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「ハイランド美星ヶ丘」第17回
一穂ミチ
2026.09.24
雑誌「スピン」創刊号から連載しておりました、一穂ミチさんの「ハイランド美星ヶ丘」は、17回~最終回をweb掲載いたします。
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食料を買ってみどり亭に戻り、さあいただきます、というタイミングだった。
ばりばり、とすさまじい音がちいさな店舗兼住宅を振動させるほどの勢いで響き渡った。瑠美が梨沙にしがみつくのと、梨沙が瑠美を抱きしめるのが同時だった。
「落雷、すかね」
「すごかったね。瑠美ちゃん、大丈夫?」
「うん……雷は好きだけど、これはちょっと怖いかも」
梨沙のシャツを摑む手がふるえていた。何でこう、やな感じのことばっか重なるかな。自然現象すら、何かの悪意みたいに思えてぞっとしてしまう。いかんいかん、と洸は頭を軽く振る。ネガるな、つけいられる。わざと明るく「ゴッチも家でちびってるかも」と言うと、瑠美は「大人も雷が怖いの?」と尋ねる。
「子どもん時に苦手なものって、だいたい変わらないんじゃないかな。大人になったら、雷が自分に落ちてくる確率がめちゃくちゃ低いっていうのはわかってくる。でもそのことと音や稲妻が怖いっていうのはまた別の話でさ」
「でも大人って、雷が鳴っても泣いたり騒いだりしないじゃん?」
「我慢してるんだよ」
「何で?」
「怖いのが人に伝染らないように、かな」
特に子どもに、と洸は答えた。そうだ、恐怖は伝染する。怒りや悲しみや喜びよりずっと鮮やかに広がる。生存に関わる、感情というより本能に近い領域だからだろうか。それは、いま、ハイランドの住民に静かに広がっているものと似ているのかもしれない。
そんなことを考えていると、また雷鳴が轟く。梨沙が「ねえ」と言った。
「繭に電話しようと思ったら、スマホ、使えなくなってるんだけど。柴田さんのは?」
「えっ」
確かに、通信ができなくなっていた。アンテナが一本しか立っておらず、ネットもLINEも繫がらない。
「雷のせいで通信障害起きてんのかも」
「ハイランドでもそうかな?」
「かもしんないっすね」
公衆電話ならいけるかも、と思ったが、それをこのへんで見た記憶がない。すぐにネットで検索しかけて、いやそれが死んでるんだって、と自分に突っ込む。
「どうしよう……」
梨沙が顔を曇らせた。
「繭さん、雷も駄目なんすか」
「かなり近いから、パニック発作起こさないか心配で。ひょっとしたら落雷で停電とかしてるかもしれないし」
「このへんが停電してないから大丈夫じゃないんすか」
「ううん。ハイランドって、新電力っていうの? 大手と違う会社と契約してるから安心できない」
「なるほど……んじゃ、俺、ちょっと行ってようす見てきますわ。ゴッチも気になるし」
「え、でも、エレベーター……」
「大丈夫っすよ、結構克服できてるし、瑠美ちゃんの傍にいてあげてください」
そうと決まれば、と爆速でパスタを啜り、傘を差してエレベーターホールに向かった。
エレベーターの前には七、八人が集まっていて、いやな予感がした。警備員に何か詰め寄っている。
「あのー、どうされました?」
洸の声にスーツ姿の男が振り返り「エレベーターが二基とも停まっちゃってるんですよ」とうんざりした口調で告げた。
「え、やっぱ停電すか」
「さあ……この人に訊いても要領を得ないし」
指差された警備員は、困り果てたように「エレベーターの管理は、うちの会社とは違うところですし……」と説明する。
「ああ、じゃあエレベーターの会社に電話……ってそうか、使えないんだった」
ゴンドラの中の緊急ボタンは生きているかもしれないけれど、肝心のゴンドラが下にいない。
「てことは、バスで帰るしかないんすね」
「次が一時間後なんですよ」
「近所に時間つぶせるようなところもないし、いっそ電車で街まで戻ろうかと思ったら、落雷で架線トラブルがあったとかで、電車も停まっちゃってるんです」
こんな時、田舎って困ったもんですね、と誰かが言い、全員が重苦しい表情で押し黙る。空気がきれいとか、広い新築の戸建てとか、そういったプラス要素が容易く塗りつぶされる空しさに襲われているんだろう。この雰囲気、よくないな。
「俺、歩いて帰りまっす」
洸はわざとへらへら片手を上げた。
「歩いてって、山ですよ?」
「前も、途中まで登ったことあるんで大丈夫っす。道は舗装されてるし、ただの上り坂ですって。皆さんも健康のためにどうですか?」
一応誘ってみたものの、誰もが顔を見合わせて困惑しているだけだった。洸はその場を立ち去り、コンビニで合羽を買う。さっき酒を飲んでいた男はいなくなっていた。エレベーターホールでも見かけなかったし、タッチの差で家に帰り着いたのかもしれない。なんの関わりもない相手だけれど、ほっとした。
再び「みどり亭」に立ち寄り、徒歩で向かう旨を告げると、梨沙は「え、でも……」と言葉を濁した。
「雨だし、危ないよ」
「とはいえほかに手段ないですし。エレベーターがいかれてるってことは、太田垣さんの不安的中で、上も停電してる可能性が高いですし」
このあたりに流しのタクシーなんか通らないし、呼び出す手段もない。
「いくら何でも遭難することはないですよ。一本道だし」
自分を鼓舞するために明るく言い切ると、梨沙にも伝わったのか「うん」と精いっぱい大きく頷いてくれた。
「瑠美ちゃん、懐中電灯ってある? 借りていいかな」
「あるよ!」
と二階をがさごそして取り出してきたのは、持ち手のついたごついやつで、重たいけれど安心感があった。
「念の為に、電池も。しばらく使ってないから」
「ありがと、気が利くねえ」
ホラゲーだと、懐中電灯の電池は大抵すぐに切れ、バッテリーなどを要所要所で探し出さなくてはならない。さすがにそこまでのミッションは荷が重すぎる。
「行ってきます。状況確認したら戻ってくるつもりだけど、繭さんが不安そうならついてていいすか」
「むしろお願いします」
梨沙が頭を下げた。
「じゃ、ちょっくらハイキングしてきます」
傘は荷物になるから置いて行くことにして、合羽を着て懐中電灯を手に山道へと向かった。
空が割れたのかと思うほどの雷鳴が、ねぎを刻んでいた香子の手元を狂わせた。「いたっ」というちいさな叫びはかき消され、同時に、室内が真っ暗になる。
うそ、停電?
記憶と勘を頼りにそろそろとリビングを突っ切り、レースカーテンを細く開け、外のようすを窺うとあたりも真っ暗だった。よかった、うちだけじゃない、と安堵しかけたけれど、事態はより深刻ということになる。
さっき包丁が掠めた指先に触れると熱い痛みが走り、ぬるっと不快に滑った。キッチンに戻り、流水で指先を洗っているとすこしずつ暗さに目が慣れてきた。リビングのチェストから救急箱と懐中電灯を取り出し、傷口に絆創膏を巻いてソファに座り込む。夜中の、単純な消灯の暗さとは違う。いつもなら、照明は消えていても、各種家電の主電源が針の穴ほどのランプを点 して自分たちの生存を教えている。今はそれすらない。気象情報を見ようとついテレビのリモコンに手を伸ばした自分に笑えた。真夏や真冬じゃなくてよかった。除湿モードにしていたエアコンが切れても耐えられない暑さじゃない。
そうだ、スマホ、部屋に置きっぱなしだったな。立ち上がると、ちょうど市郎が降りてきたところだった。スマホのライトはちいさく強烈で、きゅっと目を細める。
「大丈夫か」
「ええ、びっくりしたけど。わたしもスマホ取ってくる」
「ネットに繫がらなくなってる。たぶん、雷のせいだろう」
夫は淡々と言った。
「そう……」
ならあの四角い板には用がない。視聴途中だった配信ドラマをタブレットにダウンロードしておかなかったことを悔やんだ。
夫が隣に腰を下ろす。いつもなら反射的に数センチ距離を空けただろうけれど、なぜかきょうはそんな気持ちにならなかった。心細いのかもしれない。この人がいたって、何の支えになってくれるわけじゃなさそうなのに。
「まだ鳴ってるな」
「うん」
「会社が休みでよかったよ」
「そうね」
雲の中で巨大な生き物が戦闘態勢に入ったかのように、くぐもった唸りが雨音とともに続いている。
「防災ラジオとか、持っとけばよかったね」
香子はつぶやいた。ふたりして、ラジオに食わせてもらっていたくせに、ここにはラジオを持ち込まなかった。きっと目に入るたび、忌々しくて後悔してしまうだろうから。
あの頃、わたしも魔が差してたのかも。誰かのせいにするつもりはないけれど、そう思う。若い女じゃなくなったことへの焦り、仕事の不安、将来を想像した時の寂しさ、いろんなノイズが自分の理性と判断力を鈍らせて、いま、ここにこうしている。
「――前も、こんな日があったよな」
不意に夫が言った。それがいつもの間延びした鈍重な話し方ではなく、出会った頃の、ゆったりと香子をくつろがせてくれた声音だったのではっとした。
「ほら、すごい雷雨で、局に泊まり込んだ夜」
「……ああ、そうね」
交通機関も乱れていたし、傘を差してもずぶ濡れは免れないほどのどしゃ降りだったから、帰るのを諦めた。
――せっかくだから、食べようよ。
非常時用のカップ麺や缶詰を率先して開けたのが市郎で、お中元か何かの缶ビールまで「いいや、飲んじまえ」とスタッフに振る舞ってくれた。
――誰かに怒られたら、俺が責任取るからさ。
プルタブを起こして笑った、あの時、香子は初めて市郎を意識した。そしてカップ麺を啜りながら、とりとめもなく深夜まで語り合った。ニューヨークの大停電によって翌年の出生率が上昇したというもっともらしい言説はデマだという市郎の話に、香子は「えー、ちょっとショック」と言った。
――何で?
――だってロマンチックじゃないですか? 停電の夜に……って。
どこがだよ、と市郎は盛大に吹き出した。
――ほかにやることなかったから、って即物的な話じゃないか。
――そういうことじゃないんですー。
そうだ、ちゃんと好きだったな。香子はさっきまでの身勝手な物思いを恥じた。
「ねえ、コーヒー飲む?」
「たまには俺が淹れるよ」
「暗いから気をつけてね」
「ああ」
夫が台所に立ち、湯を沸かす。真っ暗な家に、自分以外の気配がある。それだけで心強い。わたし、今までこの人のことを悪く捉えすぎてたのかも。闇の中で、自分の神経がこれまでになくやわらかに凪いでいるのを感じた。責任はイーブンのはずなのに、被害者意識を拗らせて、減点方式でしか見られなくなってた。まだふたりの人生は続くのに。
――ネガティブな考えに負けないように。
そうだ、梨沙もそんなことを言っていた。あれは、エレベーターで、だったっけ? でも、いつも考えてるほうがいいよね。給湯器は生きてるんだから、今夜はゆっくりお風呂に浸かってとっておきのパックでケアしよう。キャンドルでも点して……お気に入りの、ユーカリの香りのやつがどこかにしまってあるはず。
懐中電灯の光の輪の中に、湯気の立つマグカップが現れる。
「ありがと」
香子はコーヒーをひと口啜り、「おいしい」と心からほほ笑んだ。
「夕食、どうしようか」
「冷蔵庫は開けないほうがいいと思うの。停電してても、ある程度の保冷力はあるはずだから。カップ麺でいい?」
「ああ」
「頂き物の蟹缶も開けちゃおうか。カップ麺とは合わないかな?」
「香子が食べたいんなら」
夫も笑っていた。電気を消した部屋で、バースデーケーキを囲んでいる時みたいな陰影のくっきりした笑顔。香子の大好きな笑顔。
「ふふ」
「嬉しそうだな」
「うん。非日常でテンションが上がってるのかな? 何だか、昔に戻ったみたいな気分」
「戻りたいな」
「戻れるよ。夏はどこかに出かけない? 近場の安いところでいいから、ゆっくりしたい。最近、街の雰囲気がよくないじゃない。こっちまで気が滅入りそう」
ねえ、と自分でも恥ずかしいほど甘ったれた声で夫の肩にもたれかかると「いいな」とやさしい相槌が返ってくる。
「どこに行く? 温泉がいいな。箱根、熱海、草津……箱根は高いかな」
夏の予定をしゃべっていると、だんだん舌が重たく下がってきた。「部屋食の旅館がいい」というたったそれだけの言葉を何度も嚙んで言い直す。あれ、おかしい。わたし、プロなのに。滑舌も話す速度も、思うようにならない。
頭を持ち上げようとすると、頭も砂が詰まったように重たく、かくかく左右に振れて重心が定まらない。
「あれぇ……?」
こんな間延びした、情けない声を出したくないのに。呆れられちゃうじゃない。両手から力が抜け、マグカップを取り落とす。陶器が膝を直撃した痛みは感じないのに、ぬるくなったコーヒーがデニムに染みていく感触は生々しかった。
市郎が香子をじっと見ている。その目は、光を吸い込んでいるように真っ黒だった。
「戻ろう、香子」
声だけが甘く弾んでいる。
「ずっと苦しかった。でもやっとわかった。きっと戻れるよ、俺たち。何もかもやり直すんだ。一緒に」
何を言っているのかわからなかった。わかったのは、自分が市郎を憎んでいた間、市郎もまた香子を憎んでいたんだろうということだった。夫婦は鏡って言うもんね。今さら気づくなんてどうかしてる、まぶたの重みに抗えなくなる直前、香子は自嘲の笑みを浮かべた。
稲妻に、身体をびりびり左右に裂かれた気がした。繭はとっさにベッドにうずくまり、目を閉じて丸くなる。身体の真ん中で心臓が大きく脈打っている。大きすぎる音をいきなり浴びると、心の奥に閉じ込めた事故の記憶が蓋を跳ね飛ばそうと暴れて、身動きを取れなくしてしまう。呼吸が浅くなり、酸素をうまく取り入れられない。
だめ、パニックにならないで。自分に言い聞かせる。これはただの雷。事故はもうずっと昔のこと。わたしは安全な家の中にいる。誰もわたしを傷つけない。深呼吸、深呼吸。
息苦しさが徐々に収まり、指先のふるえが止まると、そろりと目を開けた。瞼の裏より濃い闇があった。ひゅっと細い息が肺の奥に吸い込まれていく。一瞬、悪い夢の中にいるのかと思った。でもすぐに現実を認識し、起き上がる。停電だ。周りの家も同じ状況だろうか。カーテンを細く開き、窓の外を窺う。真っ暗な街が、細い細い格子 のような雨に閉じ込められていた。雨の糸は細く光り、時折稲妻に照らされて銀のような輝きを帯びる。
きれい、とぼんやり眺めていると、向かいの家に何か見えた気がした。まだ無人の、買い手がついていない家だ。以前、洸の家に拓という少年が侵入したことがある――。
まさか、とカーテンを握りしめてかぶりを振る。あの子はもう衝動から解放されたはず。神経が昂っているだけだ。
空が光る。
その一瞬、向かいの窓辺に立つ人影が確かに見えた。少年じゃない。年取った男がまっすぐに繭を向いて笑っている。一度だけインターホンのモニター越しに対面した、自治会長の、尾崎。
今度は耐えられなかった。自分の眼球がぐるりと裏返るのがわかる。稲妻の中に飛び込んだように目の前が真っ白く灼け、繭はその場に倒れ込んだ。
どん、どん、と鈍い音が頭の下から聞こえる。落ちた時と正反対に意識はのろのろと浮上し、ぼやけた視界にレースカーテンの裾がかすかに白くにじんでいるのが見えた。まだ暗い。横向きに倒れていたようだ。指先を動かしてみる。痛くない。よかった、どこも打ってないみたい。貧血を起こさないよう、床に手をついてそろそろと上体を起こした。窓の外はもう見なかった。
どん、どん。
さっきまでよりはっきり聞こえる、音。一階で誰かが玄関扉を叩いている、と悟った時、また気が遠くなりかけたが、音に交じる声ではっと我に帰る。
――……さん! 繭さん!
「……ゴッチさん?」
繭は立ち上がり、壁と手すりを伝って階段を駆け降りると、急いで扉を開けた。
「繭さん、よかった……」
スマホのライトをかざした大介が、泣きそうな表情で立っていた。
「停電でインターホンも駄目になってるから。びっくりさせちゃってすみません」
「いえ、わたしのほうこそ――」
玄関灯も切れて真っ暗だった。大介の背後にさっきの尾崎が立っている姿を想像して恐ろしくなり、繭は「とにかく、中へ」と大介を促し、急いで扉を閉めるとふたつの鍵とU字ロックをかけた。
「ゴッチさんのおうちも停電してますか?」
「うん。ハイランド全体が駄目みたい。雷のせいか、スマホの電波も来なくなってるし」
「え、じゃあ、どことも連絡取れないってことですか?」
「うん」
沈黙の間に、雨音が割り込んでくる。大介は「まあ、大丈夫じゃない?」と軽い口調で言う。
「きっとすぐ復旧するよ」
それが自分のための気休めだとわかったから、繭も明るく「ですよね」と返した。
「ところでごめん、懐中電灯ってあるかな。うち、買ってなくて。モバ充は持ってるけど、スマホのバッテリー節約したい」
「あ、ライトつけてると消費量多いって言いますもんね」
「まあ、ネットも通話もできないんじゃ消費しようもないけど」
「うち、二本あるんで、任せてください」
手持ちの懐中電灯を大介に手渡し、ランタン型のほうをキッチンに置いてお茶を淹れた。
「あの、うちに何かご用だったんですか?」
「いや、太田垣さんも洸も瑠美ちゃんとこだから、心配になって」
大介はちょっと照れくさそうに目線を外して紅茶を啜った。
「ありがとうございます、そっか、エレベーターも動かないんだ」
「たぶん」
「でも、逆にいいような気もしますよね。こんな天気の時に誰かエレベーターに乗って、いやなことになったら……」
「確かに。ところで繭さん、寝てた? だったら起こしてごめん」
「え、あっ、違うんです」
繭は気を失う直前に見たものについて話すと大介はさっと表情を変え「早く言って」と立ち上がった。
「見に行こう。部屋に入られるのいやだろうけど、我慢して」
「それは、別に」
今は大介と一緒だから、冷静さを取り戻し恐怖は薄らいでいた。それでも大介が「確認しないと」と主張するので二階の自室に案内し、向かいの空き家の窓を指差した。
「あそこに……ほんと、一瞬だったんですけど」
懐中電灯の光の先には、空っぽの部屋以外何もなかった。
いないみたい、と大介がつぶやく。
「ですよね。ごめんなさい、わたしの見間違いだと思います。雷でパニクっちゃって、恥ずかしい。尾崎さんにも濡れ衣着せてごめんなさいですね」
「いや、そうとも言い切れない。繭さんは一度見て怖いって思ったんだろ?」
「でも、それも勝手に思い込んじゃっただけで」
「そういう直感っていうか印象、けっこう大事だと思うけどな。自分の中の生存本能がアラート鳴らしてるんだよ。警戒して損はないと思う」
いつになく真剣な口ぶりに繭が気圧されたように頷くと、大介はまたはっとしたように「ゲームでも、なんか起こりそうな場所って絶対起こるじゃん」と冗談めかして付け加えた。
「ああ、ひとつだけプレートが外れたドアとか」と繭も乗っかる。
「そうそう、窓が割れてる廊下とか」
「急にひらけた場所に出た時とか」
「あるある」
ふたりでしばし笑う。大介は「ごめんね」と謝った。
「俺までぴりぴりしてると却って不安になっちゃうだろうなってわかってるんだけど……たぶん俺も、怖いんだ。洸もいないしさ。ビビリで申し訳ない」
「そんなの当たり前ですよ、わたしだって梨沙さんいなくて心細いですもん」
リビングに戻ると、大介は、誠也が巻き込まれた事件について詳しく教えてくれた。
「そんなことが……すぐ戻って来られますよね」
「ちゃんと調べてくれれば大丈夫だと思うけど、杏奈ちゃんのご両親がすげえモンペの可能性もあるし、この雨じゃ証拠も何もないよな。車のドライバーも気の毒に」
大介は嘆息した。
「もし戻って来られなかったら、瑠美ちゃんは」
「いくら何でもこのまま長期間勾留されるってことはないと思う。万が一裁判になったとしても実刑ってのは考えにくいし」
「そっか……杏奈ちゃんも、かわいそうな子ですよね」
梨沙から話を聞いた時は、意地悪な子だな、と嫌悪感を抱いた。けれど、パパが欲しかった、という理由を知ると胸が痛んだ。理解できるか否かは別にして、人にも出来事にも、必ず理由はある。
「うーん、まあ。心情的に、俺はそんなに寄り添えないけど」
「本当に、ハイランドとは関係ないのかな」
「もともと持ってた闇が増幅されたっていうのはあるんじゃない」
「誠也さん、お守りを取り返しに行ったんですよね? ちゃんと返してもらえてました?」
「いや、聞いてない。どうなんだろ。何で?」
「いえ、大事なものだろうから、気になって」
誠也はここにいない。お守りのご利益が「難を逃れる」ことなら、それは皮肉な形で叶っていると言えなくもない――と思ったけれど、黙っていた。人ならざるものの意思が現実に作用するなんてことが本当にあるとして、その意図を人間が汲むのは不可能なのかもしれない。
考えても仕方がない。繭は「そういえば」と話題を変えた。
「洸さんとゴッチさんって、いつどんなふうに知り合ったんですか?」
「え、なんで」
「馴れ初めが気になって」
「馴れ初めとか言わないで」
大介は顔をしかめてから「別に、全然ふつー」と答えた。
「普通って? あ、わかった、始業式の日に座席が前後だったんだ。『後藤』と『柴田』だし」
「その場合、高確率で間に『佐藤』が入ってくるんじゃないかな。いや、俺も実はゲームの個人チャンネル持ってて」
「そうなんですか? 知らなかった」
「一万人くらいの弱小チャンネルだったし」
「一万人ってすごいけど」
「洸はそん時もう二十万人超えてたよ。で、俺のRTA動画にコメントくれたことがあって。RTAってわかる?」
「どれだけ速くクリアできるか、ですよね」
「そうそう。ここをこうしたらあと二秒縮められますよ、みたいな。それから何となく絡むようになって。俺は自分で配信するより、編集とか裏方のほうが向いてるなって自覚し始めてたし、洸は洸で、編集作業を人に任せてプレイ時間確保したいって思ってたから、お互いにちょうどいいじゃんって」
「いいな、運命だったんだ」
「たまたまだって。あー、やなこと思い出した。落雷で編集中のデータ吹っ飛んじゃった」
「え、大変」
どん、どん。
玄関の扉が、叩かれた。和やかな空気が一瞬で凍りつき、繭は身を硬くする。大介が黙って人差し指を立てた。
どん、どん。
「ごめんくださーい」
間延びした声が聞こえた。
「太田垣さーん、ごめんくださーい、自治会長の尾崎ですー」
(次回へ続く)








