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交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第七回

交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第七回

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交渉人ハイジャック Flight7 手品


 時計の針が七時五十八分を指した。麻衣子はマイクを掴み、一ノ瀬さん、と呼びかけた。
「わたしの声がスピーカーを通じ、機内に流れていますね?」
 はい、と聡美が答えた。犯人に伝えます、と麻衣子は紙コップの水で唇を湿らせた。
「一階の乗客二百四十人が機を降り、全員の無事を確認しました。負傷者が一人いましたが、命に別条はありません。また、副操縦士一人とCA十五人も機から降りています。率直に言いますが、あなたの判断は正しかったと思います。あなたには理性があり、メリットとデメリットを検討する正常な思考力を備えています。いわゆる粗暴犯ではないと証明したことになり、今後も互いのメリットのため、合理的な話し合いができると考えています」
 パッセンジャーコールは鳴らなかった。同意したということですね、と麻衣子は紙コップの水を飲んだ。
「可能な限り、あなたの要求に従うつもりがあります。それは理解していますね? 今も札幌の全金融機関が身代金調達のために動き、道警本部は安全に現金を輸送するため、最善を尽くしています。はっきり言いますが、すべての人質が解放されるなら四百五十九億円どころか一千億円支払っても構わない、それが警察及び政府の見解です。人命は地球より重い、そうは思いませんか?」
 遠野さん、と聡美が囁いた。
『犯人に動きはありません。どうすれば……』
 答えなくても構いません、と麻衣子は呼びかけを続けた。
「今はわたしが話す番です……あなたはBW996便をハイジャックしましたが、その目的は身代金ですね? つまり、テロリストではない……警察も政府もテロリストとは交渉しませんが、ハイジャック犯が相手なら話は別です。そこでわたしから提案があります。繰り返しになりますが、わたしが単独で人質になります。残った人質二百三人を解放してください」
 原がしかめ面になったが、あなたにとってメリットのある提案です、と麻衣子はマイクに口を寄せた。
「何度でも言いますが、人質の管理はハイジャック犯にとって厄介な問題です。あなたに共犯がいても、その人数は限られます。警察は乗客名簿を持っていますから、乗客同士の関係性を調べるのは容易です。上限は五人、おそらくはもっと少ないでしょう。二、三人では? 乗客はわたしの話を聞いています。全員が立ち上がれば、簡単に制圧できるんです。二百人を相手に勝ち目があると?」
 パッセンジャーコールが鳴り、しつこいな、と聡美が言った。
『遠野さん、コントローラーにメッセージが入りました。続きを読みます……機内でパニックを起こす気か? 誰がハイジャック犯か特定できないんだぞ? 乗客を扇動して、殺し合いをさせたいのか? 何があってもあんたの責任だからな』
 人質の心理を想像してください、と麻衣子はマイクを握り直した。
「恐怖、不安、焦り……誰もが追い詰められています。小さなアクシデントでも、彼らの心は爆発するでしょう。旅客機の座席はスペースが狭く、閉塞感が強いはずです。一人が暴力に訴えれば、一瞬で全員に伝播します。あなたも巻き込まれ、大ケガを負うか、最悪の場合、死ぬ可能性も否定できません。何のためのハイジャックですか? 集団心理の恐ろしさは、誰にも制御できない点にあります。アドレナリンが廻れば、女性や老人でも牙を剥くでしょう。わたしはあなたを救いたい。今のうちに人質を解放するべきです」
 ふざけるな、と聡美がメッセージを読み上げた。
『乗客全員を解放して人質が警察だけになったら、お前らはSATや機動捜査隊員を送り込む。人質の盾なんかないも同然、逮捕されて終わりだ。あんたは口が巧い。それは認めるが、簡単に騙されると思っているなら大間違いだ。人質は解放しない』
 あなたには優れた判断力があります、と麻衣子は声を低くした。相手を集中させるためのテクニックだ。
「冷静に考えてください。二百人も人質が必要ですか? 持て余すだけだ、とわかっていますね? 不確定要素を抱えている限り、あなたは簡単に動けません。それでもハイジャックに成功すると? 時間をかけて、あなたはハイジャックの計画を立てたはずです。アクシデントへの対応策もあるでしょう。でも、小さなミスひとつで、すべてが失敗に終わります。忠告しますが、人質の解放こそがあなたを救う唯一の手段なんです」
 遠野、と原が麻衣子の腕を掴んだ。
「いいかげんにしろ。犯人を救う? 何を言い出すかと思えば……どうかしてるんじゃないか?」
 麻衣子は原の腕を振り払った。パッセンジャーコールは鳴らない。
 遠野さん、と囁く聡美の声が聞こえた。
『犯人からメッセージはありません。怒ったのでは?』
 大丈夫です、と麻衣子は笑みを浮かべた。
「こんなことで怒ったりはしません。自分のメリットを考えているんです……今、夜の八時過ぎです。十分以内の回答を求めます」
 マイクをオフにして、麻衣子は大きく息を吸い込んだ。勘弁してくれ、と原が頭を抱えた。
「勝手なことばかり言いやがって……あんたが人質になっても、私は乗客を解放しない。わかりきった話じゃないか。殺されたらどうする? 警察庁に言い訳は通じない。道警本部長の更迭どころか、全幹部がクビになるぞ」
 北海道警には優秀な捜査官が揃っていると聞いています、と麻衣子は原を見つめた。
「わたしが殺される前に、犯人を逮捕してください。警察官が人質になった例はいくらでもあります。ハイジャック事件では人質救出が最優先事項となり、市民の安全を守るのが警察官の務めです。何か問題がありますか?」
 問題しかない、と原が吐き捨てた。
「あんたの話を機内の人質全員が聞いている。アイマスクこそしているが、手足を拘束されているわけじゃない。彼らを煽ってどうする? 全員が犯人に襲いかかったら? 誰もが怯え、まともな精神状態じゃない。犯人を殺してもおかしくないんだ」
 人質が怯えているのは確かです、と麻衣子は首を振った。
「でも、そこまで追い詰められてはいないでしょう。犯人が誰かわかっていないのに、襲うも何もありません。犯人が恐れているのは人質の決起などのアクシデントで、リスクを避けるには人質を解放するしかないんです」
 人質が盾になる、と原が耳の穴に小指を突っ込んだ。
「奴はそう言っていた。その通りだよ。人質がいる限り、俺たちは手を出せない。解放するわけが――」
 ブザーの音がした。コックピットの専用回線からの連絡だ。
 話します、と腰を浮かせた麻衣子を原が手で制した。
「犯人との交渉はあんたの役目だが、機長と話すのは俺だ。引っ込んでろ」
 スピーカーに切り替えろ、と原が命じると、屋代です、と緊張した声が捜査本部に響いた。

 何を考えてる、と屋代はコックピット内で怒鳴った。機長、と隣の席の野沢が腕を押さえた。
「冷静になりましょう。大声を出しても――」
 冗談じゃない、と屋代は操縦桿を平手で叩いた。
「原警視、交渉の様子はコックピットでも聞こえる。女刑事は何を考えてるんだ? 犯人を挑発してどうなる? 奴らが乗客に危害を加えたら、警察の責任だぞ!」
 遠野警視は警視庁の交渉人です、と原が呻き声を上げた。
『責任を取るのは警視庁ですよ。道警にケツを拭く義理はありません』
 ふざけるな、と屋代は吐き捨てた。
「捜査本部の指揮官は君だろ? 交渉人も君の指揮下にいる。道警だ、警視庁だ、そんなことは私たちに関係ない。すぐ止めさせろ!」
 私だって外したいですよ、と原が唸った。
『しかし、犯人との交渉は彼女の担当なんです。道警本部から強い命令が……』
 頼む、と屋代は操縦桿に顔を押し付けた。
「もう我々は限界だ。コックピットを死守しろ、ロックをかけて誰も入れるな、君たちはそれしか言わない。保安上必要な措置だとわかっているが、犯人が機内の防犯カメラを塞いだから、我々には何も見えない。どれだけ不安か、わからないだろう?」
『それは……』
「ハコナンに降りたのは十三時四十分、既に六時間以上経っている。身代金を渡せば、犯人は人質を解放する。私と野沢くんの二人で、犯人が指示する場所まで飛ぶさ。何もわからないより、その方がよほどましだ。もう終わらせたい。頭がおかしくなりそうだ!」
『もう少し我慢してください。ハコナンに四百五十九億円の現金が届くのは十時前後です。それまでは耐えてもらわないと……』
 急がせろ、と屋代は喚いた。落ち着いてください、と横から野沢が言ったが、自制心を失いかけている屋代は喚き続けるしかなかった。
「本当に金を用意しているんだろうな? 函館は北海道で札幌、旭川に次ぐ規模の町だぞ。全金融機関を当たれば、それぐらいの金は用意できるはずだ。妙なことを考えているんじゃ――」
『右から左へ動かせる額ではありません。函館市内の金融機関に当たりましたが、いずれも不可能と回答があっただけで、やむを得ず札幌に協力要請したんです……機長、お辛い立場はわかります。しかしあなたが冷静さを欠けば、何が起きるかわかりません。我々は全力を尽くしています。信じてください』
 君に何がわかるっていうんだ、と屋代は頬を伝う涙を拭った。
「日本で最後にハイジャックが起きたのは一九九九年だ。あれから二十五年経っている。マニュアルこそあるが、実際にハイジャックを経験した者はいない。犯人が何をするか、見当もつかない。サリンが本物だったらどうする? 我々も含め、機内には二百三人の人質がいるんだぞ?」
 サリンは脅しです、と原が抑えた声で言った。
『個人で製造できる代物じゃありません。宗教団体の信者を装っていますが、目的は身代金ですよ。人質を殺しても金は手に入りません。そこまで馬鹿じゃないでしょう』
 どれだけプレッシャーがかかっているか、と屋代は呻いた。吐き気が強くなっていた。
「誰にもわからんさ。私には責任がある。乗客を守る責任だ。犯人が一階の乗客に暴行を加えた、とCAから報告があった。骨折するほど殴打され、トイレは血の海だったと……お年寄りや子供の乗客もいる。警察が彼らを守ってくれるのか? 頼むからさっさと犯人に身代金を渡せ。乗客を解放するんだ。もう耐えられない」
 深呼吸を、と原が囁いた。
『屋代機長、戦っているのはあなただけじゃありません。我々がいます。冷静になってください』
 無理だよ、と屋代は両手で顔を覆った。
「こんなことになるなんて……ハコナンに金が届くのは十時だな? いいか、変な策を弄するな。犯人を罠にかけるとか、そんなことは止めろ。金を渡せば、犯人は人質を解放する。それでいいじゃないか!」 
『警察は二百人の乗客、機長と副機長、そしてチーフCAの安全を守るため、最大限の努力をしています。信じてください』
「信じている。だが……」
 我々が不安に思っているのは、と原が言った。
『犯人によるコックピットの占拠です。被害の拡大を防ぐため、コックピットを死守してください』
 してるじゃないか、と屋代は手のひらで顔を拭った。指の間から汗が滴り落ちた。
「これ以上どうしろと?」
 もう限界なんだ、と屋代は叫んだ。狭いコックピットに悲鳴が何度も反響し、マイクを掴んだ野沢が話し始めたが、屋代には何も聞こえなかった。

 まずいな、と無線をオフにした原が顔をしかめた。
「屋代機長はパニクっている。副操縦士と話したが、彼の方がよほど落ち着いていた……ベストウイング航空の航空部長によると、屋代はベテランで操縦技術は優秀だが、プレッシャーに弱いタイプのようだ。このままだと、コックピットを飛び出しかねない」
 説得してください、と麻衣子は原に顔を寄せた。
「わたしは犯人、原警視は機長。役割を分担すると言ったのはあなたですよ?」
 犯人の方が理性的だ、と原が低い天井を見上げた。
「機長の説得は難しい。代わってくれ……冗談だよ。いいか、犯人との交渉が決裂すると判断したら、あんたが何と言おうと強行突入を命じるからな。文句は言わせん」
 二人の視線がぶつかった。原警視、と戸井田が間に入った。
「成宮さんと二階の人質をチェックしました。不審な乗客がいます」
「誰だ?」
 原が顔を向けると、黒谷浩之、と成宮が名前を言った。
「二階ビジネスクラス10-Aの乗客です。二十九歳、私立白山大学法学部中退、職業は不定と言うか……ブラックエンダーというYouTubeチャンネルの運営者で、いわゆる迷惑系ユーチューバーと自称しています。私人逮捕などで名前を売り、その映像が民放のニュース番組で取り上げられたので、自分も名前は聞いたことがあります」
「嫌な感じしかしないな……それで?」
「一時はチャンネル登録者が四十万人を超えるほどの人気を誇りましたが、無茶が過ぎたのか、民事訴訟を起こされ、一年半前にチャンネルはBANされました。すぐに新たなチャンネルを立ち上げましたが、イメージが悪かったためか、登録者数は七千ほどに留まり、再生数も伸びていません。三カ月前には、黒谷に金をだまし取られた男性が警察に被害届を出しています」
 詐欺容疑です、と戸井田が補足した。
「警視庁二課が動き、黒谷を任意で事情聴取したそうです。容疑が固まっていないので逮捕状は出ていませんが、時間の問題だと長谷部一課長から連絡がありました。メキシコ行きの目的は高飛びでしょう」
 遠野警視のプロファイリングによれば、と成宮がタブレットに目を走らせた。
「犯人の年齢は二十九歳から三十三歳で、黒谷は条件に合います。また、高校の同級生に確認しましたが、黒谷は運動神経が鈍く、しょっちゅうからかわれていたようです。それもプロファイリング通りですね。ユーチューバーですから、パソコンはもちろん、各種機材の取り扱いに慣れていたでしょう。BW996便のコントローラーやStSについても、知識があったのでは?」
 プロファイリングに頼る必要はない、と原が鼻を鳴らした。
「犯人は男に決まっている。年齢も二十代から三十代と想像がつく。徹底的にBW996便のシステムを調べているが、オタクのやりそうなことだ。大ざっぱに言えば、そういう連中はスポーツが苦手だ」
 偏見が過ぎます、と苦笑した戸井田に、プロファイリングも同じだ、と原がデスクに肘を突いた。
「傾向こそ示せるが、断定はできない。俺も黒谷は怪しいと思うが、疑問がないわけじゃない」
「疑問? 何です?」
 犯人はエコノミークラス十二列より後ろの乗客だ、と原が背後を親指で差した。
「後方から足音がした、と千丈が話してただろ? 忘れたのか?」
 推測になるので触れないつもりでしたが、と麻衣子は口を開いた。
「千丈さんより前の座席の乗客でも、犯人になり得ます。人質になった乗客はアイマスクを装着しているので、何も見えません。犯人が席を離れてもわからないんです。黒谷が犯人と決めつけるつもりはありません。ただ、犯人がCAの柳沢さんの席からコントローラーを外し、それを自分の席に持ち帰ったのは確かです」
「そうだな」
「千丈さんより前の座席に座っていても、通路を歩いてエコノミークラスの最後尾に回り、もうひとつの通路を進んで柳沢さんの席に近づけます。千丈さんが聞いた後方からの足音は、それだったのかもしれません」
「なぜ、最短コースを取らなかった? 大回りした理由は?」
 原の問いに、撹乱です、と麻衣子は答えた。
「わたしが犯人なら、自分の座席を特定されたくないと考えます。アイマスクで視界を奪われても、音は聞こえるでしょう。犯人は自分の席から離れ、通路を歩く際、わざと足音を立てた……それがわたしの推測です。ビジネス、エコノミー、すべての座席の乗客が足音を聞いたと証言したら、犯人の特定は困難になります。狙いはそれでしょう」
 なるほどな、と原がほおづえを突いた。黒谷に不審な点があるのは同意見です、と麻衣子はうなずいた。
「身代金として四百五十九億円を要求していますが、過去のハイジャックでも最大の金額でしょう。一億円ずつ袋に詰めろと犯人は命じていますが、その重量は約十キロです。空港作業員に機内への搬入を命じるかもしれませんが、警察官が変装できるとおっしゃってましたね」
 その通りだ、と原が唸った。
「十キロの袋が四百五十九個ある。人手がなけりゃ、機内への搬入は無理だ」
 本当の狙いが身代金ではないとすれば、と成宮が声を潜めた。
「異常な要求の理由が説明できます。ハイジャックされた機内映像を自分のYouTubeチャンネルにアップすれば、登録者を一気に増やせるでしょう。撮影できるのは犯人だけで、完全な独占映像です。再生回数は数百万、それ以上かもしれません」
 映像はメキシコからでもアップできる、と原が憂鬱そうな表情で言った。
「YouTubeの収益の仕組みはよくわからんが、映像をいくつかに分けたり、黒谷本人が状況の解説をすれば、かなりの額になるんじゃないか? しかし、ハイジャックだぞ? 迷惑系ユーチューバーでも、そこまでするか?」
 黒谷が金に困っていたのは間違いありません、と成宮がメモ帳を開いた。
「刑事以外にも民事の名誉棄損と肖像権侵害で訴えられ、いずれも敗訴しています。請求された二百万円の賠償金も未払いです。今回、詐欺罪で逮捕されたら、確実に実刑判決が出ます。メキシコに逃げ、YouTubeの収益で暮らす……一石二鳥の計画のためにハイジャックを実行したのでは? 迷惑系ユーチューバーの多くは常識や倫理観が欠落しています。金のためなら、何でもするでしょう」
 ハイジャックは悪戯では済みません、と戸井田が首を捻った。
「私人逮捕やパパ活女子大生の本名暴露とは訳が違います。冗談のつもりだった、そんな言い訳は通りませんよ。損得がわかるなら、ハイジャックはしないと……」
 見境がつかなくなる連中はいくらでもいる、と原が頭をがりがりと掻いた。
「戸井田、闇バイトに応募する馬鹿が後を絶たないのは知ってるな? その場をしのぐことしか考えられず、強盗でも殺人でも何でもする。迷惑系ユーチューバーの思考回路も同じだろう。あんな連中は問答無用で逮捕すればいいんだ。一度痛い目を見ないと、現実はわからん……遠野、何か言いたそうだな」
 黒谷が犯人像と合致するのは確かです、と麻衣子は長い髪を払った。
「動機もあります。目的がチャンネル登録者数稼ぎなら、騒ぎが大きくなればなるほど好都合です。犯罪者引き渡し条約を結んでいないメキシコに逃げれば、逮捕も免れます。ですが……」
「何だ?」
 あまりにも短絡的過ぎませんか、と麻衣子は首を傾げた。
「身代金の要求、北朝鮮への亡命、宗教団体受刑者の釈放、いずれもフェイクで、実際にはハイジャックされたBW996便内での撮影、そしてYouTubeへの動画アップが目的かもしれません。ですが、いずれこの事件は過去のものとなります。チャンネル登録者や再生数が爆発的に増えるのは一時的な話で、ひと月も経てば見向きもされないでしょう。ハイリスクローリターンもいいところで、それがわからなかったとは思えません」
 黒谷が犯人だと断定しているわけじゃない、と原が苦笑した。
「だが、ハコナンにユーチューバーが押し寄せている、と広報の白岩課長も話していた。捜査妨害だと何度注意しても、空港の敷地外からの撮影は合法だとせせら笑うだけだと……黒谷の悪名は俺も聞いたことがある。再生数稼ぎのためなら、母親でも殺しかねない男だ。常識は通用しないと――」
 着信音が聞こえ、LINEが入りました、と成宮がスマホを掲げた。
「千丈さんです」
「何と言ってる?」
 原の問いに、通路を歩く犯人の後ろ姿を見たようです、と成宮がスマホをスワイプした。
「そのまま読みます……アイマスクをぎりぎりまで下げた/通路を大柄な男が速足で歩いていた/濃いグレーのスラックス/茶の革靴/太っているように見えた/40代ぐらいか……以上です。トイレからメッセージを送る、と末尾にあります」
 大丈夫なのか、と原がしかめ面になった。
「彼が前回LINEを送ってきたのは七時二十分頃だ。四十分ほどしか経っていないのに、またトイレか? 犯人に気づかれたらどうする?」
 そう言われても、と成宮が口をすぼめた。
「前回のLINEで、犯人と思われる人物はスニーカーを履いている、と千丈さんは書いていました。体格については触れていません。今回は違います。革靴を履いた四十代の大柄な男……かなり具体的です。最初のスニーカーの犯人とは別人でしょう。共犯がいる、と考えるべきです」
 簡単に結論は出せない、と原が首を振った。
「九十五年の全日空機ハイジャック事件で、犯人はズボンや靴を取り替えて共犯がいると装った。今回の犯人はそれを模倣したのかもしれん。一人と二人では大違いだ……機内の防犯カメラを潰されたのは痛い。カメラが生きていれば、犯人の動きがわかるんだが……レンズ部分にガムテープを貼っただけだな? 剥がせ、と千丈に伝えろ」
 千丈さんは会社員です、と麻衣子は乗客名簿のコピーにアンダーラインを引いた。
「ダイヤナムエージェンシー勤務、職種はマネージャー。同社の社長と話しましたが、千丈さんは度胸もあり、機転の利く性格だそうです。とはいえ、四十二歳のサラリーマンに過ぎません。既に犯人は何かを目撃した水口さんを襲い、鼻骨を折る怪我を負わせています。千丈さんに暴力をふるう可能性もあります。防犯カメラのガムテープを剥がせと命じるのは、あまりにも危険だと――」
 指示を出せ、と原が成宮に命じた。
「今すぐ、と言ってるわけじゃない。犯人に隙があれば、防犯カメラのガムテープを剥がせと指示するだけだ。千丈の席は12-A、防犯カメラはひとつ前の11-Aの窓の上で、手を伸ばせば届く」
 無責任過ぎますよ、と戸井田が腰を浮かせた。
「千丈さんに何かあったら、自己責任ですか?」
 千丈も人質の一人だ、と原が唇を真一文字に結んだ。
「一刻も早い解決を願っているだろう。そのためなら、何だってするさ。犯人の人数、座席、動きがわかれば、俺たちも手を打てる。お前に言われるまでもなく、危険なのはわかってる。警察の指示に従う義務はないし、最終的には千丈の判断次第だが、リスクは低い」
「なぜ、そんなことが言えるんですか?」
 戸井田の問いに、犯人の人数だ、と原が答えた。
「札幌の道警本部がBW996便の全乗客乗員の身元照会を終えた。今後、更に詳しく調べる必要があるが、近親者、友人関係、会社など勤務先の同僚をひと通り当たった。今のところ、特に疑わしい者はいない。遠野のプロファイリングに従えば、犯人は二十代か三十代の男性だ。該当する二階の乗客は三十八人、怪しいのは黒谷だけだ。共犯がいるとしても、一人か二人だろう。最大三人、その人数で二百人の人質を監視できると思うか?」
「難しいでしょう。しかし――」
 BW996便の二階通路は全長五十五メートル、と原が壁の座席表を指さした。
「座席数は二百。三人で監視しているなら、一人の担当は六十席から七十席だ。一秒ずつ見たとしても、全員の確認には一分以上かかる。派手に動けば別だが、ガムテープを剥がすだけなら、気づかれるとは思えん……戸井田、無責任だと言ったな? 千丈に何かあったら、その場で俺は辞表を出す。それでも無責任か?」
「千丈さんが殺されたら、辞めても責任は取れませんよ」
 どう思う、と原が視線を右に向けた。座りなさい、と麻衣子は戸井田に声をかけた。
「機内の情報が欲しい。喉から手が出るほどにね……原警視、安全だと確信した時のみ動くように、強く指示してください」
 念押ししておけ、と原が顎をしゃくると、成宮がスマホで短い文章を打った。
 不満げな顔のまま、戸井田が椅子に腰を下ろした。麻衣子は改めて乗客のリストを見つめた。

 膝の上に抱えていたウエストポーチのジッパーを開け、黒谷は隙間に右手を入れた。指先がGoProの起動ボタンに触れた。
(ハイジャック犯は馬鹿だ)
 スマホを回収し、通信手段を奪ったつもりだろうが、どうでもよかった。重要なのは機内の撮影だ。
 常にそうだが、黒谷はウエストポーチやショルダーバッグに盗撮用のGoProを仕込んでいた。すべてのバッグ類に小さな穴を開けているので、対象にレンズを向ければ撮影できる。
 黒谷のGoProは充電式で、連続使用時間は百五十分だ。電源をつけっ放しにすると、すぐバッテリーが切れる。
 警察の交渉人がCAを通じ、犯人と話していたが、その声が途切れた。電源をオフにするため、起動ボタンを長押しする。
 空いている左手でアイマスクを下に引っ張り、顔を伏せたまま辺りを見回したが、機内は静かだった。
(いいかげんにしろよ)
 胸の中で黒谷は毒づいた。BW996便がハコナンに降りて、七時間近い。
 もともと我慢強い性格ではない。ただ座っているのは退屈だし、犯人の命令に従うのも癪だった。
(犯人が映っていればいいんだが)
 何度か、通路を人が歩く気配を感じていた。その都度、GoProを向けたが、どこまで撮影できたかはわからない。
 何をしている、と耳元で男の低い声がした。同時に、喉の下に冷たい何かが当たった。
「アイマスクを上げろ」
 命令通り、黒谷はアイマスクの位置を戻した。感触で、喉に当たっているのがフォークだとわかった。
 すいません、と黒谷は僅かに頭を下げた。
「そんなつもりじゃなくて……目が痒くなって、掻こうとしただけなんです」
 喋るな、と男がフォークを強く押し当てた。凄まじい殺気に、頭の先から一気に垂れた汗が黒谷の頬を伝った。
 許してください、と黒谷は歯を食いしばった。
「ごめんなさい、ぼくは何もしていな――」
 両手を頭の後ろで組め、と男が命じた。言われた通りにすると、口に布切れが突っ込まれた。
 ペナルティだ、と男が黒谷の両手首を紐で縛り、首に太い結束バンドを回し、ヘッドレストに繋いだ。
身動きが取れないまま、アイマスクの下で黒谷はまばたきを繰り返した。他にできることはなかった。

 パッセンジャーコールの音が聞こえ、麻衣子は反射的に壁の時計を見た。午後八時五十五分になっていた。
 遠野さん、と聡美が震える声で言った。
『犯人からメッセージが入りました。そのまま読みます』
 どうぞ、と麻衣子はマイクを手元に引き寄せた。提案を検討した、と聡美が言った。
『……あんたを人質にしない、と我々は結論を出した。ただし機長、副操縦士、チーフCAを除き、人質として二百人の乗客が機内に残っている。あんたが言った通りで、そこまでの人数は不要だろう。半分の百人を解放する。代わりに条件がある。四百五十九億円の身代金を五百億円に増額しろ。我々も譲歩したんだ。文句はないな?』
 条件が変わりましたね、と麻衣子はマイクを握った。
「身代金の増額について、早急に検討しますが、収容の態勢は整っています。すぐにタラップ車が向かいます……事件発生から七時間半が経過しました。乗客の中には子供や高齢者がいます。彼らの体力的な限界は近いでしょう」
 そうだろうな、と聡美が答えた。ここに乗客名簿があります、と麻衣子はファイルをめくった。
「BW996便の二階には小学生以下の子供が三人、六十歳以上の方が四十八人、トータル五十一人います。彼らの優先的な解放を求めます。また、女性の乗客が九十七人います。体調を崩したり、疲労が激しい方もいるでしょう。百人を解放する、とあなたは約束しました。子供と高齢者の他に四十九人の枠がありますね? 体調不良を訴える女性を――」
 我々は男女差別をしない、と聡美が咳払いをした。
『すみません、遠野さん……犯人からのメッセージです……我々は男女差別をしない。人質の年齢も考慮しない。二十代も八十代も同じ命で、平等に扱う。それが我々のポリシーだ』
 ふざけるな、と乗り出した原がマイクを掴んだ。
「ポリシー? 何を言ってる? 子供やお年寄り、女性を優先するのが人としての筋だろう! そんなこともわからんのか! お前に情があるなら――」
 お前と話す気はない、と聡美が声を低くした。
『西部警察の時代じゃないんだ。乱暴な口を利く刑事は引っ込んでいろ。交渉人と話したい。聞いているのか?』
 代わりました、と麻衣子は原の手からマイクを奪い返した。横を向いたまま、原が腰を下ろした。
「今からタラップ車をBW996便につけます。ただし、秩序を保つ役割を担うCAはいません。我先にと乗客がパッセンジャータラップに殺到すれば、負傷者が出るでしょう。お互いに損だと思いませんか? 優先順位をつけるべきです。年齢や体調で線を引くのは、差別でも何でもありません。混乱を避けるための措置です」
 交渉人は警察の側に立ちません、と麻衣子は話を続けた。
「もちろん、あなたの味方でもありません。中立の立場で、どちらにとってもプラスになる提案をします。お子さん、お年寄りを解放した方が得だとわかっているはずです」
 ガキはともかく、と聡美が言った。声に涙が交じっていた。
『年寄りの年齢を一人ずつ確認しろと? できるわけないだろう。面倒だな……遠野さん、犯人が入力を続けています……いいだろう、あんたに選ばせてやる。1-Aから18-HまでをグループA、19-Aから30-HまでをグループBとする。どっちを選ぶ? ちなみに、グループAは百四人、Bは九十六人だ。我々はどっちでもいい。あんた次第だ』
 A、と原が宙で字を書いた。グループAにはビジネスクラスの乗客四十人が含まれる。その半数は六十歳以上だ。
 長時間同じ姿勢を取っていると、いわゆるエコノミークラス症候群の発症リスクが高くなる。その原因は静脈血の鬱滞、あるいは血液凝固で、高齢者ほど症状が出やすい。治療が遅れれば、死に至ることもある。
 グループAを、と麻衣子は言った。いいだろう、と聡美が囁いた。
『では、グループAを残し、グループBの九十六人を解放する。あんたの選択だ』
 逆です、と言いかけたが、麻衣子は口を閉じた。犯人は九十六人の人質の解放に同意した。ここで異を唱えれば、何が起きるかわからない。
 グループBの乗客にも高齢者は多い。エコノミークラス症候群のリスクは同じだ。今は犯人に従うしかない。
 遠野さん、と呼びかける聡美の声がした。
『またメッセージが届きました……九十六人の人質を解放するが、それはBW996便の座席が一列につき八席だからだ。エコノミー席十二列は九十六人で、そうするしかないのはわかるな? 我々は約束を守る。グループAの中にガキが三人いる。プラスして解放しよう』
 それでも九十九人です、と麻衣子は乗客名簿のファイルに目をやった。
「グループAに八十九歳の男性がいます。心臓に持病があり、ご家族も心配しています。機内で心臓発作を起こしたら、どうするつもりですか? あなたにとって重荷になるだけです。解放するべきだと――」
 メキシコへ観光に行くジイさんだ、と聡美が言った。
『体調が不安なら、長旅はしないだろう。もう一度言うが、我々は性別や年齢で区別をしない。もう一人は決めてあ――』
 聡美が不意に言葉を切った。一ノ瀬さん、と麻衣子は声を大きくした。
「どうしました?」
 遠野さん、と聡美がため息をついた。
『犯人は……最後の一人にわたしを指名しています。メッセージを読みます……チーフCAには面倒をかけた。様子を見ていたが、顔色が悪いな。あんたは我々と警察の通訳だ。ご苦労だったな。働きに免じて解放してやる……遠野さん、わたしは解放を拒否します。当機のチーフCAであるわたしには、お客様を守る義務があるんです』
 聡美の声が震えていた。隠し切れない怯えが声音の底にあった。
『遠野さん、CAにはプライドがあります。不測の事態が起きても、お客様を見捨てて逃げたりしません。わたしは最後まで機に残ります。わたしの代わりに、先ほど話していた高齢のお客様を解放してください』
 チーフCAの申し出を受けてください、と麻衣子はデスクを叩いた。
「構いませんね?」
 犯人からメッセージが入りました、と聡美が言った。
『ご立派だな、感動したよ。いいだろう、八十九歳のジイさんを外に出せ』
 九時十分です、と麻衣子は腕時計で時間を確認した。
「乗客の皆さん、聞いてください。三分後にタラップ車がターミナルビルを出ます。チーフCAの指示に従ってください。解放が決まった皆さんにお願いします。冷静な行動を心掛けてください。焦る必要はありません。ゆっくり、一歩ずつタラップを降りてください」
 機内に残る方々ですが、と麻衣子は小さく咳をした。
「不安だと思います。皆さんの辛いお気持ちはわかっているつもりです。皆さんの安全は警察が保証します。ベストウイング航空は犯人に身代金を支払い、警察も妨げるつもりはありません。必ず皆さんを無事に救出します。もう少しだけ時間をください。繰り返します、警察は皆さんの安全を保証し――」
 切れました、と桑山がスピーカーを指さした。原警視、と麻衣子は立ち上がった。
「すぐにタラップ車を出動させてください。百人の乗客が降りてきます。一人であれ複数であれ、犯人が二階にいるのは確かです。不審人物を目撃した乗客がいるかもしれません。ハコナンのターミナルビルに収容し、聞き取り調査を始めてください」
 言われるまでもない、と原が肩をすくめた。
「成宮、タラップ車を出せ……遠野、一階の乗客二百四十人、副操縦士、CA十五人、そして二階の乗客百人の解放が決まった。俺の予想より早い。礼を言うが、交渉による人質の解放は限界だ。後は俺に任せろ」
 いいかげんにしてください、と麻衣子は原を睨みつけた。
「交渉人はわたしです。犯人との交渉中に横から口を出すなんて、何を考えてるんですか? 交渉を妨害するなら、捜査本部から退出させます」
「あんたに何の権限がある?」
 交渉はまだ続いています、と麻衣子は首を振った。
「わたしが了解しなければ、強行突入はできません。邪魔をするなら排除します。交渉の余地はまだある、とわたしは判断しています」
 原が背中を向けた。沈黙が続いたが、遠野さん、と戸井田が口を開いた。
「BW996便に残った人質はビジネスクラスの四十人、エコノミークラスの十一列から十八列までの六十四人、そこから子供と八十九歳の男性を除いたトータル百人です。その中に犯人がいる……そうですね?」
 機内に残らないと指示ができない、と麻衣子はうなずいた。やはり黒谷ですか、と戸井田が眉を顰めた。
「あの男の座席はビジネスクラスの10-Aです。選ばせると言って、乗客をグループAとBに分けましたが、遠野さんがどちらを選んでも、グループAを残すつもりだったんでしょう。あれは手品師が使うテクニックです」
 何のことだ、と首を傾げた原に、手品師はあらかじめ種になるカードを決めています、と戸井田が説明を始めた。
「よくあるマジックですが、五十二枚のカードの中から一枚を選び、それを束に戻してシャッフルすると、カードがどこにあるかわからなくなりますね? でも、手品師は何らかの手段を用い、そのカードを知っています」
「種も仕掛けもあるってわけだ」
「後は簡単で、カードの束を二つに分け、どちらを選ぶかと尋ねます。選んだカードがどちらに入っていても、言葉のテクニックでと思い込ませます。犯人は意図的に自分がいるグループAを残したんです。主犯は黒谷で、共犯も残したでしょう。ブラックエンダーのチャンネル登録者を洗えば、黒谷と繋がりがある者が見つかるのでは?」
 まだ断定できない、と麻衣子は戸井田を制した。
「残った百人の中に、犯人像と合致する男性が十人以上いる。女性のハイジャック犯はめったにいないけど、ゼロとは言えない。黒谷に疑わしい点があるのはその通りよ。でも、容疑者どころか参考人として事情を聞くことさえできないレベル。いずれにしても、今重要なのは誰が犯人かじゃない。残った百人の救出を優先する。それを忘れないで」
 タラップ車が出ました、と成宮が報告した。麻衣子は窓の外に目をやった。強い雪が降る中、タラップ車が走っていた。

 まずいんじゃないかい、と大迫陽一おおさこよういちはダウンジャケットを着た坂内保ばんないたもつに声をかけた。函館科学大学を中退し、二人でYouTubeチャンネルを立ち上げたのは一年半前だ。
 メインは函館の観光案内で、簡単に収益が出ると思っていたが、動画を更新するたびに赤字が増え、アルバイトで補填する日々が続いていた。
 大丈夫っしょ、と振り返った坂内が懐中電灯を掲げた。
「そりゃ、ハイジャックだもん。お巡りはうるさいことを言うよ。ハコナンに近づくな、撮影するなってさ。だけど、函館中のラーメン屋をいくら紹介したって、再生数は伸びねえよ。ライバルも多いし、これ以上はどうにもならんって言ったのは陽ちゃんじゃないの。したら、やるしかないでしょうよ」
 友人からのLINEでハイジャックが起きたと知ったのは夕方だった。地元なので、二人ともハコナン周辺の地理に詳しい。
 やじ馬気分で、行ってみるかと誘ったのは大迫だが、撮影して動画をアップしようと機材を準備したのは坂内だ。
 観光案内のYouTubeには閉塞感が漂っていた。ハイジャックを生配信すれば登録者が増える。二人の頭にあるのはそれだけだった。
 道内のユーチューバーの正確な数を大迫は知らないが、九割以上が札幌に集中しているのは確かだ。函館を拠点にする者は数十人だろう。すぐに動けば、ライバルを出し抜ける。
 二人の共通の趣味はツーリングで、機動力がある。必要な機材をバイクに積み、ハコナンに向かった。
 空港周辺には凄まじい数の警察官が立ち、厳戒態勢を取っていた。だが土地勘がある二人は抜け道を知っていた。
 地方の小空港にありがちだが、周辺に住宅や工場が建ち並んでいる。旅館やカフェ、そして老人ホームもあった。
 高校の時、大迫はその老人ホームでバイトをしていた。敷地内にはパターゴルフのコースがある。
 照明はないので、日が沈むと誰もコースに出ない。そこを通っても、気づく者はいない。
 老人ホームとハコナンの間には雑木林が広がっている。パターゴルフのコースにバイクを停め、雑木林を百メートルほど突っ切ると、金網の柵があった。
 障害物はそれだけだ。ペンチで金網を切断し、ハコナンの敷地に足を踏み入れた。
 しばらく様子を見ていたが、周囲に警察官はいない。二人とも白いダウンジャケットを着ているので、降りしきる雪が姿を隠している。寒いな、と坂内は足踏みを繰り返した。
「陽ちゃん、どうする? もっと近づかないと撮影は無理っしょ」
 雪の隙間から、滑走路に停まっているBW996便の機体が見えた。距離は五百メートルほどだろう。
 ターミナルビル三階に設置された投光機から、スポットライトのような光がBW996便を照らしている。他に照明はなく、辺りは暗かった。
 見つかるとまずい、と大迫は左右に目を走らせた。
「小さくても空港は空港だもんな。その辺の家の庭に入るのとは訳が違う。下手すりゃテロリスト扱いされるぞ。ここから撮影した方がいいんじゃないの?」
 ここまで来て気の弱いことを言うな、と坂内が大迫の肩を叩いた。
「誰もこっちを見とらんし、気づかれるわけないでしょう。このままじゃどんなに頑張ったって、俺らのチャンネルはバズらんよ。地元のB級グルメ紹介には飽きた。一発当てりゃあ、後は何とかなるって。腹を決めろよ、転がり込んできたチャンスを見逃すんか?」
 前に出ようとした坂内の腕を大迫は掴んだ。
「待て、ターミナルビルから何か出てきた……ありゃあ、タラップ車だ。しばらく前に、二百四十人の人質が解放されたとか何とか、ニュースでやってたな。まだ二百人以上が機内に残っているそうだ。犯人がまた人質を解放したんじゃないか?」
「そうかもしれんね」
 こっちからだと撮影できん、と坂内が大迫の腕を引っ張った。
「BW996便から降りてくる犯人の顔を撮れば、誰だって俺らのチャンネルを見るさ。とんでもなくバズるぞ……右は管制塔で、警察官が大勢おるじゃろ。左から回り込んで、機体に近づけばいい」
 人質が降りるまで待とう、と大迫は地面に置いたリュックサックを取り上げた。
「警察や救急が出動するだろ? 混乱に紛れて近づくんだ」
 タラップ車がBW996便の手前で停まった。坂内が撮影用カメラの録画ボタンを押した。

 一ノ瀬さん、と麻衣子は呼びかけた。
「今、九時四十分です。BW996便から百人の乗客が降りた、と連絡がありました。大きな混乱はなかったそうです。あなたの勇気ある行動が乗客たちを冷静にしました。感謝しています」
 違います、と聡美が微笑む気配がした。
『CAとしての義務を果たしただけです。どの航空会社のCAでも、同じことをしたでしょう』
 犯人に伝えたいことがあります、と麻衣子は空咳をした。
「降りてきた百人の中に、負傷者はいません。あなたは約束を守り、乗客を解放しました。わたしたちの立場は同じです。協力して、事態の収拾を図りましょう」
 パッセンジャーコールが鳴った。我々は約束を守った、と聡美がメッセージを読み上げた。
『今度はそっちの番だ。夜十時までに身代金全額が札幌からハコナンに届く、とあんたは言った。残り時間は二十分だ。どうなってる?』
 現金輸送車がハコナンに向かっています、と麻衣子は答えた。
「わたしは約束を守りますし、嘘はつきません。あなたの指示に従い、四百五十九億円の現金を準備しました。ただ……外を見てください。雪の勢いが強くなっているのがわかりますか?」
 パッセンジャーコールは鳴らなかった。見ればわかる、という意味だろう。
「晴れていれば、もしくは昼間なら、予定通りの時間に現金輸送車が到着したはずです。でも今は夜で、地面も凍結しています。事故を防ぐため、運転も慎重にならざるを得ません。ハコナン到着は十時半前後になる、と連絡がありました。不可抗力で、誰の責任でもありません」
 パッセンジャーコールが鳴り、嘘をついたのか、と聡美が言った。
『我々を騙すつもりだな? 裏切りには罰で報いる。十時になっても現金輸送車が着かなければ、人質を殺す』
 ブラフ、と麻衣子はコピー用紙に文字を記し、原に渡した。
「あなたは人質を殺しません。それどころか、傷ひとつつけないでしょう。あなたの目的は身代金の略取です。これだけ大掛かりな計画を立て、実行に踏み切った者が粗暴犯の真似をするとは思えません」 
 わたしはあなたを信じています、と麻衣子はゆっくりと言った。
「悪天候その他さまざまな障害がありましたが、わたしは全力であなたとの約束を果たすべく努力を続けています。あなたが人質を傷つけない、と信じているからです。三十分遅れて、どんな不都合があるんです? いずれにしても、夜が明けるまでBW996便は離陸できません。成田や羽田とハコナンは違います。安全を保証できない飛行に許可は下りません」
『機長が優秀なら飛べる』
 技術的な問題ではありません、と麻衣子はデスクを叩いた。
「墜落のリスクがある限り、離陸はできないと言ってるんです。函館の市街地にBW996便が墜落すれば、甚大な被害が出ます。BW996便が大量のジェット燃料を搭載しているのは知っていますか? 大火災が起きたら、どうするんです?」
 返事はなかった。あなたも約束を破っています、と麻衣子は話を続けた。
「わたしたちは身代金の額を四百五十九億円と決めたはずです。にもかかわらず、あなたは新たに四十一億円の増額を命じました。約束にない条件を付け加える相手は信用できません」
 麻衣子は無線を切り、マイクから手を離した。何をしている、と原が怒鳴った。
「話はまだ途中だ。感情に流され、交渉を止めてどうする?」
 いえ、と麻衣子は首を振った。
「交渉が必要なのは犯人です。待っていれば必ず連絡が入ります」
 知ったようなことを言うな、と原が吐き捨てた。
「相手は犯罪者だぞ? 常識は通用しない。警視庁に問い合わせたが、大学で心理学を研究していたそうだな。だが、机上の学問なんて役に立たん。この状況は特殊で、異常ですらある。現場への臨場経験もろくにないキャリアに何がわかる?」
 何もわかりません、と麻衣子は肩をすくめた。
「ですが、交渉を担当した経験はあります。五分以内に、犯人は連絡を取ってきます。本当の意味での交渉はそこからがスタートです」
 まずいぞ、と原が頭を抱えた。
「成宮、道警に電話を入れろ。本部長と話す。交渉による解決は見込めない、強行突入で人質を救出する」 
 人質が百人以上残っています、と戸井田が原と成宮を交互に見た。
「強行突入は危険過ぎます。犯人の特定すらできていないんですよ? 下手に追い詰めれば、自棄になって周りの乗客を巻き込み、自殺する恐れもあります。そんな事態を避けるために、遠野警視は交渉を続けているんです」
 お前は黙ってろ、と原が唸り声を上げた。
「過去、国内で起きたハイジャックで、強行突入の経験があるのは北海道警だけだ。警視庁、大阪府警、その他SATが設置されている全国七つの都府県警とは違う。我々は定期的にハイジャック対策訓練を実施し、練度も高い。遠野は交渉を放棄した。残る手は強行突入しかない!」
 ハラコウさん、と成宮がスピーカーを指さした。
「音が聞こえます」
「音?」
 パッセンジャーコールです、と成宮が低い声で言った。
「犯人が呼びかけているんです。交渉は続いています……遠野警視、出てください」
 まだです、と麻衣子は腕を組んだ。もう一度、パッセンジャーコールが鳴った。

(つづく)

 

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