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交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第六回

交渉人・遠野麻衣子 ハイジャック 第六回

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交渉人ハイジャック  Flight6 プロファイリング

 午後六時二十五分、ターミナルビルからタラップ車が出てきた。乗っているのは四人の作業員だけだ。
 空港三階の捜査本部から、道警広報部の白岩課長は固唾を飲んでBW996便の非常口を見つめた。ゆっくりと開いたドアを確認して、ハラコウさん、と声をかけた。
「それじゃ、記者会見を始めます」
 よろしく頼む、と原が僅かに頭を下げた。分厚いファイルを手に、白岩は階段に足を向けた。
 函南空港でハイジャックが起きた、と北海道警が正式に発表したのは約一時間前、五時半だった。同時に、道警は道警記者クラブと報道協定を結んだ。
 ただし、これは建前で、実際には午後二時の段階から道警記者クラブに加盟する全国紙五社、NHKと民放ネット局五社、道内のローカル新聞七社、AM、FMラジオ局六社、そしてネットニュース配信会社二社と水面下で話し合いを進め、公表のタイミングを計っていた。
 四百五十九人の人質の命が懸かっている。報道の自由を侵害する恐れはあったが、人道的見地から全加盟社が報道協定に同意していた。
 道警と記者クラブの協議により、ターミナルビル三階の展望テラスに固定のカメラを設置することになった。そこからBW996便の機体を撮影し、テレビ局とネット関係のメディアはその映像のみを使う。
 犯人は何らかの方法で機内からテレビやネットをチェックしているだろう。テレビ局や新聞社のカメラマンが勝手に撮影し、その映像を流せば、犯人を刺激しかねない。不測の事態に備えての措置だ。
 各新聞社は空港でのフラッシュやストロボを使用した撮影を自粛する。また、道警が発表した情報のみを報道する、とルールを定めた。
 その代わり、記者クラブ側は三十分ごとに現状報告の義務を道警に課し、要請があれば記者会見を開くと条件をつけ、道警もこれを呑んだ。
 夕方五時から、各テレビ局がハイジャック発生のテロップを流し、他のメディアもそれに続いた。形式的には報道協定締結前だが、白岩の根回しもあり、詳報は出ていない。
 白岩は階段の途中で足を止めた。二階のギャラリーに設けた記者席から、大きな声が重なって聞こえた。
 犯人が二百四十人の乗客の解放に同意した、と連絡があったのは五時半過ぎだ。その後も交渉が続き、副操縦士一名とチーフCAを除く十五人のCAの解放が決定した。
 それを受け、記者クラブから記者会見の要請が出た。広報課長の白岩は交渉の過程に関わっていない。準備不足は否めないが、出たとこ勝負だ、と腹を決めた。
 大きく息を吐き、白岩はギャラリーの黒い扉を開いた。待っていた五十人以上の記者がストロボの光を浴びせた。テレビ用の照明が眩しい。
 左手で光を避け、白岩は大きな窓ガラスを背に会見席に立った。一分ほどでフラッシュの集中砲火が止み、現在の状況を説明します、と白岩はファイルを開いた。
「粘り強い交渉の末、犯人はBW996便一階の乗客二百四十人及び乗務員十六人の解放を了承しました。後ろの窓からも見えますが、タラップ車がBW996便に向かっています。パッセンジャーステップを設置し、五分後の午後六時半、トータル二百五十六人が降りてくる予定です。全員をターミナルビル一階の国内線チケットロビーに収容、聞き取り調査を行ないます。なお、乗客乗員はいずれも疲労していると考えられます。各社は直接の取材をお控えください。ご協力をお願いします」
 記者席から不満の声が漏れたが、続けます、と白岩はファイルをめくった。
「現在も犯人の説得を重ねております。BW996便の二階には乗客二百名、機長、副操縦士、チーフCAが残っています。まだ事件は解決しておりません。ただし、道警本部は解決への道筋が見えたと考えています。今後も可能な限り速やかな人質の解放、そして犯人の逮捕に向け、全力を尽くす所存です」
 しかし、と記者の一人が手を上げた。
「犯人は身代金、北朝鮮への亡命、収監中の宗教団体の受刑者の釈放を要求しているんですよね? 道警はどう対応するつもりですか?」
 捜査の詳細についてはお答えを控えます、と白岩は言ったが、無責任過ぎる、と怒声が上がった。
「白岩課長、それじゃ報道協定を結んだ意味がないでしょ! 全部情報を出すっていうから、こっちも譲歩したんだ。そんな政治家みたいなコメントしか出さないんなら――」
 そうではなく、と白岩は額の汗を拭った。
「我々の立場をご理解ください。身代金についてはベストウイング航空の了解があり、支払いの準備を始めています。しかし、北朝鮮への亡命や受刑者の釈放は外務省や法務省マターで、道警には判断できません。ご理解ください」
 落ち着こうや、と最前列に座っていたハコダテ日報の権田が立ち上がり、記者たちを制した。白岩は事前に旧知の権田に電話を入れ、まとめ役を頼んでいた。古株の権田が抑えれば、他社の記者も従わざるを得ない。
 課長の立場は我々もわかっています、と権田が口を開いた。
「報道協定を結んだからって、何でもかんでも言えるわけじゃない。そうでしょ? だけど、曖昧なことを言われたんじゃ、こっちも憶測で記事を書くしかなくなります……それを踏まえて質問しますが、残った二百三人はいつ解放されるのか、見通しは立っているのか、交渉が決裂したら強行突入を実施するのか、以上三点に関し、道警の考えは?」
 いつ、と明確には答えられません、と白岩は言った。
「ですが、交渉がうまくいっているのは確かです。BW996便がハコナンに降りたのは午後一時半頃、犯人が二百五十六人の解放に同意したのは夕方五時半……約四時間で説得したことになります。過去のハイジャック事件と比べても、かなり早い方でしょう。先ほども申し上げましたが、解決への道筋はついていると道警は考えております。おそらくですが、犯人は深夜十二時までに残った人質を解放するでしょう。投降すれば、強行突入の必要はありません」
 待ってください、とテレビ局の女性ディレクターが大声を上げた。
「過去のハイジャック事件について調べましたが、人質の半数以上を四時間で解放した例はほとんどありませんでした。一九七〇年のよど号事件のように、高齢者、子供、病人など一部の人質を機から降ろした例はありますが、人道的配慮ではなく、犯人にとって邪魔になるためです」
 よど号事件は半世紀以上前に起きています、と白岩は軽く咳払いをした。
「日本初のハイジャック、まだハイジャック防止法さえない時代ですよ? 引き合いに出されても――」
 短時間で大勢の人質を解放するのは、と女性ディレクターが左右に目をやった。
「犯人に何らかの意図があるからではないか……他社の記者からも同様の疑問が出ています。白岩課長はどうお考えですか?」
 意図はないでしょう、と白岩は首を振った。
「交渉人の説得による成果、と我々は考えています。詳細は控えますが、BW996便の二階に人質を集めた方が監視しやすいメリットが犯人にはあります。そこを重視したのでは? 道警は事件解決のために懸命の努力を払っております。これはオフレコですけど、私の個人的な意見としては、皆さんの予想より早く解決するのでは、と思っております」
「交渉が失敗したらどうするんですか? 一九九五年の全日空機ハイジャック事件では道警の機動隊が強行突入していますが――」
 仮定の質問には答えられません、と白岩はファイルを閉じた。最終的に判断を下すのは捜査本部長の原だ。強行突入は選択肢のひとつに過ぎない。
 出てきたぞ、と窓際の記者が叫んだ。白岩を含め、その場にいた全員が窓に顔を向けた。
 二人のCAがタラップに立ち、担架を支えている。負傷者が出たのは聞いています、と後列の記者が挙手した。
「犯人が暴行を加えたということですが、重傷と考えて構いませんか?」
 機長からの連絡によると、と白岩は口をへの字にした。
「出血を伴う怪我で、鼻の骨が折れているかもしれません。しかし、医者が診たわけじゃないんで、正確なことは言えません。以上です」
 地上で待機していた作業員がCAから担架を受け取り、ターミナルビルに向かって駆け出した。タラップに立つ高齢の男女の顔がライトに照らされた。二人とも顔が真っ青だった。
 強い風が吹き、降っていた雪が斜めになった。小さくため息をつき、白岩はドアを押し開け、廊下に出た。

畜生、と原が歯噛みした。
「やっぱり、機動捜査隊員を機内に入れるべきだ。降りてくる人質に紛れて潜入すれば、犯人も気づかないんじゃないか?」
 危険過ぎます、と成宮が首を振った。
「人質の解放に当たり、犯人は条件をつけています。作業員は四人、タラップの下で待つこと。滑走路に警察官が出てはならない、一人でも姿を見たら残った人質全員を殺す、と通告しているんです」
 あんなものは脅しだ、と原が首を右に傾けた。ごき、と鈍い音がした。
 一階の乗客二百四十人の解放が決まったのは五時半過ぎだが、タラップ車の準備など、実施には時間がかかる。その時間を利用して、麻衣子は犯人と話し合いを続け、いくつかの提案をした。
 犯人にとって、乗務員は邪魔で危険な存在になり得る。乗客を守るためなら、彼ら彼女らは素手で犯人に立ち向かう。
 一対一ならともかく、五人のCAが力を合わせれば犯人を制圧できる。そのリスクを麻衣子が指摘すると、副操縦士の渡辺、そしてチーフCA以外の十五名のCAの解放を犯人は了承した。その辺りは、最初から想定していたようだ。
 人質の解放に際し、犯人は機体中央の非常口のみの使用を許可した。二百五十六人の乗客乗員が機外に出れば、滑走路に人が溢れる。
 その混乱に乗じ、五人の機動捜査隊員を突入させる、と原が道警本部に作戦案を提出したが、空港を監視している共犯者が機内の犯人に連絡すれば人質が危険だ、と却下された。
 招集を受け、捜査本部で待機していた五人の男たちが退出したのは十分ほど前だ。諦め切れないのか、原の舌打ちがしばらく続いた。
 気持ちはわからなくもありません、と戸井田が苦笑を浮かべた。
「五人の機動捜査隊員が機内に入れば、犯人の逮捕は難しくないでしょう。しかし、これだけ大規模なハイジャックです。複数の共犯者がいても不思議じゃありません。負傷した水口さんを担架に乗せろ、運ぶのは二人のCA、高齢者と子供を先に降ろせ、作業員はタラップに足をかけるな……犯人は細かい指示を出しています。無理に押せば、人質が危険に晒されるでしょう。ここは慎重になるべきだと思いますね」
 麻衣子はパソコンの画面を見つめた。降りてきた乗客を大勢の警察官が一階の国内線チケットロビーに誘導している。
 ほとんどの乗客は泣いていた。どれほど怖かったか、誰にもわからないだろう。
 国内線チケットロビーは数十枚のパーテーションで仕切られ、それぞれ十脚の椅子と長机が置かれていた。座席番号を記された紙がパーテーションに貼ってあり、乗客はそれに従って中に入る。十人の乗客に対し二人の刑事が配置され、それぞれが聞き取り作業を行なう。
 まだBW996便から人質が降り続けている。話し声や悲鳴、叫び声が三階にいる麻衣子にも聞こえた。
 ハコナンの医務室と映像が繋がりました、と桑山が正面のモニターを指さした。目を閉じたままの中年男の顔が映った。
 水口伸雄のぶおさんです、と男の声がした。坂戸さかどか、と原が尋ねると、カメラの向きが変わり、背広を着た初老の男が小さくうなずいた。函館方面本部の刑事だ。
 犯人に襲われた男だな、と原がしかめ面になった。
「意識はあるのか?」
 何とか、と坂戸が答えた。話を聞け、と原が命じたが、白衣の若い男が割って入った。函館医科歯科大学の保原ほばら医師だ。
『待ってください。水口さんですが、鼻骨が折れています。左目の下にもかなり深い傷があり、すぐに治療を――』
 保原を無視し、身元は確認したのか、と原が唸った。免許証を持っていました、と坂戸が水口を指さした。
『パスポートもチェック済みです。水口伸雄、四十歳。現住所は神奈川県横浜市保土ケ谷区、名刺によると、アケボノ商事東京本部繊維資材課勤務』
 会社を調べろ、と原が小声で命じた。メモを破った成宮が電話に手を伸ばした。
 本人と話したいと言った原に、治療が先です、と保原が眉間の皺を深くした。
『坂戸刑事にも言いましたが、ハコナンの医務室にはレントゲンがありません。出血こそ止まっていますが、左目の傷を縫合する必要もあります。大病院とは言いませんが、外科クリニックに搬送するべきです』
 そうはいかん、と原が怒鳴った。
「ドクター、二、三分だ。それぐらい構わんだろ?」
 肩をすくめた保原が水口の背中に手を当て、上半身を起こした。鼻が大きく左に曲がっていた。
 いくつか質問します、と原が警察手帳をカメラにかざした。頭が痛い、と水口がこめかみに手を当てた。
『何でも聞いてください。ただ、本当に何もわからなくて……何があったのか、こっちが聞きたいぐらいですよ』
「覚えている範囲で結構です。襲われた時の状況を話してください」
 状況、と水口が困り顔になった。
『ええと……五時ぐらいだったと思うんですが、CAさんが乗客にアイマスクを配り始めていました。ハイジャックされたのはその前からわかっていましたし、犯人の命令なんだろうって……ずっとトイレに行きたかったんです。CAさんにアイマスクを渡される前に行こうと思って、近くの個室に入りました』
「それで?」
『用を足して、手を洗っていたら、いきなりトイレの扉が開いたんです。そのまま、後ろから顔を鏡に叩きつけられました。一秒か二秒、とにかくあっと言う間で……覚えているのはそれだけです。気がついたら、CAさんが何か叫んでいました』
「誰に襲われたか、見ていませんか?」
 無理ですよ、と水口が鼻を押さえた。
『一瞬だったんです。振り向く暇なんてありませんでした』
「トイレのロックは? 鍵をしていなかったんですか?」
『していたつもりですが、あの時は焦っていたので……かけ忘れていたかもしれません』
 メキシコは観光目的だそうですね、と原が尋ねると、どうして知ってるんです、と水口が驚いたように言った。
『ああそうか、CAさんから聞いたのか……大学生の時から、テオティワカン遺跡に興味があって、一度行ってみたかったんです。やっと休みが取れて、楽しみにしていたんですが、こんなことになるとは思ってませんでしたよ』
 体が震えています、と囁いた戸井田に、アドレナリンね、と麻衣子はうなずいた。
「恐怖から解放された者の多くが示す反応で、多弁になっているのもそのためよ。水口さんの精神的なダメージは大きい。これ以上質問しても、答えられないでしょう。早く病院に運んだ方がいい」
 黙ってろ、と麻衣子を睨みつけた原が声を張った。
「重要な質問です。あなたはハイジャック犯、あるいは犯行に繋がる何かを見ていた可能性が高い、と我々は考えています。もちろん、意識はしていなかったと思いますが……」
 そんな覚えはありません、と水口が手を振った。
『席に座ってから、ずっと携帯ゲームをやっていました。他の乗客の顔を覗き込んだり、そんな失礼な真似はしませんよ。ドリンクサービスの時、CAさんとちょっと話しましたけど、それだけです』
「不審な人物は見ていない?」
『そんな人はいなかったと思いますね』
「あなたの座席は一階の23-Cです。通路側の席ですが、周りも見えたのでは?」
『周り……通路を挟んだ席に座っていたのは年配の男性だったんじゃないかな? ぼくの右側の席は外国人の夫婦でしたね。覚えているのはそれぐらいです。前や後ろに誰が座っていたかなんて、いちいち見てませんよ』
 水口の鼻からひと筋の血が垂れた。ここまでです、と保原が手を上げた。
『三キロ先の外科クリニックと連絡が取れたので、そちらに運びます。質問は処置の後でもいいでしょう』
 仕方ない、と原がモニターをオフにした。
「何も見ていない、何も覚えていない、何もわからない、ないない尽くしだ。参ったな……だが、水口は犯人の顔を見ているはずだ。襲われたのはそのためだろう。一階23-Cの近くに犯人の座席があったと考えていい」
 立ち上がった原が壁の座席表に赤いボールペンを当て、23-Cの前後四列、四席を丸で囲んだ。
「この辺だろう……成宮、人質の収容は順調か?」
 あと五十人ほど残っています、と成宮が窓の外を指した。タラップを速足で降りる若い男女が見えた。
「一階の国内線チケットロビーに集め、十人ずつ分けて聞き取りを始めています。今のところ、犯人特定に繋がる情報はありません。こちらは先行して進めた数人のCAの聞き取り調査の結果です」
 成宮が数枚のレポート用紙を原の席に置いた。該当する座席の乗客を重点的に洗え、と原が座席表をボールペンで叩いた。
「そいつらが臭い。手荷物も調べろ。ハイジャックだぞ? プライバシーもへったくれもない。何であれ、絶対に見逃すな」
「了解です」
 俺が許可するまで人質を空港の外に出すな、と原が怒鳴った。
「子供だろうと老人だろうと関係ない。体調不良を訴える者は医務室に運べ。応援の医師や看護師も来ている。ケアは連中に任せろ。情報漏れがあるとまずい。外部との連絡を禁じる。マスコミを近づけるな……副操縦士と一階のサブチーフCAを呼べ。直接、俺が話を聞く」
 連絡します、と桑山がスマホを手にした。麻衣子は窓に近づいた。ターミナルビル三階からの照明がBW996便を照らしていた。

 あなた、と加山尚子は囁いた。
「機長とCAさんの話し声が聞こえました。一階の乗客が解放されたみたいです。犯人が言っていた通りになったんですね」
 静かに、と夫の英次がため息をついた。
「話をするな、黙っていろ、と犯人は命じているんだ。アイマスクをつけているから、何も見えない。犯人が君の隣に座っていたらどうする?」
 あなたは真面目過ぎます、と尚子は手を伸ばした。
「中学校の先生ですから、当たり前かもしれませんけど、規則だ、ルールだ、決まりだ、そんなことばっかり……少しぐらい喋っても、犯人にはわかりませんよ」
 駄目だ、と英次が声を潜めたが、大丈夫ですよ、と尚子は小声で笑った。
「わたしがハイジャック犯なら、若い人は警戒しますけど、年寄りは放っておきます。抵抗なんて、できるわけないでしょう?」
 私は五十九歳だ、と英次が鼻から息を吐いた。
「バドミントン部の顧問を務めて二十年が経つ。中学の教師は体を張るのも仕事のうちで、それは君も知ってるだろう? 昔なら五十九歳は年寄りだが、今は違う。私は現役なんだ」
 名前だけの顧問じゃありませんか、と尚子は笑いを堪えた。
「生徒の指導は体育の小谷おだに先生に任せきりでしょう? 人には向き不向きがあります。あなたはスポーツが苦手だし、喧嘩をしたこともないのはよく知っていますよ」
 誉めているつもりか、と英次が舌打ちした。
「とにかく、黙っていた方がいい。一階の乗客が解放されたんだな? 次は二階の私たちだ。身代金を手に入れたら、犯人はさっさと逃げるさ。それですべてが終わる。後は警察に任せればいい」
 そうですね、と尚子は英次の手を強く握った。英次は何も言わなかった。

 捜査本部に入ってきた警察官が背後を指さした。三十代半ばの制服を着た男と、二十代後半のCA服の女性が立っていた。
 二人とも顔色が悪い。BW996便の副操縦士の渡辺とサブチーフCAの畑中、と麻衣子は資料に目をやった。
 座ってください、と原が椅子を勧めると、二人がゆっくり腰を下ろした。畑中の目には涙が浮かんでいた。
 大変でしたね、と原が慰め顔で言った。
「疲れていると思いますが、事件解決のためご協力ください」
 もちろんです、と渡辺がうなずいた。
「まだ二百人の乗客、屋代機長、ぼくの同僚の野沢、それにチーフCAの一ノ瀬さんが機内に残っています。一分でも早く無事に機から下ろしたい、その思いは畑中さんも同じです。捜査に協力したいと思っていますが、ただ……」
「ただ?」
 成宮が二人の前にホットコーヒーの缶を置いた。正直なところ、と渡辺が缶を握りしめた。
「僕たちは何もわかっていないのと同じです。事件発生の経緯ですが、二階の通路で一ノ瀬チーフが不審な紙片を拾い、記されていたメモに従ってトイレを捜すと、液体が入った点滴パックと脅迫文があった……その後は説明するまでもありませんね? むしろ、警察の方が状況を把握しているのでは? 僕や畑中さん、他のCAたちは断片的な情報しか知りません。役に立ちたいと思ってはいますが……」
 BW996便のCAは十六人です、と畑中が口を開いた。声が枯れているのは、乗客に冷静な行動を呼びかけ続けたためだろう。
「わたしはサブチーフで、一階の統括を担当していました。一ノ瀬チーフからの連絡で、ハイジャックされたとわかりましたが、お客様の動揺を抑えるのに精一杯で……」
「そうでしょうね」
 お客様はもちろんですが、と畑中が手のひらを顔に当てた。
「屋代機長、野沢さん、そして一ノ瀬チーフの無事を願っています。他のCAと話しましたが、一ノ瀬さんに重荷を背負わせてしまったのが申し訳なくて……」
 畑中の頬をひと筋の涙が伝った。無言で原がティッシュペーパーを箱ごと差し出した。
 すみません、と畑中が抜き出したティッシュで鼻をかんだ。我々の説得を受け、と原がレポート用紙を手にした。
「我々と犯人の連絡役を務める一ノ瀬さんを除き、十五人のCAの解放に犯人は同意しました。自分も機に残る、とあなたは申し出たそうですね。数人のCAが話していましたよ」
 わたしだけではありません、と畑中が首を振った。
「近藤さん、伊知地いぢちさん……他のCAも同じです。お客様が人質に取られているのに、CAが逃げ出すわけにはいきません。でも、あなたたちは降りて、と一ノ瀬さんが……一人で大丈夫ですか、と何度も尋ねましたけど、気にしなくていい、今は自分の命を大切にして、と言うばかりでした」
「そうですか」
「一緒に働くようになって、二年ほど経ちます。仲間を思う気持ちが強いのは前から知っていましたけど、あれほどとは……」
 立派な方ですね、と原がうなずいた。警察に事情を説明するのもCAの重要な仕事、と畑中がティッシュペーパーで目の周りを拭った。
「一ノ瀬さんはそう言ってました。でも、本当は……わたしたちを救おうとしたんです。声を聞けば、それぐらいわかります。わたしは怖くて、すべてを一ノ瀬さんに押し付けて機を降りてしまったんです。何と言って謝ればいいのか……」
 君の責任じゃない、と渡辺が畑中の肩に手を置いた。
「一ノ瀬くんの判断だ。サブチーフの君も、他のCAも、チーフCAの指示に従っただけで、気に病むことはない」
 でも、と声を震わせた畑中が涙を溢れさせた。落ち着きましょう、と原が咳払いをした。
「ハイジャック発生から今に至るまでの経緯は、我々も把握しています。しかし、情報の混乱、錯綜、重複などもあり、BW996便の一階で何が起きたのか、不明な点も少なくありません。我々が重視しているのは水口さんの件です」
 トイレで襲われたお客様ですね、と畑中がもう一枚ティッシュペーパーを抜き出した。
「エコノミークラス23-Cで、わたしが担当していました。犯人の指示でアイマスクを配り終えた時、トイレから小さな物音が聞こえたんです。ドアを開けると、水口さんが倒れていました。顔は血だらけで、すぐ他のCAを呼んだんです」
 彼が襲われた時、と原が首を捻った。
「誰も見ていなかったんですか? 先ほど、本人から話を聞きました。CAがアイマスクを配り始めた時、トイレに入ったということです。彼の姿を見ていたCAは? あなたたちがアイマスクを配っていた時、水口さんの席には誰もいなかったはずです。それには気づかなかった?」
 はっきり覚えていません、と畑中が視線を床に落とした。
「冷静に、落ち着いてください、とお客様に呼びかけていましたが、わたしたちも焦っていたんです。何をどうすればいいのかわからず、無我夢中で屋代機長の指示に従うだけでした。わたしが担当するお客様は三十人いて、一人一人を目で追っていたわけではありません。他にもトイレに立ったお客様がいましたし、特に気にしていなかったんです」
 犯人は水口さんに暴行を加えています、と原が言った。
「鼻の骨を折るほど強く鏡に叩きつけられたんですよ? その音は聞こえなかった?」
 他のCAと話しました、と畑中が顔を上げた。
「音は聞いていません。それは確認しました。BW996便のトイレは防音で、近くにいないと中の音は聞こえないんです。聞こえたとしても、気に留めなかったでしょう。正直に言えば、それどころではなかったんです」
 僕は一階の通路を巡回していました、と渡辺が右手を挙げた。
「アイマスクを配り始めたのは四時半から五時の間でした。動揺するお客様も多く、アイマスクの装着を拒んだり、今すぐ非常扉を開けて降ろせとか、お客様同士の口論など、至るところで騒ぎが起きていました。僕も仲裁に入ったり、お客様を落ち着かせるのに必死だったんです。誰がトイレに立った、空席がある、そんなところまで気を回す余裕があると思いますか?」
「しかし……」
 あなたにわかるわけがない、と渡辺が渋い顔になった。
「安全圏にいれば、何だって言えます。僕たちはハイジャックされた機に乗っていたんです。どれほど怖かったか、わかるはずがない。怯えて泣き出したり、怒鳴ったり喚いたり、そんな乗客も多かったんです。ここだけの話、僕も泣きたいぐらいでしたよ」
「そうでしょうね」
「畑中さんや他のCAに質問するより、水口さんの隣に座っていたお客様とか、最後尾のトイレ近くの席のお客様に話を聞いた方がいいんじゃないですか?」
 もちろんそのつもりです、と原が腕を組んだ。
「では、質問を変えましょう。改めて伺いますが、一階に不審な乗客はいませんでしたか? おかしいと思った、違和感があった、小さなことでも構いませんから、話してもらえると助かります」
 渡辺と畑中が顔を見合わせ、同時に首を振った。水口さんを襲った犯人が一階にいたのは確かです、と原が声を低くした。
「その後、二百五十六人の人質の解放に紛れ、二階に上がったのかもしれませんが……男性の犯行なのは、考えるまでもないでしょう。一階の乗客二百四十人のうち男性は百三十四人、高齢者と小中学生を除くと百十二人……彼らを優先して調べることになります」
 あなたも含めてです、と原が顔の向きを変えた。僕ですか、と渡辺が目を丸くした。
「理屈はわかりますが、僕は犯人じゃ……いや、何を言っても言い訳にしか聞こえませんよね。聞き取りでも事情聴取でも何でもしてください……ひとつだけ、いいですか?」
「何でしょう?」
 BW996便は二階建です、と渡辺が天井を指さした。
「機体のほぼ中央に高さ約二メートルの階段があり、一階と二階を行き来できます。団体客だと、座席が一階と二階に分かれるのは珍しくありません。長距離のフライトでは、退屈しのぎに一階から二階へ行ったり、その逆もあります」
「なるほど」
 犯人は二階の乗客かもしれません、と渡辺が指を二本立てた。
「階段を降りて水口さんを襲い、何食わぬ顔で二階の席に戻った……BW996便がハイジャックされ、席を離れるなと指示が出ていました。でも、話した通り機内は混乱していたので、僕たちの目を盗んで移動するのは簡単だったと思います」
 どう思う、と原が顔を右に向けた。可能性はあります、と麻衣子は長い髪を手で払った。
「ただ、その場合、なぜ犯人が水口さんを襲ったのかがわからなくなります。わたしたちは水口さんが犯人もしくは何らかの不審物を見た、そのために襲われたと考えていましたが、犯人が二階にいたとすれば、一階の水口さんに見えたはずもありません。何のために襲ったんです?」
 俺に聞くな、と原が視線を逸らした。搭乗前に何かを見ていたのかもしれません、と戸井田が言った。
「例えばですが、犯人が鞄を開けた際、中に点滴パックがあったとか……水口さんはたまたま目にしただけで、気にもしなかったでしょう。でも、犯人は見られたと思い込んだ。だから、口封じのために襲った……殺すつもりだったのかもしれません」
 まだ何とも言えん、と原が唇を歪めた。
「いずれにしても、水口の周辺にいた乗客の聞き取り調査が先だ。犯人を特定できればいいんだが……」
 麻衣子は時計に目をやった。針が七時四分を指していた。

 加賀美貴子は手を伸ばし、隣席の弓張奈々の肩をつついた。
「起きてよ……この状況で寝るなんて、どうかしてるんじゃない?」
 寝てない、と奈々が言ったが、寝息が聞こえた、と貴子はため息をついた。
「それどころか、鼾もかいていた。いい度胸よね」
 寝落ちした、と奈々が呻いた。
「仕方ないでしょ、ドラマの撮影が終わって、終電で家に帰ったんだよ? メキシコ行きの準備なんて、何もしていないのと同じだった。慌ててスーツケースに着替えを突っ込んだはいいけど、化粧水も何もかも入れちゃったから、シャワーを浴びた後、また全部引っ張り出してさ……気がついたら朝になってた。ほとんど眠ってないし――」
 遠足前日の小学生じゃないんだから、と通路を挟んだ席で麻宮渚が含み笑いをした。
「いい歳して、はしゃいでどうすんのよ。初めての海外旅行じゃないでしょ?」
 声が大きい、と貴子は空咳をした。
「わかってるの? この飛行機はハイジャックされたのよ? アイマスクをつけてひと言も喋るなって、犯人が命令したのを忘れたの?」
 わかってるけど、と渚が低い声で言った。
「映画だったら、犯人が出てきて乗客に銃を突き付けたり、殴ったり、そんなことになる。でも、犯人は姿を現わさない。そりゃ怖いけど、何ていうか現実味がなくて……」
 しばらく前から、ビジネスクラスの乗客たちがひそひそ会話を交わす声を貴子は聞いていた。CAがアイマスクを配り、装着を命じられたのは午後五時頃だ。それから二時間以上経っている。
 誰の胸にも怯えがあるが、これからどうなるのか、という不安の方が強い。多くの乗客が話しているのは、そのためだろう。
 目が覚めたらトイレに行きたくなった、と奈々が囁いた。あんたは平和でいい、と貴子はつぶやいた。


 着信あり、と成宮が手を上げた。
「ショートメッセージです。機内の千丈さんからで、トイレに入ったとあります」
 人質の解放が始まった六時三十分、原の指示で、成宮のスマホの番号を千丈に送っていた。二百四十人の乗客が機から降りれば大きな足音がする。ショートメッセージの着信音が鳴っても、犯人は気づかないだろう。
 メッセージが続いています、と成宮が文面の読み上げを始めた。
「トイレからメッセージを送る/手を上げ、トイレに行きたいと言うと、CAが誘導してくれた/女刑事が交渉をしていた時、後ろから通路を歩く足音がした/犯人だと思う……どうすればいいか、と指示を仰いでいます」
「千丈は犯人の姿を見ていないのか?」
 成宮がスマホを操作すると、すぐに返信があった。駄目です、と成宮が顔を上げた。
「アイマスクをずらしてつけているので/足元しか見えなかった/ベージュの古いハイカットのスニーカー/黒の靴下/見えたのはそれだけ……トイレから出ないと、犯人が怪しむでしょう。時間がありません」
 顔さえ見ていれば、とこぼした原を制し、スマホを隠すように伝えてください、と麻衣子は成宮に近づいた。
「犯人に気づかれたら危険です。自分の安全を最優先にすること、無茶はしないこと。今はそれだけです」
 成宮が素早く指を動かした。七時二十分か、と原が壁の座席表を指さした。
「千丈の座席は二階エコノミークラスの12-A……後方から足音がしたんだな? 犯人は通路側の席にいる。左側通路の十三列から三十列までのB席もしくはC席の乗客、と考えていい」
「なぜ言い切れるんです?」
 戸井田の問いに、ちょっと考えればわかる、と原が鼻先をこすった。
「窓側のA席に座っていたら、通路に出るにはB席の乗客をまたぐことになる。中央座席のD、Eも同じだ。F、Gなら、右側の通路を歩いただろう」
 犯人の命令で乗客乗員はアイマスクをしていた、と原がデスクを乱暴に叩いた。
「それなのに、隣の客が動き回っていたらおかしいだろ? 犯人は自分の動きに気づかれたくなかった。だから、メキシコ行きのツアーを予約する際、通路側の座席を指定したんだ。細かく言えば、エコノミー21-A、DとEも自由に動けるが、乗客の名前はわかっている。徹底的に調べて、動機のある奴を捜せ。後は両親でも女房でも呼んで、説得させればいい。それでこの事件は終わる」
 肉親など親しい者を交渉の場に呼ぶのは禁止されています、と麻衣子は言った。
「犯人を感情的にさせるだけで、デメリットしかありません。自棄になって人質を殺した事例は多く、リスクが高すぎます」
 じゃあどうしろって言うんだ、と原が怒鳴った。
「四百五十九億円の身代金を渡し、二百三人の人質を抱えたまま北朝鮮へ向かうのを、指をくわえて見ていろと?」
「交渉によって事件を解決する。そのために、わたしたちは来ました」
 あんたは現場を知らない、と原が肩をすくめた。
「だから、そんな気楽なことが言えるんだ。俺たちは最悪の事態を想定し、犠牲を最小限に留める努力をする。それが現実の捜査だ……一九七一年のD.B.クーパー事件を知ってるか?」
 七十年代以降、犯人の身元が不明な唯一のハイジャックですね、と戸井田が言った。
「クーパーは飛行中のボーイング機から、奪取した身代金を袋ごと空中に放り投げ、自分はパラシュートで降下しています。その意味ではハイジャックに成功したことになりますが、クーパーはパラシュートの操作に失敗し、死亡した……それがFBIの結論です」
 スカイダイビングの装備は進歩し続けている、と原が鼻を鳴らした。
「経験豊富な者なら、ミスはしないさ。今回の犯人は過去のハイジャックを研究し、クーパー事件を参考に計画を練った。犯人は共犯者が待つ対馬海峡辺りで高度を上げてBW996便の非常口を開き、そこから金を詰めた袋を次々に投げ落とす。俺の読みだと北朝鮮への亡命は偽装で、日本海か東シナ海のどこかに向かうかもしれん」
「その後、自分はパラシュートで降下し、船で待機する共犯者が金と一緒に回収すると?」
 最悪の事態も想定できる、と原が呻いた。
「乗客を殺すと脅し、コックピットに入って、機長と副操縦士を殺してから犯人はパラシュートで降りる。どうなるかわかるか? BW996便は墜落し、海の藻屑となる。二百三人の遺体すべてを引き上げることはできない。遺体の損傷で身元不明になる者も多いだろう。結局、そんな事態を防ぐには強行突入しかないんだ」
 結論ありきですね、と戸井田が苦笑を浮かべた。
「原さんの言い分はわかりますが、それならなぜ一階の乗客全員を機から下ろしたんですか? BW996便を墜落させ、犯人は死んだと警察に思わせたいなら、死体の数が多いほど好都合でしょう。違いますか?」
 しばらく沈黙が続いた。話を戻そう、と原が成宮に目を向けた。
「犯人は二階の左通路側の席で、十三列より後方にいる。桑山と二人で乗客名簿を調べろ」
 成宮と桑山がパソコンで該当する座席の乗客をピックアップし、モニターに転送した。その時、スピーカーから聡美の声が聞こえた。
『遠野さん、パッセンジャーコールが鳴りました。犯人がメッセージを送ってきたと……』
 一ノ瀬さん、と麻衣子はマイクを掴んだ。
「アイマスクを外して、メッセージを読み上げてください」
『わかりました……「警察に告ぐ。滑走路内に警察官が入ったら人質を殺すと警告したが、諸君はそれを無視した。BW996便の後方に警察官が数人隠れている。今すぐ下げれば、今回に限り許すが、次はないと思え。五分以内に警察官が立ち去らなければ人質を殺す」……遠野さん、どういうことですか?』
 麻衣子は音声をミュートにして、視線を左に向けた。仕方ないだろう、と原が顔を背けた。
「強行突入に備え、BW996便の非常口付近に足場を作る必要があった。交渉で片がつくほど簡単な事件じゃない。まだ二百人以上の人質がいるんだぞ? 死傷者が出たらどうする?」
 すぐに警察官を下げてください、と麻衣子は身を乗り出した。
「今すぐです! 急いで!」
 スマホをスワイプした原が長い息を吐いた。
「突入班の若杉わかすぎ、聞こえるか……全員、ターミナルビルに戻れ。撤退だ」
 了解、とくぐもった声がした。通話を切った原に、話が違います、と麻衣子はデスクを平手で叩いた。
「道警本部も警察庁も、交渉によって事件を解決すると方針を決めています。交渉では解決が困難だとわたしが判断した場合のみ、強行突入のゴーサインが下りるんです。何を考えてるんですか? 道警本部が知ったら、大問題になりますよ?」
 あんたを無視したわけじゃない、と原がふて腐れた顔になった。
「俺だって人命最優先は心得ているさ。だが、交渉に失敗してから強行突入の準備を始めたんじゃ遅い。あらゆる事態を想定して手を打つのが俺の仕事だ」
「なぜ、わたしに言わなかったんですか?」
 言えば反対しただろ、と原が頭を掻きむしった。
「まったく、やってられんよ。交渉人は安全な場所にいて、指示を飛ばすだけだ。現場を踏んだこともないくせに……畜生、なぜ犯人は突入班に気づいたんだ?」
 見えたんでしょう、と言った戸井田に、旅客機には死角が多い、と原が唸り声を上げた。
「座席から見える範囲は限られる。座席が右側なら、左側は見えん。構造上、後方は絶対に見えない。日が沈み、雪も降っている。視界が悪いから、突入班を動かした。若杉たちはBW996便から三百メートル離れた場所で待機していたんだぞ? 見つかるわけがない」
 ハコナンを監視している共犯者です、と成宮が言った。
「空港周辺に三百人以上の警察官を配置していますが、穴はありますからね……離れた場所から双眼鏡で見張っていれば、突入班の動きはわかったでしょう。無線か携帯電話で機内にいる犯人に連絡したんですよ」
 外を見てみろ、と原が窓を指さした。
「BW996便に照明を当てているが、機体から五十メートル離れたら何も見えない。突入班は俺の直属で、細心の注意を払って移動していた。それなのに……」
 ドアが開き、白岩が駆け込んできた。顔に困惑の表情が浮かんでいた。
「ハラコウさん、すまんかった。想定外のアクシデントがあったんだ」
「アクシデント?」
 立ち上がった原に、呆れたよ、と白岩が自分のスマホを差し出した。
「午後二時過ぎ、BW996便がハイジャックされたと気づいた地元の新聞社がウェブニュースで取り上げ、すぐテレビ局や全国紙が後追い報道をした。だが、人質の命が懸かっている。事情を説明して、報道協定を結んだ」
「それは聞いてる」
「テレビカメラは一台、固定でBW996便を映すだけ、と決めていた。そこまではよかったが、昔とは違う。ユーチューバーがいるんだ」
 ユーチューバー、と原がしかめ面になった。撮影は禁止している、と白岩が眼鏡の位置を直した。
「空港内も立ち入り禁止にしたが、連中の目的は再生数を稼ぐことだ。そのためなら、何だってやるさ。わかっているだけでも、三つのYouTubeチャンネルで生配信していた。それぞれ、ご丁寧なサムネイルをつけている。“ハコナンでハイジャックされたBW996便の運命は?”“パニック! 函南空港”“史上初、ハイジャックの生配信”……連中のカメラが突入班を映していた。犯人は機内でそれを見たんだろう」
 白さん、と原が腕を組んだ。
「冗談じゃないぞ。ユーチューバーをハコナンに近づけるな。必要なら逮捕すればいい。YouTubeの仕組みは知らんが、公序良俗に反する内容ならチャンネルごと削除できるんじゃないのか?」
 チャンネルの管理人には連絡した、と白岩が額の汗を拭った。
「中止要請を出したが、鼻で笑われただけだ。空港の敷地外から撮影している、法律は守っていると能書きを垂れていたよ。迷惑系ユーチューバーはどこからでも湧いてくる。函館、札幌はもちろん、東京から来た者もおるようだ」
 ドローンを飛ばして撮影を試みた馬鹿もいた、と白岩が頭を抱えた。
「そいつは小型無人機等飛行禁止法違反で逮捕したが、すべてストップできるとは思えん」
 空港周辺でのドローン飛行は法律で禁止されています、と言った桑山に、馬鹿に理屈は通じない、と白岩が首を振った。
「ハラコウさん、ユーチューバー対策はこっちで講じるが、上の了解もいる。しばらくは警察官をBW996便に近づけんでくれ」
 遠野、と原が視線を向けた。
「犯人と交渉しろ。滑走路にいたのは空港作業員で警察官じゃないとか、適当にごまかせばいい」
 交渉人は嘘をつきません、と麻衣子は言った。
「わたしと犯人を繋いでいるのは信頼という細い糸だけで、嘘は簡単にその糸を断ち切ります。あえて触れないこと、意図的に伏せることはありますが……それでもいいと言うのであれば、犯人と話します」
「うまくやってくれ」
 原が一歩下がった。麻衣子はマイクの音量を上げた。


 犯人に伝えたいことがあります、と麻衣子は呼びかけた。
「連絡に行き違いがあり、警察官数名がBW996便に近づいていました。理由はありますが、何を言っても言い訳にしかならないでしょう。謝罪しますから、人質に危害を加えないと約束してください」
 パッセンジャーコールが鳴った。犯人からメッセージが届いたようだ。
 約束はできない、と聡美が小声で言った。
『それだけ書いてあり……待ってください、刑事らしくないな、カッコ笑、とあります』
 ミスがあれば詫びます、と麻衣子はボールペンを手にした。
「誰であれ、人間である限りミスは付き物です。間違った時にはそれを認め、真摯に謝罪するのが人としての筋でしょう」
 それなら土下座しろ、と聡美が声を更に低くした。
『昔、そんなドラマがあったよな? あれは面白かった。刑事が犯罪者に土下座するなんて、皮肉でいいだろ?』
 構いません、と麻衣子は手元の紙に“土下座”と書いた。
「必要があれば、土下座でも何でもします。ですが、ここでわたしが頭を下げても、あなたには見えないでしょう。土下座するなら、あなたの前でします。機内に入ってもいいですか?」
 ふざけるな、と聡美が囁いた。声に涙が交じっていた。
『遠野さん、すみません。わたしではなく、犯人が……』
 わかっています、と麻衣子は微笑んだ。
「でも、悪くないアイデアだと思いませんか? 刑事を人質に取れば、あなたの立場は有利になります。まだ機内には人質が二百人以上残っていますね? そんな大人数を監視できるはずがありません。わたしと二百人の人質を交換してはどうです? 刑事が犠牲になれば、警察庁長官が責任を取らざるを得ません。わたしの命はそれなりに重いんです」
 そんな口車に乗ると思ってるのか、と聡美が言った。
『あんたが機内に入る時、後ろに他の刑事がいるんだろ? 今のままでもこっちが有利なんだ。リスクを背負う必要はない』
 わたしは約束を守ります、と麻衣子は僅かに声のトーンを上げた。
「一人で行くと言えば、必ず一人で行きます……ドラマの話をしていましたね? あなたも見ていたんですか? 第一シリーズ、第二シリーズ、どちらも毎週楽しみにしていました。比べると、第二シリーズの方がわたしは好きでしたね。あなたはどうです?」
 止めろ、と原が顔を強ばらせた。
「下らん話をしてる場合か? ドラマがどうとか、お喋りを楽しんでどうする?」
 静かに、と麻衣子は手だけで原を制した。第一シリーズに決まってる、と聡美が言った。
『あんた、どうかしてるぞ。どんなドラマだって、続編は質が落ちるもんだ。ストーリーにも無理があった。初回はともかく、その後は録画で見たよ。熱が冷めたのかもな。第一シリーズの時は、毎週日曜が楽しみだったがね』
「最終回の視聴率は三十パーセント近かったのを覚えています。月曜になると、友達とあのドラマの話で盛り上がりました。あなたもそうだったのでは? それとも、家族揃って見ていたとか?」
 一人で見ていたよ、と聡美が小さく咳をした。
『第一シリーズの時は、昼からカフェで何時間も友達と話したっけ……あんたは勘違いしている。最終回の視聴率は四十パーセントを超えていた』
 主題歌も良かったですね、と麻衣子はボールペンを指で回した。
「ドラマの世界観にマッチしていました。確か、アメリカのミュージシャンで……」
 何の話だ、と聡美が言った。
『あのドラマに主題歌はなかった。本当に見ていたのか? 馬鹿にしやがって……遠野さん、犯人のメッセージが切れました。怒っているようです』
 一ノ瀬さん、と麻衣子は呼びかけた。
「犯人はまたメッセージを送ってきます。その時はすぐ知らせること。いいですね?」
 はい、と低い声で聡美が答えた。麻衣子はマイクをオフにして、左右に目をやった。
 詰めていた刑事たちが立ち上がり、麻衣子を見ている。信じられない、と全員の顔に書いてあった。
 遠野、と呆れたように原が呻いた。
「勘弁してくれ。交渉人の仕事は無駄口を叩く事か? 犯人を怒らせてどうする? さっさと戸井田と交替しろ。二百人の命が懸かっているんだぞ?」
 感情で動くような人間ではありません、と麻衣子はボールペンをデスクに置いた。
「わたしをからかっているだけです」
「それにしたって……お前の声は機内に流れているんだ。解放された人質たちに非難されるぞ。交渉人は冗談ばかり言っていた、ふざけていたとな……責任は取れるのか?」
 犯人の年齢は二十九歳から三十三歳前後です、と麻衣子はメモをデスクに滑らせた。
「スポーツ経験の乏しい男性、原警視が指摘したように、二階エコノミークラス12-Aより後ろの座席にいる可能性が高いのは確かですが、断定はできません。むしろ……いえ、未確定情報に基づく推測は止めておきましょう。でも、わたしが言った条件に該当する人物を調べれば、犯人を絞り込めるはずです」
 おいおい、と原がこめかみを指でつついた。
「訳のわからんことを……二十九歳から三十三歳? 左利き? 何を言い出すかと思えば……犯人は男だよ。それは最初からわかってる。女性のハイジャック犯なんて、聞いたことがないからな。だが、なぜスポーツ経験が乏しいとわかる?」
 ハイカットの古いスニーカー、と戸井田が眉間を揉んだ。
「カラーはベージュ……遠野さん、犯人を男性と断定した理由はそれですね?」
 女性用のスニーカーなら千丈さんも触れていたはず、と麻衣子は言った。
「一般的にはバスケットボールやジョギング、スポーツ好きが履くスニーカーだけど、それなら黒の靴下は選ばない。単に便利だから履いている……断定しているわけじゃないし、あくまでも仮定よ。でも、検討する価値はある。付け加えると、犯人にはBW996便内のコントローラーとStSに関する知識があり、使いこなしてもいる。複雑な計画を立てているから大学出か中退か、それなりの学歴があるでしょう」
「理系ですか? 工学部?」
 そこはわからない、と麻衣子は首を振った。
「コントローラーの操作はそれほど難しくない。ただ、わたしの問いに対し、返信が速かった。慣れているのは確かね。更に言えば、社会性のない男と考えていい」
「なぜ、わかるんです?」
 ハイジャックは重罪で、逮捕されたら確実に実刑判決が下る、と麻衣子は言った。
「最低でも七年よ? リスクが大きすぎる。冗談や悪ふざけの延長ぐらいに考えているんでしょう。質の悪いネット民……決まった仕事はなく、引きこもりの可能性が高い」
 御託は終わったか、と原が大きく口を開けて欠伸をした。
「推測どころか、妄想じゃないか。パソコンゲームは子供だってやる。五十代、六十代、もっと上のユーザーもいるぞ。年齢を限定する根拠にはならん」
 犯人が見ていたドラマは二〇一三年に第一シリーズが放送されています、と麻衣子は原に顔を向けた。
「彼、と呼びますが、彼が言ったように、最終回の視聴率は四十パーセントを超えた大人気ドラマで、その七年後に第二シリーズが始まりました。いずれも日曜の夜にオンエアされ、翌日の月曜には学校や職場で話題になった……原警視も覚えているはずです」
「まあな」
 第一シリーズの時は昼からカフェで何時間も友達と話した、と麻衣子はメモに目をやった。
「昼休みの一時間なら、何時間とは言いません。つまり、二〇一三年の彼は社会人ではなく、大学生だったんです」
「高校生だったかもしれない。中学生もあのドラマは見ていた」
 中学や高校の生徒には授業があります、と麻衣子は苦笑した。
「カフェ、というのも中高校生らしくないでしょう。後は簡単な計算です。二〇一三年に彼は大学生で、十八歳から二十二歳だった。現在はプラス十一年で、二十九歳から三十三歳……もう一度言いますが、断定しているわけではありません。仮定に過ぎませんし、浪人や留年などもあり得ます。でも、大きく外してはいないはずです」
 成宮、と原が顔をしかめた。
「一応調べておけ……もうすぐ八時だ。身代金がハコナンに届くのは十時過ぎ、と連絡があった。それまで犯人は動かない。奴の出方を見る時間はあるんだ」
 そんな時間はありません、と麻衣子は肩をすくめた。
「二百人以上の人質が機内で恐怖に耐えています。悠長に構えている余裕があると思っているんですか?」
 何をする気だ、と原が不安そうな声を上げた。犯人を動かします、と麻衣子は目の前のパソコンを軽く叩いた。

(つづく)

 

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