読み物 - 読み物
最果タヒのお手紙講座「燃えよファンレター」第2回 相手は好きな人なのだから、「うまく言えない」は愛の証明
最果タヒ
2024.07.05
題字:はるな檸檬
第2回 相手は好きな人なのだから、「うまく言えない」は愛の証明
世の中でよく使われて、角が取れてツルツルになっていて、誤解なく「こういうことを伝えたいんだろうな」と難なく伝わるような、そんな表現ってあちこちにあって、それらを効率よく使い、できるだけノイズなく、複雑さを取り除いて、言いたいことの要約をしていくことが、「きれいな手紙の書き方」と紹介されていることって多々あります。それは確かに間違いではなく、書くという大海原で投げ込まれた浮き輪のようです。けれど私はどうにか伝えたい! と思い、そしてどうしてもうまく伝えられない頭を抱える時、迷子になった自分がそうした表現を摑もうとすることに納得ができなくて、それじゃだめなんだぁ! って全部ひっくり返したくなる。それが良いことなのか悪いことなのか、そんなことはどうでもいいのです。ただ、私は、私に、最後までもがき切って、溺れ切って、書いてほしいと強く願っている。ファンレターを書く時点で、相手にとってはとても嬉しいことなのだと思う。(そこは信じたいことなのでそう信じています。)どんなふうに書いても好きという気持ちは伝わるし、伝わるなら、それだけで喜んでもらえるだろうと私はわかっていて、わかっていながら、私が私として思ったことを精一杯伝える以上のことって、ない、と思う。誰のためとかじゃなく、私がそれをしたいよって思う。
わかりやすく、すっきりした消化しやすい手紙よりも、どうしたら伝わるんだろうと頭を抱えながら「うまく書けなかった気もしますが、でもこれが私の気持ちです」と、頭を抱えている状況さえ伝えてしまう手紙の方が、私はあの人に届けたいと思う。コミュニケーションなんだもの、手紙は。その人の前に立って話しかけるわけではなくても、その人にまっすぐ向き合うことではあるのだ。手紙も。その時、その人の前に立っているのが「私」であってほしい。私100%の言葉でありたい。
たまに、「どうやれば手紙をうまく書けますか」と相談してくださる方がいて、私はうまく書けたと思ったことなどないのだけれど、それはそれとして手紙の下書きを書いていて、これはまだ清書できない、と思う時と、これを清書しよう、と思う境界線に何かはあり、そのことを考えて答えてみている。
やっぱり、「これは私の手紙だ、他の誰でもない私が書いた手紙!」と思えると私は送ることができます。自分じゃないと捻り出せない視点とか、一言とかあると、「書けたかもしれない……」と思うようなのです。
それを踏まえて「どう書くか」をアドバイスするなら、私は「手紙をどのように綺麗にうまく書くかを目標にしないこと」を伝えます。「なんだか言いたいことがうまく書けないな」と書いていて思うことはあるし、そうして私もほとんどがそんな時間ですが、そういうときは、そのままそのことも手紙の中で書いてしまった方がいい。「うまく伝えられているでしょうか、自信がないのですが。でも、本当に私はこの時……」みたいに。悩んでしまう時にそれを全部切って捨ててしまうのではなくて、言葉に詰まるなら詰まるところも見せればいいです。相手は人と話すように手紙を読むし、その人の表情を言葉を通して想像すると思う。完璧に、わかりやすく伝えるのもいいけれど、「待ってください、今言葉がうまく出てこなくて……」と必死で言葉を探しながらあなたは素敵だと伝えようとする人を、いやだ、と思う人ってそんなにいないのではないかなと思います。むしろ全身全霊で伝えようとしていることだけはびしびし伝わってくるんじゃないかって。
人は、目の前にいる相手に自分の気持ちを伝えたい! 溢れる思いをぶつけたい! と強く願った時、たとえうまく話せなくても、それでも言葉を何度も、何度も重ねる。撤回したり言いなおしたり目の前で悩んだりしながら。そのとき、その人の目はどんどん煌めいて、言葉がどんどん躍り出す。そこに「好きですと伝えたい」という大前提があって、相手もそれをわかってくれているなら、相手はそんな整理がつかない言葉でもちゃんと聞いてくれます。むしろ、そうやって伝えようとする人を心から受け入れてくれています。うまくスピーチできたら伝わるとかではなく、人と人はどんな関わりでも、やはり必ずコミュニケーションなので、「なんとか伝えようとするあなた」に相手は心を開いて、その言葉をできるだけ全力で受け止めようとする。私はファンと「応援している人」も、そうしたやりとりが生まれうる関係だと思っています。うまく言えなくても、何か肯定的なことを本気で誠意でもって伝えようとしてくれているんだなぁと伝われば、実はどんな内容よりそれは、その人にとって大切な事実になったりする。
口頭がそうなら、手紙も実はそれは変わらない。スピーチにしてうまく綺麗に伝えようとする(つまり端正な手紙を書こうとする)と一気にこのあり方は難しくなるから、綺麗に書く、うまく書く、はもう目指さずに、精一杯話しかけつづける、という手紙にしてみては? みたいな意味で、私は「綺麗に書こうとしない方がいいかも……」みたいなアドバイスをします。それがよいものを生み出すかはわからないけど、よいものでないにしても、あなたの気持ちそのものの手紙にはなる。少なくとも私は、そうやって書いてやっと、自分が手紙の中で心を開けたって思うのです。好きな人に手紙を書くなら、どんな時よりも心を開いて、素直にいたいって思うから、ずっとうまく書けなくても、全力で「私」のままで書こうとしています。
どんなに好きでも、好きな人に気持ちを伝えようとすると緊張して、「こう見てほしい」「こう受け取ってほしい」というのが先回りして、伝えることも表情もどんどん硬くなり、説明調になり、そして心を開かなくなることってあるなあと私は感じていて、それは本当にもったいないことです。緊張は仕方ないことなのですが……。でも、愛を伝えたいなら、心を開かなくてはならない。むしろそれだけでいいとすら思う。美しく綺麗にわかりやすく伝えなければと思うことが余計に自分を緊張させるなら、それは忘れてしまった方がマシのように思えて、私はそういうことはあまり考えないようにしています。(時候の挨拶とかも苦手だから書きません。)とにかく、お手紙をもらって、そこで「心を開いてくれている」と伝わったらいい、それでいい、言いたいことも伝わってほしいけど、とにかく私の心よ開いて、この人に向けたキラキラとした気持ちの光が流れ込んでいって! と思う。
ここでこのようにまとめればすっきりするな、とか、ここでこう言えば定型文のニュアンスがあるし伝わりやすいな、と不意に思う時、私はそれを絶対に書かないです。(それは原稿でもそうなんですけど。)私は、とにかく私の心を開いていたい、すでにある言葉に、自分を当てはめることは、それと真逆な気がして怖くなるのだ。見栄えをよくしたいのではなく、気持ちをひたすら伝えたい。好きっていうのが伝われば、本当はそれだけでよく、それを伝えるには心を開くしかない、と私は思っているから。
好き、と思っていれば良い手紙になります。と私は思います、というかそう信じて書いています。そう信じて書けるように、手紙はかなりマイペースな言葉回しで、思ったことはそのまま時系列で書いてしまうくらいです。とにかく「私」のままでいる。だって、「あなたが好き」という気持ちが100%で、バレたら困ることなんてなく、全部さらけ出して伝わることに私はなんの躊躇もないので。誤魔化す必要がないならそのままでいるのが多分一番なのだろうって信じているのです。
そうやって書く。書いています。その人の前に立てば好きなら目はキラキラする。じゃあ、手紙も多分、そのままでいればキラキラする。そう信じていたい。「好き」が伝わることは、キラキラが届くことだって信じていたい。ファンレターはいつも本当はそれだけ、それがすべてだから。私はそう思って、自分の「好き」の海でもがいて、泳いでいます。
(さいはて・たひ 詩人)