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交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第三回
五十嵐貴久
2024.12.27
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交渉人ハイジャック Flight 3 指示
1
マジかよ、と黒谷浩之はスマホを左右に向けた。窓の外に函館港の大地が広がっていた。
参ったね、と黒谷はスマホを操作した。画面に自分の顔がアップになった。
「ええと、どこまで喋ったっけ? 機材トラブルがどうのって、アナウンスがあったのは三十分ぐらい前かな? 俺が乗ってるBW996便がいきなり方向を変えたのはびっくりしたね。メキシコって暑い国を連想するだろ? ところが、外は雪が降っている。ここはどこかって? 北海道は函館で、とりあえず函南空港に降りるらしい。機材トラブルってのも曖昧な説明だけど、故障でもあったのかな?」
見る見るうちに機体が高度を下げ、滑走路が迫ってきた。鈍い衝撃と共に、機体が僅かに揺らいだが、パチパチ、と拍手代わりに黒谷は口を動かした。
「函南空港に無事到着しました。ええと、現在時刻は午後一時四十分。LCCだけど、パイロットの腕はなかなか優秀だな。さて、これからどうなるのか……ちょっとインタビューしてみよう」
黒谷はスマホを隣りの席に向けた。座っていた四十代くらいの女性が顔を背けたが、構わず質問を始めた。
「少しいいですか? ぼくのことは知ってますよね? 登録者数むにゃむにゃ万人、ブラックエンダーの黒谷です」
止めてください、と女性がスマホを手で押した。そう言わずに、と黒谷はたるんだ頬に笑みを浮かべた。
「チャンネル名は知らなくても、ニュースぐらい見てるでしょ? 痴漢サラリーマン撲滅のため、私人逮捕を敢行したのは話題になったんだけどなあ。そういうの興味ない人? じゃあ、不倫したアナウンサーの自宅に突撃したのは? 裏金議員の秘書のパソコンにアクセスして、内部文書を暴いたのは知ってるんじゃない?」
いいかげんにして、と女性が顔を強ばらせた。残念だな、と黒谷は肩をすくめた。
「インタビュー拒否か……まあ、仕方ない。肖像権の問題もあるし、ここは諦めましょう。じゃあ、CAに聞いてみるかな。すいませーん、CAさーん」
シートベルトを外した黒谷に、席にお戻りください、とCAが注意した。
「当機は函南空港に着陸しましたが、まだシートベルト着用のサインが消えていません。座席から離れないでください」
「固いこと言わないで、質問に答えろよ。あんた、ベストウイング航空のCAだろ? 質問に答える義務があるんじゃないか?」
高圧的に迫るのは、黒谷のいつものやり方だった。大声を出せば誰でも言うことを聞く。それがユーチューバーの常識だ。
「機材トラブルって、何があったんだ? それって、ベストウイング航空の責任だろ? 遅延したんだから、その分サービスしろよ。ぼくはビジネスクラスの客だぜ? チケット代も安くなかった。払い戻しはないのか?」
お静かにお願いします、とCAが迷惑そうに囁いた。
「機内での撮影は原則禁止です。ご存じですよね?」
やれやれ、と黒谷はスマホを胸ポケットにしまった。引き際は心得ていた。
黒谷の臑にはいくつもの傷がある。迷惑系ユーチューバーとして名前を売り、登録者数を増やしたが、それは同時にトラブルの種でもあった。
私立大学の法学部を中退した黒谷には法律の知識があり、法律にはブラックでもホワイトでもなく、グレーな部分があるとわかっていた。その網を潜るように、さまざまな形でライブ中継を始めたのは四年前だ。
好評だったのは私人逮捕で、一気にチャンネル再生数が伸びたが、毎日痴漢を見つけられるはずもない。不審な動きをしていたと言い掛かりをつけ、私人逮捕したものの、まったくの冤罪だったこともあった。
(あれは失敗だった)
電車内で男に飛びかかり、そのままホームに引きずり下ろす様子を友人に撮影させ、生配信したが、モザイクがかかっていない男の顔が映り、まずは民事の名誉棄損や肖像権の侵害で訴えられた。
ユーチューバーの辛いところは、視ている者のハードルが毎回上がることだ。刺激に飢えた馬鹿をつなぎ止めるため、危ない橋を何度も渡ってきた。
噂だけのネタを元に、芸能人の不倫を告発し、女子大生の売春の実態を暴いた。チャンネル登録者数を増やすにはインパクトが必要で、いじめ事件の主犯の高校生を実名で曝したこともあった。
生配信中に視聴者とチャットを繋ぎ、レイプされた、DVを受けた、そんな訴えを受け、ライブで電話をかけるのも黒谷の得意技だった。二股をかけていた大学生を一方的に責め立てた時は、罵倒すればするほどコメント欄が盛り上がった。
だが、そんなやり方がいつまでも通じるはずがない。一方的な訴えを元に、裏も取らないまま電凸していれば、いずれは刑事事件になる。
ライバルの迷惑系ユーチューバーが黒谷の詐欺行為を暴露したのが、大きなつまずきになった。それをきっかけに、被害者が警察に被害届を提出したのだ。
刑事の方で黒谷は二回起訴され、一回は示談、もう一回は執行猶予で逃げ切ったが、もう次はない。逮捕を免れるためネットカフェを転々として身を潜めたが、その間も黒谷は過激な動画の更新を続けていた。酒やギャンブルと同じで、YouTube依存症なのだろう。
ひと月半前、偶然会った大学の同期に相談すると、自首するしかないと忠告されたが、もうひとつ手があるのを黒谷は知っていた。海外に高飛びすればいい。
犯罪人引き渡し条約を日本と結んでいるのはアメリカと韓国だけだ。それ以外の国に逃げれば、日本の警察に逮捕権はない。
黒谷に迷いはなかった。最初はドバイへ行くつもりだったが、金がなければ暮らしていけない国だ。メキシコにいた高校時代のツレを頼ることにした。
見栄を張るのは悪い癖だ、と黒谷は分厚い唇を尖らせた。ビジネスクラスのチケットを購入し、それを自分のチャンネルで生配信した。ネタになったから、丸損ではない。
BW996便の機内でも、CAに止められるまで黒谷は撮影を続けていた。生配信はできないが、編集してメキシコから流すつもりだった。
メキシコでの生活をアップすれば、それもディープな情報になる。逮捕を免れ、収益が入るのだから、一石二鳥だ。
黒谷は再び胸ポケットから取り出したスマホで、CAを正面から映した。
「CAさーん、機材トラブルって何かの故障ってこと? いつになったらメキシコに向かうんですか?」
足早にCAがその場を離れた。黒谷はカメラを自分に向け、サービスは最低だ、と中指を立てた。
2
午後二時七分、麻衣子と戸井田が乗ったJAL637便が札幌の新千歳空港に到着した。予定より三分早かった。
長谷部が麻衣子と戸井田をファーストクラスに乗せたのは、降りる順番を早くするためだ。細かい雪が斜めに降っている。タラップを駆け降りた麻衣子を待っていたのは、北海道警のジャンパーを着た刑事だった。
「乗ってください」
道警の作田です、と名乗った刑事が停まっていた車に麻衣子と戸井田を誘導した。そのまま滑走路を二百メートルほど走り、待機していたヘリコプターの手前で止まった。
「乗ってください」
作田が同じ言葉を繰り返した。お先にどうぞ、と戸井田が麻衣子に手を差し出した。
「ヘリコプターに乗ったことがなくて……遠野さんは?」
わたしも、と麻衣子は狭い座席に乗り込んだ。戸井田が続き、外からドアを閉めた作田が離れていった。
ヘッドホンを、と操縦席の男が耳の辺りを手で叩いた。胸に近藤とプレートがあった。
函南空港まで十分ほどと聞きました、と麻衣子はヘッドホンを装着した。そんなところです、と近藤がレバーを操作すると、ふわりとヘリが浮き上がった。
「なまら寒いですが、勘弁してください……東京と通信が繋がっています」
雪を切り裂くように、ヘリが飛行を始めた。長谷部だ、とヘッドホンから低い声が響いた。
『ヘリに乗ったか?』
はい、と麻衣子は大声で答えた。声がローター音にかき消されそうだ。
BW996便は函南空港に着陸した、と長谷部が言った。
『一時三十分の予定だったが、別の機が遅延したと理由をつけて上空を旋回させ、十分ほど稼いだ……今のところ、乗客はハイジャックに気づいていない。機材トラブルのための臨時着陸だと思っているし、疑う理由はないからな。トラブルの原因を調べている、その間機内でお待ちください、と機長が指示した』
「そうですか」
『二時過ぎ、函館方面本部から動員された警察官約三百名が空港周辺と国道で警備態勢についた。まだ見えないだろうが、函南空港の敷地は一六四ヘクタールとそれなりに広い。だが周囲は金網で囲われているだけだ。その気になれば、誰でも入れる。それに備えるだけでも、人手がいるんだ』
「そうでしょうね」
ハコナンを発着予定の便はすべて欠航扱いにした、と長谷部が説明を続けた。
『十一時に到着した全日空便の乗客は空港を出ていたし、夕方五時に出発予定のLCC便は新千歳空港に振り替えた。乗客や見送り客のためにベストウイング航空が臨時バスを出したから、混乱はないだろう。不平不満は山ほど出ると思うがね』
当たり前でしょう、とつぶやいた戸井田を無視し、長谷部が説明を続けた。
『原警視は空港ターミナルビル三階のレセプションルームに捜査本部を置いた。一九九五年の全日空ハイジャック事件の前例にならったんだろう。管制塔には函館方面本部の機動捜査係が入った。札幌の道警本部から二百名が函南空港に向かっている。ハイジャック対策マニュアル通りだな』
「他には?」
『空港内の施設、喫茶店や土産物屋の従業員、清掃業者、貨物関係の業者、その他すべて空港から退出させた。コンピューターの故障を言い訳にしたと聞いたが、苦しいところだな……空港見学、送迎、何であれ一般人も同じだ。管制官など必要な者を除けば、空港にいるのは警察官だけと言っていい。これもまたマニュアル通りの措置だが、問題がある』
「マスコミですね?」
そうだ、と長谷部が舌打ちした。
『コンピューターが故障したから、旅客機の発着ができなくなった。そこまではいいが、空港関係者を追い出す理由にはならない。何があったのか、どうなってるって話になるさ。だが、原も詳しい事情は明かせない。箝口令を敷いたって、無駄なのはわかりきっている。もやもやを抱えたまま、約百人が空港を出たことになる』
「はい」
『昔ならともかく、今じゃ誰だってそれをつぶやく。ひとつふたつなら埋もれるが、十、二十となれば妙だと思う者が出てくる。函館も札幌もパトカーや白バイが走り回っている。函南空港で何かが起きてると勘づかないようなら、マスコミを名乗る資格はない。もう記者が動いているかもしれん。道警記者クラブもどこまで抑えられるか……』
BW996便の乗客ですが、と横から戸井田が言った。
「メキシコに向かっていたのに函南空港に降りた、と家族や友人にLINEやメールを送っているんじゃないですか? そっちから情報が漏れてもおかしくありません。先が思いやられますね。航空保安官が乗っていればよかったんですが……」
アメリカなどいくつかの国では、スカイマーシャル制度に基づき、警察官もしくは警備員がハイジャック防止のため旅客機に搭乗する。いずれも拳銃を携帯しているが、それが抑止力となっていた。
日本では航空保安官の存在を公表していないが、JALやANAが試験的な導入を始めたと麻衣子は聞いていた。ただし、LCCの航空会社は予算の関係で航空保安官の搭乗に消極的だ。BW996便に航空保安官は乗っていない。
新しい情報が入ればまた連絡する、と長谷部が通話を切った。五分ほど飛行が続き、あれがハコナンです、と近藤が親指を下に向けた。
「小さいっしょ? ローカルの空港なんて、どこもこんなもんですがね。そいでも、国際線が発着するんですよ。台湾とか香港に行く便です」
麻衣子は窓の外に目をやった。雪に紛れて、周囲に人家や工場が見えた。
屋上にヘリポートがあるんですが、と近藤が機首を下に向けた。
「そっちは函館方面本部のヘリが停まってるんで、空港の正面に着けます。その方が近いですしね」
横風が吹く中、ヘリがゆっくりと函南空港正面エントランス前の道路に着陸した。観光バスの乗り場があり、道幅が広い。数十人の制服警察官が列を作っていた。
ローターの回転で雪が舞った。警察官たちが数歩、後退した。
ヘッドホンとシートベルトを外した戸井田に続き、麻衣子はヘリを降りた。そこに二人の男が立っていた。どちらも目付きが悪かった。
年かさの男が背広の内ポケットから取り出した警察手帳を麻衣子に向けた。
「北海道警函館方面本部の成宮です。こっちは桑山巡査部長」
若い男が小さく頭を下げた。唇が青いのは寒さではなく、緊張のためだろう。
「警視庁の遠野警視ですね? そして戸井田警部補……お疲れっしょ。パトカーで函館方面本部へご案内します。加納県警本部長が待って――」
時間がありません、と麻衣子は首を振った。
「函南空港に捜査本部を設置した、と連絡がありました。一九九五年の全日空ハイジャック事件の際と同じく、三階のレセプションルームだと聞いています。捜査の指揮を執る原警視に会って、今後の方針を――」
そんなに焦らんでも、と成宮が鼻をこすった。
「ターミナルビルに入ると、右手に喫茶店があります。とりあえず、そこで休んではどうです?」
原警視と話します、と麻衣子は自動ドアの前に立った。目の前に階段とエレベーター、その横にラーメン屋の看板があった。
無言のまま、麻衣子は階段に足をかけた。待ってくださいよ、と成宮が前に回った。
「あんたねえ、警察には警察の筋ってもんがあるでしょうに……いくら警視庁の警視ちゅうても、人ん家に土足で上がるんはどうなんですかね? そりゃあ、あんたみたいなエリートの警視様にとっちゃ、自分たちじゃ力不足かもしれんけど、現場経験は自分らの方が長いんだし、ちっとはこっちの立場も考えてくれんと困りますよ」
土足で踏み込むつもりはありません、と麻衣子は言った。
「捜査本部の責任者は原警視で、函南空港は道警の管轄です。地元の事件は地元の警察が片をつける、それが警察の筋なのもわかっています。でも、よその家に来ているわけですから、まず家長に挨拶するのが常識では?」
「そりゃそうじゃけど……」
いずれは話すことになります、と麻衣子は階段を一段上がった。
「それなら、最初から顔を合わせて話した方がコミュニケーションも円滑になるでしょう。 わたしたちは捜査の邪魔をしに来たわけではありません。目的は捜査への協力です。ご理解ください」
麻衣子は成宮を見つめた。目を逸らした成宮が、桑山、と手招きした。
「警視庁の遠野警視と戸井田警部補が挨拶に行く、とハラコウさんに伝えてくれ。二人は俺が案内する」
桑山が大股で階段を上がって行った。麻衣子は辺りを見回し、戸井田と三階フロアに入った。左側に全日空のビジネスラウンジ、正面に土産物屋があった。
こっちです、と通路を右に進んだ成宮が足を止め、濃い茶の扉を押し開けた。窓際の席に、怒り肩の大男が背中を向けて座っていた。
3
二時二十分です、と聡美は小声で言った。わかってる、と屋代がコックピットの時計を指さした。
「ハコナンに着いてから四十分か……乗客の様子は?」
特に変わりません、と聡美は答えた。
「いつ離陸するのか、どんなトラブルが起きたのかとCAに尋ねるお客様はいますが、クレームとは言えません。ですが、一人が不満の声を上げれば、他のお客様もそれに追随するでしょう。ビジネス、エコノミー、いずれもアルコールやソフトドリンクのサービスを無制限にしていますが、それで納得するとは思えません。着陸してから十分おきに状況を伝えていますが、次は機長がアナウンスした方がいいのでは?」
そのつもりだ、と屋代がヘッドホンのマイクに触れた。
「二時半になったら、私から改めて機材トラブルについて説明する。結局は君と同じことを言うだけだが、これでも機長だから、それなりに納得するだろう。だが、限界はある。一時間……二時間経てば、なぜ停まっているんだ、離陸しないなら降ろせ、と乗客が騒ぎだす。それまでに警察が何とかしてくれればいいんだが……」
「捜査は進んでいるんですか?」
聡美の問いに、常時連絡を取り合っている、と隣りの席で野沢がヘッドホンを指でつついた。
「道警がハコナンのレセプションルームに捜査本部を設置したのは話しただろ? しばらく前、函館方面本部の警察官三百人が空港周辺の警備についた。札幌の道警本部からの応援も着く頃だ。ハコナンの発着便は新千歳に回したそうだ。捜査本部はBW996便の乗客のパスポートの照会を始め、防犯カメラの映像を調べるため、技術者がプロテクトを外す作業に入っている。ただ、どちらも時間がかかると連絡があった」
BW996便の防犯カメラは撮影した映像をブルートゥースでコックピットのモニターに飛ばすが、ウイルスの侵入やハッキングを防ぐため、強度の高いファイアウォールで守られている。プロテクトを外さないと、外部からモニターの確認はできない。
簡単に言えば、と野沢がモニターに触れた。
「ブルートゥースに割り込めば、警察も機内の映像を共有できる。ただ、プロテクトは時限式で、パスコードを入力しても、一定時間が過ぎるまで開かない」
「知っています」
「函館方面本部にはサイバー関連の専門家がいない。テレビ局の技術スタッフに協力を要請するわけにもいかないしな……道警の生活安全部から技術者が来たのは十分ほど前だ。しばらくは待つしかない」
「そうですか……他には?」
警察は空港施設従業員や輸送業者を外に出した、と屋代が言った。
「犯人がハコナンに爆弾を仕掛けるとか、共犯者がいるとか、そんなことも考えられるから、当然の措置だろう。ローカル空港とはいえ、それなりに大勢が働いている。情報統制のためにはやむを得ない。コンピューターが故障したため、と理由をつけたそうだ」
「コンピューターの故障? 無理がありませんか?」
そうでもない、と野沢が紙コップのコーヒーに口をつけた。
「令和だぞ? ハイジャックされたなんて、その方がよっぽど信じられない。おかしいと思う者はいるかもしれないが……」
野沢がため息をついた。楽観的過ぎる、と自分でもわかっているようだ。
いずれは当機がハイジャックされたと乗客も気づく、と屋代が手のひらを額に押し当てた。
「それを考えると気が重い……モニターを見ればわかるが、乗客の大半はスマホをいじっている。機内のWi-Fiは生きているし、メール、LINE、SNS、何だって外部と繋がる。ネットもチェックできるんだ」
「はい」
「ハコナンから追い出された、とつぶやく関係者がいたらどうなる? ハコナンの離着陸が禁じられた、BW996便は滑走路に停まったままだ、空港の周りに数百人の警察官がいる、そんな情報を組み合わせれば、ハイジャックが起きたと考える者がいても不思議じゃない」
まだニュースにはなっていません、と野沢が自分のスマホをスワイプした。
「とはいえ、おっしゃる通りです。時間が経てば、乗客が不平不満をつぶやくでしょう。機内と機外の声が重なったら、ハコナンで何かが起きている、とマスコミも勘づきますよ。ハコナンの周りには民家や工場もあります。敷地から細い道を挟んだ土地に家が建っているのは、機長も知ってますよね?」
「もちろんだ」
「普段と様子が違う、と住人がマスコミに連絡するかもしれません。いや、自分で写真を撮って、SNSにアップするかも……テレビ局や新聞社は裏が取れないと報道できませんが、一般人は憶測でも推測でも何でもありです。それを乗客が見たら――」
パニックが起きます、と聡美は声を低くした。コックピットの空気が固まった。
「お子様や高齢のお客様もいらっしゃいます。乗客が一斉に立ち上がり、ドアに殺到したら……間違いなく負傷者が出ます」
犯人を特定できたら、と屋代が顎に手をかけた。
「我々で取り押さえられるんじゃないか? 羽田空港の保安検査場のセキュリティチェックは厳重で、ナイフや凶器を機内に持ち込むことはできない。ボールペン一本でも人は殺せるが、現実には難しいだろう。うちの会社はパイロットに護身術講習を義務付けているから、全員に心得はあるんだ」
ナベちゃんと話したんですが、と野沢がコックピットの低い天井に目をやった。渡辺はクルーレストで待機している。
「犯人が二人、あるいはそれ以上だったらどうします? 当機は二階建です。誰かが一階にいる犯人を取り押さえている間に、二階の共犯者が隣りの乗客を人質に取るかもしれません。無茶な真似はするべきではないと思います」
しかし、と唇を噛んだ屋代に、気持ちはわかりますが、と聡美は言った。
「わたしは一階と二階の座席を回り、お客様全員の顔を見ました。でも、不審な様子の方はいませんでした。野沢さんや渡辺さんが負傷するリスクもあります。慎重に対処すべきでしょう」
警察は何をしてるんだ、と野沢が壁を叩いた。顔に濃い苛立ちの色が浮かんでいた。
「BW996便の乗客はすべて出国審査を受け、パスポートを提示している。さっさと身元を照会して、犯人を特定すればいい。そんなこともできないのか?」
問い合わせたが、と屋代が小さく息を吐いた。
「調査中、と回答があっただけだ。しばらく待とう」
もう一度確認してください、と野沢が息を荒くした。落ち着きましょう、と聡美はその背中に手を当てた。
4
警視庁の遠野警視と戸井田警部補です、と成宮が囁いた。ご苦労さん、と振り向いた大男が指先だけで敬礼した。
「北海道警函館方面本部の原だ。ずいぶん早かったな、まだ二時半だぞ? BW996便がハイジャックされたと道警に第一報が入ったのは十二時四十分だ。あんたら、羽田空港にいたのか? それにしたって、新千歳までは一時間半かかる。ハコナンまではヘリか?」
そうです、と麻衣子はうなずいた。
「東京コントロールからの通信を警察庁が受けたのは、道警と同じタイミングでした。ハイジャック発生時には情報共有の義務があります。警察庁から警視庁に交渉人の派遣命令が出て、離陸直前のJAL便に飛び乗りました」
警視庁から連絡があった、と原が太い腕を組んだ。
「犯人との交渉は遠野警視と戸井田警部補に一任せよとさ……驚いたね、警察は自治体警察だ。各都道府県に置かれた公安委員会が、それぞれの警察本部を管理している。誰でも知ってるように警視庁は別格扱いだが、それは東京の人口が多く、首都警察だからだ。BW996便はハコナンに停まっている。管轄は北海道警察本部で、警視庁の介入を了解しろと言われても困る」
「介入ではなく、協力です」
理由書が添付されていた、と原がデスクのコピー用紙を麻衣子に向けた。
「北海道警刑事部の特殊犯捜査係は形だけで、交渉人はいない。ハイジャック犯との交渉は交渉人のみが許可される……警察庁刑事局特殊事件捜査室の俵室長の名前でメールが来た。警察機構ってのはよくできてるよな。警察庁が道警本部に命令を出せば、その下の俺たち方面本部は従わなきゃならん。だがな、函館方面本部の機動捜査係は交渉人研修を受けている。ハコナンで事件が多いから、五年ほど前に道警本部が許可を出した」
「知りませんでした」
交渉人はいるんだ、と原が唇を歪めて笑った。
「あんたらの手を借りる必要はない。それに、まだハイジャックと決まったわけじゃない。ただの悪戯って可能性もある」
「はい」
交渉人ってのはもっと喋ると思っていたが、と原が組んでいた腕を解いた。
「あんたは口数が少ないな。必要なことしか言わんのか? とにかく、今のところは交渉も何もない。わざわざ東京からお越しいただいたが、ここにあんたの仕事はない。回れ右して帰ったらどうだ?」
そんな言い方はないでしょう、と戸井田が一歩前に出た。頬にうっすら赤みが差していた。
「管轄は違っても、同じ警察官ですよ。ハイジャックは重大犯罪で、一刻も早い解決が望まれます。函館方面本部に交渉人がいるにしても、協力を拒む理由にはなりません。違いますか?」
さすがは警視庁の警部補殿だ、と原が手を叩いた。
「若いくせに、一丁前の口を利くじゃないか。断りなしに警視に意見を言う警部補なんて、道警にはいない。言っておくが、ここの指揮官は俺だ。従えないと言うなら、今すぐ出て行け。それが嫌なら、隅っこに座ってろ」
表情を険しくした戸井田を制し、麻衣子は口を開いた。
「原警視の立場は理解できます。捜査本部の指揮官の判断に口を挟むつもりはありません」
わかれば結構、と原が奥のデスクに顎を向けた。
「あんたらの席はあそこだ。コーヒーでも何でもあるし、そのうち弁当も届く。ゆっくりくつろいでくれ」
ひとつだけ、と麻衣子は指を一本立てた。
「状況を確認させてください。わたしたちが把握しているのは、まず機内通路に紙片が落ちており、ハイジャックした、トイレを調べろと書いてあったことです。次にCAが機内のトイレで紙片を見つけ、航路を北朝鮮に向けろ、身代金四百五十九億円を用意しろ、機内の防犯カメラをガムテープで塞げ、と書かれていた。そうですね?」
「ああ」
「点滴パックを隠した者は機内にいると考えていいでしょう。パスポートによる身元照会は終わりましたか?」
偉そうな物言いだな、と原がデスクに肘をついた。
「まるで取り調べだ……言われなくても、パスポートは真っ先に調べたさ。乗員乗客はすべて羽田空港の保安検査場、出国審査場を通っている。今はFaceExpressを利用する者も多いが、パスポートを提示したのと同じだ。顔写真やパスポートナンバーも記録されている」
「はい」
BW996便の乗務員だが、と原が説明を続けた。
「機長と二名の副操縦士、チーフCAを含め十六人のCA、計十九人だ。そして乗客は百八十人。ほとんどは東京及び近県、要するに関東圏に現住所がある。該当する警察本部に情報を送り、裏取りを要請済みだ。調べるのは難しくない。一時間以内に全員のデータが揃うだろう」
「はい」
ベストウイング航空は、と原が鼻を鳴らした。
「離陸三時間前に清掃業者を入れ、機内をクリーニングしている。確認したが、紙片であれ何であれ、床に落ちていたら気づくと清掃業者は話していた。その後、十六人のCAが座席やトイレ、物入れをチェックしたが、不審物は見つかっていない。そうすると、乗客の誰かが紙片を床に置き捨てたことになる」
「はい」
「パスポートで身元を調べても、誰と特定はできない。紙片が落ちていたのは二階後部トイレの近くだが、その辺りに座っている者とは限らない。乗り込んだ際、混雑に紛れたり、トイレに行くふりをして紙片を床に落とせば、誰も気づかなかっただろう」
「BW996便にはテスト用の防犯カメラが設置されていると聞きました。映像で確認はできないんですか?」
麻衣子の質問に、ずいぶん詳しいな、と原が苦笑した。
「確かに、機内には防犯カメラがある。だが、あくまでテスト用で、撮影はしていたが録画はしていなかった。付け加えると、まだプロテクトの解除中で、俺たちも映像を見ていない。犯人と呼ぶが、犯人が点滴パックをトイレのペーパータオルボックスの下に隠したのは、離陸から二十分ないし三十分以内と考えていい。CAが最も忙しい時間帯で、誰がトイレに入ったのか、見ている者はいなかった」
「今後の捜査方針は?」
あんたは何もわかっちゃいない、と原が天井を仰いだ。
「一九九五年にハコナンで全日空ハイジャック事件が起きたが、詳しいことは知らんだろ? 犯人は借金まみれで首が回らなくなった休職中の銀行員で、数か月前に起きた新興宗教団体による地下鉄サリン事件を利用して身代金を奪おうとしたんだ」
直接は知りません、と麻衣子は言った。
「ですが、羽田から新千歳空港に向かう間に、警視庁から詳細な資料が送られてきたので、当時の状況はわかっているつもりです」
俺はその現場にいたんだ、と原がデスクを叩いた。
「ハイジャックされた旅客機への突入班の一員だった。今回の事件は模倣犯によるもので、悪戯目的か、本気でハイジャックする気か、どっちにしても手口はそっくりだし、先の展開も読める。犯人はサリンどころか凶器も持っていない。今後の捜査方針と言ったな? しばらくは様子を見るが、長引かせるつもりはない。パスポートを調べれば、不審な奴が浮かんでくる。後は機内に突入して逮捕するだけだ」
待ってください、と戸井田が原を睨みつけた。
「ぼくも模倣犯による犯行だと思いますが、三十年前の事件ですよ? 犯人には別の意図があるかもしれません。機内への突入に舵を切るのは早過ぎませんか? 警察庁の俵室長は交渉の優先を命じています。下手に動けば、犯人が何をするかわからないじゃないですか!」
原がしかめ面を横に向けた。しばらく沈黙が続いた。
「乗客の座席位置は?」
麻衣子の問いに、貼ってあります、と成宮が左側の壁を指さした。BW996便の略図がそこにあった。
ほとんどの座席に名前と年齢、そしてパスポートナンバーが記されていたが、二十席ほどは空欄だった。まだ確認が終わっていないようだ。
悪質な悪戯だよ、と原が頭の後ろで手を組んだ。
「だが、軽犯罪では済まんし、本気でハイジャックするつもりなら最低でも懲役七年、死者が出れば最悪死刑だ。何としてでも逮捕する……あんた、警察庁から警視庁に出向してるそうだな」
そうです、と麻衣子はうなずいた。キャリアならデスクに座ってろよ、と原が小さく笑った。
「現場に臨場したこともないんだろ? こいつは俺のヤマで、交渉人の出る幕はない。黙って待っていれば、日暮れまでに犯人を逮捕してやる。あんたの手柄にすればいい。遠野警視の力が大きかった、と上に報告するから心配するな」
交渉人は臨場しません、と戸井田が不快そうに言った。
「その必要がないからです。函館方面本部では交渉人研修をしている、と警視は話していましたが、本当ですか? 交渉人は表に出ませんし、自分の力で犯人を逮捕したと誇ることもありません。無用な犠牲を出すことなく、事件を解決に導く。そのために交渉人はいるんです」
能書きの長い奴だ、と原が呆れ顔を向けた。
「二階にビジネスラウンジがある。そっちで待ったらどうだ? 状況が変わったら知らせる。ここのパイプ椅子より、ラウンジのソファの方が寝心地がいいぞ」
冗談になっていません、と床を蹴った戸井田の腕を麻衣子は押さえた。
「今のところ、わたしたちの仕事はない……あそこのデスクで待った方がいい」
麻衣子はレセプションルームの奥に進み、パイプ椅子に腰を下ろした。いいんですか、と戸井田が向かいに座った。
「ぼくたちを派遣したのは警察庁ですよ? 函館方面本部どころか、道警本部より立場は上です。言われっ放しで引き下がらなくても……それに、あんな言い方はないでしょう。昔気質にもほどがありますよ」
まだ犯人から連絡がない、と麻衣子は囁いた。
「それでは交渉も何もない……原警視の言う通りよ。悪戯の可能性もある。しばらく様子を見るしかない」
固定電話、携帯電話の着信音が重なっている。絶え間無く動くコピー機の音、無線から聞こえる報告の声、捜査本部に出入りする者たちの足音。レセプションルームは喧噪に満ちていた。
5
赤ん坊の泣き声に、千丈は顔を上げた。数列後ろのエコノミー席で、若い母親がしきりに頭を下げていた。
ぼくに聞かれても困ります、と千丈は顔を伏せ、スマホの通話口を手で覆った。
「BW996便はほぼオンタイムで羽田を出ましたが、三、四十分前にLINEを送った通り、機材トラブルが起きて空港に降りるとアナウンスがあったんです。はっきりとは言いませんでしたが、故障じゃないかな? 今、直してるんだと思いますよ……社長、聞こえてますか? 降りたのは北海道の函南空港、ハコナンです」
ハコナンなら知ってる、と金本の低い声が聞こえた。
『あたしはね、若い時新国際プロダクションで演歌歌手のマネージャーをやってたの。日本全国、どこでも行ったわ。北海道は端から端まで廻った。函館に何回通ったか、自分でも覚えていない。札幌、小樽、函館は北海道の三大都市よ? 今朝まで、うちの若手アーティストがライブで廻ってた』
「サボテンシスターズでしょ? あの娘たちはどうして売れないんですかね? 華もあるのに――」
札幌のプロモーターから電話があった、と金本が遮るように言った。
『サボテンシスターズが乗ったJAL便の出発が遅れてる、ハコナンに着く予定だった旅客機が新千歳空港に回されたため、出発の順番待ちになってるって……その前に、ハコナンに降りるってあなたからLINEがあったでしょ? 気になって、詳しい状況を聞いてみたの』
「そんなにぼくを心配してくれるとは思ってませんでした。社長、一生ついていきますよ」
冗談言ってる場合じゃない、と金本がため息をついた。
『地元の人だから、プロモーターはハコナンに知り合いがいた。レストランの支配人よ。今日の午後一時以降、ハコナンの発着便は全便欠航になったと話していた』
「なぜです? 雪は降ってますけど、そこまで酷くはありませんよ?」
空港のコンピューターが故障したため、と金本が話を続けた。
『そんな断り書きがANAのホームページに載っていたのはあたしも見た。でも嘘だと支配人は言ってる』
「嘘? 何で航空会社が嘘をつくんです?」
『あなたの席から外は見える?』
千丈は窓に顔を近づけた。細かい雪が斜めに降り注いでいる。滑走路の端がかすかに見えた。
「まあ、何とか……奥に立ってるのは金網かな? ぼくの席からだと、ターミナルビルは反対側です。静かなもんですよ」
『他の飛行機は?』
「……見当たらないな。それがどうしたって言うんです?」
ハコナンは典型的な地方の空港よ、と金本が言った。
『周辺には民家や店舗、工場なんかも建ってる。金網が見えるって言ったわね? その周りを警察官が埋め尽くしているそうよ』
「警察官? コンピューターの故障って、どっかの国にハッキングされたとか、そんなことですか? それなら、厳戒態勢を取るのもわかりますが……」
『支配人を含め、レストランの従業員はターミナルビルを追い出された。彼らだけじゃなく、空港施設関係者、国内線の送迎客もよ? 展望デッキも立ち入り禁止になったって……ねえ、何があったの?』
「だから、ぼくに聞かれてもわかりませんよ。警察に問い合わせたらどうです?」
千丈は冗談のつもりだったが、電話してみた、と金本が声を更に低くした。
『函館方面本部の代表電話にかけたの。広報に回されて、その後は“ただ今電話が込み合っているので、おかけ直しください”、そんな自動音声が延々流れるだけだった。支配人の話だと、ハコナンの滑走路に停まっているのはあなたが乗っているBW996便以外にない。コンピューターの故障でもハッキングでも、乗客を降ろさないのはおかしい。危険だっていうなら、一刻も早く避難させるべきなのに、そんな動きもないんでしょう?』
「はい」
ネットを見たけど、と金本が舌打ちした。
『ニュースサイトには何も載っていなかった。でも、SNSは違う。函館に続く国道を何十台ものパトカーが走っていた、救急車のサイレンがうるさくて腹が立つ、消防車がハコナンに向かってる、そんな書き込みが幾つもあった。まさかとは思うけど……BW996便はハイジャックされたのかもしれない』
「そんなことあるわけ――」
あたしの悪い予感は当たるの、と金本が何かを叩く音がした。
『あなたも知ってるでしょ?』
悪い予感って、と千丈は苦笑した。
「それは社長の危機管理能力の表れです。いくら何でもハイジャックは飛躍し過ぎですよ。金目当てでそんな馬鹿なことをする奴はいません。政治犯が日本の旅客機を狙うなんて、考えられませんね。さっき、機材の点検が終わり次第メキシコへ向かうと機長がアナウンスしてましたよ」
ハイジャックされたなんて機長は言えないでしょ、と金本が言った。
『乗客の不安を煽って何になるのよ……そうね、きっとあたしの取り越し苦労なんでしょう。常識で考えれば、ハイジャックなんて起きるはずない。でも、ハコナンで何かが起きてるのは確かよ。あなたもネットを見ればわかる』
また連絡すると最後に言って、金本が通話を切った。千丈は窓から外を見た。雪の勢いが強くなっていた。
6
これを、と聡美は一枚の紙片を差し出した。指先が細かく震えていた。
機長の屋代が二つ折りの紙片を開き、乗客を席に着けろ、と読み上げた。
「指示に従う限り、乗客の安全を保証する……どこにあった?」
一階の後部トイレです、と聡美は答えた。
「一階を担当する畑中CAがダストボックスの底で見つけました」
「捜したんじゃなかったのか?」
捜したのは二時間前です、と聡美は言った。
「十二時五十分頃だったと思います。その時は何もありませんでしたが、念のためもう一度調べるように、とCAたちに指示しました。そうしたら、これが……」
どう思う、と屋代が視線を右にずらした。犯人でしょう、と野沢が憂鬱そうに言った。
「やはり、機内にいるようですね。そうでなければ、この紙片をトイレに隠せるはずがありません。悪戯であってほしいと思ってましたが、明らかにハイジャックです……一ノ瀬チーフ、一階の後部トイレに誰が入ったか、CAは見ていないのか?」
すみません、と聡美は顔を伏せた。
「わたしがもっと注意していれば……」
君の責任じゃない、と屋代が聡美の方を向いた。
「乗客への配慮で頭が一杯で、トイレを見ている余裕はなかっただろう……もう一度聞くが、君が一階と二階のトイレを調べた後、他のCAは入っていないんだな?」
「そう聞いています」
犯人が一階後部のトイレに入るには、と屋代がこめかみを指でつついた。
「通路を歩いたはずだ。野沢くん、防犯カメラに映っていないか?」
確認しますが、と野沢が首を捻った。
「録画を始めたのはハコナンに着いてからで、それ以前の映像は残っていません。カメラは死角が多く、特にトイレ周辺はプライバシーの問題もあって、人が映り込まないように設定しています。映像を調べてみますが、期待はできません」
乗客はシートベルトを装着していない、と屋代が外に目をやった。細かい雪が窓に当たり、落ちていった。
「じっと座っていろとは言えないからな。誰でも通路を歩き、トイレに入れた。ダストボックスの底に紙片を隠すのは子供だってできる……確実に言えるのは、犯人が一階にいるってことだ」
間違いありません、と聡美はうなずいた。
「二階のお客様が一階に降りたら、わたしたちもわかったはずです。ただ、一階のお客様は二百四十人います。その中から犯人を絞り込むのは難しいでしょう。もうひとつ、最初に例の点滴パックが見つかったのは二階のトイレです。共犯者が二階にいる可能性もあるのでは?」
可能性をひとつずつ潰そう、と屋代が言った。
「一ノ瀬くん、一階担当のCAを呼んでくれ。犯人を見ていなくても、何か気づいたかもしれない」
インカムを通じ、至急コックピットに来て、と聡美は一階のCAに伝えた。一分後、ドアをノックする音と、畑中です、と名乗る声がした。
暗証コードの入力を確認、と予備席に座っていた渡辺がロックを解除すると、畑中を先頭に狭い通路に四人のCAが立っていた。誰の表情も暗かった。
これを見つけたのは君だな、と屋代が紙片を見せた。そうです、と畑中が答えた。
「一ノ瀬チーフの指示で、改めて一階後部トイレを調べました。そうしたら、ダストボックスの底にこれが……」
犯人は一階の乗客だ、と屋代が床を指した。
「一ノ瀬くんがトイレで指示書を見つけたのは十二時五十分頃だが、それ以降、一階のトイレに入った乗客を見ていないか? 気づいたことは? 何でもいい、不審な様子の乗客とか……」
四人のCAが顔を見合わせ、そのまま目を伏せた。覚えていません、と畑中が肩を落とした。
やむを得ない、と屋代が空咳をした。
「犯人の指示に従い、乗客を席に戻そう。野沢くん、シートベルト着用のサインを出せ」
しかし、と言いかけた野沢に、それしかない、と屋代が首を振った。
「今から私はハコナンの捜査本部に連絡を入れ、犯人の新たな指示書が見つかり、乗客の離席を禁じられたと伝える。シートベルト着用のサインを出せば、乗客は席に着くだろう」
「そうですね」
「だが、BW996便が動かなければ、どうなってる、離陸しないのか、何があったと乗客が騒ぎだすのは目に見えている。勘のいい者なら、ハイジャックされたと気づくだろう。動揺する乗客が続出し、機内は混乱に陥る。君たちはそれを抑えてくれ」
屋代の視線を受け、四人のCAがうなずいた。二階のCAには君から説明しろ、と屋代が聡美に目を向けた。
「絶対にパニックを防ぐんだ。頼んだぞ」
任せてくださいと答え、聡美はコックピットを出た。こちらBW996便、と呼びかける屋代の声が後ろで聞こえた。
7
麻衣子は腕時計に目をやった。三時十五分になっていた。
作業が完了した、と管制塔でBW996便の防犯カメラのプロテクトを外していた技術者から連絡があったのは三十分ほど前だ。捜査本部に運び込まれた八台のモニターに機内の様子が映し出されたが、乗客の大半は席でスマホを見ていた。眠っている者、座席の画面で映画を観ている者もいた。
今のうちに展望デッキに行く、と麻衣子は向かいに座っている戸井田に声をかけた。
「ハコナンの全景を見ておきたい。あなたはここにいて、何かあったら知らせて」
わかりました、と戸井田がうなずいた。麻衣子はレセプションルームのドアを開け、通路に出た。
大きなガラス窓を挟んで、通路からでも外が一望できる。麻衣子はドアを開けて、展望デッキに出た。
滑走路にうっすらと雪が積もっていた。一機だけ停まっているBW996便の大きな機体がよく見えた。
しばれるっしょ、と背後から声がかかった。成宮が立っていた。
「東京は十二度、とニュースでやっていました。函館は二・二度、寒さの質が違います」
寒いですね、と麻衣子は黒いロングダウンのポケットに手を突っ込んだ。空港は奇妙なほど静かだった。
遠野さんは痩せっぽっちだもんね、と成宮が手をこすり合わせた。
「東京の警視ったら、モデルみたいじゃないの、とみんなで話してたんですよ。空港も人が多けりゃちょっとはぬくいけど、今は誰もいないもんねえ」
成宮には監視のつもりがあるのだろう。函館弁で話しているのは警戒心を解くためだ、と麻衣子も察しがついた。
滑走路に停まっている旅客機はBW996便だけだ。すぐ真下に、乗客の荷物を運ぶカーゴ車が数台並んでいた。
成宮がちらちらと視線を向けている。余計なことはするな、と顔に書いてあった。
「遠野警視!」
レセプションルームのドアが音を立てて開き、戸井田が飛び出してきた。
「BW996便の機長から連絡が入っています!」
麻衣子は速足で通路に戻った。開いたままのドアからレセプションルームに入ると、原の周りに数人の刑事が立っているのが見えた。
たった今です、と戸井田が麻衣子の耳元で囁いた。
「機長によると、CAが一階の後部トイレで犯人のメモを見つけたそうです。乗客を席に着けろと書いてあったと……」
設置されたスピーカーから、屋代の低い声が流れていた。
『……トイレに入った者をCAは見ていません。ただ、状況を考えると、犯人が一階にもいるのは確かだと思われます』
そのようです、と原が唸り声を上げた。犯人の指示に従わざるを得ません、と屋代が上ずった声で言った。
『この後、シートベルト着用のサインを出します。しかし、機が停まったままでは、なぜ離陸しないのかと乗客が騒ぐでしょう。パニックを防ぐには、私からBW996便がハイジャックされたと説明した方がいいと思うんですが……』
刑事たちが目配せを交わしたが、原は誰のことも見ようとしなかった。捜査本部が置かれるレベルの重大事件が発生すると、上部機関に当たる警察本部から理事官が派遣され、捜査方針を検討するが、原の周りに幕僚スタッフはいない。
わざとでしょう、と戸井田がまばたきをした。
「準キャリアと言っても、原警視は叩き上げの刑事です。誰よりも現場を踏んでいる自負もあるはずで、キャリアの理事官に何がわかる、と腹の中では思ってるんじゃないですか?」
そこまで頑ななら警視に昇進できない、と麻衣子は言った。
「彼が幕僚スタッフを置かないのは、ハイジャックが特殊な犯罪だからよ。事件は現在進行形で起きている。状況によっては、一秒で決断を迫られる。船頭が何人もいたら、船は進まない」
了解しました、と原が重い声で答えた。
「身代金目当てなのか、北朝鮮への亡命を目的とした政治犯か、そこはまだ不明ですが、悪戯目的の愉快犯ではないようです。乗客を席に戻した上で、ハイジャックについて説明してください。BW996便がハコナンに降りてから、二時間近く経過しています。こちらにも報告が入っていますが、SNSを通じ、函南空港の様子がおかしい、とつぶやく者が増えているので、乗客に正確に情報を伝えた方がいいでしょう」
『乗客のほとんどがスマホを見ている、とCAが話していました。何か変だ、と気づいた者もいるようです……私が怖いのはデマです。狭い機内でデマが広がれば、何が起きるかわかりません。私から乗客に冷静な対応を呼びかけます』
万全の措置をお願いします、と原が頭を下げた。最善を尽くします、と屋代がうなずく気配がした。
『パイロット、そしてCAは半年ごとにハイジャック講習を受けています。乗客の混乱は想定済みで、二人の副操縦士、十六人のCAで対応できるでしょう』
今、三時二十分です、と原が時間を確かめた。
「五分後、三時二十五分にアナウンスを始めてください。伝達済みですが、我々はBW996便の防犯カメラにアクセスし、機内をモニタリングしています。まだ乗客は落ち着いていますね?」
『はい』
あなたがアナウンスすれば、と原が言った。
「怯えて泣き叫ぶ乗客もいるでしょう。むしろ、それが普通の反応です。犯人も芝居を打つかもしれませんが、我々はプロです。不審者は見逃しません」
『犯人を特定できたら、自分たちが取り押さえる手もあると――』
許可できない、と原が唇を強く噛んだ。
「巧妙に偽装した凶器を機内に持ち込んでいるかもしれません。複数犯の可能性もあります。機長以下クルーはもちろんですが、乗客が負傷したらどうするんです?」
『しかし……』
サリンはブラフです、と原がデスクを叩いた。
「断言しても構いませんが、トイレで発見された点滴パックの中身は水でしょう。単独犯で、凶器を所持していないと確認できたら、我々が逮捕に向かいます。あなたたちは乗客を守ってください」
逮捕、と屋代がつぶやいた。声がかすかに震えていた。
『まさか……強硬突入するつもりですか? しかし、BW996便の搭乗扉は機体前方にあり、高さは五メートルです。扉を開閉すれば音がしますし、犯人も気づくでしょう。強引に突入すれば、かえって乗客を危険に晒すと――』
備えあれば憂いなしです、と原が乾いた笑い声を上げた。
「無茶な真似はしません。繰り返しになりますが、我々は防犯カメラで機内を見ています。不審な動きをする者がいれば必ずわかりますし、監視を続ければ単独犯か複数犯か、それも確認できます。すべては状況次第ですが、臨機応変に対処します。安心してください」
『はい』
「ただ、乗客の人数が多いので、想定外の事態が発生する恐れがあります。早期解決のためには強硬突入も選択肢のひとつになるんです。いいですか、あなたは一人で戦っているわけじゃありません。我々がついています。必ず、乗客乗員四百五十九名を無事に救出します。信じてください」
『わかりました』
無線はこのままで、と原が命じた。了解、と屋代が答えた。
麻衣子はモニターを見つめた。乗客のほとんどが退屈そうにスマホをいじっている。機内に変化はなかった。
(続く)
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