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【書き下ろし短編小説】敬慕の行方

【書き下ろし短編小説】敬慕の行方

待望の新刊『県警の番人』を6月に刊行する天祢涼さん。
今回『県警の番人』のスピンオフ作品を特別公開致します!
(*本作「敬慕の行方」は『県警の番人』に収録されておりません)

1

 ──本当はいまごろ、ベッドの中だったのに。
 あくび混じりに思った瞬間、前田和也まえだかずや巡査は己を恥じた。助手席に水原俊太みずはらしゆんた巡査部長がいるというのに、情けない。
 しかし。
「本当なら、今日はもうベッドで熟睡していたのにな。たまったもんじゃない」
 水原は前田の思考に合わせたかのようにそう言って、わざとらしく顔をしかめた。切れ長の両目が滑稽なほど細くなる。前田は即座に返した。
「水原さんが、自分で対応すると言ったんでしょう」
「そうだっけ? 余計なことを言っちまったな」
 心にもないことを口にして、水原はさらに顔をしかめた。気を遣ってくれてありがたい。
 面倒な事案ではあったが、水原に同行してよかったと心底思う。
 Q県警本部から生摩いくま交番に入電があったのは、いまからおよそ一時間前、午前九時二分。前田が前日九時からの二十四時間勤務を終え、交代で出勤してきた 交番責任者 ハコ長 久谷実樹也 ひさたにみきや警部補に引き継ぎをしている最中のことだった。
〈生摩町三丁目にあるメゾン松喜まつき一〇四号室の住人から通報あり。隣室の一〇三号室で、夫と思われる男性が喚き声を上げて暴れているとのこと。直ちに現場に向かうように〉
「了解」と言い終える前に、前田の脳裏には一〇三号室の住人の顔が浮かんでいた。長野瑠偉ながのるい愛奈あいなの夫婦である。この半年の間、愛奈から「夫が暴れている」と何度通報を受けたかわからない。その度に前田は、水原とともに長野家に駆けつけ、時には瑠偉を宥め、時には警告を出した。愛奈には離婚を、一足飛びにそれが難しいならせめて一時的に距離を置くべきと勧めたこともあった。
 しかし愛奈の答えは、いつも「瑠偉くんは、私が傍にいないとだめだから」だった。
 瑠偉は声を荒らげこそするものの、愛奈に暴力を振るうことはない。愛奈も果敢に怒鳴り返しており、この夫婦が巻き起こす騒動は毎回ただの痴話喧嘩に近かった。
 どうせ今回も同じだろう。
 通報が自分の勤務明けでよかった、と胸を撫で下ろしつつ前田が入電の内容を報告すると、久谷はこれみよがしにため息をついた。
「昨日は何事もなく、平和な一日だったみたいじゃないか。まだ若いんだし、水原も前田も体力があり余っているだろう」
 この通報にはお前たちが対応しろ、とあからさまににおわせている。そんな義理はない、と内心で反発した前田だったが、水原がやわらかな声音で応じた。
「そうですね。長野さんのところには俺たちが行きますよ。どうだ、前田?」
 水原に呼びかけられた瞬間、久谷への反発は嘘のように消え失せ、返した答えは「行きましょう」だった。
 引き継ぎを中断すると、水原とともに急いでパトカーに飛び乗った。
「悪いな、巻き込んじまって」
 前田がパトカーを発進させるや否や、水原は頭を下げてくる。
「でもハコ長だと、おざなりな対応しかしなくて状況が悪化するかもしれない。いくら長野夫婦でも朝っぱらから喧嘩するのは珍しいし、念のため様子を見に行った方がいいと思ったんだ」
「水原さんのそういうところ、俺は尊敬してますよ」
 前田は自分の気持ちを抑え切れず口の端をつり上げ、アクセルを踏み込んだ。
 しかし結果的に、水原の心配は杞憂だった。瑠偉は朝まで飲んで泥酔して帰宅しただけで、喧嘩ではなかったらしい。水原が「近所迷惑だから気をつけて。次にこんなことがあったら、さすがに署まで来てもらうよ」と懇々と説教すると、長野夫婦はそろって神妙な顔をして、身体を小さくしていた──。

「これであの夫婦も、少しはおとなしくなるといいんだけどな」
 帰路に就くパトカーの中。水原は、サイドウインドウに顔を向けて言った。声に感傷が滲んでいるように聞こえるのは、おそらく気のせいではない。面倒な相手だったとはいえ、いざ離れるとなると二人の行く末を案じずにはいられないのだろう。水原俊太は、そういう警察官だ。
 警察学校を卒業してから二年半、この先輩と同じ交番ハコ で働けたことを、前田は誇りに思う。
「水原さんが異動になっても、長野夫婦のことは俺が責任をもって引き継ぎますから」
 前田が言うと、水原は顔をこちらに向けて笑った。
「俺が異動すると決まったわけじゃないし、お前だっていつまでもあの交番ハコ にいるわけじゃないだろう」
「異動になったら、後任に水原魂を継承させます」
「変な魂をつくらないでくれ。それより、この先にあるコンビニに寄ってくれないか。トイレを我慢できそうにない」
「水原さんって、結構トイレが近いですよね。膀胱炎なんじゃないですか」
 警察官は、職務上のストレスが尋常でない上に長時間にわたる警備や捜索などでトイレに行けないことが多いため、膀胱炎になりやすい。
「そうかもしれないけどさ……お前、そういう話を女性警察官にはするなよ」
「するわけないでしょう」
「小便は生理現象だから男女平等に話して構わない」と意に介さない警察官もいるが、水原は気を遣う方だ。「そこまでの気遣いは女性警察官に却って重荷」という声は当然ある。しかし前田は、水原の態度に好感を抱いていた。
 紳士的でいいと思う。そういう警察官は珍しいとも思う。
 赤い看板が、左手前方に見えてきた。Q県近郊にしかないローカルコンビニ「マチカドストア」の看板だ。正式な店名は、マチカドストア生摩店。この近辺にある、唯一のコンビニだ。
 ウインカーを出し、減速してから駐車場に入る。前田がパトカーを駐めると、水原は急いで降りてコンビニに駆け込んでいった。
 平日午前のコンビニは静かで、広い駐車場には車がほかに二台駐まっているだけだった。トイレに向かう水原の姿が、一面ガラス張りの壁越しに見える。早足で歩く制服警察官は威圧感があるはずだが、二名の店員は意に介さずレジで雑談を続けている。
 ──こうして水原さんと仕事をするのも、あと一週間か。
 警察官になった者は、最初に必ず警察学校に入校する。卒業後は所轄署の地域課に配属され、交番勤務をすることになる。その後、刑事になるためには刑事講習を受けなくてはならない。
 この講習を受けるには、上官からの推薦が必要になる。推薦を受けられるのは、勤務態度が優秀である、検挙率が高いなど「見込みあり」と見なされた者のみ。
 首尾よく推薦を得られても、書類選考や面接の結果次第では講習を受けられない。受講が認められ無事に講習を修了しても、刑事課から声がかからなければ刑事になれない。
 前田とて刑事課への憧れはあるが、道のりが険しすぎて、とても実現できる気がしない。
 しかし水原は二度目の推薦で受講が認められ、刑事講習を突破した。
 本人はなにも言っていないが、おそらく幸鐘こうがね署刑事課への異動の内示が出ている。あそこの刑事課は今年度一杯で定年退職する課員がいるから欠員ができるし、刑事課長が水原を気に入っているという噂だから間違いない。
 四月一日から水原は、晴れて刑事だ。
 ──刑事になるのは、子どものころからの夢だったんだ。
 刑事講習を終え生摩交番に戻ってきた水原が、吐息とともにその一言を口にしていたことを思い出す。同時に、胸に一抹のさみしさがよぎった。
 水原の背中からは、警察官としてあるべき姿が常に伝わってきた。そのくせ、気負った様子はまるでなく、物腰はいつもやわらかだ。
 優しくて、頼れるお兄さん。そんな言葉が、あの人にはしっくりくる。
 もう少しだけ同じ職場で働きたかったとは思う。とはいえ。
 ──水原さんは、絶対にいい刑事になる。たくさんの人を救ってくれるはず。
 その思いの方が、はるかに大きい。
 水原は、なかなか戻ってこなかった。トイレに先客がいるのか、大きい方なのか。ダッシュボードの時計になんとはなしに目を向けると、十時十分になったところだった。
 五分後、水原がパトカーに戻ってきた。
「待たせて悪い。腹の調子があんまりよくないんだ」
 言われてみれば水原は、昨日から度々トイレに行っていた。「だったら長野夫婦のことはハコ長に任せればよかったじゃないですか」と口にしかけて、やめた。水原の長野夫婦に対する思いは、先ほど聞いている。代わりに前田は、軽口をたたいた。
「今日はもう、ハコ長に仕事を押しつけられないことを祈りましょう」
「心の底から同意するよ」
 水原が大仰に頷く。それを見て笑いながら、前田はパトカーを発進させた。生摩交番までは、あと五分とかからず着く。疲労困憊ではあるが、もう少しの辛抱だ。
 水原も疲れているのだろう、無言で窓外を眺めていた。前田も話しかけることはせず、黙々と運転を続ける。そのままどちらも声を発することなく生摩交番に到着する──はずだったのに。
「あっ!」
 突如、水原の声が車内に響き渡った。悲鳴に近い声だった。この先輩の口から、こんな声を聞くのは初めてだ。
「ど……どうしたんですか」
 前田は口ごもりながら訊ねた。運転中なので横目で見ると、水原は両手で腰の辺りをまさぐっていた。
「……ない」
「ないって、なにが?」
「た──」
 大きく息を吸い込んでから、水原は言い直した。
帯革たいかく
「はっ?」
 咄嗟にパトカーを路肩に駐めた。助手席に身を乗り出すようにして、水原の腰を見遣る。
 先ほどは横目で見ただけだから気づかなかったが、警察官が腰に巻く装備品を持ち運ぶためのベルト──帯革が、なかった。
 無論、帯革に装着された警棒も手錠もない。
 そして、拳銃も。
 前田は愕然と呟く。
「一体どこに──って、さっきのコンビニですよね」
 水原は強張った顔で、小刻みに首肯した。
 帯革は腰に巻かれているため、はずさないとズボンを下げることができない、即ち、用を足すことができない。そのせいで、トイレに置き忘れる警察官が後を絶たない。しかし自分には無関係の不祥事だと、前田は思っていた。
 それなのに、まさか同じ職場の警察官が……。しかもよりにもよって、水原が……。

2

「さっきトイレでドアのフックにかけて、そのままにしちまったんだ。すぐ戻ってくれ!」
 我に返った水原が、血相を変えて捲し立てた。しかし、すぐに「いや」と続ける。
「お前は降りろ。俺一人で行く。巻き込むわけにはいかない」
 水原が言い終える前に、前田はアクセルを踏んだ。車線をまたいでパトカーをUターンさせ、車両と車両の間に割って入る。
「降りろと言っただろう!」
「そんな暇はないでしょう」
 前田は即答した。前を行くトラックは、法定速度をきっちり守っている。その後ろを、違反になる寸前の車間距離で走る。
「だったらサイレンを鳴らせ。急いだ方がいい」
 水原が言っていることは正しい。しかし前田は無視した──自分でも理由がわからないまま。
「なにをしてるんだ。鳴らせ!」
「そんなに遠くないから、鳴らしても鳴らさなくても一緒ですよ」
「それとこれとは話が別だろう。早く鳴らせ!」
 無視したままパトカーを走らせる。トラックが交差点を右折し前方が開けると、前田はスピード違反ぎりぎりの速度までアクセルを一気に踏み込んだ。
「サイレンを鳴らすんだ!」「言うとおりにしろ!」などと命令を繰り返す水原を無視し続けているうちに、右前方に赤い看板が見えてきた。もう鳴らす意味はない。水原が奥歯を噛みしめる。
 マチカドストア生摩店に到着した。前田がパトカーを一時停止させると、水原は無言で飛び出し店に駆け込んでいった。
 店内は、相変わらず空いていた。物陰に誰かいるかもしれないが、視界に映る客は女性一人のみ。水原は彼女の脇を走るように通り抜け、トイレに入っていった。
 それを見届けてから、前田は白線に沿ってパトカーを駐める。
 駐車場には、先ほどとは違う車が一台駐まっているだけだった。ダッシュボードの時計に目を向ける。十時二十三分。水原がトイレから戻ってきたのが十時十五分だから、帯革を放置していた時間は十分弱。二名の店員は先ほど同様レジでおしゃべりを続けていて、トイレの清掃をした様子はない。客がトイレを使っていなければ大丈夫だ。十分も経っていないのだから、誰も使っていない可能性が高い。いや、使っていないに決まっている……。
 そう思い込もうとしても落ち着かず視線をさまよわせていると、サイドミラーに映る自分の顔が目に入った。水原とは対極にある丸形の両目が、情けないほど潤んでいる。それに気づくと、ますます落ち着かなくなった。
 水原がトイレから出てきた。ガラスににぎにぎしく貼られたポスターが邪魔で、帯革をつけているかどうかわからない。汗ばんだ手でハンドルを握りしめていると、自動ドア越しに水原の全身が見えた。首を伸ばすようにして、水原の腰部を凝視する。
 腰には──巻かれていた、帯革が。
 両手がハンドルから滑り落ち、だらりと垂れ下がった。
 店から出てきた水原は、助手席に乗り込んでくるのと同時に頭を下げた。
「すまなかった。盗られた物もない。警棒も手錠も拳銃も、全部ある」
 水原の表情も声音も硬いままだが、前田は大きく息をつく。
「よかったです。やっぱりトイレに忘れていたんですね」
「ああ。便器の陰に落ちていた。すぐには見つからなくて、一瞬焦ったよ。フックにかけたんじゃなくてタンクに置いてそのままにしていたものが、落ちたんだと思う」
「随分な記憶違いですね。よっぽど体調が悪いんじゃないですか」
「そうかもしれないな。でも、そんなことは言い訳にならない」
 目を伏せつつも芯の通った声で、水原は言った。前田の胸がざわめく。
「どういうことですか」
「この件は上に報告する、ということだ」
「しなくていいでしょう!」
 意識せず、強い声になった。
「無事に回収できたじゃないですか。誰かに見つかったわけでもない」
 水原は視線を持ち上げ、首をゆっくりと横に振る。
「そういう問題じゃない。短時間とはいえ、帯革を放置していたんだ。もし拳銃が誰かの手に渡っていたら、大事件になっていたかもしれない」
 はっとした。帯革を置き忘れるということは、拳銃を──この国では警察官や自衛官など一部の職業の者にしか所持が許されない凶器を放置したことを意味するのだ。
 水原のせいで、誰かが負傷するか、最悪、死んで……いや、殺されていたかもしれないということ。それなのに、上に報告しないのは……。
「わかっただろう。なかったことにするわけにはいかない」
「でも……なかったこともなにも、なにもなかったじゃないですか」
「だから、そういう問題じゃ──」
「刑事課行きがなくなってもいいんですか!」
 つかみかからんばかりの勢いで迫った。水原が前田から、露骨に目を逸らす。
「……刑事課行きの内示は、出ていない」
「まだ内示の段階だから、俺に言えないのはわかります。でも水原さんが来月から幸鐘署の刑事課に行くことは、公然の秘密ですよ。水原さんにだって、それはわかっているでしょう」
「…………」
 水原は前田から目を逸らしたまま、微動だにしない。
「帯革を置き忘れたことを知ったら、上は水原さんを処分せざるをえなくなる。当然、刑事課行きも取り消しです。そんなの、嫌でしょう」
「もちろん嫌だが、やむをえない。次のチャンスを待つしかない」
「処分された警察官に、そんなものが簡単に来るはずない。子どものころからの夢が叶わなくなるんですよ。それでいいんですか」
「……仕方がない」
「俺が水原さんに刑事課に行ってほしいんです!」
 口にした瞬間、自分の真意を自覚した。
 ──俺は水原さんが帯革を忘れたことを隠したい。だからさっき、サイレンを鳴らさなかったんだ。鳴らしたら、なにがあったか上に報告しなくてはならなくなるから。
 逸らされていた水原の視線が、ぎこちなく前田に戻される。目が合うと、前田は意識して強く頷いた。
「帯革を置き忘れていた時間は十分もない。俺以外には誰にも知られてないし、被害があったわけでもない。ここだけの話にしておきましょう」
「しかし──」
「水原さんは、ハコ長の代わりに長野夫婦のところに行ったようなものじゃないですか。夜勤明けで、疲れ切っていたのに。誰にも迷惑をかけなかったミスくらい、許されて然るべきです」
 水原の視線が忙しなく揺れ動いた末に、コンビニの入口へと向けられた。
「防犯カメラには、帯革をつけずに出入りする俺の姿が映っているはずだ。俺が帯革を置き忘れた、決定的な証拠になる。それを警察カイシヤの人間が見たら言い逃れできない」
「特別な理由がないかぎり誰も防犯カメラのチェックなんてしないし、一定期間経てば店側が勝手に消してくれます」
 防犯カメラの映像が保存される期間は、長くても一ヵ月程度。その間、警察が防犯カメラのチェックをするような事態が起こらなければ逃げ切れるということだ。それでも水原は、かすれた声で言った。
「俺がコンビニに戻ってきたことを、店員が不審に思うかもしれない」
「思われたところで『またトイレを借りたくなった』で押し通せばいいでしょう。だいたい、一度戻ってきたくらいで店員が警察に連絡することはありませんよ。ずっとレジで雑談していて、やる気もなさそうですしね」
「そうは言うが──」
「上には報告せず、水原さんが刑事課に行く。それがQ県警だけじゃない、県民のためでもあるんです」
 県民のため。前田が口にしたその一言に、水原の双眸が大きくなった。
「……ありがとう」
 水原は前田の目を真っ直ぐに見つめ、深々と頭を下げる。
「刑事課で身を粉にして働き、一人でも多くの人の力になる。それが俺にできる、せめてもの償いだな」

 この件は、これで終わりのはずだった。前田は誰にも話すつもりはなかったし、水原も一刻も早く忘れようとしているに違いなかった。
 それなのに、翌日。
「水原俊太巡査部長について、確認したいことがあるんだ」
 前田は生摩署の小会議室で、相対する 鏡真人かがみまさと警視正からそう言われた。

3
 
──水原さんについて確認したいこと、だと?
 鏡の意図を推し測りながら、前田は今日ここに至るまでのできごとを思い返す。
 昨日、生摩交番に戻ってからは特筆することもなく帰宅した。前田も水原も、帯革の件には一切触れなかった。
 Q県警の交番勤務は、前日午前九時からの二十四時間勤務を終えた日は非番。翌日は公休日が原則である。普段の公休日同様、前田は昼前まで眠りこけていた。いつも以上に深い眠りだった。帯革の紛失という不祥事を隠蔽したことで、精神的にも疲れ切っていたのかもしれない。
 起床後はぼんやりしたまま、なんとなくテレビをつけた。今日はカリスマ的な人気を誇るアメリカの女性歌手が来日するそうで、ニュースはその話題でもちきりだ。しかし前田は、歌に興味がない。適当に食事を済ませてもう一眠りするか……と思っていると、生摩署地域課長の柿沼茂晴かきぬましげはる警部から〈緊急事態が起こった。すぐ署に来い〉と電話がかかってきた。
 管内で事件が発生した様子はない。まさか、帯革の件か? 青ざめているうちに、電話は切られた。すぐさま水原に電話をかけたが、出ない。留守電にもつながらない。本当に帯革の件なら、下手にLINEやメッセージを送らない方がいい。
 ──水原さんなら、着信に気づいたらすぐに折り返してくれる。
 そう思ってスーツに着替えて家を出て、生摩署に出勤したのが午後一時。
 地域課で待っていたのは、私服の女性警察官だった。どこかで見たような気がするが、わからない。年齢は、おそらく三十歳前後。目の高さは、身長百七十センチの前田とほぼ同じ。女性にしては長身だ。もっとも警察という組織において、そういう女性は珍しくない。だから、どこで見たのか思い出せないのだろう。
「こちらへどうぞ」
 愛想のいい笑みとは裏腹に、女性は名乗りもせず、「ついてこい」と言わんばかりの足取りで地域課室から出ていった。前田は、窓際の席に座る柿沼に戸惑いの目を向ける。
「行ってこい。お前を待っている人がいる」
「一体誰が?」
「行けばわかる」
 柿沼は、前田の方を見ずに答えた。かかわりたくない、という声が聞こえてくるようだった。前田は戸惑いを大きくしながら、女性の後を追う。その間さりげなくスマホを取り出したが、水原からの着信はなかった。息苦しくなるのを感じながら女性に続く。
 連れていかれたのは、生摩署二階にある小会議室だった。取調室に連行するまでもないが、話は聞きたい事件関係者の聴取に使われる部屋だ。広さは、三人も入れば一杯になる程度。
 そこで机の向こうに座る人物を見て、前田は思わず後ずさりしかけた。
 あの・・鏡真人だったからだ。
 女性が小会議室から出ていき、前田は鏡と二人きりになる。自分が唾を呑み込む音が、室内に響き渡った気がした。
 鏡が座ったまま一礼する。
「監察官の鏡真人だ」
「い……生摩署地域課の前田和也です」
 応じる声は、上ずっていた。
 直に話をするのは初めてだが、鏡のことはよく知っている。
 いまから十数年前。当時のQ県警は、証拠隠滅や職場不倫などの不祥事を立て続けに起こしていた。そのため、世間から非難が殺到。県民の不信感は頂点に達し、事件や事故が起こっても警察に通報しないことすらあったという。
 しかし鏡が三十代前半の若さで監察官に就任すると、状況は一変した。
 監察官は警察内部の不正を取り締まることを職務とする「警察の警察」である。無論、鏡以前にも監察官は存在していた。しかし鏡は前任者たちと違って些細な不祥事も徹底的に洗い出し、当事者は階級に関係なく処断した。それに伴いQ県警の規律は正され、検挙率は急上昇。地に落ちていた信頼を取り戻すことに成功した。
 この功績が認められたのだろう、鏡は任期を終え、別の部署に異動した後も一年経つと監察官に復帰する人事サイクルを繰り返している。鏡以外に同様の待遇を受けている者はいない。
 それゆえ誰からともなく呼ぶようになった鏡の二つ名が「県警の番人」。
 ──そんな人が俺のところに来る理由は……しかも、水原さんの件で。思い当たる節は、帯革のことしか……。
 全身が急速に熱を帯びていく前田に、鏡は言った。
「突っ立ってないで座っていいぞ」
 青白い顔にはそぐわない、前田の緊張をほぐすような優しい声だった。口許には、親しげな笑みが載っている。
 ──思っていた人と違うな。
 鏡から聴取を受けた警察官を、前田は一人だけ知っている。既に異動になった、生摩交番の先輩だ。彼は鏡のことを「こわいわけではないが、にこりともしなかった」と話していた。しかし実際に鏡に接してみると、受ける印象はまるで異なる。表情も話し方もどこか水原に通じるものがあって、話しやすく思えた。年齢は確か五十歳前後と記憶しているが、もっと若く見えもする。
 依然として緊張してはいるが、少しだけ気が鎮まった。
「失礼します」
 前田は一礼して、鏡の向かいに座った。口を開きかけた鏡だったが、「おっと」と呟くと胸ポケットからスマホを取り出した。ディスプレイを一瞥した鏡は、すぐにスマホをポケットに戻す。
「対応しなくていいんですか」
「たいした用じゃないからな。監察官なんてしていると連絡がひっきりなしに来て、なかなかのストレスだよ」
 鏡は大袈裟に顔をしかめ、癖の強い髪に右手を突っ込んだ。やはり水原と雰囲気が似ている。緊張が、身体から染み出るように薄まっていく。
「ところで、昨日の朝のことだが」
 まるでそれを見計らったかのようなタイミングで、鏡は切り出してきた。薄まっていた緊張が、瞬時にもとに戻る。
「……昨日の朝、と言いますと?」
 鏡は左を上にして手を組むと、それを机に乗せてから言った。
「生摩署管内で、男性が暴れているという通報があったそうだね。その事案処理で、水原になにか変わったことはなかったか?」
 いくら長野夫婦が「常連」とはいえ、監察官が出張ってくるほど悪名高くはない。水原と前田の対応に問題もなかった。それなのに、なぜこんな質問を?
 ──帯革のことなのか? 鏡監察官は、水原さんがトイレに置き忘れたことを知っているのか? 水原さんは鏡監察官の聴取を受けていたから俺の電話に出られなくて、折り返しもないのか?
 背中にじんわり汗が滲んでいく。しかし昨日からのできごとが脳裏に浮かぶと、前田は内心で首を横に振った。
 ──鏡監察官が、帯革のことを知っているはずがない。
 帯革は、誰にも見つからず回収できた。雑談に夢中だったあの店員たちは、水原が帯革をつけず出入りしたことに気づいていないはず。店内には女性客がいたが、水原の姿を見たのはほんの数秒だ。帯革がないと見て取れたはずがない。ほかに通報するような目撃者がいたとも思えない。
 なぜ鏡が昨日の件について訊ねてきたのかはわからない。しかし前田は、そっと唇を噛んでから答えた。
「報告することは特にありません。いつもどおりの水原さんでした」
 無難に答えられた、と息をつく間もなく、鏡は言葉を継いでくる。
「帰りはどうだった?」
 鏡の物言いは相変わらず水原と似ていて、耳に心地よかった。それだけに、顔が強張りそうになる。
 鏡は前田を真っ直ぐに見据えている。そのまなこが黒目がちであることに、前田はいまさら気づいた。なにかに似ていると思ったが答えを出せないまま、前田はとにかく口を動かす。
「どういうことでしょうか?」
「事案処理に当たった、帰りはどうだった? 水原に、変わったことはなかったか?」
 ──こんな質問をしてくるということは、鏡監察官は帯革のことを知っているのか?
 帯革は無事に回収できたし、目撃者もいなかった。となると鏡が知る術は、水原の自己申告以外ありえない。水原の性格なら、上司に報告するべきと考え直したとしても不思議はない。
 だから水原さんと電話がつながらなかったのか、と歯噛みしかけたところで、しかし前田は我に返った。
 ──それなら水原さんが、俺になにも言わないはずがない。
 仮に自己申告するなら、前田にとめられたことは一切話さず、報告を遅らせたのは自分の判断だったと主張する──水原は、そういう警察官だ。その場合、証言に齟齬が生じないよう、前田と事前に口裏合わせしておく必要がある。
 しかし前田は、水原からなにも聞かされていない。よって、水原が自己申告した線はない。前田と水原以外に帯革の紛失を知る者はいないのだから、鏡が把握している線もない──そう結論づけられる。
 そもそも、もし鏡がすべてを把握しているなら、最初からそう突きつけてくるはずだ。こんな回りくどい質問をする意味はなにもない。
 なぜ鏡が、水原についてさぐりを入れてきたのかはわからない。それでも、余計なことを言わなければやりすごせる。
 膝の上でそっと両拳を握りしめていると、鏡は繰り返し訊ねてきた。
「どうだった? 昨日の帰り、水原になにか変わったことはなかったか?」
「はい、特には」
「メゾン松喜から生摩交番に戻る途中、コンビニに寄らなかったか?」
 刹那、呼吸がとまった。
 こんな質問をしてくるなんて、やはり鏡は帯革の紛失を知っているとしか……いや、判断を誤るな。そんなはずはないんだ……静かに、しかし大きく息を吸い込んでから、前田は頷いた。
「寄りましたよ、水原さんがトイレを我慢できないと言うのでマチカドストア生摩店に──あ、そういえば一度トイレを出て出発したんですけど、また催してきたと言うから、すぐに戻りました。変わったことといえば、それくらいですね」
 一旦店に戻ったことは、訊かれる前に打ち明けた方がいいと判断した。後から発覚して、隠していた理由を問われては厄介だ。
「一度出発したなら、そのまま交番に戻ればよかったじゃないか」
「交番よりコンビニに戻った方が早そうだったんです。交番だとなにか事件が起こっていたら、その対応に駆り出されてトイレに行けませんしね」
「コンビニに行った時間はわかるか」
「確か、一度目が十時十分前、二度目が十時二十分すぎだったと思います」
 これもすなおに打ち明けた方がいいと判断したが、鏡の右眉がわずかに持ち上がった。なにかまずいことを言ってしまったか? 胸に不安が兆す。
「トイレを借りただけ。それは本当か」
「本当です」
 不安を振り払うため勢いよく断言すると、鏡は大きく息をついた。
「そういうことなら大丈夫か」
 含みのある言い方だった。
「なにが『大丈夫』なんですか」
「たいしたことではないんだ」
 鏡は、一旦言葉を切ってから続ける。
「SNSに『コンビニのトイレに拳銃がついたベルトみたいなものが落ちていた』という趣旨の投稿があったんだよ」

4

〈ついさっきコンビニのトイレで見かけたベルトにくっついていたの、拳銃だったかも。お巡りさんが忘れていった? ちゃんと確かめておけばよかったわ〉
 鏡に見せられたスマホのディスプレイに表示されたSNSの投稿は、これだった。日付は昨日で、時刻は午前十時四十分。
 スマホを凝視したまま動けない前田に、鏡は説明する。
「投稿の『ついさっき』が具体的にいつかはわからない。しかし書き方と投稿の日時から、昨日の午前十時四十分以前であることは確実だろう。さらに拳銃と思われるものがついていたことから、ベルトは帯革だったと考えられる。現状、帯革を紛失したという報告はどこの署からも上がってきてないが、ちょっと気になってね」
 前田はこわごわと、視線をスマホから鏡に戻す。
 変わらず、穏やかな顔をしていた。それなのに……いや、それだからこそ、前田の背筋は冷たくなっていく。
「ですが……この投稿の『コンビニ』がマチカドストア生摩店を指すとはかぎらないのでは?」
「もちろんだ。それ以前に、Q県内のコンビニかどうかすらわからない。ただ、所用で生摩署ここに来たら、お前と水原が昨日の午前中は通報への対応で交番ハコにいなかったと小耳に挟んでね。なんだか運命を感じて、話を聞かせてもらうことにしたんだよ」
 そんな漠然とした理由で公休日の警察官を呼び出すはずがない。間違いなく鏡は、投稿の「コンビニ」がマチカドストア生摩店であることにも、水原が帯革を置き忘れたことにも気づいている。
 一体なぜ? どこでミスをした?
 ──冷静になれ。まだそうと決まったわけじゃない。
 前田は一旦目を閉じてから、改めて鏡のスマホを見つめた。表示されているのは、SNSの投稿をキャプチャーした画像のようだった。
「この画像を、監察官はどうやって手に入れたのですか」
「今朝、『こういう投稿をSNSで見かけたが本当か』という問い合わせと一緒に、県民から送られてきた。この投稿をしたアカウントは鍵垢で、我々から接触することはできない。問い合わせてきた県民にDMを送ってもらったが、いまのところ返事はないそうだ。ネット上だけのつき合いで、どこの誰かもわからないらしい」
 鍵垢とは、投稿を非公開設定にしたアカウントである。投稿を閲覧したり、メッセージを送受信したりできるのは、原則、アカウント主に承認されたユーザーのみ。
 鏡の説明を受けて、アカウント名の最後についた鍵マークが目に入った。見落としていた。どうやら自分は、思った以上に動揺しているらしい。そのことに気づくと、頭の中が急速に熱くなっていった。
 アカウント名は「ウユニ」で、アイコンに使われているのは湖らしき写真だった。
 ──なんだよ、『ウユニ』って。口に出したら気が抜けそうな響きだな。
 そんなことにすら苛立ちを感じてしまい、頭の中がますます熱くなっていく。
 鏡が鼻から大きく息を出す。
「鍵垢にしたところで、こんな風に投稿が流出する危険はゼロではない。それでも、いろいろぶちまけずにはいられないんだろうな。裏垢として使っているのかもしれない。気持ちはわかるよ」
 鏡の口から、裏垢への共感の言葉が出たことが少し意外だった。裏垢とは、メインのアカウントとは別につくられた、愚痴や罵詈雑言などを投稿するために使われることが多いアカウントのことだ。
 先ほど、鏡はストレスが溜まっているようなことを言っていたから、そういうものに共感を覚えているのかもしれないが……。
 ──そんなことはどうでもいい。いまはとにかく、なにが起こったのか把握しなくては。
「いまも鍵垢になってるんですかね、このアカウント。公開設定になっていたら面倒なことになりますよ」
 前田はそう言いながら、自然な流れで自分のスマホを取り出した。水原から折り返しの連絡が来ていないか、確認するためだった。着信はない。鏡に見られないようにしながらLINEを開いたが、既読マークもついていない。
 不安が膨らんでいくのを感じながらSNSのアプリを立ち上げ、ウユニのアカウントをさがす。すぐに見つかった。プロフィール欄によると、アカウントが開設されたのはいまから五年前。それ以外の情報はなかった。
 鍵垢のままなので素性はわからないが、拳銃を見つけたという嘘をつくメリットがウユニにあるだろうか。たとえ承認欲求をこじらせてついた嘘だとしても、水原が帯革を置き忘れた時間帯と場所が両方一致するという偶然が起こるだろうか。
 ──ウユニはあのコンビニで、本当に帯革を見つけたんじゃないか。水原さんが置き忘れた、十分弱の間に……。
 額に汗が滲んでいく。ウユニは店内にいた、あの女だろうか? それとも別の客? わかったところで状況は変わらないが、「余計なことをしやがって」と八つ当たり気味に思ってしまう。
「仮にウユニが、本当に帯革を見つけていたのだとしたら」
 鏡の声が鼓膜に触れた瞬間、前田は反射的に顔を上げた。前田と目が合った鏡は、困ったような笑みを浮かべて続ける。
「お前か水原がコンビニでトイレを借りて、その際に帯革を忘れた可能性があるのではと心配していたんだ。マチカドストア生摩店に二回寄ったと聞いたときは、水原が置き忘れた帯革を回収するために戻ったのではと疑いかけたが……トイレを借りただけなんだろう。それなら安心だ」
 鏡の口調は優しく、顔つきも穏やかなままではある。しかし口にされた言葉を額面どおりには受け取れなかった。
 ──でも鏡監察官が、すべてを見抜いているはずがない。見抜いているなら、こんな質問をしてくる必要はないんだから。
 自分にそう言い聞かせながら、状況を整理する。
 鏡はウユニの投稿を見て、なぜかはわからないが前田と水原を疑った。しかし証拠はない。生摩交番近辺のコンビニはマチカドストア生摩店だけなのに、防犯カメラの確認もしていない。店側の不安をいたずらに煽るので、確証がないかぎり映像の照会は避けたいのかもしれない。だから水原と前田を別々に聴取し、揺さぶりをかけている。そのせいで水原は、前田に折り返しの連絡ができない──これが現状なのではないか。
 ならば、前田が自白するなどありえない。
 ──水原さんに隠蔽させたのは俺なんだ。俺があの人を守らなくては。
 鏡は黒目がちのまなこで、前田を真っ直ぐ見据えている。やはりなにかに似ていると思いながら、前田は返すべき言葉を懸命にさがし求める。
 ウユニの投稿には〈拳銃だったかも〉と書かれているだけで、拳銃を見たと断言はされていない。当然、画像もアップされていないのだろう。
 ──ウユニの投稿は信用できないと言い張り、水掛け論に持ち込むしかない。
 刑事課で働く水原の姿。それを思い描きながら、前田は口を開いた。
「はい、安心してください。水原さんは、トイレを借りただけです」
 できうるかぎり朗らかな笑顔で嘘をついた。
「では、ウユニの投稿は嘘か」
「それはわかりません。ただ、帯革を見つけたのがマチカドストア生摩店でないことは確かです」
 鏡はスマホを胸ポケットにしまうと、再び左を上にして手を組む。
「それがお前の答えか」
「はい」
「本当に間違いないか」
「はい」
 二度とも、躊躇することなく答えた。鏡がどんな言葉を連ねようと、帯革を忘れた証拠がない以上は強行できるはずだった。
 鏡は優しい顔つきのまま、残念そうに眉間にしわを寄せる。
「では、虚偽報告と認定するしかないな。私は、水原が帯革を置き忘れ・・・・・・・・・・のだから」

5

 聞き違いかと思う間もなく、鏡は畳みかけてくる。
「水原は、マチカドストア生摩店のトイレに帯革を置き忘れ、慌てて戻って回収した。そのことを隠蔽している。同行したお前も、当然それに加担している」
「ち……違います」
 前田は泡を食って否定したが、鏡は無視して言う。
「お前に見せたウユニの投稿は、フェイク画像だ」
 言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「ええと……」
 口ごもる前田に、鏡は続ける。
「あの画像は、私が部下につくらせたものだ。ウユニは、あんな投稿をしていない。投稿を見たという通報者の話もでたらめだ」
「……そうだったんですね」
 毒にも薬にもならない返ししかできない。
 鏡がなにを言っているのかはわかった。しかし、ウユニの投稿を偽造した理由がわからない。それに投稿が偽造ならウユニは帯革を見つけていないのだから、鏡は水原が帯革を置き忘れた証拠をつかんでいないことになるのでは? 混乱する前田に、鏡は告げる。
「ウユニが、あのコンビニのトイレで帯革を目撃したことは本当だ」
「どうしてそんなことがわかるんです? ウユニのアカウントは鍵垢で、こちらからは連絡を取れないのでしょう?」
「ウユニは私だからだ」
「は?」
 今度は聞き違いだとは思わなかった。それにもかかわらず、間の抜けた声を上げてしまう。
「嘘でしょう……だって『県警の番人』が……そんな……鍵垢をつくるなんて……」
「言っただろう、監察官なんてしていると連絡がひっきりなしに来てなかなかのストレスだ、と」
「確かに、そうおっしゃってましたが……」
「だろう? 当然、鍵垢を裏垢として使っていろいろぶちまけずにはいられない人の気持ちもわかるわけだ」
 それも言っていたが、前田はまだ腑に落ちない。
「気づかなかったか。『ウユニ』というアカウント名も私であるヒントのつもりで、敢えて変えないでおいたのだがな」
 ヒントだと? 口に出したら気が抜けそうな響きでしかない「ウユニ」が?
「『ウユニ』というのは、ウユニ塩湖からつけた名前だ。ボリビア西部、アンデス山脈に囲まれた湖だよ。広大な湖面が空をそのまま映し出すことから、『天空の鏡』とも言われている」
 鏡の説明がすんなり頭に入ってきたのは、ウユニ塩湖についてどこかで見聞きしたことがあるからだろう。アイコンに使われている湖らしき写真は、ウユニ塩湖のものだったわけか。
「天空の 」であることから、鏡はアカウント名をウユニにした……。気づけるはずがない、と思う一方で、こんな風に自分の名前にちなんだアカウント名のつけ方はありうる、とも思った。
「私は昨日、仕事で生摩署を訪れた。その途中、マチカドストア生摩店でトイレを借りたらドアのフックにかけられた帯革を見つけたんだ。驚いたよ。すぐに回収してトイレから出たところで、駐車場に入ってくるパトカーが見えた。乗車していたのは、言うまでもなくお前と水原だ。どう対応するか様子を見るため、急いで帯革をトイレに戻した。念のため、便器の陰に隠して人目につかないようにしておいたがな」
 帯革をフックにかけたというのは、水原の記憶違いではなかった……。
「それから私は店内の物陰に隠れ、お前たちの動きをうかがっていた。水原が無事に帯革を回収するのを見届けて安心したが、一日待ってもなんの報告も上げてこない。だから、隠蔽するつもりなのだと判断した」
 あのとき、店の中には店員二名のほか、女性客が一名いるだけに見えた。物陰に誰かいる可能性が頭をよぎりはしたが、まさか本当にいて、しかもそれがよりにもよって鏡だったとは……。
 マチカドストア生摩店に戻ったとき、駐車場には車が一台駐まっていた。あれが鏡の車だったのだろう。
 鏡はマチカドストア生摩店に偶然居合わせて、帯革の隠蔽を把握していた。この事実は、受け入れざるをえないようだ。防犯カメラの映像は照会しなかったのではなく、する必要がないだけだった。
 ──なら、最初からそう言えばよかったじゃないか。これでは、まるで俺を……。
 前田の考えがまとまり切る前に、鏡は続ける。
「水原の聴取は既に終えている。帯革の置き忘れを認めたよ」
 前田の口から、悲鳴に近い息が漏れ出た。
「聴取したのは、本日午前中だ。お前と違って、すんなり白状した。お前の聴取を終えるまでは口裏合わせを防ぐため、部下に監視させている」
 ということは、やはり……。
「鏡監察官は、私を呼び出した時点で……隠蔽を知っていたのですよね。それにもかかわらず、直接は言わず……偽の投稿画像まで用意して……」
「いくら鍵垢で日ごろの鬱憤をぶちまけているとはいえ、帯革の紛失という警察不祥事を投稿するわけにはいかない。だから偽の画像をつくらせたんだ」
「いえ、そういう話ではなくて……」
「県警の番人」が鍵垢で鬱憤をぶちまけているなんて、未だぴんと来ない。しかし本人がそう言っている以上は否定しようがないと思いながら、前田は言葉を継ぐ。
「そんなものまで用意して……私に、水原さんについてさぐりを入れるふりをしたのですか」
「そうだ」
 前田の震え声とは対照的に、鏡の声は凪いでいた。
 ──この人はいつでも真相を突きつけ、俺が嘘をついていると指摘できた。ということは……。
「あんたは、俺をなぶっていたのか……」
 上官に対する言葉遣いではない独り言が、こぼれ落ちた。鏡は凪いだ声のまま応じる。
「傍目にはそう見えただろうな」
「なぜ……どうして、そんなことを……」
 呆然と呟きつつ、答えは薄々察していた。鏡真人は嗜虐的な嗜好の持ち主なのだろう。もしくは、ストレス発散に前田を利用したか。どちらにせよ、ろくな理由ではあるまい。
「いつでも好きなときに自分を殺せる相手と遭遇したときの気分を、ほんの一端でもお前に味わってもらうためだ」
 しかし鏡の答えは、それだった。虚を衝かれて口が半開きになる前田に、鏡は続ける。
「水原が置き忘れた帯革には、拳銃も装着されていた。悪意ある者の手に渡ったら、どうなっていたと思う? たとえ善良な者でも、拳銃を目にすることで悪意が引き出され、犯罪者になっていたかもしれない。水原は、それだけの罪を犯した。お前はそのことを理解せず、隠蔽に加担したんだ」
 鏡が言葉を紡ぐにつれ、前田の身体は小刻みに震えていった。
 拳銃を放置したことの危険性は、充分承知しているつもりだった。だから水原に拳銃の話を持ち出されたときは、一瞬、隠蔽することを躊躇した。
 しかし、本当の意味ではわかっていなかったのかもしれない……。
 鏡は黒目がちのまなこで、前田を凝視し続ける。それがなにに似ているのか、ようやく悟った。
 銃口だ。
 人を殺せる塊を吐き出す、あの筒先にそっくりだ。
「言うまでもないが、実際に拳銃を突きつけられたときの気分はこんなものではない。相手がほんの少し指先に力を込めるだけで、殺されるんだからな」
 殺される。リアルでもフィクションでも幾度となく耳にしてきたその単語が、こんなにも重く響いたのは初めてだった。
「本件に関するお前たちの処分は、追って下す。しばらく自宅で謹慎──」
「水原さんに責任はありません!」
 前田は叫び声で、鏡を遮った。鏡がなにか言う前に、前田は昨日、自分がしたことを一気に捲し立てる。前田が説明を終えると、鏡は目を眇めた。
「水原は『隠蔽を決めたのは自分であって、前田は無理やり黙らせた。しかし前田のことだから、上に報告するつもりでいるはず』と話していたが」
 ああ、やっぱりあの人は。
「私をかばっているんです。水原さんこそ、上に報告するつもりだった。それを私がとめたんです」
 なるほど、と呟き、鏡は頷く。
「水原の話は、細部が曖昧だった。お前が言っていることの方が、ずっと信憑性が高い」
「でしたら、水原さんは──」
「しかし、水原を処分しないわけにはいかない」
 冷たく断じられた。
 ということは、水原の刑事課行きはなくなることに……。
 前田は天板に両手をつき、身を乗り出した。
「悪いのは私なんです。水原さんは、巻き込まれただけなんです。それに昨日は、本当は退勤している時間だったのにハコ長に仕事を押しつけられたせいで疲れ切っていた。本来のあの人なら、あんなミスをするはずがない。ですから、どうか……刑事課に行ったら、必ずQ県警の役に立ちますから……」
「そんな警察官が役に立つとは思えない」
 今日この場で鏡から放たれた言葉の中で、一番胸に突き刺さった。
 ──あの人が『県警の番人』から、こんな評価を下されるなんて。
 水原に申し訳なかった。もう自分が警察にいることはできない。この場で退職を申し出て──。
「言っておくが、やめることは許さない」
 まるで前田の思考を読み取ったかのように、鏡は言った。
「お前は水原俊太という男の警察官人生を狂わせたんだ。その責任から逃げるな」
「しかし……私には、責任の取りようがない……」
 当惑してまごつく前田に、鏡は首を横に振る。
「お前がやめたら、水原はどれだけ苦しむと思う?」
 息を呑んだ。
 鏡はやわらかくはあるが、力のこもった声で続ける。
「お前がどう責任を取ったらいいか、私にもわからない。それでも、考えろ。ずっと考え続けろ。警察官人生が終わるそのときまで、必死にな。責任の取り方がわかるのは、張本人であるお前だけなのだから」
 ──警察官人生が終わるそのときまで。
 鏡から放たれた言葉は、先ほどと同等に胸に突き刺さった。
 しかし先ほどと違って、胸から熱いものが込み上げてきた。

6

「帯革の置き忘れがあったことは、今夜、マスコミに発表する。本部に戻ったら広報課向けの資料を大至急つくってくれ」
 後部座席に乗り込んでくるなり、鏡は沢木美波さわきみなみ巡査部長に言って目を閉じた。わずかではあるが、口許が緩んでいる。
 美波が鏡の部下になってから、今月末で丸一年。こんなにわかりやすく上機嫌な顔を見たことは、あまりない。
「かしこまりました」
 応じた美波はエンジンキーをかけ、車を発進させる。バックミラーに映る生摩署の駐車場が、瞬く間に小さくなっていく。それに一瞥を投げてから、美波は昨日からのできごとを回想する。
 生摩署に車で向かう途中、美波は尿意を我慢できず、トイレを借りるためマチカドストア生摩店に寄った。後部座席に鏡を乗せていたので迷いはあった。しかし軽度ではあるが膀胱炎を患っているためおずおずながら申し出ると、鏡はあっさり了承してくれた。
 そこで見つけたのだ、ドアのフックにかけられた帯革を。
 瞬時に尿意が消え失せ、その場で鏡に電話をかけた。
〈わかった。すぐに回収して──いや、やはりいい。念のため帯革をどこか目につきにくいところに隠して、トイレから出てこい。できるだけ急いでな〉
 意図を訊ねる前に、電話は切られた。訝しく思ったが、かけ直したところで鏡はなにも教えてくれないだろう。言われたとおりにしてトイレから出ると、制服警察官が店に入ってきた。直接の面識はないが、生摩署の水原であることはわかった。
 帯革は、つけていない。
 ペットボトルを選ぶふりをして冷蔵庫の前に立っていると、水原はトイレに駆け込んでいった。それから一分もしないうちに、帯革をつけてトイレから出てくる。
 なにが起こったのか、即座に理解できた。
 水原は、まじめな警察官だと聞いている。帯革の置き忘れは重大な規律違反だ。大事に至らなかったとはいえ、すぐ上司に報告するだろうと思った。そうなれば、直ちに監察官室に報告が上がってくる。
 しかし生摩署からは、鏡と美波がQ県警本部に戻った後もなんの連絡もなかった。
「どうやら水原は、帯革の件を隠蔽するつもりらしい。パトカーに同乗していた前田も同様だろう。それならこちらも、相応の対応を取る必要がある」
 鏡はそう言ってから、美波に「SNSで『鏡』を連想させるアカウント名の鍵垢をいくつか見つけろ。単純に『鏡』を思わせるものから少し捻ったものまで、十個ほど」と命じてきた。なんの説明もなかったが、いつものことだ。ミラーマン、かがみんなどを見繕って伝えると、鏡はその中から「ウユニ」を選んだ。次いで、コンビニのトイレで帯革らしきものを見つけた旨の投稿の、フェイク画像をつくるよう言ってきた。やはり説明はなかったが、鏡がなにをするつもりなのか、おおよそ察した。
 そして、今日。
 朝から鏡は、水原を生摩署の小会議室に呼び出した。しばらくすると、屈強な男性が一人小会議室に入っていき、入れ替わりに鏡が出てきた。あの男性は鏡の部下だ。具体的なことは知らないがいろいろな仕事を請け負っているようだから、今日は水原の監視を命じられたのだろう。
 それから鏡は地域課長の柿沼に、前田を呼び出すよう言った。美波には「前田を、水原がいるのとは別の小会議室まで案内しながら、お前が昨日あのコンビニにいたことに気づいているかどうか観察しろ」と命じた。
 地域課室にやってきた前田は、美波に見覚えがある様子だった。しかし、マチカドストア生摩店で見たことには気づいていないようだ。前田の案内を終えた美波は、スマホのメッセージアプリで鏡にそのことを伝えた。これでこの件に関する美波の仕事は終わりだった。
 いつものように、鏡から詳細な説明は一切ない。しかし、おそらく鏡は、美波につくらせたフェイク画像を使って「ウユニ」が自分であるふりをして、前田に罠をしかけたのだろう。前田は、鏡が鍵垢をつくっていることが信じられなかったに違いない。しかし鏡本人が自分の鍵垢であると主張している以上、嘘だと断じることはできない。
 水原が頑として隠蔽を認めないから、前田を揺さぶることにしたのか?
 水原が隠蔽を認めたにもかかわらず、前田をなぶることにしたのか?
 水原と鏡、両者の性格を踏まえると、後者の可能性が高かった。美波がコンビニにいたことに前田が気づくか観察させたのは、彼の洞察力がどれほどか推し測るため。もし気づくほどの洞察力の持ち主なら、水原が隠蔽を認めたことを早々に告げたに違いない。そうではなかったから、鏡はウユニのフェイク画像を始め用意した「伏線」を満遍なく活用してから真相を明かしたはずだ。前田が抱いた屈辱感を思うと、同情を禁じえない。
 ただ、鏡が上機嫌なのは、前田をなぶったことだけが理由とは思えなかった。それに小会議室から出てきた前田の目は、真っ赤であると同時に決意の光に満ちていて、去り際、鏡に深々と頭を下げてもいた。なぶられただけの者が取る態度ではない。
 水原と違って、前田の聴取が終わるまでには時間がかかった。まじめと聞く水原が隠蔽というらしくない選択を取ったことと合わせると、こんな仮説が立てられる。
 隠蔽を主導したのは、前田。水原は人事異動を前に保身に走ってしまったものの、後ろめたさを抱いていた。だから鏡に聴取されると、すぐに自白した。一方、前田は水原をかばうため最後まで抵抗を続けた。言い逃れできなくなった後は、鏡からなにか背中を押される言葉をかけられた。それを胸に、警察官を続ける決意を固めた──証拠はないが概ねこれで正しいと、美波は確信している。
 もう一つ確信しているのは、鏡が水原と前田、両者を思ってこんな行動・・・・・・・・・・・わけ・・こと。
 鏡の頭にあるのは、いかにQ県警を信頼性の高い組織として演出・・するか。それだけであって、そのためには手段を選ばない。
 相手に合わせてまるで違う表情かおを見せることも、平然とやってのける。
 今回も、二人に合わせた表情かおで聴取に臨んだに違いない。その結果、水原は後輩に慕われるくらい人望がある警察官、前田は忠義心の強い警察官であることがわかった。この二人は、使いようによってはQ県警の役に立つ。そう判断できたから、いまは上機嫌なのではないか。
 無論、二人には処分が下される。水原は次の人事異動で刑事課行きが決まっていたようだが、それも取り消しになるだろう。
 しかし、おそらく重い処分は下されない。
 警察官が下される処分は、国家公務員法または地方公務員法に基づき、軽い順に、戒告、減給、停職、免職の四種類がある。これらは懲戒処分と言われ、人事異動や昇進に影響を及ぼしたり、失職させたりと、警察官人生に大きな影響を及ぼす。
 一方、公務員法とは関係なく警察の内規に基づき下される処分もある。この場合は訓戒などにとどまり、多少は昇進に遅れが生じるだろうが、警察官人生への影響はさほどない。
 水原も前田も後者になるはずだ、鏡に使える人材だと見なされたのだから。
 鏡が本件を今夜マスコミに発表しようとしていることが、その証拠だ。本日中なら世間の注目は、カリスマ女性歌手の来日に集まっている。帯革の置き忘れという、言い方は悪いがありふれていて、しかも実害はなかった不祥事をマスコミが大々的に取り上げることはない。当然、処分が軽くてもどこからも文句は出ない。それでいて、「Q県警は些細な不祥事も公表する」というイメージづくりもできる。
 二人は寛大な処分に感激して、Q県警の……いや、鏡のため、身を粉にして働くはず。
 鏡にとっては、いいことずくめだ。
「あそこに寄ったのは、まだ昨日のことか」
 後部座席からの声で、美波は、マチカドストア生摩店の赤い看板に近づいていることに気づいた。あのとき美波がトイレを我慢していたら、水原たちの隠蔽が発覚することはなかっただろう。
 鏡は前田に「部下の女がトイレで帯革を見つけた」と言ったのだろうか、とふと思う。
 紳士的な警察官なら、部下の性別をぼかすくらいはしてくれる。しかしQ県警のことしか考えていない「県警の番人」に、そんな配慮ができるはずない。万が一、鏡自身が見つけたことにしたのなら評価を改めなくてはならないが、そんな必要はないだろう。
 美波はアクセルを踏み込み、マチカドストア生摩店を通りすぎた。

*************
鏡真人を中心とする連作短編『県警の番人』は6月下旬発売予定です。
(『県警の番人』に「敬慕の行方」は収録されておりません。)

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