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交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第八回
五十嵐貴久
2025.05.30

第七回はこちら
交渉人ハイジャック Flight8 セオリー
1
なぜ切った、と聡美が戸惑ったような声でメッセージを読んだ。わたしは信頼できる相手としか交渉をしません、と麻衣子は答えた。
「過去、わたしが知る限り、すべてのハイジャック犯は人質に固執し、解放に同意しませんでした。でも、あなたは違う。わたしのアドバイスに従い、段階的に人質を解放しています。理性があり、メリットとデメリットを理解しているからです」
返事はなかったが、麻衣子は話を続けた。
「最初から言っているように、人質が一人であれ四百人であれ、警察にとっては同じです。更に言えば、人数が少ないほど人質の重要度は増します。機内にいる人質が一人の場合、警察にとってその一人の救出が絶対的な命題になります。一人しかいない人質を犯人が殺した場合、マスコミや世論の非難の矛先が警察に向かうのは、言うまでもありませんね? ですが、人質が百人いたら? 多少の犠牲はやむを得ない、十人が死んでも九十人が助かるならそれでいい、と考える人も多いでしょう。命は常に相対的なもので、あなたはそれを理解している。だから、不用な人質を解放した。そうですね?」
うるさい、と聡美がメッセージを読み上げた。その点で、わたしはあなたを信頼していました、と麻衣子はマイクに触れた。
「あなたはBW996便をハイジャックした。その事実は変えられません。何もなかったことにはできないんです。そうであるなら、あなたにとっても警察にとっても重要なのは、この状況にどう対処するかです。落とし所、と言った方がわかりやすいですか? 身代金を奪い、収監中の新興宗教信者を釈放させ、北朝鮮へ亡命する……それがあなたの要求ですね?」
あんたの目的は我々の逮捕だ、と聡美が声を低くした。
『どこに落とし所がある? 我々とあんたの立場は違うんだ』
事件発生から約九時間経ちました、と麻衣子は首をゆっくり振った。
「わたしたちはBW996便の乗客全員について、徹底的に調べましたが、当該宗教団体と関係を持つ者はいませんでした。あなたは九五年のハイジャック事件を模倣し、宗教団体関係者を自称すれば、凶悪さを印象付けられると考えた。でも、そんなことはあり得ません。つまり、あなたにとって宗教団体受刑者の釈放は、どうでもいいことで、北朝鮮の国名を出したのも政治犯あるいはテロリストを装うために過ぎません。高飛びできるならどの国でもいい、それが本音ですね? あなたの狙いは巨額の身代金で、それ以外ではないとわたしは考えています」
『だから何だって言うんだ?』
わたしとあなたの立場は同じなんです、と麻衣子は声のトーンを柔らかくした。
「わたしたちの共通目的はこの状況の解決です。道警本部は強行突入によって人質を奪還すると息巻いていましたが、わたしがストップをかけました。交渉によって人質全員に髪の毛一筋の傷もつけずに救出できる、交渉の余地が十分にある、と判断したからです。わたしにとって最優先なのは乗客乗員の救出で、はっきり言えば、あなたの逮捕はどうでもいいとさえ思っています。よく考えてください。身代金を奪っても、逮捕されたら意味はないでしょう? 人質に危害を加えれば、警察はどんな手段を使ってでも、あなたを逮捕します。だから、あなたは人質を傷つけない。その点で、わたしはあなたを信頼していました」
『それで?』
でもあなたは一方的に身代金の額を釣り上げた、と麻衣子は背筋を伸ばした。
「人質を解放する代償と言いましたが、悪ふざけの度が過ぎます。四十一億円は右から左に用意できる金額ではありません。四百五十九億円の現金を準備するために、わたしたちがどれほど苦労したと思ってるんですか?」
『あんたは真面目過ぎる。冗談もわからないのか?』
「冗談だとしても、そんなことを言う人間をわたしは信用しません。通話を切ったのはそのためです」
約束を破ったのはそっちだ、と聡美が怯えた声を上げた。
『午後十時までに身代金を用意する、とあんたは言った。だが、突然三十分遅れると言い出した。違うか?』
事情については先ほど丁寧に説明しました、と麻衣子は小さく息を吐いた。
「窓の外を見てください。雪が降り続いているのがわかりますね? 札幌から函館までは、高速道路を使っても四時間かかります。凍結した道路を猛スピードで走れば、いつ事故が起きても不思議ではありません。安全のために速度を落とさざるを得ないのは、子供でもわかる理屈です。悪天候による遅延はわたしの責任ではありません。ですが、あなたの信頼を裏切る形になったのは確かで、だから言葉を尽くして状況を説明しました」
にもかかわらず、あなたは面白半分で身代金の増額を要求した、と麻衣子はデスクを叩いた。
「それはわたしの信頼を踏みにじる行為です。勝手な言い分を通そうとする相手と交渉しても意味はありません。さっきも言いましたが、人質の数が多ければ多いほど、警察は強行突入しやすくなります。大勢の人質を救うためなら少数の犠牲はやむを得ない、とコンセンサスが取れるからです。多くのハイジャック事件で、犯人が射殺されているのは知っていますね? そんな結果を望んでいるんですか?」
聡美は無言だった。犯人からメッセージが届いていないのだろう。
わたしは人質を救いたい、と麻衣子はマイクを摑んだ。
「そして、あなたも救いたい。誰の血であれ、流したくないんです。最後に言いますが、事態の解決にはお互いへの信頼が不可欠です。わたしを信じ、話し合いを続けますか?」
しばらく沈黙が続き、遠野さん、と聡美が囁いた。
『犯人からメッセージが……身代金の増額は取り下げる。交渉を続け、妥協点を探ろう……現金輸送車がハコナンに到着したら連絡しろ。金の受け渡し方法を伝える』
いいでしょう、と麻衣子はうなずいた。
「あなたを信じます。指示通り、届いた現金を一億円ずつ布袋に詰め替えますが、作業にどれぐらい時間がかかるか、現段階ではわかりません。見通しがついたら連絡を入れます」
パッセンジャーコールが鳴った。了解した、という意味だ。
麻衣子は音声をミュートし、額の汗を拭った。主導権を握っているのは警察だと犯人に認めさせたな、と正面に座っていた原が腕を組んだ。
「だが、強引過ぎないか? 聞いていて、冷や冷やしたよ」
犯人を試すつもりもありました、と麻衣子はペットボトルに口をつけた。
「感情に任せて怒ったり、混乱して交渉不能に陥るようなら、機内に突入して制圧するしかありません。ですが、その場合は追い詰められて自棄になった犯人が乗客に危害を加える恐れがあります。できれば避けたい事態だと考えていました。まだ犯人は理性を保っています。交渉で解決できると思います」
俺だって無茶はしたくない、と原がぼやくように言った。
「犯人の受け答えにおかしなところはなかった。交渉を続けてくれ。それで、これからどうするつもりだ?」
まだ人質が百三人残っています、と麻衣子は壁の座席表を指さした。
「今後、犯人に投降を促しますが、簡単に従うはずもありません。金の袋詰めに時間がかかると理由をつけ、その間に一人でも多く人質を減らすため、交渉を続けます。高齢者はもちろんですが、精神的、肉体的に限界が近い乗客もいるでしょう。そんな人質を抱えていても、犯人にとってリスクになるだけです。その辺りの判断力はあると感じました。交渉によって、解放に同意すると思います」
犯人の立場で考えると、と原が腕を解いた。
「四百五十九人も人質はいらない。気を失って倒れたり、緊張の糸が切れて泣いたり喚いたり、そんな人質が続出したら、収拾がつかなくなるからな。犯人はそれをわかっている。だから一階の乗客に続き、二階の人質の半数を解放したんだ」
「そうです」
だが、まだ百三人いる、と原が顔を強ばらせた。
「五十人以下になれば、打つ手もあるんだが……」
捜査本部にいた全刑事が口を閉じた。打つ手とは強行突入を指す。
成功すれば一気に事件を解決に導けるが、失敗した場合人質が犠牲になる。原としても、簡単にゴーサインは出せない。
自分の意見ですが、と成宮が手を上げた。
「遠野警視の交渉によって、犯人の正体が絞り込めたのでは? サリンの所持は脅しで、例の宗教団体とは関係ないと思われます。北朝鮮への亡命を匂わせたのも、ブラフに過ぎません。四百五十九億円の身代金をBW996便に積み、外国へ高飛びする、それが真の目的でしょう。しかしリアルに考えれば、うまくいくはずがありません。どんな国であれ、ハイジャック犯の受け入れは拒否します。それがわからないほど、馬鹿ではないでしょう」
「それじゃ、何のためにハイジャックしたんだ?」
原の問いに、黒谷には不審な点があります、と成宮が名前を言った。
「あくまでも推測ですが、YouTubeの収益狙いで騒ぎを引き起こしたのでは? ハイジャックされた機内の様子を隠し持ったカメラで撮影し、後で自分のチャンネルにアップする。登録者も再生数も爆発的に伸びるでしょう。言ってみれば、狂言ハイジャックです」
ハイジャック犯のチャンネルなんて秒でBANされます、と戸井田が口を開いた。
「黒谷もそれぐらいわかってますよ。収益も何もないでしょう」
犯人ではないと装ったらどうです、と成宮が首を傾げた。
「このまま夜明けまで引っ張り、身代金は諦めた、人質を解放すると犯人が宣言する……外部から機内のコントローラーを操作し、チーフCAを通じ、警察と交渉していたと言い残し、逃げたことにすれば、黒谷はハイジャックと無関係となります。無論、我々も厳しく黒谷を取り調べますが、自分は被害者だ、警察の見込み捜査だ、冤罪だ、取り調べで暴力をふるわれた、ある事ない事あの男はYouTubeを使って訴えるでしょう。関与を示す証拠を消していれば、我々も追求できません。法律的には容疑者と言えませんから、勾留も難しいでしょう。黒谷はメキシコに渡り、そこから撮影した映像をアップして収益を得るつもりでは?」
黒谷の座席は二階のビジネスクラスです、と戸井田が二本指を立てた。
「乗客の水口さんが襲われたのは一階のトイレで、黒谷にはできません」
共犯がいるんですよ、と成宮が下唇を突き出した。
「黒谷は有名な迷惑系ユーチューバーで、仲間と何を企んでもおかしくありません。事件が長引けば長引くほど、撮影する時間が増えます。人質を小出しに解放しているのは、ある種のイベントですよ。そのたびに、乗客の反応を撮影できますからね……黒谷が犯人なら、強行突入しても人質を殺さないのでは?」
奴が怪しいのは確かだ、と原が鼻から息を吐いた。
「だが、まだ確証はない。この段階での強行突入は時期尚早だ……遠野の交渉によって、時間稼ぎができた。間もなく十時になる。金が届くまで様子を見よう」
以上だ、と原が席を立ち、その後に桑山が続いた。目配せをしていました、と戸井田が麻衣子の耳元で囁いた。
「強行突入は時期尚早……口ではそう言ってましたが、あの人はやる気です。準備を桑山さんに命じるのでは?」
彼の立場ではそうせざるを得ない、と麻衣子は唇だけで言った。
「最悪の事態に備えるのは、指揮官として当然の措置よ。ただ、誰が犯人だとしても、百人以上人質がいる。無茶はできない」
手が震えていますよ、と戸井田が指さした。緊張のため、と麻衣子は両手の指をテーブルの上で組んだ。
「言葉をひとつ間違えただけで、今の交渉は失敗に終わった……少し休みましょう」
顔を洗ってくると言い残し、麻衣子は捜査本部を出た。暗い通路の隅で原が桑山と話していたが、無視してトイレに向かった。
2
漆畑の肩を叩き、ちょっと来い、と権田は手招きした。
「何すか?」
スマホをいじっていた漆畑が手を止め、ギャラリーに設置された記者席から離れた。
こっちだ、と権田は通路の端にあるトイレの前で左右に目をやった。誰もいないのを確かめ、黒谷浩之って男を知ってるか、と漆畑に尋ねた。
「黒谷……いや、知らないっすね」
黒谷浩之、と権田は壁に指で文字を書いた。
「お騒がせユーチューバーだよ。私人逮捕で名前を売り、いくつかの事件で犯人や関係者の実名を晒した男だ」
東京のユーチューバーですね、と漆畑がうなずいた。
「思い出しました。確か、最初は電車で痴漢したサラリーマンを私人逮捕したんですよね? その一発でチャンネル登録者が爆発的に増えて、味を占めた黒谷はその後も駅で張り込みをしたり、覚醒剤を売るとDMで呼び出した男を捕まえた……そんな記事を読んだ覚えがあります。ですが、痴漢で私人逮捕した男性の冤罪が証明されて、訴訟沙汰になったんでしょ? モザイクなしの動画や実名の公開によって自殺した人もいるらしいじゃないですか。黒谷がどうしたって言うんです?」
BW996便の乗客のようだ、と権田は漆畑の耳元に顔を寄せた。
「道警本部に俺の従兄弟がいるのは知ってるな? ここだけの話ってことで、さっき聞いたばかりだ。三階の捜査本部では、黒谷がハイジャック犯って線で動いているらしい」
黒谷のチャンネルはBANされたはずです、と漆畑が手の中のスマホに目をやった。
「ネットニュースで見ました。その前から、収益が上がらない、赤字続きで破産同然だと生配信で愚痴っていたそうです。民事訴訟でも負けたんじゃなかったかな? 損害賠償金や慰謝料の支払いもあったはずです。唯一の収入源のYouTubeチャンネルをBANされたら……自棄になるのもわかりますよ。じゃあ、黒谷がBW996便をハイジャックしたんですか?」
そこがわからない、と権田は首を振った。
「ベストウイング航空は身代金の支払いに同意し、金を準備した。現金輸送車が札幌を出たのは、裏が取れている。十時半頃にハコナンに着くようだ。二十分後か……しかし、四百五十九億円だぞ? 犯人はその金をBW996便に運び入れろ、と命じるだろう。そこまではいいが、その後はどうする気だ? 持って逃げる? 四トン半だぞ、人間が運べる量じゃない」
「共犯がトラックを準備して待っているとか……」
「おいおい、BW996便は滑走路に停まっているんだぞ? 出入り口はすべて閉鎖され、数百人の警察官が見張っている。トラックなんて、入れるわけないだろう。強引に突破するか? 賭けてもいいが、五分で逮捕される。いや、三分か?」
僕がハイジャック犯なら、と漆畑が自分の顔に触れた。
「架空口座に四百五十九億円を振り込ませますね。現金にこだわる意味はありませんから……犯人が誰であれ、何でそうしなかったんでしょう? 犯人は機内にいて、乗客名簿もあります。今は交渉で投降を促していると聞きましたが、らちが明かなければ機動隊が突入しますよ。一人でも消えていれば、そいつが犯人ってことになります。パスポートを提示していますから、名前も住所も一発でわかるでしょう。指名手配され、公開捜査が始まったら、逮捕は時間の問題です」
従兄弟もそう言ってた、と権田はうなずいた。
「札幌にいるんで、それ以上詳しいことはわからんとさ……だが、捜査本部が黒谷を本命にしているのは間違いない。お前さんは黒谷の経歴を調べてくれ。俺は広報課長の白さんに当たってみる。こんだけの大事件だから、何も喋らんだろうが、口が滑るってことはあるからな。他社はまだ何も知らない。地域密着型ローカル新聞の強みだよ……誰にも気づかれるな」
了解です、と漆畑が二本指で敬礼した。権田がスマホに触れると、白岩だ、と返事があった。
3
ハラコウさん、と成宮がパソコンを指さした。麻衣子は壁の時計に目をやった。十時十五分を針が指していた。
「新たに解放された百人の乗客に事情を聞いていた中西巡査長から、動画が送られてきました。電話も繋がっています」
手を伸ばした原が電話の保留ボタンに触れると、中西です、と太い男の声がした。どこか戸惑ったような声音だった。
何かあったか、と原がスピーカーの音量を上げた。まず動画を見てください、と中西が言った。
麻衣子はパソコンの画面に目を向けた。小さなデスクを挟み、三十代の怒り肩の男と中年の女性が向き合っている。怒り肩の男が中西だろう。
『もう一度、今の話をしていただけますか? できるだけ詳しく、正確にお願いします』
名前から言った方がいいですか、と女性が首を捻った。
『池内秀美といいます。さっきも話しましたけど、わたしの座席は二階の一番奥、エコノミー三十列のHです。犯人の命令でアイマスクをつけていたので、何も見えませんでした。あの……会社でいろいろあって、有給休暇を取ったんです。独身ですから、気兼ねする相手もいません。どうせなら行ったことのない国がいいと思って、行き先をメキシコに決めたんです』
続けてください、と中西が促した。話が逸れましたね、と秀美が照れたように笑った。
『一人旅なので、隣の席の方と話すとか、そんなこともなかったと言いたかっただけで……怖かったですけど、現実味がないっていうか、どうなるんだろうとか、そんなことばかり考えていました。わたしの席からだと離れているので、姿は見えませんでしたけど、チーフCAと警察の方……女性の刑事さんですよね? 二人の話す声が聞こえました。一階の乗客が解放された、そんなことを言ってたと思います』
『それから?』
『チーフCAと女性の刑事さんのやり取りがあって、二階の乗客の半分を解放する、機体の前側か後ろ側か、どちらか選べとか何とか……ごめんなさい、その時はわたしも焦っていて、細かいことは覚えていません。後方の乗客が解放されることになって……あんなにほっとしたことはありません。まだ残っている人達には申し訳ないんですけど、助かった、良かった、それしか考えられませんでした。チーフCAはとても立派だったと思います。座席を四列ごとに区切り、順番に降りてください、と指示を出していました。乗客が混乱しなかったのは彼女のおかげです』
『そうですね』
順番として、と秀美が自分を指さした。
『一番奥の席のわたしが最後に降りることになりました。お年寄りの乗客に代わって自分が残るとチーフCAが話す声を聞いていたので、降りる時に、申し訳ありません、ありがとうございますって伝えたんです。その時には、解放されるわたしたちも、チーフCAもアイマスクをつけていなかったので、目が合って……小声で彼女が言ったんです。犯人は男、三十歳ぐらい、黒の革靴、ジャージみたいなズボンと……』
犯人は男性、と中西が指を折った。
『年齢は三十歳前後、黒の革靴を履き、ジャージ状のズボン姿、チーフCAはそう言ったんですね? 他には?』
何も、と秀美が顔を伏せた。
『ものすごく早口で、一秒か二秒、それぐらいだったと思います。犯人に聞かれるかもしれない、と思ったのでは? 彼女の顔を見ましたけど、目に涙を浮かべて、酷く怯えていました。手掛かりになれば、と考えていたのはわたしもわかりました』
我々が把握している限り、と中西が手を開いた。
『乗客のトイレなど、外すことが必要な場合はともかく、チーフCAはアイマスクをつけていたはずなんですが……彼女はどうやって犯人を見たんでしょう?』
わかりませんけど、と秀美がジーンズのポケットからアイマスクを取り出し、目の上に当てた。
『汗を拭くふりをしてずらしたのでは? 解放されて滑走路に降りた時、他の乗客がそんな話をしていました。わたしは怖くてできませんでしたけど……』
動画が静止し、映像は以上です、とスピーカーから中西の声がした。
『改めて確認しましたが、池内さんがチーフCAの一ノ瀬さんから聞いた言葉はそれだけでした。他の乗客は彼女と話していません。ただ頭を下げるだけだったそうです。池内さんの推測通り、一ノ瀬さんは犯人を見たのだと思います』
他の乗客の聞き取りは終わったのか、と尋ねた原に、一通りは、と桑山が答えた。
「パスポートの提示、口頭での身元証明、犯人を見ていないか、気づいたことはないか、その辺りを確認した、と報告が入っています。一ノ瀬さんと話したのは池内さんだけのようですね」
最後の一人だったからだ、と原が唸った。
「一ノ瀬チーフが犯人の姿をはっきり見たとは思えん。一階のトイレで暴行を受けた水口さんのことを考えれば、犯人の指示通りアイマスクをつけているしかないからな。どの座席に座っているかもわからないし、極端に言えば、目の前の乗客が犯人かもしれない」
余計なことを言えば犯人の報復が待っている、と原がため息をついた。
「迂闊には口を開けなかっただろう。だが、彼女は隙をついて一瞬だけアイマスクをずらした。特徴を伝えれば、犯人を特定できるかもしれないと考えたからだ。勇気があるよな……そして、ちらっと見た犯人の情報を池内さんに話し、警察への伝言を託したんだ」
待ってください、と成宮がファイルを開いた。
「午後七時二十分、機内の千丈さんから連絡がありました。彼は通路を歩いている男、つまり犯人の足元を見ています。ベージュの古いハイカットのスニーカー、黒の靴下が見えた、と書いていました」
続けろ、と原が顎をしゃくった。八時過ぎ、と成宮がファイルをめくった。
「濃いグレーのスラックス、茶の革靴を履いた四十代の男について、千丈さんがLINEを送ってきました。一ノ瀬チーフが見たのは、三十歳前後の黒い革靴とジャージ状のズボンをはいた男です。三十歳前後と四十代は明らかに違います。同一人物とは思えません」
千丈さんが見たのは、と麻衣子は成宮を手で制した。
「通路を歩く男の後ろ姿です。一ノ瀬さんが見たのは男の足元だけのようです。三十歳前後というのは彼女の勘に過ぎません。靴だけで年齢がわかるでしょうか?」
印象だよ、と原が乱暴に言った。
「雰囲気と言った方がいいか? 何となくでも、わかることはある。靴は履き替えられるが、年齢はごまかせない。単独犯なのか、一人ないし二人の共犯がいるのか……」
犯人は九五年のハイジャックを詳しく調べています、と戸井田が言った。
「あの事件で、犯人は服を着替え、複数犯を装っていました。グレーのスラックスとジャージ状のズボンでは印象が違います。単独犯かもしれませんね」
単独犯だと助かる、と原が口をへの字にした。
「交渉が不調に終われば、強行突入するしかないが、共犯がいると残った人質に危害を加えるかもしれん……遠野、どう思う? 犯人は一人か、それとも複数か?」
何とも言えません、と麻衣子は長い髪を払った。ハラコウさん、とスマホを耳に当てたまま桑山が立ち上がった。
「道警の白バイ隊から、十分後、十時三十二分に現金輸送車がハコナンに着く、と連絡がありました。予定通り、空港の駐車場に誘導します」
交渉で時間を稼げ、と原が正面から麻衣子を見た。
「現金輸送車が到着したら、犯人に連絡を入れろ。いいな?」
麻衣子は座り直した。窓に目をやると、雪の勢いが少しだけ弱くなっていた。
4
撮れたか、と坂内が囁いた。たぶん、と大迫はキャプチャ解像度4Kのビデオカメラの3・0インチスクリーンに目を向けた。
約三十分前、坂内とハコナンの敷地に侵入してから、BW996便を迂回する形で移動し、空港ターミナルビルの西側に停まっていたコンテナ車の陰に隠れ、撮影を始めた。距離は二百メートルほどだ。
驚いたよねえ、と坂内が手をこすり合わせた。少し前から雪が小降りになっていたが、寒さは変わっていない。
「おれらが動き始めたら、タラップ車がこっちに向かってきてさ。ヘッドライトに照らされたんじゃないかって、冷や汗もんだよ。雪が降ってて助かったな。白いダウンジャケットを着てるから、誰も俺らに気づかんって」
大迫は再生ボタンに触れた。BW996便から降りてくる乗客が、ぼんやりと映っていた。
これじゃ厳しい、と大迫は舌打ちした。
「これ以上は拡大できん。BW996便の機体ははっきり映ってるけど、人は幽霊にしか見えんよ。暗いけど、照明をつけるわけにもいかんしね。こんだけ離れてると、さすがに無理だって……どうする、タモツ? 諦めっかい?」
そだら簡単に言うな、と坂内がしかめ面になった。
「尻尾を巻いて逃げてどうする? ボケてたって、人だとわかりゃあYouTubeには十分じゃないの。かえって信憑性が増すから、再生数が増えるって」
見てみろ、と大迫はビデオカメラを坂内に渡した。3・0インチスクリーンを覗き込んだ坂内の顔が曇った。
しょせんアマチュアだもんね、と大迫は肩をすくめた。
「ほれ、ターミナルビルの三階を見てみろ。ずらっとテレビ局のカメラが並んでる。プロ仕様だから夜中でも撮影できるっしょ……カメラマンがおらんけど、撮影しないのかな?」
聞いた話だけど、と坂内が鼻の下を手袋でこすった。
「報道協定とかいって、警察がマスコミを抑えこんでるんだろう。記者やカメラマンが勝手に動いたら、犯人を刺激するもんね……さっきからテレビを見てるけど、NHKも民放も同じ映像が流れてる。たぶん、NHKのカメラだな。あそこに並んでるのは、民放のカメラだ。犯人が逮捕される瞬間を待ってるんだろう」
変なことに詳しいな、と大迫はビデオカメラを受け取った。
「タモツ、どんだけ待つ? 寒くて、小便が漏れそうだよ……いつになったら、犯人は逮捕されるんだ? 逮捕の瞬間って言うけど、刑事は機内で犯人に手錠をかけるだろ?」
「たぶんな」
「俺らもそこは撮影できん。刑事が犯人を連れて降りてくるのを待つのか? でも、その映像はテレビで流れるぞ。俺らのYouTubeじゃなくて、そっちを見るんでないかい?」
奴らは上から撮る、と坂内がターミナルビルの三階に顎の先を向けた。
「下から撮ってるのは俺らだけだ。滑走路を見てみろ、他には誰もおらん。これこそ独占映像ってやつよ。食いつく者はおるって……そうは言っても、もうちっと近づかんと話にならんよな」
無理だって、と大迫は手を振った。
「何度も同じこと言わせるなよ。コンテナ車とBW996便の間に、駐車している車両はない。何かの陰に隠れるっちゅうわけにもいかん。空港全体を警察が見張ってる。こんなところを見つかったら、逮捕されるぞ」
そん時はそん時よ、と坂内がリュックを背負い直した。
「陽ちゃん、こんだけ雪が降ってるんだから、俺らの姿は見えんって。忍び寄れば、誰も気づかんよ。五分ほど前、BW996便のドアが閉まった。人質の解放が終わったんだろう」
それは大迫もわかっていた。数えてみたけど、と坂内が手袋の指を折った。
「降りてきたのは百人ほどだった。BW996便の定員は四百四十人、最初に解放されたんは一階の乗客、とアナウンサーが解説してただろ? さっき、百人が追加で出てきたが、まだ百人残ってる。ここからが本番で、俺らにとっては絶好のチャンスよ。ゆっくり、目立たないようにBW996便に近づけばいい」
マジでか、と大迫は頭を抱えたが、ここまできたら一緒だという思いもあった。潰れかけたYouTubeチャンネルの復活には、ギャンブルも必要だ。
坂内の合図で、大迫は腰を浮かせたが、すぐにしゃがみこんだ。
「タモツ、伏せろ。奥で何か動いてるぞ」
ビデオカメラをズームにしてファインダーを覗き込むと、降りしきる雪の中、大型車が走っていた。徐行運転でスピードは遅い。車に並ぶように、六人の男が徒歩で進んでいた。
「ありゃ、何だ?」
大迫がカメラを渡すと、警察だ、と坂内がつぶやいた。三分後、四百メートルほど離れた場所で大型車が停まった。大迫は坂内と体を寄せ合い、背中を向けた。
5
パッセンジャーコールが鳴り、遠野さん、と囁く聡美の声がスピーカーから流れ出した。
『犯人からメッセージが入りました……ハコナン、ハイジャック、BW996便、ベストウイング航空で検索しろ、と書いてあります』
戸井田がパソコンのキーボードに触れた。ちょうどよかった、と麻衣子はマイクに唇を寄せた。
「わたしも連絡しようと思っていました。札幌から現金輸送車が到着した、と連絡が入ったところです。四百五十九億円を揃えるのにどれだけ苦労したか、あなたにはわからないでしょうね」
お疲れさま、と聡美がメッセージを読み上げた。その声も疲れていた。
『あんたには世話をかけたな。労いとして、一億円ぐらい渡した方がいいか?』
受け取れません、と麻衣子は笑みを浮かべた。
「わたしたちの会話は捜査本部にいる全警察官が聞いています。ありがとうございます、と言えるわけないでしょう?」
『後にすれば良かったか?』
ノーコメント、と麻衣子は首を振った。
「残った百人の乗客、そして三人の乗員の解放が先です。四百五十九億円を積んだ現金輸送車はターミナルビル裏の駐車場に停まっています。直接取りに来ますか?」
返事はなかった。ではターミナルビルに運び入れます、と麻衣子はパンプスの踵で床を踏み付けた。
「あなたの要求に応じるため、銀行その他金融機関に要請を重ねて集めた現金です。帯封をした一万円札の束もありますが、大半はバラバラです。一億円ずつ袋に入れろ、と指示しましたね?」
『そうだ』
「袋は準備していますが、一億円ずつ分けるには人手と時間がいります。道警本部の経理部員十人が待機していますが、どれだけ時間がかかるか何とも言えない、と報告がありました。いずれにしても、夜が明けるまでBW996便は離陸できません。理由は説明しましたね? 現金を袋詰めにする時間はあるんです。しばらく待ってください」
『了解した』
「わたしは約束を守ります。四百五十九億円の現金を用意し、支払うつもりがあります。ですが、人質が解放されるまで、身代金は渡せません」
『金を袋に詰め終わったら連絡しろ。その時、残った人質の半数を解放する。金を機内に運び込んだら、三人の乗員以外を解放しよう。それでいいな?』
戸井田が麻衣子にパソコンの画面を向けた。四分割された画面に動画が映っていた。
動画を目で追いながら、聞いてください、と麻衣子は言った。
「たった今、現金輸送車に同乗したサッポロ銀行の副頭取から連絡がありました。四百五十九億円の現金を一億円ずつ袋詰めするには最低でも三時間かかる、と彼は言っています」
『構わない。では、作業が終わる午前一時半まで待つ』
最低三時間です、と麻衣子はパソコンの筺体を指で弾いた。
「もっと長くなるかもしれません。作業は道警の経理部員が担当します。四百五十九億円ですよ? そんな大金を扱った経験がある者はいません。経理部員も人間です。魔が差してもおかしくありません。時間がかかるのは、不正を確認するためでもあるんです」
『警察官が泥棒になるのか? 笑えない冗談だな』
「作業が終わるまで、ただ待っているのは時間の無駄です。あんたには世話をかけた、労いたいと言いましたね? わたしを労うつもりがあるなら、人質を解放してください。あなたにとって人質は盾で、全員の解放が難しいのはわかります。間を取って、半分の五十人ではどうです? 人質が百人いても無意味なのはわかったはずです。高齢者、女性の順に五十人を解放する……お互いメリットがある取引だと思いませんか?」
『くどいぞ。我々は男女差別をしない。年齢で扱いを変えることもない。お年寄りの体調が心配です、気の毒だと思いませんか、そう言いたいのか? お涙頂戴は止めろ。老人にとってはそれこそが侮辱だ』
では、と麻衣子はマイクに触れた。
「体調不良を訴える乗客ならどうです? 今、わたしの時計は十時四十分を表示しています。BW996便がハコナンに降りてから九時間が経ったことになります。その間、乗客はほぼ座ったままですね?」
パッセンジャーコールは鳴らなかった。その通り、という意味だろう。
乗客はアイマスクの装着を強いられています、と麻衣子は話を続けた。
「五感によって人間は情報を得ますが、その知覚の割合は、嗅覚が三・五パーセント、聴覚が十一パーセント、視覚が八十三パーセントと言われています。目を塞がれた人間は八十三パーセントの知覚を失うんです。その意味がわかりますか? 人質となり、何の情報も得られない状態がどれだけのストレスを人間に与えるか、あなたにも想像がつくでしょう」
麻衣子はペットボトルを摑み、水をひと口飲んだ。
「体調を崩さない方がおかしいぐらいで、エコノミークラス症候群のリスクもあります。体調に不安がある乗客を解放するのは、あなたのためでもあります」
『何を言ってる?』
ハイジャックによる刑罰を知っていますか、と麻衣子は語気を強めた。
「乗客乗員、残った人質を全員解放し、あなたが投降するとわたしは信じています。その場合、懲役七年で済みますが、一人でも犠牲者が出れば最低でも無期懲役となります。あなたは誰のことも傷つけたくないと信じていますが、直接手を下さなくても、持病の悪化による死亡には未必の故意が適用されます。意味はわかりますね?」
あんたは理屈が多い、と聡美が小さな声で言った。
『こっちに殺人の意図はない。人質の様子を確認し、病人は解放しよう。人数は未定だ。一人かもしれないし、もっと多くなるかもな』
「いいでしょう」
あんたを信じる、と聡美が囁いた。
『検索ワードを指定したが、何が出てきた? 答えろ』
動画です、と麻衣子はパソコンに目を向けた。
「確認できただけで、ハコナンを撮影した動画が十四本ありました。すべて、ユーチューバーによる生配信です」
奴らはこっちの目だ、と聡美が小さく咳をした。
『十人以上、ユーチューバーが集まると思っていたが、予想より多いな。ターミナルビルの駐車場にカメラを設置し、車両を撮影するユーチューバーもいるようだ。おかげで、こっちも現金輸送車を確認できた……あんたは口先だけじゃない。人質を解放するのは、あんたの苦労に報いるためだ。しばらく待て』
通話が切れた。白岩課長を呼べ、と原が唸り声を上げた。
「ハコナン周辺にユーチューバーが集まっていると報告があったが、こんなに多いとは……これじゃ警察の動きがだだ(傍点)漏れだ。全員、公務執行妨害で逮捕しろ」
うなずいた成宮が電話に手を掛けた。メディアは抑えが利く、と原が鼻から荒い息を吐いた。
「NHKも民放も固定カメラでBW996便を撮影しているだけだ。新聞、ラジオ、配信会社のウェブ更新は禁止した。だが、昔とは違う……九五年にハコナンでハイジャックが起きたが、Windows 95が発売された年だ。インターネット黎明期だよ」
携帯電話こそあったが、スマホもアプリもなかった、と原が頭の後ろで手を組んだ。
「YouTube? 何だそりゃって話だ。今じゃテレビや新聞のような世論への配慮や忖度で雁字搦めになっているオールドメディアより、ネットを見ている者の方が圧倒的に多い」
そうです、と麻衣子は首を縦に振った。犯罪者がネットを情報源にした事例もある、と原が拳でデスクを強く叩いた。
「二〇一一年、熊本で三歳の女の子が殺された。犯人は大学生で、わいせつ目的で女の子をトイレに連れ込み、そのまま首を絞めて殺したんだ。死体の始末に困って自分のリュックに入れ、近くの川に捨てた後、犯人はネットをチェックし、リアルタイムで捜査状況を調べていた」
その事件は知っています、と戸井田が唇を噛んだ。自首したのは、と原が吐き捨てた。
「逃げ切れないと観念したからだ。情報が筒抜けだったから、下手をしたら逃亡に成功していたかもしれん……ネット民に報道協定もへったくれもない。犯人にとって有利な情報でも平気で流す。機内にいても、YouTubeやネットを通じ、警察の動きがわかるってか……。まったく、腹が立つよ」
しばらく待ちましょう、と麻衣子は腕時計に目をやった。
「十時四十二分です。機内に残っている人質は乗員を含め百三人、犯人は通路を歩き、乗客を確認するはずです。半分の五十人とは言いませんが、一人でも多く人質を減らせば――」
LINEが入りました、と成宮が手を上げた。
「機内の千丈さんです。犯人が交渉人と話している隙にトイレに入った、とあります」
大丈夫か、と原が顔をしかめた。
「犯人が気づかなきゃいいんだが……それで? 何と言ってる?」
「そのまま読みます……防犯カメラの位置がわかった/自分のひとつ前の席の上にある/この後、ガムテープを剥がすつもりだ/トライしていいか……許可を求めています。どうしますか?」
原が親指を上に向けた。ゴーサインの合図だ。
「千丈は他に何か言ってないか? 犯人の情報は?」
それだけです、と成宮が答えた。慎重にやれと伝えろ、と原が声を低くした。
「ガムテープを剥がしたと犯人が気づけば、千丈もただでは済まない。危険だと判断したら中止するんだ」
無言のまま、成宮がスマホに触れた。大丈夫でしょうか、と麻衣子の隣に座っていた戸井田が囁いた。
「機内の情報が入るメリットは大きいと思います。しかし、犯人が気づけば……」
芸能事務所の社長と話した、と麻衣子はデスクに置いたスマホを指さした。
「真面目だけれど気が小さい、と評していた。大胆で度胸があると彼女が言ったら、原警視を止めた。今の状況では、気が小さいぐらいでちょうどいい。千丈さんを信じましょう」
麻衣子は紙コップに口をつけた。冷えきったコーヒーの苦みが舌に残った。
6
息が苦しい、と屋代がネクタイを緩めた。上ずった声に、野沢は屋代の顔を覗き込んだ。
コックピットは狭い。閉塞感で息が詰まるのは野沢も同じだが、明らかに屋代の様子は変だった。
コックピットに立てこもったのは昼の十二時過ぎで、十時間以上経っている。ドアをロックしているので、空気の循環が悪い。屋代の顔色が青黒いのは、そのためもあるようだ。
野沢くん、と屋代が呻き声を漏らした。
「私は……もう限界だ。後を頼む」
「機長、何を――」
コックピットを出る、と屋代がシートベルトを外した。
「警察は当てにならない。私が犯人と直接交渉して、我々を含めた人質の解放を認めさせる。警察は何もわかっていないんだ!」
無意識なのか、屋代の声が大きくなっていた。危険です、と野沢は屋代の腕を押さえた。
「警察と犯人のやり取りを聞いていましたが、犯人は数名いるようです。どの席に座っているか、それもわからないんですよ? どうやって交渉するんですか?」
屋代の顔に表情はなかった。野沢の声が聞こえていないようだ。
私がコックピットを出たら、と屋代が野沢の腕を払った。
「ロックして誰も入れるな。ここは君に任せる。機長の私が交渉すれば、犯人も応じる。そうに決まっている!」
危険すぎます、と野沢は屋代の肩に手を掛け、強引に座席に座らせた。
「不安なのは僕も同じです。しかし、我々が動揺したら、誰が乗客の安全を護るんですか? 相手はハイジャック犯で、何をするかわかりません。今は我慢するしかないと――」
まばたきを繰り返した屋代の両眼から、涙が溢れた。プレッシャーに耐え切れず、心が壊れたようだ。
もう嫌だ、と屋代が喚いた。子供のように首を振り続けている。明らかに正気を失っていた。
「ベストウイングでベストな旅を……何万回言ったかわからない。私には乗客の安全を護る責任がある会社は無茶ばかり言うそんなことできるわけないじゃないか犯人の指示に従えば命までは取らないそうだろそうだろ」
野沢は屋代の頬を張った。乾いた音が鳴った。
「機長! しっかりしてください!」
どうしたらいいんだ、と泣きながら屋代が野沢の腕にすがった。
「死にたくない。私は死にたくない! 会社も警察も何もわかっちゃいない! 一人でも犠牲が出れば、全責任を負うのは機長の私なんだ! 私が殺されたらどうする? 誰が責任を取るんだ?」
落ち着きましょう、と野沢は屋代の手を握った。
「気持ちはわかります。しかし、この状況では我々が踏ん張るしかありません。会社や警察に恐怖や不満を訴えても、事態は変わらないんです!」
原警視と話す、と屋代が無線に手を伸ばした。
「何とかしろ、と言ってやる。奴らが無能だから、こんなことになっ――」
傾いた屋代の体を野沢は両手で支えた。貧血を起こしたのだろう。
目を閉じたまま、屋代が呪詛のようなつぶやきを漏らし続けている。野沢はマイクを摑み、捜査本部を呼び出した。
7
時計の針が十一時五分を指した。パッセンジャーコールが鳴り、遠野さん、と聡美が呼びかける声がした。
『犯人からメッセージが入りました、そのまま読みます……二階の座席を回ったが、顔色だけじゃ体調はわからない。いちいち聞くわけにもいかないし、面倒臭いから、あんたの言う通りジイさんとバアさんを解放してやる。年齢を確かめたわけじゃない。見た目で決めただけだ。後で文句を言うな』
何人ですか、と尋ねた麻衣子に、二十人です、と聡美が答えた。
『人数が書いてあります……七十オーバーに見える連中だ。そんな歳でメキシコ観光? 元気なお年寄りだな。長寿大国ニッポンの象徴だよ……タラップ車が来たら、CAが降ろす。いいか、こっちは好意でやってる。余計な真似はするな。一人でも警察官を見たら、残った人質全員を殺す。これは警告だ。無視したらどうなるか、わかってるな?』
何もしません、と麻衣子は答えた。
「わたしはあなたを信じています。一人でも乗客が負傷すれば、あなたの罪は重くなります。それがわからないほど、頭は悪くないでしょう。五分でタラップ車を向かわせます」
『いいだろう』
「高齢者の解放は正しい判断です。ストレスによる心筋梗塞や脳卒中のリスクが高いのは、言うまでもありませんね? 最悪の事態を避けるために、ベストな選択です。もちろん、あなたが医師で、必要な手当をできるなら話は違いますが」
医者がハイジャックをすると思ってるのか、と聡美が小さくため息をついた。
『そんなわけないだろう。百回転生したって、医者にはなれない。こっちは筋金入りの犯罪者なんだ』
「筋金入りの犯罪者? あなたは反社会勢力の構成員? それとも先祖代々続く由緒正しい泥棒の家に生まれたと言いたいんですか?」
言葉のあや(傍点)だと言ってます、と聡美が声を低くした。
『そんなこともわからないのか? ちょっとした冗談じゃないか……金の袋詰めは順調か?』
ターミナルビル一階に到着ロビーがあります、と麻衣子はパンプスの爪先で床を叩いた。
「札幌の金融機関から集めた現金入りのケースを積み上げ、十人の担当者が札を数え、袋に一万円札の束を詰めています。足の踏み場もない、と報告がありました」
『見たかったね』
「担当者が扱っているのは現金です。いわゆるピン札もあれば、使用済みの紙幣も交じっていて、紙幣カウンターが使えない札もあります。正確に数えるためには時間がかかるんです」
『構わない。こっちは待つだけだ』
「わたしはあなたの要求に応じました。それは認めますね?」
『まあな』
「では、わたしの要望を聞いてください」
『何だ?』
残った乗客に飲み物を配ってください、と麻衣子は紙コップを手にした。
「飛行機ですよ? ドリンクサービスは世界中の航空会社にとって常識です。飲み物はギャレーにあります」
『嫌だね。面倒だ』
「チーフCAの一ノ瀬さんが準備します。カートに積んだ水のペットボトルを配るだけで、時間はかかりません。アイマスクをつけている乗客でも、手探りでキャップを外せるでしょう。脱水状態が続けば意識障害、血圧低下、頭痛その他の症状が現れます。重度の水分不足では重症化する傾向もあるんです」
『ずいぶん詳しいな。医大にでも通っていたのか?』
医師でも看護師でもありません、と麻衣子は首を振った。
「ただ、警察官にはある程度の医学的な知識が求められます。人工呼吸やAEDの講習は必須で、人命救助もわたしたちの仕事です。あなたはやったことがありますか? 医師ではないと話していましたね? 大学の専攻は何です?」
『あんたみたいな真面目人間と一緒にするな。大学なんか、辞めてやったよ。卒業したって、何の得にもならない。金を稼ぐ方法はいくらだってあるんだ』
遠野、と窓を指さした原が囁いた。
「タラップ車の準備が終わった。出すぞ」
声が聞こえた、と聡美が長い息を吐いた。疲れているのが麻衣子にもわかった。
『あの偉そうなデカだな? さっさとタラップ車をBW996便の機体につけろ。チーフCAさん、あんたは今からこっちが送る番号に座っている客を誘導して、外に出せ。二十人だから、すぐ終わる。その後、五分だけやるから、残った八十人に水を配れ……遠野さん、犯人の指示に従います。座席番号を読み上げる時間はありませんが……』
構いません、と麻衣子はうなずいた。
「二十人の誘導と残った八十人のケアを優先してください。すぐにタラップ車が到着します。一ノ瀬さん、負担ばかりかけて心苦しいのですが……あなただけが頼りです」
はい、とだけ聡美が答えた。麻衣子はボリュームをオフにして、ため息をついた。
乗客名簿をチェックした、と原が立ち上がった。
「七十歳以上の男女が十五人いる。見た目で決める、と奴は言ってたな? 高齢者に見える乗客が他に五人いたんだろう……とにかく、八十人まで人質を減らしたが、この先は厳しいぞ。今の六十代は現役世代だ。年齢を理由に解放を迫っても、奴は拒否するだろう」
いえ、と麻衣子は額に手を当てた。滲んだ汗が指に絡み付いた。
「犯人はアクシデントを恐れています。ハイジャックや立てこもり事件では人質が多いほど犯人にとって有利になる。それがセオリーですが、多すぎると不測の事態が生じやすくなります。犯人はそれを知っているので、交渉すれば更に人質を減らせるでしょう」
「例えば……持病のある者か? だが、乗客一人一人に、既往症はあるか、と尋ねるわけにもいかんだろう」
二十人の解放が終わるまで、と麻衣子は立ち上がった。
「犯人から連絡はありません。外の風に当たってきます」
好きにしろ、と原がドアの方へ顎をしゃくった。麻衣子は捜査本部を出て、送迎デッキに向かった。
真っ暗な空から、霙交じりの白い雪が降り注いでいる。デッキに立つと、冷たい風が頬に当たり、心地良かった。
疲れたでしょう、と隣に並んだ戸井田が囁いた。
「一度吐いた言葉は取り返せない……研修で遠野さんはいつも言ってますよね? 将棋と同じで、ひとつひとつの言葉に意味があると……頭を休ませないと、オーバーヒートしますよ」
わかっている、と麻衣子はうなずいた。あそこは人が多すぎます、と戸井田がレセプションルームを指さした。
「長くいると息が詰まりますよ……機長たち乗務員を含めると、まだ人質は八十三人残っています。とはいえ、ハイジャックされた時点では四百五十九人でしたからね。交渉によってここまで人数を減らしたのは大きいですよ。原警視や他の捜査員も、交渉の意味がわかったようです。言葉にこそしていませんが、感心しているのが伝わってきました」
そんな気がしない、と麻衣子は首を振った。
「あなたは交渉の成果だと思っているの?」
「実際、そうでしょう? 交渉人として警察と犯人の間に立ち、双方のメリットを考えた提案を行ない、結果を出しています。僕が交渉人だったら、一階はともかく、二階の人質はそのまま残っていたでしょう」
もっと減っていたかもしれない、と麻衣子は手を上に向けた。落ちてきた雪が手のひらに当たり、すぐに溶けた。
「犯人はアクシデントを恐れている、とわたしは言ったけど、今回のケースでは急病人を指す。熱が出た、頭が痛い、そんなレベルではなく、もっと重い病気よ」
「はい」
「旅客機は閉鎖空間で、人質は身動きもままならない。ストレスが溜まらなかったら、その方がおかしい。異常な状況下ではアクシデントの発生率が高くなる。だから、犯人は人質を減らしたい(傍点)」
「何を言ってるんです? 多すぎると目が届かなくなるのは確かですし、四百五十九人の人質を抱え込んでいるとかえって危険です。犯人が順次人質を解放したのはそのためで、一階の二百四十人の乗客、そして副操縦士を含めた十六人の乗員については、僕でも何とかなったでしょう。しかし二階の百人は違いますよ。ハイジャックでは人質が多い方が犯人にとって有利で、百人プラス二十人をBW996便から降ろしたのは遠野さんの力です」
セオリーではその通りよ、と麻衣子は両手をこすり合わせた。
「ただ、わたしは思い違いをしているのかも……ハイジャックに際して、交渉人は犯人の要求をある程度受け入れ、それによって時間を稼ぐ。事件を解決する鍵は時間で、長期化すれば犯人は体力を消耗し、心理的な負担も大きくなる。それを待つのも戦略のひとつよ。疲労した犯人は注意力が散漫になる。隙をつくのは難しくないし、強行突入による人質救出の確率が上がる」
「疲弊した犯人に投降を促せば、受け入れることもあります。立てこもり事件では、そういった事例も少なくありません」
頭に浮かんだことをそのまま言う、と麻衣子はこめかみに指を当てた。
「矛盾があるかもしれないけど、黙って聞いて……犯人は慎重に計画を立て、綿密な準備をした。九五年のハイジャックについて徹底的に調べ、手口を模倣している。これもまたセオリーだけど、ハイジャックされた飛行機は近くの空港に緊急着陸する。その後、警察との交渉が始まるけど、それは犯人も予想していた。犯人はCAを通じて交渉している。男性か女性か、わたしたちには、それさえわからない。正体を隠すためには効果的なやり方よ」
「そうですね」
でも、と麻衣子は指に力を込めた。
「警察は過去の事件を教訓にする。今回、犯人はメッセージをCAに読ませた。新しい手口だけど、やり取りを重ねれば個人情報が染み出してくる。犯人は乗客乗員四百五十九人の中にいて、一人もしくは数人と考えていい。時間さえあれば必ず犯人はわかるし、座席も特定できる。交渉による解決が望めないと指揮官が判断すれば、強行突入するしかないけど、座席がわかっていれば確保は容易になる」
「はい」
「わたしが時間を作れば、警察側が有利になる……そのはずだったけど、何かが違う。時間を稼いでいるのはわたしではなく犯人……そんな気がしてならない」
「何のためです?」
わからない、と麻衣子は首を傾げた。
「時間が経てば経つほど犯人は不利になるのに、なぜそんなことをするのか……交渉に応じて人質を解放したように見せかけ、実は誘導している。まるで、何かを待っているように……」
考え過ぎていませんか、と戸井田が苦笑した。
「犯人は黒谷ですよ。奴の目的はYouTubeの収益を上げることで、そのために時間を稼いでいるんです。事件が長引くほど、再生時間が長くなりますからね。遠野さんの巧みな問いに引きずられて、大学なんか辞めてやった、と話していたでしょう? 黒谷は大学を中退しています。改めて乗客名簿を調べましたが、こんなことを企むのは黒谷しかいません」
何かがおかしい、と麻衣子は息を吐いた。照明に照らされた息が真っ白になった。
「黒谷は典型的な迷惑系ユーチューバーよ。その場のノリで無茶をすることはあっても、計画的にハイジャックを企むほどの頭はない」
計画を立てたのは別の人間かもしれません、と戸井田が指を鳴らした。
「そう考えれば筋が通ります。確かに、黒谷とハイジャックはイメージが合いません。奴の経歴を調べましたが、何であれ衝動的に動く男です。でも実行役なら務まるでしょう。犯人像とマッチしなかったのは共犯だからで――」
「主犯はどうやって黒谷を操っている?」
さあ、と戸井田が苦笑した。
「家族を殺すと脅されているとか? それなら、解放されても警察に口を割らないでしょう。トラブルを起こした迷惑系ユーチューバーがネットで実家を晒され、母親を殺すと脅されたことがありましたよね? あの時、母親にだけは手を出さないでくれ、とユーチューバーは泣きながら訴えていました。簡単に他人を攻撃するけれど、自分や家族への攻撃には弱い。そんな連中ですよ。もっと単純に、奪った身代金を分ける約束をしていたとか……」
黒谷が共犯だとすれば、と麻衣子は空咳をした。
「主犯はBW996便の人質に紛れている? それとも外から指示を出しているの? 特殊詐欺のように台本を書き、黒谷は役割を演じているだけ? 黒谷が主犯に協力しているのは、自分のチャンネル収益とメキシコへの高飛びのため? 計画を立てた主犯のメリットは?」
わかりません、とだけ言って、戸井田が口を閉じた。遠野警視、と通路に出てきた桑山が声をかけた。
「防犯カメラのガムテープを剥がした、と機内の千丈さんからLINEがありました。中の様子がわかるかもしれません」
戻りましょう、と麻衣子は踵を返した。無言のまま、戸井田が後に続いた。
(つづく)
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