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交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第四回

交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第四回

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交渉人ハイジャック  

Flight 4  混乱

 

 

 一階を頼む、と屋代は渡辺の肩を押した。ぼくは二階を、とうなずいた野沢がコックピットを出た。

 各員に告ぐ、と屋代は乗務員専用の無線をオンにした。

「二分後、三時三十分にBW996便がハイジャックされたと乗客に伝える。アナウンスを聞けば、誰だって冷静ではいられない。泣いたり喚いたり、パニックに陥る者が続出し、大混乱が起きるだろう。だが、絶対に誰も席を立たせるな」

 はい、と次々に小声で返事があった。頼むぞ、とつぶやき、屋代はハイジャック発生時のマニュアルを思い浮かべた。

 優先されるのは乗客の安全で、そのためなら最大限犯人の要求に従う、とベストウイング航空はマニュアルを作成していた。ただし、絶対に従ってはならない要求がある。犯人をコックピットに入れることだ。

 犯人の狙いが自爆テロの場合、旅客機そのものが爆弾と化し、数千人、それ以上の犠牲者が出る。それは二〇〇一年にアメリカで起きた9.11同時多発テロの教訓だった。

 ベストウイング航空の旅客機には二人ないし三人のパイロットが乗るが、全員がコックピットに立て籠もる形を取る。暗証コードを変更するので、外からは解錠できない。

 こんな事態になるとは、と屋代はゆっくり頭を振った。現実感がまったくなかった。

 航空会社の歴史は一九〇九年(明治四十二年)、ドイツで設立されたDELAG社に始まり、その後欧米を中心に広がった。日本では一九五一年(昭和二十六年)の日本航空が祖となる。

 航空史上初のハイジャックは一九三一年(昭和六年)にペルーで起きたが、頻発するようになったのは第二次世界大戦以降だ。世界が東西に分かれた背景を踏まえ、政治的な動機が主だった。

 日本では一九七〇年(昭和四十五年)に起きた“よど号事件”が初のハイジャックで、犯人グループの目的は北朝鮮への亡命だった。

 航空会社も事態を黙って見ていたわけではない。金属探知機によって機内への凶器持ち込みを阻止し、X線検査装置で手荷物をチェックするなど、ハイジャック対策を徹底的に進めた。

 アメリカの同時多発テロ事件以降は更に厳重になり、刀剣、ナイフ、カッター、銃器、大量のライターやマッチはもちろん、スポーツ用品、ドライバーなどの工具、裁縫針や安全ピン、傘、編み棒、爪切りに至るまで、更にはヘアスプレーや育毛剤、入浴剤、消臭材など化粧品類、虫さされスプレー、殺菌スプレーなどの医薬品、酒など液体類、電池やバッテリーについても機内持ち込みが禁じられた。

 パイロットとして、屋代には約二十年の経験がある。そのため、進歩を続ける技術に詳しかった。

 二〇一〇年(平成二十二年)、アメリカは空港でのミリ波パッシブ撮影装置、いわゆるボディスキャナーの設置を開始し、日本でも二〇一七年(平成二十九年)、成田空港で正式に導入された。X線や金属探知機ではわからない危険物を発見できるため、ハイジャックのリスクが大幅に軽減された。

 法整備や厳罰化もあり、ハイジャック事件は減少している。小型機や自家用機などを除くと、二〇一〇年代に起きたハイジャックは数えるほどで、日本においては一九九九年(平成十一年)の全日空ハイジャック事件が最後だった。

 なぜBW996便が、と屋代は顔を両手で覆ったが、それを言っても意味はない。マイクを切り替え、深く息を吸ってから、機長の屋代です、とアナウンスを始めた。

「お客様に申し上げます。先ほどから、いつまで函南空港に停まっているのか、いつメキシコへ向かうのか、機材トラブルは解消したのか、その他多くのお問い合わせをいただいております。そこで、機長より状況をご説明致しますので、落ち着いてお聞きください」

 屋代はモニターに目をやった。防犯カメラが一階と二階を映している。屋代の声音に何かを感じたのか、誰の顔も強ばっていた。

「機材トラブルによる臨時着陸、とお伝えしていましたが、実際には機内で発見された危険物の確認を行なっていました。結論から申しますと、ハイジャックを企てた犯人の仕業の可能性が高い、と考えられます」

 コックピットの壁は厚く、防音仕様だが、それでも悲鳴が伝わってきた。お聞きください、と屋代はマイクを強く握った。

「危険物と共に、メッセージが見つかりました。指示に従う限り、お客様の安全を保証する、とハイジャック犯は言っています。決して席を離れず、お座りになってください。ご協力をお願いします」

 モニターに立ち上がった数人の乗客が映った。制止するCAの顔が歪んでいる。

 ご協力をお願いします、と屋代は語気を強めた。

「皆様、冷静になってください。ベストウイング航空本社、そして警察が事態収拾に努めています。ハイジャック犯の要求を受け入れ、必ず、必ずお客様全員を無事に当機から降ろすとお約束します」

 怒号と悲鳴が重なった。シートベルトの着用をお願いします、と屋代は頭を深く下げた。他にできることはなかった。

 ベストウイング航空のハイジャック対策マニュアルでは、状況次第だが、正確な情報を乗客に伝えることを推奨している。下手に隠すと乗客の疑心暗鬼を招き、パニックを誘発する。そのリスクを避けるために、情報をオープンにする方がベターだと屋代は決断した。

「犯人の要求は以下の通りです。身代金四百五十九億円を用意すること、BW996便の進路を北朝鮮に向けること、機内の防犯カメラにガムテープを貼ること、以上三点です。先ほど、私は本社に状況を伝えましたが、身代金の要求に応じると役員会から回答がありました。お客様の安全には替えられません」

 ひとつ空咳をして、屋代は話を続けた。

「可能な限り速やかに四百五十九億円を函南空港へ運ぶ、ということです。また、防犯カメラについても要求に従うつもりです。それをもって犯人と交渉し、お客様全員を解放した上で、BW996便の進路を北朝鮮に変更します。すべてはお客様の安全を守るためです。ご理解ください」

 犯人からの指示書が発見された直後、屋代は会社に連絡を入れていた。その際、万一の場合には身代金を用意する、と言質を取っていた。

 ただし、四百五十九億円の現金を保有する銀行は函館市内にない。札幌の複数の銀行を通じ、現金をかき集めることになるだろう。

 可能な限り速やかに、と本社は回答したが、一、二時間で済む話ではない。四百五十九億円の現金が揃うのがいつになるか、屋代も予測できなかった。

(急いでくれ)

 屋代は額から伝う汗を拭った。犯人の意図が読めなかった。

 原が指摘した通り、サリンは脅しだろう。だが、犯人が機内で放火したらどうなるか。

 航空会社は大量のライターやマッチ類の機内持ち込みを禁じていたが、ライター一個、マッチ一箱については許可している。また、〇・五ミリリットル以下の容量なら、スプレー類の持ち込みも可能だ。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるのたとえ通り、アメリカの同時多発テロ事件から二十年以上経ち、空港職員の警戒心が緩んでいるのを屋代は感じていた。新たに開発された機器類に頼り、怪しいと思ってもトラブルを避けるためスルーする警備員を見たこともあった。

 ライターとスプレーを組み合わせれば、小型の火炎放射器になる。機内は密閉空間で、燃焼スピードは想像以上に速い。乗員乗客に死傷者が出ても、誰も責任は取れない。

 身代金を支払って乗客とCAを解放させ、自分と二人の副操縦士で北朝鮮へ飛べばいい、と屋代は考えていた。よど号事件では、最終的にパイロットを含め人質全員が解放された。

 今回も同じだ、と屋代は会社に訴えたが、検討すると回答があっただけだ。警察が反対しているのだろう。

(何とかしなければ)

 席にお座りください、と屋代はアナウンスを繰り返した。

「お客様の安全のためです。私たちを信じてください」

 シートベルトを外し、CAの制止を振り切ってドアに突進する男の姿がモニターに映った。立ち上がって叫んでいる者、座ったまま泣いている者もいた。

 モニターから声は聞こえない。それでも、CAたちが乗客を説得しているのはわかった。

 言葉を尽くし、席に戻るように伝えている。内心の怯えを押し殺し、笑顔で乗客と接するCAたちの姿がモニターに映っていた。

(彼女たちなら大丈夫だ)

 パニックは鎮まる、とつぶやいた屋代の目に、奇妙な光景が映った。何人かの乗客がスマホを掲げ、撮影を始めていた。

 数分経つと、その輪が広がった。撮影する者にならい、近くの席の乗客も周りにスマホを向けている。

(怖くないのか?)

 モニターの中で、数人がスマホを操作していた。撮影した動画を送っているようだ。

(SNSにアップしている?)

 彼ら彼女らにとって、それは習性なのだろう。信じられない、と屋代は呻いた。

 

 

 席にお戻りください、と聡美は立ち上がりかけたビジネスクラスの女性客に声をかけた。隣りの席では、同年配の男が不安そうに辺りを見回していた。田辺涼子たなべりょうこ茂春しげはる夫婦で、ビジネスクラスの客の名前は聡美の頭に入っていた。

 BW996便の二階は乗客たちの悲鳴で溢れていた。誰もが怯えている。一階も同じだろう。

「お座りください!」

 手をメガホンにして叫んだ優菜に、大声を出さないで、と聡美は注意した。

「かえってパニックを煽る……わたしたちが冷静さを失えば、お客様はもっと怯え、動揺して収拾がつかなくなる。講習を思い出して」

 一ノ瀬さん、と優菜が目を泳がせた。

「わたし……怖くて……」

 怖いのはわたしも同じ、と聡美は優菜の手を握った。

「でも、この騒ぎは長く続かない。大声を出し、喚き続けても何も変わらないと気づけば、お客様も冷静になる。警察も捜査を始めているはず。必ず無事に帰れる」

「でも、サリンを……」

 あれは偽物、と聡美は言った。それには確信があった。

「脅しに過ぎない。お客様やクルーを傷つければ、犯人が損するだけ。さあ、深呼吸して……笑顔を忘れず、お客様を安心させる。それがCAの務めでしょ?」

 二〇二四年一月、羽田空港で日本航空516便と海上保安庁の航空機が衝突する事故が起きた。海保機の乗員六名のうち五名は死亡したが、516便の乗客乗員三百七十九名は機体から脱出し、生還していた。

 それは奇跡でも幸運でもなかった。客室乗務員の的確な指示が全乗客を救った、とCAなら誰でも知っていた。

 日航機が停まっていた海保機に衝突した際、乗客の間から悲鳴が上がり、機内にパニックが広がった。泣き叫ぶ者も多かった。

 その後、すぐに火災が起き、乗客は大混乱に陥った。それを抑えたのは客室乗務員だ。

 客席間の通路は狭く、一斉に大勢が走れば必ず負傷者が出る。機内に燻る煙を確認し、状況を見極めた上で避難誘導を始めた。遅すぎる、と後で批判する者もいたが、それは素人の言い分に過ぎない。

 ぎりぎりまでタイミングを待ち、乗客を救うため最善の手を打った。航空関係者から日航機の客室乗務員が称賛されたのは、最後まで冷静さを保っていたからだ。

「日航のCAにできたことが、わたしたちにできないはずがない」

 そうでしょう、と聡美は笑顔を向けた。うなずいた優菜がつられたように笑みを浮かべた。

『――私たちは事態収拾のため、懸命な努力を続けています。必ず、皆様を守ると約束いたします。席にお戻りください。ご協力をお願いします』

 屋代のアナウンスが続いている。ドアを開けて下ろせ、と怒鳴り散らす乗客もいたが、無理だと悟ったのか、CAに促されて席に戻っていった。

 ひそひそと話す声が聞こえた。乗客がスマホをスワイプし、ニュースに目を走らせている。誰の顔も、恐怖で引きつっていた。

 一ノ瀬くん、とインカムから屋代の声がした。

『コックピットでモニターを見ている。ある程度、乗客は落ち着いたようだ』

 はい、と聡美は答えた。全員が席に座り、大声を出す者はいなかった。

 コックピットに来てくれ、と屋代が言った。

『警察から連絡があった。空港で犯人からのメッセージが見つかったようだ』

 すぐに、と聡美は笑顔を左右に向け、ゆっくりと通路を歩いた。ご安心ください、と声をかけると、数人の乗客がほっとしたように小さくうなずいた。

 

 

 こんな物が出てくるとはな、と原がデスクのパソコンを指した。一枚の写真がアップになっていた。

「念のため、東京空港警察に羽田空港内の捜索を要請していたが、空港一階トイレのトイレットペーパーの芯に、この紙片が押し込まれていたのを見つけて、写真を送ってきた。『機長を除く、BW996便の乗員乗客のスマホを取り上げろ』……サイズは葉書大で、四重に折り畳まれていたそうだ」

 麻衣子は戸井田と並び、原の近くに立っていたが、何も言わなかった。怒っている虎の口に手を突っ込んでも怪我をするだけだ。

 機長に伝えた、と原がパソコンの筐体を指で弾いた。

「BW996便のトイレにあった紙片とこの紙切れのサイズは同じだ。羽田での搭乗前に犯人が隠したんだろう。東京空港警察が、朝九時からの防犯カメラ映像をチェックしたが、千人以上がトイレに入っていたと言っている。当たり前だが、トイレ内にカメラはない。隠したのは昨日か一昨日かもしれん。犯人の特定はできない」

「機長は何と?」

 成宮の問いに、どうすればいいか何度も聞かれた、と原が唸り声を上げた。

「機長は焦っているようだ。無理もない……しばらく待て、と指示した。ハイジャックされた、と乗客は知ったばかりだ。このタイミングでスマホを取り上げたら、不安になるだろう。しかし、何のためだ? 通信手段を奪うつもりか? そんなことをして何の意味がある? 乗客が警察に通報するのを防ぎたいのか? 警察が捜査を始めている、と機長がアナウンスしたんだぞ? 今さら遅い」

「家族や友人に連絡させないためではないでしょうか?」

 成宮の隣りで首を傾げた桑山に、だから何のためなんだ、と原がデスクを叩いた。

「機長のアナウンスから十分以上経っている。その間にLINEやメール、直接電話をかけた者もいるだろう。そもそも羽田で空港警察がいつこの紙片を見つけるか、犯人はわからなかったはずだ」

 いえ、と麻衣子は口を開いた。

「羽田空港内を一斉捜索するのは予想がついたでしょう」

 もっと早かったかもしれないじゃないか、と原が口元を曲げた。

「遅かったかもしれん。犯人の意図が読めない」

 パスポートによる本人確認が終わりました、と成宮が脇に挟んでいたコピー用紙の束をデスクに置いた。

「偽名その他、不審な乗客はいません。二十年ほど前に自転車を盗んで捕まった者がいましたが、大学生の時の話です。派出所に引っ張って説諭し、親を呼んで帰らせた、それだけです」

「反社はどうだ? 暴対法の絡みで、今じゃ看板を掲げている組は少ないが、フロント企業を立ててしのいでいる連中もいる。暴力団組員の海外渡航を禁じる、そんな法律はない。乗客の中に半グレはいないか? 考えようによっては、暴力団よりたちが悪いぞ」

 全乗客の職業も判明しています、と成宮がコピー用紙をめくった。

「会社員、自営業、学生、新婚旅行の夫婦……ベストウイング航空によると、メキシコ行きの便に乗る客の年齢層は平均より高いそうです。日本人にとって、あまり馴染みのない国ですし、治安もよくありませんから、ちょっと行ってみようか、とはならんでしょう」

「旅費もそれなりに高いしな」

「乗客のほとんどは旅行代理店を通じてエアチケットやホテルの手配をしていました。彼ら彼女らは緊急連絡先を書いた書類を提出しています。今、家族や会社などに連絡を取り、改めて確認を進めているところです。とはいえ、何しろ四百四十名ですからね……何か出てくるかも知れませんが、時間がかかるでしょう」

 遠野警視、と原が手招きした。

「パスポート情報をもとに、警視庁公安部が動き始めた、と連絡があった。ハイジャック犯は北朝鮮行きを示唆している。政治犯、あるいは思想犯の可能性もある」

 うなずいた麻衣子に、道警の警備部にも公安課がある、と原が声を潜めた。

「江戸時代から北海道はロシアの玄関口で、戦前にはお互いのスパイが行き来していた。戦後も怪しい奴がうろうろしていたし、今でもロシア軍の哨戒機がしょっちゅう領空侵犯している。漁船の領海侵犯は日常茶飯事だ」

「はい」

 その辺にうるさいのは道警の伝統でね、と原が腕を組んだ。

「だが、道警本部の公安課はあくまでも課に過ぎない。警視庁公安部の所属警察官は千百人以上、日本最大規模を誇っている。そして、乗客の大半の現住所は東京もしくは近県だ。警視庁公安部は人手も予算も、持っている情報も道警と桁が違う。あんたは警視庁、そして警察庁にコネがあるな? 連絡を取って、何かあったら必ず知らせろ」

 公安部に知り合いはいません、と麻衣子は首を振った。

「わたしだけではなく、警視庁勤務の捜査官は皆同じです。わかるのは公安部長や各課の課長クラスの顔だけで、それ以上は何も……仮に、今回のハイジャックが政治犯によるものだとしても、公安部は情報を渡さないでしょう」

 縦割り組織の弊害だな、と原が下唇を突き出した。

「どの省庁よりも、警察は縄張り意識が強い。道警でも、隣りの部署は何する人ぞだ。部署を超えての共同捜査なんて、うまくいった試しがない。酷い時には、証拠を隠して手柄を横取りする。それが警察だが、ハイジャックだぞ? 部署がどうのこうのと言ってる場合じゃない。何としてでも情報を集めてくれ」

 彼に担当させます、と麻衣子は戸井田に顔を向けた。

「わたしより彼の方が警視庁内では顔が広く、友人も多いので、何かわかるかもしれません。情報が入れば、必ず伝えます」

 ついでにあんたの意見を伺おう、と原が言った。

「犯人の要求通り、スマホを回収するべきだと思うか?」

 やむを得ないでしょう、と麻衣子はうなずいた。

「今やスマホは生活必需品で、手元になければそれだけで不安になります。家族や友人への通信手段を奪われ、情報収集もできなくなります。強い抗議や抵抗が予想されますが、この状況では犯人の指示に従うしかないと思います。それに、わたしたちにとってはプラス面もあります」

「プラス面?」

 SNSを通じ、情報を発信する者がいるはずです、と麻衣子は自分のスマホを取り出した。

「待機している間、チェックしていました。既にXやインスタグラムで機内の様子をアップする乗客がいます。情報が異常な速さで拡散し、デマや偏った考察、行き過ぎた推測など誤情報が流れれば、捜査に支障が出ます。それを考えると、スマホを回収した方がいいかもしれません」

 しばらく黙っていた原がデスクのパソコンに触れた。

「機内の映像だ……おっしゃる通りで、撮影している者が確認できる。まったく、何を考えてるんだか……スマホがなくても実害はない。ここは犯人の指示に従おう……成宮、マスコミの動きは?」

 新聞社、テレビ局、ウェブメディアと成宮がメモに目をやった。

「十分前、三時五十分の時点で、道警に二十七社から問い合わせが入っています。担当者不在で押し切ったそうですが……一時間前、広報の白岩しらいわ課長がハコナンに来ました。今のところ、空港の周りに記者の姿はありませんが、二時間後には大挙して押し寄せてくるでしょう。三十年前の先例にならい、二階の空港ギャラリーを開放して、記者席を作るつもりだ、と白岩さんは話してました」 

 函南空港の二階には全日空のビジネスラウンジ前の通路を挟み、広いギャラリーがある。一九九五年のハイジャック事件の際も、そこを臨時の記者クラブにしていた。

 もうひとつ報告が、と桑山が手を上げた。

「自撮り棒を持った若い男が三人いた、と警備担当の警察官から連絡が入っています。何をしているか尋ねると、YouTubeの撮影と答えたそうです。空港周辺は立ち入り禁止と言って追い払おうとしたが、撮影は自由なはずだと言い張って、その場を動かないとか……空港の敷地内は運営会社の管轄下にありますが、一歩離れれば警察に撮影を止める権利はありません」

 公務執行妨害で逮捕しろとデスクを叩いた原に、そんな時代じゃありませんよ、と桑山が頭を掻いた。

「警察官が見つけた三人は函館市民でした。どうやらSNSを見て、ハコナンで何か起きてると感づいたようです。連中は情報に敏感ですし、動きも早いですからね。札幌や周辺市のユーチューバーも函館に向かっているのでは? 札幌は人口約二百万人、函館が二十四万人、小樽や石狩、千歳辺りを合わせると、トータル二百五十万人以上です。何人ユーチューバーがいるか知りませんが、百人来たら面倒なことになりますよ」

「敷地内に一歩でも足を踏み入れたら、不法侵入で逮捕だ。三人だろ? 気にすることはない」

 そうですかね、と戸井田が首を傾げた。

「彼らに常識は通用しません。原警視は空港周辺及び国道に警察官三百人を配備していますが、全体はカバーできないでしょう。隙があれば、連中は空港内に侵入しますよ。再生数稼ぎのためなら何でもする奴らです。下手をすれば、BW996便に近づきかねません。ハイジャック犯が警察官と誤認したら、乗客に危害を加える恐れもあります。ドローンを飛ばして撮影を始めたら――」

「空港周辺でドローンの飛行は禁止だ」

 常識が通用しない相手だと言ったじゃないですか、と一歩前に出た戸井田に、わかってるよ、と原が呻いた。

「しかし、札幌から函館までは特急北斗でも四時間近くかかる。奴らがハコナンに着く前に犯人を逮捕すればいいんだ……機長に連絡を入れて、乗客のスマホを回収させる。それを待って、犯人は交渉を始めるだろう。遠野警視、警察庁から何度も念押しされている。交渉はあんたに任せるが、ここの指揮官は俺だ。俺の指示に従うこと。いいな?」

 もちろんです、と麻衣子はうなずいた。強行突入の準備を始めろ、と原が成宮に命じた。

「雪が降っているとはいえ、まだ夕方の四時だ。道警の特殊急襲部隊が動けば、犯人も気づく。勝負は陽が沈んでからだ。まだ時間はある」

 敬礼した成宮と桑山が捜査本部を出て行った。警視庁のマニュアルでは、と麻衣子は口を開いた。

「ハイジャックが起きた場合、交渉による解決が望ましいとされています。犯人の人数、武装の程度、その他詳しい情報がないままだと、強行突入は危険です」

「情報を集めるのはあんたの仕事だ」

 交渉で解決不能と判断した場合のみ強行突入の許可が下ります、と麻衣子は言った。

「それがハイジャック事件の原則です」

 道警本部の方針も同じだよ、と原がパソコンを指で弾いた。

「交渉で片がつくなら、それに越したことはない。だが、他に解決の手段がなければ強行突入にゴーサインを出すしかなくなる」

 了解しましたと答え、麻衣子は奥のデスクに戻った。いいんですか、と並びかけた戸井田が囁いた。

「口ではああ言ってますが、原警視はやる気満々ですよ。長引くようなら強行突入、と決めているんです。交渉にはどうしても時間がかかります。しびれを切らして警察官が機内に突入すれば、負傷者や死者が出るかも――」

 ローボールテクニックは教えたはず、と麻衣子はパイプ椅子に腰を下ろした。

「まず好条件を提示して同意を得る。その後、相手にとって都合の悪い条件を付け加えたり、場合によっては最初の好条件を引き下げる。交渉術のひとつで、ビジネスマンが使うテクニックよ。わたしは現場指揮官を原警視と認め、指示に従うと約束した。つまり、好条件を提示した」

「はい」

「その上で、交渉で解決不能な場合のみ強行突入が許可される、と条件を付け加えた。つまり、わたしが了解しないと強行突入はできない」

 まるで詐欺師ですね、と戸井田が頭の後ろで手を組んだ。

「原警視を騙したんですか?」 

 交渉人は嘘をつかない、と麻衣子は首を振った。

「誰であれ、騙すこともない。わたしは原警視に条件を提示し、交渉しただけ……あなたが言った通り、交渉には時間がかかる。わたしたちの仕事は今から始まる」

 麻衣子は目線を上げた。滑走路と停まっているBW996便が雪で真っ白になっていた。

 

 

 スマホを渡せと言っても、と野沢が眉間に皺を寄せた。

「乗客は納得しないでしょう。抗議やクレームが続出し、抵抗する者もいると思いますが……」

 わかってるさ、と屋代が手のひらで脂汗の浮いた顔を拭った。

「そんなことは百も承知だ。だが、警察の指示だし、会社も了解している。重要なのは乗客の命を守ることだ。要求に従えば、犯人も無茶はしないだろう」

 わたしもそう思います、と聡美は野沢の隣りでうなずいた。

「スマホを取り上げられたお客様がご不快になるのはわかりますが、命には替えられません。わたしたちCAが責任を持って対応します」

 君たちだけに押し付けるわけにはいかない、と座っていた渡辺が片手を上げた。

「ぼくたちも手伝う。野沢、二階を頼む。ぼくは一階へ行く。お前は短気だから気をつけろよ。ひたすら頭を下げて、スマホを預からせてくださいと頼むんだ……機長は待機してください。コックピットを空にするのが犯人の狙いかもしれません」

 四時五分だ、と屋代が腕時計に指を当てた。

「五分後、機内アナウンスで状況を説明する。その後、落ち着くのを待って回収作業を始めてくれ」

 畑中さん、と聡美はインカムでサブチーフCAを呼んだ。

「お客様からスマホを回収します。わたしたち十六人のCAが一人一人に頭を下げ、一時的にお預かりしますが必ずお返しします、と誠心誠意お願いするしかありません。今から渡辺さんが一階に降ります。あなたはCAの配置を決めて、いつでも動けるようにしてください。強硬なクレームを入れる方もいるでしょう。拒否する方も……何を言われても我慢すること。手に負えなかったら、渡辺さんを呼ぶように」

 今ですか、と畑中が震える声で言った。

「ようやく客室が落ち着いたところです。また騒ぎになりますよ?」

 仕方ないだろう、と屋代が二人の会話に割り込んだ。顔に濃い苛立ちの色が浮かんでいた。

「命よりスマホが大事か? 犯人が何を企んでいるのか、まだわかっていない。身代金か、北朝鮮への亡命か、その他何であれ乗客に危害が及ぶのは避けたい。私だって、こんなことはしたくないが、乗客の命を守るためなんだ。それがわからないなら、客でも何でもないと――」

 屋代の声が大きくなっていた。冷静に、と聡美は囁いた。

 済まない、と屋代がネクタイの位置を直した。プレッシャーのために、目が真っ赤になっていた。

「どんなクレームがあるか、想像もつかない。酷いことを言われるぞ。君たちも覚悟しておいた方がいい」

 了解です、と渡辺がコックピットを出た。私はアナウンスの準備を始める、と屋代が言った。

「君たちは配置につけ。トラブルが起きたらすぐ報告するように」

 コックピットを出ると、屋代さんは相当参っている、と野沢が聡美の耳元で囁いた。

「無理もない。BW996便の全権責任者だからね。機長の命令にはクルー、乗客、誰であれ従う義務があるが、機内での全責任を負う立場だ」

「そうですね」

「一九九九年七月の全日空ハイジャック事件から、約二十六年が経つ。あれ以来、国内でハイジャックは起きていない。ぼくたちも訓練や研修を受けているけど、現実とは違う」

「はい」

 ぼくとナベちゃんは交替で休憩を取っている、と野沢が閉まったコックピットの扉に目を向けた。

「だが、君が例の紙片を見つけてから、屋代さんは席を離れていない。会社や警察からひっきりなしに連絡が入り、CAたちからの報告もある。モニターで機内の様子を見て、乗客同士のトラブルがあれば、それにも対応しなければならない。ハコナンに降りて二時間半ほど経つけど、ずっと緊張が続いているんだ。ストレスも溜まるさ。三十分前までは冷静さを保っていたけど、今は違う」

 うなずいた聡美に、ぼくもフォローしてるつもりだけど、と野沢が言った。

「屋代さんは責任感の強い人だからね……苛々しているのは、君もわかっただろう?」

「感情がコントロールできなくなっているように見えました。大丈夫でしょうか?」

 爆発しなけりゃいいんだが、と野沢が通路を歩きだした。機長の屋代です、とアナウンスがスピーカーから流れ出した。

 

 

 ハコナンが見えるぞ、とハコダテ日報の記者、権田は車の助手席から周りを見渡した。運転席に座っているのは同僚の漆畑だ。

 空港の駐車場と道を一本挟んだレンタカー会社に頼み、権田はそこを基地にしていた。空港の広い駐車場に数十台の車が停まっているが、いつもより少なかった。

 詳しい話を聞かせてよ、と権田はスマホを覗き込んだ。白髪の目立つ初老の男が渋面を作っていた。

「白岩課長、ハコナンでハイジャックが起きたのは、こっちもわかってるんだ。そりゃ地元の強みで、ネタはいくらでも入ってくるさ」

 困るよ、と白岩が顔の皺を深くした。

『ゴンちゃんは中学からの付き合いだし、今までだって持ちつ持たれつでやってきたっしょ? でもさ、今回はまずいんだ。勘弁してくれ』

 勘弁ならねえ、と権田は冗談めかして言った。

「あんたがハコナンに来たのは一時間ほど前だろ? 何もないのに、札幌の道警本部の広報課長がヘリで函館に来るか?」

『何でおれが来たのを知ってるんだ?』

「見たもんがいた。函館九中じゃ、一番の出世頭だもんねえ。有名人は大変だな」

 本当に大変なんだ、と白岩が小声になった。

『洒落にならん事態だよ。全国紙の札幌支社から、大勢の記者がハコナンに向かってる。NHKや民放の支局も同じだし、ケーブルテレビやラジオ、コミュニティ放送局も大騒ぎだ。ゴンちゃん、いつハイジャックに気づいた?』

 二時頃だったかな、と権田は運転席の漆畑に目をやった。

「うちの社の若いのがスマホをいじってて、何かあったみたいだと言い出した。メキシコ行きの便がハコナンに降りた、機材トラブルがあった、SNSでそんなことをつぶやいてた奴がいるってな。俺はハコナンに知り合いが山ほどいる。九中のマドンナ、河西淳子かわにしじゅんこが売店に勤めとるから、何かあったのかって電話を入れてみた。したら、空港を追い出されたってぷんすかむくれてて……」

 淳子は昔からお喋りだよなあ、と頭を抱えた白岩に、他にも二、三人から話を聞いた、と権田は顎の下を掻いた。

「空港はコンピューターの故障がどだらこだらと説明してたけど、誰も信じてないとみんな言ってたぞ。そりゃそうでしょ、何でそんなことで従業員を追い出すのよ? こりゃ臭いっていうんで、会社から車でハコナンに向かった。飛ばせば五分で着くもんね」

『知ってるよ』

「したら、空港の周りはお巡りだらけじゃない。その頃には、ハイジャックじゃねえかって乗客や空港関係者がバンバンつぶやいてた。ああなるとつぶやきじゃねえな、大声で叫んでるのと変わんねえよ……こっちの話はええから、詳しい事情を教えてくれって」

 ここだけの話だぞ、と白岩が左右に頭を向けた。

『ゴンちゃん、誰にも言うなよ。ハイジャックが起きたのは本当だ。ベストウイング航空の996便だよ』

「それで?」

『身代金を要求したり、北朝鮮に進路を向けろとか、いろいろ言ってるが、何を狙っているかはよくわかんね。今んとこ、マスコミにはノーコメントで通してる』

「そんで、犯人は何者だ?」

 わかりゃ苦労しねえよ、と白岩が肩をすくめた。

『ハイジャック言うても、犯人は姿を現しておらんでね……ゴンちゃん、九五年にハコナンでハイジャックがあったろ? それがヒントじゃ。これ以上は何も言えん』

 九五年か、と権田はつぶやいた。

「忘れるわけがねえ。俺らが二十五ん時じゃ。大騒ぎになったっけ……他社の動きは?」

『道警本部に問い合わせが殺到してる。今、四時過ぎか……五時までには新聞、テレビ、ラジオ、全メディアがハコナンに来るじゃろ。報道の自由だなんじゃ言い立てるに決まっとる。九五年の時と同じ二階のギャラリーを開放して、記者席に充てるつもりじゃ。ゴンちゃんは一番乗りだから、先頭で入れるぞ』

「いつもすまんね」

『ただし、報道協定を結ぶことになるから、抜け駆けは禁止じゃ。お互い、筋は通そうじゃないの……いかん、道警から連絡が入った。切るぞ』

 報道協定、と権田は眉間に皺を寄せた。運転席でスマホに触れていた漆畑が顔を上げた。

 誘拐やハイジャックなど、犯人が人質を取る事件が起きると、人命優先のために警察とメディアは報道協定を結ぶ。それに基づき、警察は捜査状況や犯人の身元その他判明したすべての情報を提供する。メディアは犯人逮捕など事件が解決するまで報道しない。

 人質事件では、報道そのものが犯人を刺激したり、感情の混乱を招く恐れがある。過去にはそのために不測の事態が起きたこともあった。報道協定はその教訓を元に作られた制度だ。

 メディアとしては特ダネを取れないが、報道協定下では警察があらゆる情報を詳細に伝えるので、正確な報道ができるメリットがある。ただし、報道の自由や知る権利との兼ね合いもあり、慎重な配慮が必要とされる。

最近ではインターネットやSNSの普及により、情報を発信するのがいわゆるマスメディアとは限らなくなったため、報道協定が結ばれる事件は少ない。

 やっぱりハイジャックでしたね、と漆畑がスマホから手を離した。そりゃそうさ、と権田はうなずいた。

「道警の広報課長が出てくるんだから、それなりにでかい事件じゃないと寸法が合わない。九五年のハイジャックか……お前さんは知らんだろう。俺は北大を二年留年してっから、あん時は卒業してうちの会社に入ったばかりでさ。何が何だかわかんなかったよ。あれ以来、あんなでっかいヤマは函館じゃ起きてねえ……白さんは何であの事件を持ち出したんかな?」

「今回の犯人が九五年の事件と関係あるとか、そんなことですかね?」

 まだ犯人の身元は割れておらんらしい、と権田は首を傾げた。

「妙じゃな。そいじゃ、犯人はどうやってBW996便をハイジャックしたんだ? 漆畑、九五年の全日空ハイジャック事件を検索してくれ。車にプリンターが積んであるじゃろ? 片っ端からプリントアウトせえ」

 漆畑がスマホをスワイプした。権田は車を降り、ハコナンのターミナルビルを見つめた。正面入口に三十人以上の警察官が並んでいた。

 

 

 申し訳ありません、とCAが頭を下げ、大きなビニール袋を開いた。滝上正文たきうえまさふみは頭を巡らせた。ビジネスクラスの後方で、太った若い男が大声を上げ、スマホの回収を拒んでいた。

 田辺、と滝上は隣りの席に声をかけた。

「ここは俺たちが模範を示そう。五十代半ばの俺たちを若い連中は老害と揶揄するが、常識と分別のある大人だってところを見せてやるんだ」

 たかがスマホだ、と田辺茂春がジャケットの内ポケットから取り出したスマホをCAに渡した。そっちも、と滝上が促すと、男のように田辺涼子が肩をすくめた。

「わたしはあなたたちと違う。老害なんて、職場で言われたことはない。でも、滝上くんの言う通りね。あんなみっともないことはしたくない」

 太った男に視線を向けた涼子が手にしていたスマホをビニール袋に入れた。

 申し訳ありません、とCAがまた頭を下げた。目にうっすら涙が滲んでいた。

「ご協力ありがとうございます。お客様のスマホはわたしたちが保管し、必ずお返しします」

 いいのよ、と手を振った涼子が太った男に向き直った。

「いいかげんにしなさい、子供じゃないのよ? この飛行機はハイジャックされた、と機長がひっきりなしにアナウンスしている。あなたはさっきから喚きっ放しだけど、自分や他の乗客の命を危険に晒してるのがわからないの? 文句やクレームばかり得意になって、情けないとしか言いようがない。さっさとCAさんにスマホを渡しなさい!」

 周囲からまばらな拍手が起きた。渋い顔になった太った男が大きなため息をつき、スマホをビニール袋にほうり込んだ。

 さすが生徒会長、と滝上は微笑んだ。

「変わらないね、君は……強気な涼子とフォロー役のシゲ。優等生カップルが結婚し、離婚し、そして元の鞘に収まった。ずっと見てきた俺としては、感慨深いものがあるよ」

 二度目の新婚旅行だ、と田辺が言った。

「照れ臭くて、一緒に来ないかと誘ったが、まさか本当に来るとはな」

 半分は仕事だ、と滝上は首を振った。

「アメリカの大統領がメキシコとの国境に壁を作ると公約して、当選したんだ。実際には無理だろうと思っていたが、先月から工事が始まった。ノンフィクションライターとして、一度は現場を見ておかないと話にならない。そこへ君たちからの誘いがあった。シゲが勤める恒星出版は俺の主戦場だし、付き合ってやるかと……涼子ちゃん、よく休みが取れたな」

 図書館は意外と融通が利く、と涼子がハイボールをひと口飲んだ。怖くないのか、と滝上はその顔を覗き込んだ。

「正体不明の犯人にハイジャックされたんだぞ? 銃かナイフか、凶器を隠し持っているはずだし、身代金や北朝鮮行きを要求している。今回ばかりは冷静沈着な君でも――」

 あなたたちが話していた通り、と涼子が滝上と田辺を交互に見た。

「ハイジャックが簡単にできる時代じゃない。拳銃なんか持ち込めるわけないでしょ? 脅しているだけの愉快犯で、いずれは捕まる。滝上くんは九五年のハイジャックの話を持ち出していたけど、あの事件はわたしもよく覚えている。負傷者は一人だけで、傷も浅かった。飛行中ならともかく、BW996便は停機している。自爆テロも墜落もあり得ない。怖がる理由なんて何もない」

 涼子は頼りになるな、と言った滝上に、違う、と田辺が顔を近づけた。

「涼子の性格は知ってるだろ? 怖いなんて言わないさ。だが……いつもの強がりだ。本心では怯えている」

「そうは見えないが……」

 二度目の結婚だぞ、と田辺が囁いた。

「それぐらいわかるさ。俺たちを安心させたくて、危険はないと言ってるだけだ」

 無事に帰れるさ、と滝上は励ますように言った。

「さっきの太った男もそうだが、スマホは渡せないと拒否する者、CAを罵倒する者もいた。だが彼女たちは冷静に対処していた。機長が必死なのは声でわかる。警察も動いているんだぞ?」

 それが恐い、と田辺が目を伏せた。

「俺は長年週刊誌の編集をしていたから、ハイジャックには解決策が二つあるのを知ってる。交渉と突入で、言葉で犯人の投降を促すか、力で制圧するか、そのどちらかしかない。だが、突入すれば乗客の何割かが犠牲になる可能性がある。その一人が俺だったら? 再婚早々、涼子が気の毒だろ」

 強行突入は最後の手段だ、と滝上はヘッドレストに頭をつけた。

「これでもノンフィクションライターだぞ? 警察のやり方には詳しい。まだ事件発生から三時間か四時間ほどだ。この段階での強行突入はあり得ない。それは断言できる」

 しばらくは何も起きないか、と田辺がコーラを飲み干した。滝上は後方に目を向けた。狭い通路を進むCAが何度も頭を下げていた。 

 

 

「今、何と?」

 声を張り上げた原に、アイマスクです、と屋代が言った。

『空港のトイレ……トイレットペーパーの芯の中から犯人のメッセージが見つかった、そう言ってましたね? うちのCAも、そこまでは調べていませんでした。副操縦士の野沢くんが二階前方のトイレを確認すると、メモが出てきたんです』

 いいですか、と屋代が文面を読み上げた。

『「乗客からスマホを回収したら、アイマスクを配って目隠しさせろ。我々が監視しているのを忘れるな。一切の会話を禁じる。CAは電子シェードで窓を閉じ、機内の防犯カメラをガムテープで塞げ。1704までにすべてを終わらせること。その後、CAは各自のCA席につけ。トイレに行きたい者は手を上げろ。その時はCAが連れて行く」、以上です』

 アイマスク、と原が頭をがりがりと掻いた。

「機長、BW996便のアメニティにアイマスクはあるんですか?」

『近距離だとビジネスクラスだけですが、長距離便では全乗客にお配りすることになっています。サービスの一環で、耳栓やウエットティッシュなども含まれます。LCCは競争が激しいので、他の航空会社も似たようなものでしょう』

 知ってたか、と囁いた原に、いえ、と成宮が首を振った。

「コロナもありましたし、もう何年も海外旅行に行ってませんから……犯人はベストウイング航空が長距離便でアイマスクを配るのを調べていたようですね」

 副操縦士やCAと話しましたが、と屋代が言った。その声が震えていた。

『アイマスクを配るのはいいとしても、目隠しを指示すればどうなるか……予測がつきません』

 予測はつきます、と麻衣子は紙コップのコーヒーを持ったまま、原に歩み寄った。

「スマホの回収だけでも、乗客は強いストレスを感じているはずです。その上、目隠しを命じられたら、恐怖や不安で機内がパニックに陥るのは間違いありません」

 あんたの意見は聞いていない、と原が追い払うように手を振った。

「機長、とにかく乗客にアイマスクを配ってください。それだけなら、文句を言う者はいないでしょう。配り終えたら連絡をください」

 通話を切った原が太い腕を組んだ。

「犯人は何を考えてるんだ? これは九五年の全日空ハイジャックと同じ展開だ……あの時、犯人はCAにガムテープを渡し、乗客を後ろ手に縛り、目隠しするよう命じた。新興宗教団体の信者を名乗り、サリンを持っていると脅されたCAは指示に従うしかなかった」

 資料を読みました、と麻衣子はうなずいた。アイマスクは縛る代わりだ、と原が言った。

「縛るのと比べればスマートなやり方だが、そんなことをして何になる? 九五年の事件を再現したいのか?」

 愉快犯ではないでしょうか、と前に出た桑山が口を尖らせた。

「ハイジャックが起きたのは地下鉄サリン事件の三カ月後で、一般市民もサリンの恐ろしさをわかっていました。機内で毒ガスを撒かれたら全員死ぬ、そんな怯えもあったはずです。しかし、今回は違いますよ。どう考えたって、犯人がサリンを所持しているわけがありません。九五年の事件を模倣しているのは、悪質な悪戯とも考えられます。例えばですが、混乱する機内の様子をこっそり撮影して、後でYouTubeにアップするとか……」

 俺もその可能性は考えていた、と原が深い息を吐いた。

「再生数狙いのユーチューバーなら、何をやってもおかしくない。だが、ハイジャックだぞ? 回転寿司店の醤油挿しをなめるとか、コンビニ店員のバイトテロとは訳が違う。重犯罪だし、懲役刑は免れない。そいつのチャンネルも即座にBANされる。それじゃ元も子もないだろう。そんなこともわからないほど頭が悪いのか?」

 考えにくいですね、と戸井田が空咳をした。

「犯人は事前に九五年の事件を徹底的にリサーチしているようですし、航空機についても詳しい知識を持っています。機内や空港のトイレにメッセージを隠すなど、計画的な犯行で、周到な準備をしていますが、ユーチューバーにはできないでしょう」

 犯人は馬鹿じゃない、と原が唸った。

「ベストウイング航空によると、機内の窓は最新式の電子シェードで、明かりを五段階に調節できる。最も暗くすると、外から中は見えない。しかも、CAがタッチパネルで一括操作できるそうだ。この機能を導入しているのはボーイング社の旅客機だが、何で犯人はそれを知っていたんだ? 1704は午後五時四分で、函館の日没時刻だ。素人が1704なんて言うか?」

 九五年のハイジャック事件の模倣ならば、と麻衣子は紙コップのコーヒーに口をつけた。

「乗客がアイマスクをつけた後、犯人はCAを通じて連絡を取ってくるでしょう。四百五十九億円の身代金を要求し、北朝鮮への亡命をほのめかしていますが、他にも何かあるのか……まずそこを明らかにしないと、交渉はできません」

 あんたの立場はわかる、と原がこめかみをつついた。

「交渉で事件を解決したい、そうだな? 犯人が誰であれ、目的が何であれ、おとなしく投降すればそれに越したことはない。何よりも重要なのは乗客乗員四百五十九人の命だ。だが、あんたは何もわかっちゃいない」

「どういう意味です?」

 九五年のハイジャックの時、俺たちは救出した人質から事情を聞いた、と原が言った。

「誰も彼も疲れ切って、ろくに口も利けなかったよ。ハイジャックされた全日空機がハコナンに降りたのは午後十二時四十分頃、強行突入によって犯人が逮捕されたのは翌日の午前三時四十五分、乗客の解放はその三十分後だった。約十六時間、乗客は目隠しされたまま、身動きすらできなかったんだ。軽傷者が一人出ただけだから、警察の完全勝利と言っていいが、俺たち現場の刑事はとてもそんな気になれなかった。十六時間だぞ? 体は無事でも、心は違う。深刻なトラウマが残った者もいたんだ」

「わかります」

「死傷者を出さないのは当たり前だが、早期解決が望まれる。あの時、上層部はもっと早く強行突入を命じるべきだった。日本の警察がハイジャックされた旅客機に突入するのは初めてで、失敗したら誰も責任は取れない。だから、上はためらった。今回は違う。犯人は一人で、サリンなんか持っていない。強行突入して犯人を逮捕すればいい」

 四時四十分です、と麻衣子は壁の時計を指さした。

「陽はまだ沈んではいません。原警視の方針は理解できますが、強行突入にはまだ早いと思います。何度でも言いますが、一人でも死傷者が出たら警察の負けです。今は犯人との交渉を優先するべきです」

 交渉しろよ、と原が乱暴に拳で机を叩いた。

「だが、犯人は何も言ってこない。それじゃ交渉も何もないだろう?」

 麻衣子と原の視線が交錯した。屋代です、とスピーカーから声が流れ出した。

『アイマスクを配り終えました。原警視、どうします? 目隠しを指示しますか?』

 原が天井を見上げた。捜査本部を沈黙が覆った。

 五時になったら、と原が口を開いた。

「アイマスクの装着をアナウンスしてください。五時四分の時点で、窓の電子シェードを降ろし、防犯カメラをガムテープで塞ぐように」

 遠野さん、と戸井田が麻衣子の耳元で囁いた。

「ぼくが乗客なら、アイマスクをある程度ずらしてつけます。そうすれば、下から周りが見えますからね……四百四十人の乗客がいます。ぼくと同じことを考える者もいるのでは?」

 犯人の狙いがわからない、と麻衣子は小声で言った。

「これだけ緻密な計画を立てているのに、中途半端な指示を出している。なぜ、九五年の事件を模倣するのか……まだ裏がある。しばらくは様子を見るしかない」

 麻衣子は残っていたコーヒーを飲んだ。苦い味が口に残った。

 

(つづく)

 

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