録音した声を聞かせました。間違いなくうちの千丈マネージャーだと言ってます。四十二歳、本籍、現住所共に横浜で、羽田空港の防犯カメラにも写っていました。BW996便の乗客で、悪戯目的で110番通報したわけじゃないと思います』

 九五年のハイジャック事件で、と原が顔を分厚い手でこすった。

「ジャックされた機に、有名な歌手が乗っていた。北海道でコンサートがあり、移動中だったんだ。Windows 95が発売された年だぞ? 誰でも彼でも携帯電話を使う時代じゃなかったが、バックバンドのメンバーの一人が持っていた。その男はトイレから携帯で機内の情報を警察に伝えたんだ」

 資料を読みました、と麻衣子は言った。あれには助けられたよ、と原が脂の浮いた顔を拭った。

「芸能事務所のマネージャーか……声の様子から察すると、機転の利きそうな男だ。うまく使えば役に立つかもしれん」

 トイレに行きたい者は手を上げて申告すればCAが連れて行く、と戸井田が口を開いた。

「犯人はそんな指示を出してましたよね? 千丈もそれはわかっているはずで、タイミングを見計らい、トイレに入るのでは? ただ、犯人が監視していますからね……三十分に一回トイレに行ったら、何をしてるんだってことになります。ひとつ間違えば、彼の身に何が起きるか……。強引な真似はできません」

 言われなくてもわかってる、と原が犬を追い払うように手を振った。

「千丈の座席はどこだ?」

 麻衣子は壁の座席表に目をやった。二階のエコノミークラス12-Aです、と桑山が付箋を貼った。

「一階に繋がる階段の手前で、一ノ瀬チーフCAは一列挟んでますが、千丈の近くに座っていますね」

 犯人が二階にいるのは確かだ、と原が腕を組んだ。

「だが、何人いるのかはわからん。どこに座っているかもだ。トイレから出た後、千丈はアイマスクをつけただろう。今後、パッセンジャーコールを押すために犯人が自分の席を離れても、千丈には見えない……いや、足音は聞こえるかもしれん。どの辺りを犯人が歩いていたか、それがわかれば席を絞り込める」

 難しいでしょう、と成宮が顔を伏せた。

「資料によると、BW996便の全長は約六十三メートル、二階前方にはコックピット、後部にはギャレーやトイレがありますが、それを差し引いても通路は約五十五メートルと長いので……千丈は12-Aで、人の気配がわかるのは五メートル以内でしょう。犯人が近くに座っているならともかく、離れていたら何もわからんと思います」

 遠野さん、と戸井田が囁いた。

「千丈のLINE IDを調べてはどうです? 芸能事務所の社長なら知っているでしょう。電話をかけて彼を危険に曝すわけにはいきませんが、LINEなら? 原さんも言ってましたが、頭のいい男のようです。警察の意図を察し、LINEの着信音をオフにしていれば……」

 声だけでは判断できないと首を振った麻衣子に、前にも言いましたが、と戸井田が先を続けた。

「僕ならアイマスクをずらして、手元ぐらいは見えるようにしておきます。千丈も同じでしょう。彼が機内の様子を伝えてくれれば、こちらも有効な手を打てます」

 それだけ気が回る男なら、と麻衣子は長い髪を払った。

「スマホの電源そのものをオフにしているでしょう。警察が彼に電話を入れたらどうなるか、わからないはずがない。確かに、LINEでのやり取りは犯人も気づきにくい。いいアイデアだと思うけど……いずれ、彼は隙を見て連絡してくる。その時に指示するしかない。芸能事務所と連絡を取って、千丈のLINE IDを聞き出し、原警視に報告すること」

 わかりました、と戸井田がパソコンでダイヤナムエージェンシーのホームページを開いた。麻衣子は紙コップに新しいコーヒーをいれた。外が暗くなっていた。

 

 

 十分経ちました、と麻衣子は腕時計で時間を確認した。

「交渉を再開します」

 どうやって交渉するつもりだ、と原が両手を開いた。

「身代金の四百五十九億円を夜十時までに用意すると犯人と交渉し、合意を取った。そして、一階の乗客二百四十人の解放を要求したが、犯人が呑むわけもない。金の準備が整ったら、二百四十人の人質と交換するとか、交渉の余地が生まれるが――」

 十分後に回答を聞かせてほしいと言いました、と麻衣子はコーヒーをひと口飲んだ。

「交渉人は警察の側にも犯人の側にも立ちません。中立の立場を取り、お互いにメリットがある解決策を提示します。信用を得るためには、嘘は許されません。犯人がどう答えるにせよ、連絡を入れます」

「回答を急がせたら、何をするかわからん。犯人の動きを待つべきだ」

 犯人と約束しました、と麻衣子は言った。

「十分後に連絡する、それがわたしたちの約束です。守らなければ信用されません。それに、話すことは他にもあります。人質の体調を確かめ、食事や飲み物の提供を要請します」

「何も答えなかったら?」

「それでも構いません。交渉の意志を示すための連絡です。それに、呼びかけが状況を打破するきっかけになるかもしれません」

「きっかけ?」

 外は雪です、と麻衣子は小窓を指さした。

「エアコンが稼働していても、機内には冷気が忍び込んでいるでしょう。体調を崩す者がいてもおかしくありません。病人を人質に取っても、メリットはないんです。犯人も人間です。体調不良のお年寄りや子供の姿を見れば、同情心が湧きます。一人を解放すれば、それをきっかけに他の数人が続くでしょう。交渉は時間ばかり食って効率が悪いと思っているかもしれませんが――」

 スピーカーから小さな音が聞こえた。すぐに、遠野さん、と聡美の声がした。

「犯人がパッセンジャーコールを押したんですね?」

 アイマスクを外してください、と麻衣子はマイクに飛びついた。

「コントローラーにメッセージが届いているはずです」

 読みます、と聡美が大きく息を吐いた。

『……あんたの言う通り、四百五十九人は多すぎるようだ。半分に減らそう。一階の二百四十人とCAを外に出す。一階中央の非常口にタラップをつけろ。警察は手を出すな。二階に二百人の人質が残っているのを忘れるな……犯人のメッセージです』

 驚いたな、と原が目を丸くした。

「本当に二百四十人を解放するとは……成宮、空港の施設員に伝えて、タラップを手配しろ。桑山、二百四十人が降りてくる。ターミナルビルの一階に収容しろ。その中に犯人がいるかもしれん。全員の事情聴取をする。終わるまで空港から出すな」

 立ち上がった成宮と桑山がレセプションルームを飛び出した。デスクの電話がすべて鳴り出した。

 

(つづく)

 

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